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46話:船と鉄と紙と

霞ヶ浦の水面は凍りつくように静かだった。朝焼けに染まる湖畔を見下ろす小高い丘に、晴人と佐野、そして数名の開拓技官たちが立っていた。


 「……ここを、常陸の“水上玄関”とする」


 晴人が指差したのは、玉里の西岸。木造の小桟橋と、かつて荷揚げに使われていた小屋が風雨にさらされていた。


 「水戸から羽鳥、そしてこの玉里へ。物流が繋がれば、常陸の地に“海”が戻る。港町の繁栄を内陸で再現する――そのためには、船が要る。病院船も、輸送船も、そして軍艦もだ」


 佐野は頷き、用意していた設計図を開いた。新造予定の蒸気船“常栄丸”の下書きだった。


 「初期の船体は羽鳥の製鉄区で加工、木組みはここ玉里で行います。汽缶ボイラーは京の職人を呼び寄せて調整中。二月中に進水を目指します」


 「病院船“東光丸”の準備も並行している。三層構造の船内に診療室、隔離室、保温室を設け、軽度の手術と応急処置に対応できる設計だ」


 後方から現れたのは藤田東湖だった。彼は今、羽鳥衛生局に籍を置き、地域医療と予防医療の仕組みづくりに奔走している。


 「東光丸は、水上の診療所であるだけでなく、衛生の意識を各地に運ぶ“啓蒙船”でもある」


 佐久間象山は、かつて「医とは国を支える柱の一本」と述べていた。藤田もまた、同じ信念で動いている。


 だが、港と船だけでは回らない。羽鳥ではすでに印刷局が月五百冊以上の出版をこなし、各地に「読み書き会」を生んでいた。農民の子が百姓一揆の歴史を読み、職人が図解された蒸気機関の仕組みを手に入れる時代――それを牽引しているのが、羽鳥の教育政策だった。


 「学びとは、未来を選ぶ力だ」


 晴人の言葉は、印刷局の壁に墨書されていた。それはもはや理念ではなく、日々を生き抜く手段となりつつあった。


 一方で、町の一角には新たな賑わいも生まれていた。羽鳥信託金庫――“銀行”と呼ばれるその場所には、常に人だかりができていた。


 「これが……金を預けて利がつく“商い”かい」


 越後から来た油問屋の中年男が感心していた。預けた銀に応じて証券が発行され、次第にそれが町中で流通するようになっていた。


 「この札で、鍬も買えるし、塩も買える。……昔は、米を担いで旅をしたもんだが、今は紙一枚で港まで行ける」


 羽鳥が発行する地方通貨“常栄証券”は、常陸五藩間での物品流通において一定の信用を得ていた。やがては常陸商会を基軸とした本格的な地方銀行制度に発展する兆しすらあった。


 その夜、玉里の湖畔で焚き火を囲んだ晴人と佐野は、計画の先を見据えていた。


 「この町は、川も道も、港も鉄も、全部を人の手で繋げる町になる」


 「“殿”というより、もう“船頭”かもしれませんな、あなたは」


 佐野の言葉に、晴人は微笑んだ。


 冷たい冬風の中、焚き火の炎だけがゆらゆらと揺れていた。だがそれは、小さな町が抱く、大きな未来の灯火でもあった。

東の空が淡く白み始める頃、霞ヶ浦の湖畔には、霜を踏む音と金属を打つ音が交錯していた。


 一見して粗末な造船場。その中心で、分厚い図面を手に指示を飛ばしているのは、海軍担当の佐野常民だった。


 「もう少し、鋲を深く打ち込め! 鉄板が浮いちまう!」


 「へい!」


 蒸気船建造――それは、晴人が示した輸送革命の第一歩だった。鹿島灘の港を経て、物資を水運で江戸へ。羽鳥から霞ヶ浦まで陸送し、そこから船で繋げば、今までの半分の時間で米や鉄材が届く。


 しかし、内陸である羽鳥には港がない。そのため建造拠点は、玉里と石岡の中間、霞ヶ浦西岸の小高い丘に設けられた。周囲には、製鉄所と病院船建造所も仮設されている。


 「ようやく、かたちになってきたな」


 晴人は霜を踏みしめながら、佐野のもとへ歩み寄る。


 「あと二ヶ月もあれば、一隻目が進水できましょう。名前は……“ひたち丸”とでも」


 「悪くない。だがその前に、船だけでなく“使い道”も民に示さねば」


 その言葉に佐野は頷いた。


 「病院船の話、あれは本気なのか?」


 「もちろんだ。沿岸の村々には医者がいない。ならば船を“動く診療所”にすればいい。薬と医師を積んで、定期的に巡回する」


 佐野は腕を組んだ。


 「なるほど……だが費用はかさむ。寄港ごとの診察、看護、医薬品……」


 「だからこそ、今、必要なのは“信用”だ」


 晴人の言葉は、そのまま“常栄会銀行”に繋がっていた。


 羽鳥の役所の一角に設けられた銀行には、毎朝列ができるようになっていた。農民が銭箱を抱えて預金し、商人が帳面を手に融資を相談する。


 「この“手形”ってのは……ほんとに銭と同じように使えるんで?」


 「はい。羽鳥の市では、印刷局で認可されたものであれば、金と同価値で流通しています」


 行員が丁寧に応じる。紙幣の印刷は、印刷局が受け持ち、教本と並行して刷り出されていた。


 その教本もまた、羽鳥で静かな革命を起こしていた。


 『算術初級』『農業改良読本』『子ども養育草子』――町の学び舎に届けられた活字の本は、手に取った者の目を輝かせた。


 「見ろ、これが江戸で話題の“新聞”だってよ!」


 表紙には『羽鳥日々新報』。農作物の市況から、佐久間象山による時事評論まで、内容は多岐に渡っていた。


 「おっかあ、これ……読んでみてえ」


 「……字、覚えなきゃなあ」


 その新聞を手に、母と子が向かったのは“夜学”の看板が掲げられた小さな寺子屋だった。


 一方その頃、役所の応接間では、晴人と佐久間象山が静かに向き合っていた。


 「これだけのことを、わずか一年で……まるで夢のようですな」


 「夢で終わらせては意味がない。形にするには“人”が要る」


 「移民は?」


 「次の月にも、江戸からさらに五百人。印刷工、造船職、そして看護婦たちも来ます」


 象山は新聞の一面を指でなぞった。


 「これは……『未来とは、学ぶ者の手にあり』か」


 晴人は静かに頷いた。


 「武士の世は終わりつつある。だが、学びの世はこれからだ」


 外には冬の朝日が昇り始めていた。霞ヶ浦の湖面に光が差し、未完成の船の影をゆっくりと照らしていた。

霞ヶ浦のほとり、小高い丘の上から船渠せんきょを見下ろすと、岸辺の木々の間から白く光る帆柱が覗いた。そこでは、佐野常民の指揮のもと、病院船《東光丸》の建造が静かに、だが確かに進んでいた。


 「……あれが、羽鳥から届いた薬箱か」


 佐野は革手袋を外し、丁寧に木箱の蓋を開ける。中には干し薬草、酒精、包帯、煎じ袋、そして手書きの診療録が詰まっていた。それを見守る青年――筑波の医師見習いである永見藤一は、息を飲んだ。


 「本当に……病を癒すための船を、作るつもりなのですね」


 佐野は、静かに笑った。


 「“治すために海を渡る”――そんな発想を、昔の自分は持っていなかったよ。だが、晴人殿と語ってからだ。医術も、鉄も、紙も、人を守るためにあるべきだと、改めて教えられた」


 その頃、岸辺では若い職工たちが、くさびを打ち込みながら丸太の枠組みを組んでいた。丸太には「羽鳥製鉄炉第一号」の焼印が押されており、羽鳥から運ばれた鋼材が、ここ霞ヶ浦の船へと形を変えようとしていた。


 陽射しはまだ弱く、湖面には氷の薄膜が残っている。だが、空気には確かな春の匂いが混ざり始めていた。


 「この船が動き出せば、どれほどの命が救われるか……」


 永見が呟くと、佐野は頷いた。


 「戦のための船ではない。病を越えるための船だ。だからこそ、この国の未来を担う者にとって、希望そのものになる」


 病院船《東光丸》は、完成すれば霞ヶ浦を経由し、鹿島から銚子、さらには太平洋へと展開する“医療と輸送の軸”となる予定だった。その先には、晴人が提案する“港湾診療連携網”という構想も描かれていた。


 ──そしてその構想は、紙の上でも静かに動いていた。


 同じ頃、羽鳥印刷局では、新たな鉛版が機械に嵌め込まれていた。新聞「常陽日報じょうようにっぽう」の特集号である。


 「《東光丸》進水へ! 霞ヶ浦の夢、鉄と白帆に乗せて」


 そう大書きされた見出しの下には、木版画の挿絵が添えられていた。まだ完成前の船体が霞ヶ浦の湖面に映りこみ、その周囲を囲む地元の子供たちと、指示を飛ばす佐野常民の姿。


 「これで……ようやく五百部か」


 刷り上がった新聞を整える活版職人・鵜飼は、掌にインクの染みを広げながら満足そうに目を細めた。羽鳥印刷局は現在、月産五百冊を超える教本と新聞を発行し、羽鳥周辺だけでなく、水戸や笠間にも流通を始めていた。


 その日、晴人は校舎の一室――仮設ながらも教卓と黒板が設けられた“市民学校”で講義を行っていた。


 「みなさん、“学び”とは何のためにあると思いますか?」


 教壇に立った晴人が問いかけると、十代後半の少年が手を挙げた。


 「えっと……武士になるため、でしょうか?」


 「それも間違いではありません。しかし……」


 晴人は黒板に「学ぶとは、未来を選ぶ力である」と書いた。


 「読み書き、計算、歴史、技術――どれも“正解”を当てるためのものではないのです。むしろ、“いくつもの選択肢”の中から、自分で選ぶためにこそ、学ぶのです」


 教室は静まり返った。


 晴人の後ろには、印刷局から届いたばかりの教本が積まれていた。『算術初歩』『医学概論』『西洋航海誌抄訳』など、内容は実学に満ちており、まさに「未来を生き抜く技術」そのものだった。


 「たとえば、君が商人になりたいなら、計算と信用が必要だ。医者になりたいなら、文字と記録が不可欠だ。大工なら寸法、農夫なら暦。……学びがあれば、道は閉ざされない」


 その言葉に、ひとりの少女がぽつりと呟いた。


 「……道が、あるだけで、すごいと思った」


 晴人は彼女に微笑み返した。


 「そう。道があれば、人は歩ける。そして仲間と歩けば、道は“国”になる。学びとは、誰もがこの国を築く“礎”になれるという証明なのです」


 その夜、羽鳥の銀行には、人々がぽつぽつと足を運んでいた。


 初めて通帳を作った者、小口の貸付を相談する農婦、移民の労働仲介に来た町人……その全てを、羽鳥銀行の若き頭取・小野寺が温かく迎え入れていた。


 「お金の流れが、人の流れになります。無理な貸し付けはしませんが、努力する人には、きちんと“踏み台”を」


 彼の言葉に、経済を知らぬ老農さえ、頷いて帰っていく。


 鉄は船を造り、紙は人を結び、そして学びは未来の礎となる。


 1857年、冬の終わりとともに、羽鳥は静かに“力”を蓄えていた。

霞ヶ浦の造船場――名もなき入江に、今では“玉里港たまりこう”という仮の呼称がついていた。病院船《希望丸》の船体はすでに水面に浮かび、その周囲を囲むように、見学者や使節団の姿があった。


 「まさか……会津藩まで視察を寄越してくるとはな」


 晴人は遠巻きに視線を向けながら、佐野常民と並んで立っていた。朝の霧がまだ水面に残り、足元はしっとりと湿っている。


 会津からの一行は、主に中級の藩士と医術者で構成されており、その中には一人、晴人の顔をまっすぐに見据える青年がいた。


 「……野中新八と申します。御尊名はかねてより」


 「水戸藩の晴人です。よければ“医船”とでも呼んでください」


 新八は少しだけ目を見開き、そして笑った。


 「そのような船を造ろうという発想が、すでに私には眩しすぎる」


 彼は視線を湖面に落とした。


 「会津では、貧民の病など“神の裁き”とされ、薬も乏しく……妻を失いました。あのとき、これがあれば、と……」


 晴人は無言で頷いた。そして静かに言葉を返す。


 「この船は、もう“水戸”のものではありません。羽鳥、佐野殿、そしてこの国を変えようとする人々の手で造られています」


 《希望丸》の甲板では、大工と鍛冶職人が手早く手すりを取り付けていた。その木材のいくつかには、子どもたちの手で描かれた“赤い太陽”の印があった。


 「近隣の子どもたちが描いた“御守り”です」


 佐野が説明すると、新八は言葉を失ったように立ち尽くした。


 その後、造船場では昼の炊き出しが行われた。見学者にも分けられる粥と漬物の小椀を受け取った新八たちは、しばし無言で湖を眺めながらそれを口にした。


 ――その頃、羽鳥の市民学校では、また一つの“学び”が芽吹いていた。


 「これが“肺”です。そしてこちらが“心臓”。血が流れて、栄養を全身に届けます」


 講師を務めるのは羽鳥診療所の若き医師・浅間千代。手描きの解剖図を掲げながら、女子生徒にも平等に教えていた。数名の子どもが興味津々で手を挙げる。


 「先生! じゃあ怪我したとき、どこを押さえれば血が止まるの?」


 「いい質問ね。血の止め方を知っていれば、誰かを助けられるわ」


 こうした“生きるための授業”は、旧来の寺子屋とはまったく異なる発想で、評判を呼んでいた。


 また、羽鳥銀行でも動きがあった。新設された“小口積立講座”に申し込む人が急増していたのだ。日雇いの労働者でも“月三百文ずつ預ければ、年末には鍋が買える”という現実的な希望が広まりつつあった。


 「……信じて預ける。それが“未来を買う”ってことなんだな」


 そう呟いたのは、かつて高利貸しに家を取られた農夫だった。彼は通帳を握りしめ、頬を緩めた。


 一方で、街には小さな火種も芽吹いていた。


 「おい……こっち来てみろ。羽鳥の新町で、変な噂が出てる」


 町役人の岩崎重三郎が報告を受けたのは、夜の見回り中だった。


 「……“船を造ってるのは異国のスパイだ”とか、“西洋の毒を撒く病船だ”とか……そういう連中が、飲み屋で騒いでやがる」


 重三郎は苦々しく舌打ちした。


 「情報が広がるってのは、毒も広がるってことだな」


 翌朝、印刷局では対応策として「希望丸特集号・第2版」を急遽編集中だった。見開きには《造船の意義》《診療設備の図解》《協力藩の一覧》などを掲載し、不安の払拭を狙っていた。


 「“言葉”で毒が広がるなら、“言葉”で解毒するしかない」


 印刷局長・三木屋源八は、眉間に皺を寄せながら、紙面にペンを走らせた。


 そして――


 その夜、完成間近の《希望丸》を見守る灯火がまた一つ増えた。


 それは船大工の息子が、自分の母親に見せるために持ち込んだ小さな灯籠だった。中には“この船が、誰かを救いますように”という、つたない文字が紙に書かれていた。


 晴人はその灯りを見ながら、そっと目を閉じた。


 「……たとえ嘘と中傷が広がっても、本当の“希望”を見せていけばいい」


 彼の言葉に、佐野もまた頷く。


 「真に強い国とは、争わずして人を守れる国だ。……その第一歩が、ここにあるのかもしれんな」


 霞ヶ浦の湖面が、わずかに揺れた。


 新しい春が、静かに近づいていた。

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