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45話:旗の下に集う者たち

十二月、羽鳥の地に再び風が変わった。冷え込みの厳しさに加え、渡り鳥が鳴き声を落とす頃――その小さな台地に、人の波が押し寄せていた。


 冬晴れの空の下、まだ道半ばの街道に、幾台もの荷車と旅装の人々が連なっていた。老いた者、幼き者、手をつないだ夫婦。衣服はほつれ、荷は少なく、足取りには疲れがあったが、瞳には確かな光が宿っていた。


 その数、二千――。


 江戸、新潟、会津、越後より。各地で困窮を極めた職人、町人、脱藩浪士の一部までもが、「羽鳥行き」の旗印のもとに参集していたのである。


 「――すごい……これが“始まり”なんですね」


 晴人は丘の上、まだ整備途中の展望台から、地上に伸びる人の流れを見下ろしていた。隣には佐久間象山が立ち、風に揺れる外套の下で腕を組んでいた。


 「ここまで来れば、もう後戻りはできぬな」


 「ええ。ようやく、ようやく“基盤”が動き出しました」


 羽鳥はすでに、新たな行政区として「直轄開発地」に指定されていた。製鉄、印刷、医療、教育、交易――あらゆる要素をひとつに集約する“未来の模型都市”として、全国の有志を募っていたのである。


 「ただの開発計画では、これほどの人間は集まらぬ。お主は“旗”を立てたのだ。人を守り、導く象徴となる旗をな」


 象山の視線の先、広場では数十人の若者たちが手を振り、到着したばかりの入植者たちを出迎えていた。幕府の手配ではなく、羽鳥自治の若手が編成した“歓迎組”だった。


 小豆色の半纏に白抜きで染め抜かれた文字――《常陸》。


 かつて、分裂と抗争の絶えなかった常陸の名が、いま、ひとつの“連帯”を意味し始めていた。


 「先生。常陸という名前には、まだ重さがあります。水戸も笠間も、土浦もそれぞれの歴史がある。ですが、今は皆が“共通の船”に乗る時です」


 「ふむ……お主は“連邦思想”を、この日本に持ち込もうとしておるのかもしれぬな」


 その日午後、羽鳥公会堂と呼ばれる仮設の建物に、晴人、佐久間象山、牧野貞明、山崎修理、それに水戸藩、笠間藩、土浦藩の家老や有志藩士が集まっていた。


 議題は、ついに「常栄会じょうえいかい」設立に関する合意書であった。


 「財政の統合は段階的に進めます。まずは緊急支出枠と備蓄、鉄器の流通、貨幣の交換レートを合わせ、次に治安組織を統一……軍備も、各藩の規模を維持したまま、指揮統制だけを一本化します」


 晴人は、一枚の図を広げる。中心に羽鳥、その周囲に常陸諸藩を配し、互いに“鎖”ではなく“網”としてつながる構造だった。


 「では――お尋ねします。これは、いずれ“水戸が中心になる”構図ですか?」


 問うたのは、土浦藩の家老だった。声は静かだったが、空気には緊張が走った。


 晴人は少しの間、口を閉ざし、やがて静かに答えた。


 「水戸ではなく、羽鳥が中心です。領地としての羽鳥ではなく、“理念としての羽鳥”――学び、作り、交わるための場として。ここでは上下も本家も分家もありません」


 沈黙ののち、象山が口を開いた。


 「私も証言しよう。水戸藩の若き者は、この地を“新しい日本の雛形”と位置づけておる。今後、列島全体が揺れることになる。だが、揺れぬ地をひとつ築ければ、それは希望となる」


 数瞬の沈黙ののち、牧野貞明が文書に印を押した。続いて、山崎修理、そして他藩の代表たちも、次々に花押を記す。


 その場に立ち上った空気は、厳冬の中でも確かな熱を帯びていた。


 “常陸の旗”のもと、ひとつの会が生まれた瞬間だった――。

羽鳥の北側、かつて畑地だった丘陵地帯に、新たな定住者たちが次々と入ってきた。


 江戸の呉服職人、新潟の雪国農夫、越後の油問屋、会津の下級武士――。年齢も出自も異なる彼らの顔ぶれは、まるで寄せ鍋のように多彩で、羽鳥の地に新たな風を吹き込んでいた。


 「……これが“羽鳥移民計画”の本隊か」


 晴人の隣で佐久間象山が呟く。開拓整備局の帳面には「二千百十八名」の名が記されていた。男女比はやや男に偏るが、全員が“新たな暮らし”に賭けてこの地へとやってきた者たちだった。


 だが、現場には微かな軋みが走っていた。


 村境にある仮設の共同井戸の前では、緊張が張り詰めていた。


 「……なんだと?」


 水戸から先に入植していた農民が、会津出身の若者を睨みつける。


 「誰が“仕切ってる”って言った? 俺たちは、ここの土を最初に耕したんだ!」


 「それを盾に、何でも決めていいと思うなよ。こっちにもやり方があるんだ!」


 怒号が飛び交い、通りかかった子どもが泣き出した。仲裁に入ったのは、晴人の信任厚い町役人・岩崎重三郎だった。


 「喧嘩はやめよ! 羽鳥は、水戸でも会津でも越後でもない。ここに来た者みなが“同じ地の民”として暮らす場所だ!」


 しかし、怒りの火種は簡単には収まらない。


 「うちの藩の借金は、うちの藩で何とかするもんだろ。何で“常陸の借金”まで背負うことになるんだよ!」


 「軍備を統合? そんならうちの侍は、他藩の命令で動くってことになるじゃねえか!」


 「通貨の交換ってのも怖いな。越後銀が目減りするんじゃ、たまったもんじゃねえ!」


 町人も、農民も、武士も、誰もが不安を抱いていた。あたかも、自分の故郷が大きな“なにか”に飲み込まれていくような感覚だった。


 この日、開拓局詰所で開かれた意見交換会では、「常栄会」設立に関する合意書が議題となった。


 晴人が立ち上がり、正面に立つ。


 「……まず、財政の統合は段階的に進めます。各藩の借金は、すでに債務整理を終えた“共通会計”に繰り入れ、月次で利払いのみを共有負担とします」


 ざわめきが走る。


 「利払いは、各地域の生産高に応じて按分されます。ですが――」と晴人は語気を強める。「利息を払うだけでは終わらせません」


 彼は、壁にかけられた一枚の布地に地図を広げる。


 「この羽鳥を“新しい産業と交易の核”に据え、製鉄、印刷、農業、医療、教育を集積させます。つまり、稼ぐ拠点にします」


 「羽鳥で“余剰”が生まれれば、それを利払いに充てて“他地域の負担を減らす”。それが私たちの目指す“償却モデル”です」


 「鉄器・書籍・薬品などの羽鳥製品を江戸に輸出する体制も、象山先生と進めています。新潟港経由の流通も協議中です」


 会場が少しざわめく。「……それ、本当にできんのか」


 「開拓の資金源は?」という問いに、晴人は即答した。


 「私財からの拠出に加え、各藩主の協力金、江戸の金融商人からの“低利回転資金”を利用します。利回り三分以下の資金枠を交渉中です」


 武士たちは目を見張り、町人たちは顔を見合わせた。


 そんな中、江戸から来た印刷工・吉田庄一郎が、ぽつりと手を挙げた。


 「……俺も最初は、水戸なんて信用してなかった。だけど、ここに来て違うと思った」


 彼は、くたびれた半纏の裾を握りしめながら語る。


 「この町じゃ、読み書きを教える“学び小屋”を、誰に言われたでもなく作ってる大人がいる。借金も、過去の藩も関係なく、“誰かの子”を育てようとする奴がいるって、それだけで……希望が持てるって思った」


 小さな拍手が起き、それが徐々に広がった。


 晴人は一礼し、最後に告げた。


 「皆さまの過去は否定しません。ただ、ここで“次の百年”を作ると決めた者たちのために、私はこの地に未来を描きたい。どうか、力を貸してください」


 その夜、村境の仮集落では、冷たい風の中、小さな提灯行列があった。


 水戸の者と、越後の者が、何もない空き地で焚き火を囲みながら、肩を並べて歌を口ずさんでいた。


 「……これが、始まりかもしれんねぇ」


 焚き火を見つめる老婆がぽつりと呟いた。


 「“常陸”なんて聞き慣れなかったが、そのうち、誇れる名前になるといい」


 炎の粉が舞い、夜空の星々がその誓いを静かに見つめていた。

羽鳥の旧村役場が臨時の政庁として使われ始めて、すでに十日が過ぎていた。


 表には「常栄会設立準備室」と墨で書かれた布が掲げられ、出入りする人々の数は日を追うごとに増している。その夜も遅く、詰所の囲炉裏を囲んで、常陸の若手藩士や町役人たちが顔を揃えていた。


 「財政の統合……それはつまり、我が藩の借金も、“水戸の借金”と一緒くたにされるということか?」


 沈黙を破ったのは、笠間藩の中堅藩士だった。少し焼けた顔に苦い表情を刻んでいる。


 「それが“公平”と呼べるのか、私は疑問に思う」


 うなずく者もいれば、黙ったまま袖口を握りしめる者もいた。


 「そもそも、“常貨”とやらも理解できん。金座も銀座もない羽鳥で、何を担保にするというのか」


 府中藩の若侍が口を尖らせる。たしかに、財政統合、貨幣統一、軍備の指揮系統一本化など、どれも前例のない試みだ。


 「……そんなに簡単に、藩の枠を超えられるものじゃない」


 誰かが、ぽつりと呟いた。


 その場には、晴人もいた。囲炉裏のそばで、静かに火ばさみをいじっていた彼は、ゆっくりと顔を上げて言った。


 「“借金を帳消しにする”とは、申しません。ただ、利息を抑え、返済の順を見直し、担い手を増やす――それが常栄会の意図です」


 皆が視線を向ける。


 「たとえば、こうです。各藩の借入金を集約し、利率を年三分以下に一本化します。水戸藩の実績では、すでに高利借入の四万両を凍結し、残り八万両に絞りました」


 晴人は、開いた帳面を机に置く。


 「これを“連帯保証”ではなく、“相互補完”の形で共有する。つまり、どこかの藩が傾いたとき、他の藩が“補う”のではなく、“支える仕組み”が先にある状態にするのです」


 「……どういう意味だ?」と、宍戸藩の若者が眉をひそめた。


 「補助金、救済ではありません。羽鳥の事業――たとえば製鉄、活版印刷、薬品製造などの事業利益を“分配”するのです。すでに江戸から数名の町人資本が動き始めています」


 「つまり、利益を先に出す構造を作り、その果実で借金も返す……?」


 「そうです。一藩の努力では届かなかった夢を、常陸全体で手にする。その象徴が“羽鳥”になります」


 しんとした沈黙。


 その時、入口から小走りに一人の青年が駆け込んできた。彼は羽鳥の地元出身、かつて百姓だったが、いまや開拓局の書記となった。


 「……外で、会津の人たちが市を開いています。水戸の者も混ざって」


 全員が目を見開いた。


 「さっきは揉めていたようですが……今は違います。味噌と干し柿を交換して、囲炉裏の周りで話しています」


 晴人は目を細めた。


 「市……それも、“分かち合い”の形ですね」


 火がぱち、と弾けた。


 やがて、誰かが言った。


 「……あの町で、子どもが笑っていた。それだけで、やってみようと思ったんです。藩も、借金も、超えた場所が、ここにあるかもしれない」


 火の灯りが、全員の頬を照らしていた。

冬の風が、羽鳥の丘を吹き抜ける。


 整備の途中とはいえ、かつての農村地帯には灯りが増え始めていた。仮設とはいえ、三百を超える住居棟が建ち並び、それぞれの軒先に干し魚や縄編みの細工物が吊るされるようになった。


 だが、この町は、まだ“町”になりきってはいない。旧来の水戸領民と、新たに加わった他藩の移民たちとの間には、目に見えない“壁”があった。


 「なあ、見たか? また越後の連中が井戸を勝手に使ってたぞ」


 「俺たちが最初に掘った井戸だ。あいつらは“水戸”の名前を利用して、好き勝手してるだけだろ」


 畑の傍で、数人の水戸出身の若者が小声で語り合っていた。


 その一方で、会津出身の中年男が、地元の鍛冶職人に話しかけていた。


 「ここじゃ、“お上”のやり方も違うみたいだな。俺たちの村じゃ、鍬一本手に入れるのに役所の印が要ったもんだが……ここは、なんか、こう……勝手が違う」


 「いや、こっちも慣れねぇさ。どこまで貸していいか、どこで断るか、まだ決まってねぇからな」


 互いに言葉を選びながら、しかし手は止めず、炭を足し、鋼を打つ。


 表向きの摩擦はなくても、心の奥では、まだ不信が残っていた。


 それを象徴するような事件が起きたのは、夜の見回り中だった。


 開拓局の岩崎重三郎が、仮設の炊事場を巡回していた時、一人の若者と出くわした。背中に刃物の柄がのぞいていた。


 「……待て。その刃物、どうした」


 「これは……自分で打ったものです。防衛用に」


 若者は越後の元浪人だった。職を持たぬまま移住し、警備任務を志願したが、不採用となっていた。


 「だが、武器の所持は制限しているはずだ」


 「“常陸の法”には従います。ただ……自分たちの“身は、自分で守れ”と親父に教わったもんで」


 岩崎は黙ってその目を見る。


 怯えと、誇りと、怒り――いくつもの感情がそこにあった。


 「わかった。だが、あくまで“村人”として、剣を振るうことは控えてくれ。それがこの町の“旗”の下だ」


 「……はい」


 若者は静かに刃を納めた。


 その翌日、開拓局に集まった各地の代表者たちは、ついに“常栄会”の成立宣言文に署名した。


 代表の筆頭は、あくまで水戸藩主名義であったが、実際の起草と調整は晴人と藤田東湖、佐久間象山が行った。


 その文書には、こうあった。


「常陸の地に集いし民、これを一つの志の下に束ね、互いの知恵と汗を以て、未来を築かんとす」


 続く条文には、財政再建の計画、貨幣流通の調整、治安の統一指令権、軍備の相互協力、そして“羽鳥直轄区”の指定が明記されていた。


 「この瞬間より、“常栄会”は発足します」


 晴人の言葉に、場内は静まり返る。


 拍手はなかった。誰もが言葉を飲み込んでいた。


 しかし、その夜。


 町の中央にある広場では、自然発生的に集会が始まっていた。


 誰かが三味線を持ち出し、誰かが竹筒太鼓を打ち、子どもたちは手を叩いて笑った。


 越後の農夫が持ち寄ったもち米で、簡易な蒸しもちが振る舞われた。


 「……ようやく、ここにも“暮らし”が始まったってわけだ」


 そう言ったのは、新潟から来た老職人だった。炭焼き釜のそばで酒を飲みながら、静かに涙をぬぐった。


 「藩も、借金も、旗も……全部どうでもいいと思ってた。だけど、この火のあたたかさだけは、信じたくなるねぇ」


 その隣で、晴人は黙って火を見ていた。


 風はまだ冷たい。


 だが――どこか、空気の中に、春の兆しのようなものが、確かにあった。

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