44.5話:羽鳥、中心となる
藤村晴人が再び羽鳥の地を訪れたのは、晩秋から初冬へと季節が移ろうころだった。
平地に広がる畑は、すでに稲の刈り取りを終え、裸の地肌を晒していた。冷え込んだ空気の中、澄んだ陽が柔らかく差し込んでおり、風が吹くたびに乾いた落ち葉が、さわさわと音を立てて舞った。
「ここが……次の“核”になると?」
佐久間象山が小高い丘の上から広がる景色を見下ろしていた。和装ながら洋学者らしい眼差しで、羽鳥の地形と街道の交差に目を走らせている。
「はい。羽鳥は常陸の中心にございます。水戸から南下し、江戸に通じる道、西へ行けば笠間、さらに北には鉱山や水源……ここを中継点とせず、始点にしたいのです」
晴人が広げた地図には、幹線と分岐が蜘蛛の巣のように走っていた。現状は単なる農村にすぎぬが、彼の頭にははっきりと“都市”の輪郭が見えていた。
「まずは、製鉄をこの地で根付かせたい。反射炉の構造を移設し、常時稼働できる施設を――」
「土地の確保は?」
「すでに旧名主から話をつけてあります。農地としての価値が低い西南の丘陵地を提供いただけるとのこと」
象山が目を細め、地図を指でなぞった。
「次に?」
「医療。寺の薬師堂を改修し、湯薬と鍼を併用した診療所を設けるつもりです。江戸から蘭方の流れを引く医師も迎えたい。人の流れを作るには、“命を預けられる場所”が要ります」
「そのために象山塾の弟子を……と?」
晴人は静かに頷いた。
「江戸の若者たちに、“都を出て働く”という選択肢を与えたいのです。ここに来れば、新しい知と技術の芽がある、と感じてもらえれば」
「ふむ」
象山は顎を撫で、しばらく思案した。
「羽鳥は“都市”になる。ならば、まず“読み書き”を教えろ。寺子屋では間に合わぬ。活版印刷と教科書、教師と学問、それを揃えねばならぬ」
「はい、すでに印刷機の発注も済ませています。木製ではありますが、標準教本を刷り始めるつもりです。主に、町人や職人の子弟を対象に」
「……悪くない。いや、面白い。町ではなく、“近代の雛型”にするつもりか」
「そのために、江戸から“人”を呼び込みます。浪人や職人、商人、それに若い学者たちも」
晴人の視線の先には、まだ何もない荒れた丘が広がっていた。
だがその中に、彼は商家の軒並みを見ていた。子どもたちの声が響く学舎を、蒸気で動く車輪の音を、そして――
「幕府ではもう、こうした場所を造れません。遅すぎるのです。地方が“先に変わる”。それが……この時代に必要な逆転です」
象山が静かに笑った。
「水戸の藩士が、ここまで口を利くとはな。藤田殿の影響もあるのか、それとも……おぬしの器か」
「器などではありません。生き延びるためです。領民も、藩も、私自身も」
そう言いながら、晴人は羽織の裾を払い、丘を下り始めた。象山もその後に続く。
踏みしめた土の感触が、確かな“始まり”を告げていた。
羽鳥の開発計画は、まず人の流れを変えることから始まった。
晴人は江戸に使いを出し、幕府の目を掻い潜りつつ、町人や職人層に呼びかけを始めていた。文は「新たな町の建設に参画する者を求む」と簡潔で、だが末尾にはこう添えられていた。
――ここに来れば、家を持てる。仕事がある。子どもに学を授けられる。
江戸の裏長屋で燻っていた若者、抜け参りに失敗した浪人、薬種問屋の見習い、火消し上がりの大工――その文は、疲れた目に光を灯した。
そして十二月初。
羽鳥の仮宿には、十数名の移住者が到着した。彼らは晴人の命で急ごしらえされた簡易宿舎に入り、翌日にはすぐに“仕事”へと配属された。
「君たちには、まず“土を知ってもらう”」
晴人は全員を連れて、まだ手つかずの丘陵地へと足を運んだ。
「ここに何を建てるか、その前に。ここに何があるか、確かめてほしい」
男たちは鍬を握り、地面を掘った。石が混じり、水捌けが悪い箇所もある。それでも文句ひとつ言わず、黙々と土を掘り返す彼らの背には、生きることへの“渇望”がにじんでいた。
中でも、大柄な大工の男が口を開いた。
「……殿様、こいつは、江戸でずっと忘れてた“働く実感”ですぜ」
「まだ“殿様”ではありませんが……ありがとう」
晴人は微笑み、その掌に持っていた赤土を握った。
「この土は……製鉄にも向く。炉の“外壁”として十分に耐えるはずです。笠間で試した構造を、ここに導入します」
隣で控えていた象山が頷いた。
「製鉄の地は、土地の力だけではない。“誰がいるか”がすべてだ。……その点、貴殿は恵まれておるな」
その言葉の通り、後日には水戸藩の工芸寮から数名の職人が派遣された。技術指導の名目で、炉の設計・構築に関わることになったのである。
さらに、羽鳥の開発には“もう一つの柱”が用意されていた。
――教育。
小高い丘の中腹、かつて庚申堂があった廃寺の跡地に、晴人は平屋建ての木造建築を指示した。表には控えめな看板――「羽鳥文庫」。
「ここに子どもたちを集め、読み書きを教えます。寺子屋ではなく、“組織立った教室”です」
「教える者は?」
「江戸で声をかけた学者の卵や、象山先生の塾の若者。日替わりでも構いません。重要なのは、“学ぶ機会”を途切れさせないことです」
象山はしばし沈黙し、そして微かに笑った。
「ふむ。西洋の自由学校にも似ているな。だが、それを支える財源は?」
「商業です」
そう言って、晴人は紙束を取り出した。
「“羽鳥通商組”を立ち上げます。江戸から流れてきた品を、ここで卸す中継所に。物流と通信、そして通貨の“再流通”を同時に扱います」
「なるほど。都市の“肝”を先に押さえると」
「はい。羽鳥には、今後“銀行のような役割”も求められます。年貢以外の通貨流通が、ここで完結すれば……水戸の財政も安定する」
象山が大きく息をついた。
「……これはもはや、“一藩”の枠を超えておるぞ」
「だからこそ、今“江戸の目”を逸らさねばなりません」
羽織の裾を風がめくった。
「象山先生、これから一月の間に、“江戸からの人流”が増えます。私が危険になったとき、先生が公の場で“別件”で動いてくだされば、目くらましになります」
「……囮か、わしが?」
「先生しかおられません。説得力を持ち、“幕府内部の人”とも対等に語れる方は」
象山は呆れたように笑い、肩をすくめた。
「わしが表に立つ間、おぬしは何をするつもりだ」
「商人の説得です。利権を預ける覚悟のある者を、羽鳥に連れてきます。……あと半年で、この地に百戸の家を建てるのが目標です」
「百戸……!」
「製鉄の周囲に住まわせ、子どもたちに学を与え、武家に頼らぬ“町”を」
象山は、足元の土を踏みしめるようにして呟いた。
「武士の世が終わる前に、“民”の世が始まる。そういうことか」
晴人は頷いた。
「はい。これが、未来の“見本”になります。江戸でも、大坂でもなく、羽鳥という片田舎から、文明を逆流させるのです」
空が、次第に茜色に染まってゆく。
山々の稜線が燃えるように照らされ、彼らの影が長く伸びた。
――ここが、日本の未来の“起点”になる。
そう確信しながら、晴人は再び地面を見つめた。
その足元には、炉を築くための基礎工事が、すでに始まっていた。
冬の朝霧が羽鳥の地を包み込んでいた。
丘の麓、製鉄炉建設予定地では、まだ陽も昇りきらぬうちから作業が始まっていた。晴人は裃姿ではなく、粗布の羽織をまとい、職人たちと共に現場に立っていた。
「この地面の締まりなら、基礎石を打つより、杭を組んで足場にした方が安定するな」
指で土を掬った鍛冶職人の翁が言うと、隣の若い者がすかさず図面に赤筆を入れる。
「了解しました。基礎杭は長さを二尺延ばし、乾いた地層まで打ち込みます」
そのやり取りを聞きながら、晴人は周囲を見渡した。
仮設ながら、すでに三棟の建物が建ち始めていた。ひとつは鋳型を造る作業小屋、ひとつは木炭を保管する倉庫、もうひとつが技術者たちの詰所だった。竹と藁と粘土、すべて地元の素材で築かれており、だが不思議と“近代的な気配”が漂っていた。
「晴人さん、こちらに」
呼ばれて振り向けば、象山が現場にやって来ていた。
「先生、朝早くから……」
「お主の“人の使い方”が見たくなってな」
象山は、仮設の作業台に手をつきながら、鋳型の断面を覗き込んだ。
「これは、江戸で見た“真空鋳造”に近いか……?」
「はい。まだ完全には再現できませんが、型の中の空気を抜くため、炭粉を混ぜ込んだ“脱気溝”を設けました。冷却のむらも減らせるはずです」
「よく工夫した。まるで学者の所業だ」
晴人は、肩をすくめて苦笑した。
「“技術”は戦ではなく、生活のためにあるべきです。私が武士であっても、使うべき道具に境はありません」
「……その考えは、儒者には嫌われるぞ」
「もう充分に嫌われております」
象山が「はっはっ」と豪快に笑った。
その後、詰所に戻った晴人は、羽鳥の行政組織について、家老と町人代表たちとの打ち合わせに臨んだ。
「“羽鳥組”は、町年寄に加え、学者枠・商人枠・職人枠を持たせたいのです。上下関係でなく、業種間の連携を重視する自治にしたい」
「お言葉ですが、晴人様。職人が行政に口を出すなど……前例がありません」
「だからこそ、羽鳥ではそれをやるのです。前例に縛られていては、江戸にも京都にも勝てません」
晴人の言葉に、商人代表の男が唸るように呟いた。
「……まるで、江戸以前の“町衆”のようだ。自治の意志と、経済の柱がひとつにある」
「その通り。羽鳥の町衆が、江戸の町人を動かす日が来るかもしれません」
家老たちは顔を見合わせ、やがて頷いた。
午後になると、江戸からの使者が馬を駆ってやって来た。晴人が手配していた“羽鳥移民計画”に応じた者たちである。
「今回は七家族、二十三名です」
御者が申し訳なさそうに頭を下げた。
「ただ、残念ながら……五家族は道中で引き返しました。“怪しい計画だ”との声に心が折れたようで」
晴人は静かに頷いた。
「無理はさせられません。来てくれた者たちを、何よりも大切に」
その晩、羽鳥の宿舎では、ささやかな“迎えの宴”が開かれた。
囲炉裏を囲み、湯気を立てる鍋に、子どもたちが歓声を上げる。出されたのは、近隣で採れた芋、根菜、干し魚、そして雑穀飯。決して豪華ではないが、温かく、腹に沁みる味だった。
「江戸では、こんなに静かな夜はなかったよ」
ふと漏らした中年の男に、晴人は酒を注いだ。
「これからは、この地が“新しいふるさと”です。どうか、力を貸してください」
その男は、晴人の目を見て頷いた。
「――あんた、本気なんだな」
「はい。命を賭けています」
ぱちぱちと火の音が響き、ふと外を見れば、夜空に星が浮かんでいた。
遠く、丘の上に立つ晴人文庫には、仮の明かりが灯っていた。まだ机も椅子もないが、もうすぐ最初の教科書が届くはずだった。
そして翌朝。
象山と晴人は、丘の上から羽鳥の全景を見下ろしていた。
仮設ながらも、街路が整い、焚き火の煙が空へ昇っていた。人の流れが、確かに“ここ”へ集まり始めている。
「……この地が本当に変わるには、あと三年かかる」
象山が呟くように言った。
「ですが、“変わり始めた証”なら、もう出ています」
「証とは?」
「人の顔つきです。絶望の中にいた者が、今日を生きる意志を持ち、明日の希望を語り始めた。……それこそが、変化の兆しです」
象山は静かに目を細めた。
「お主は、武士ではないな。……まるで、未来から来た者のようだ」
晴人はその言葉に、ふっと微笑んだ。
「ええ。たしかに、私はこの時代の人間ではないのかもしれません。でも、未来を信じる者ではありたいのです」
丘の風が二人の羽織を揺らした。
羽鳥という名もなき地に、確かな灯がともり始めていた。
冬枯れの風が羽鳥の丘を撫でていた。朝露の残る地面には、うっすらと霜が降り、踏みしめるたびに、ぱりぱりと音を立てる。そんな中、晴人は静かに羽鳥文庫の建設現場に立っていた。
建物はまだ骨組みだけだった。だが、仮設の庇の下では、町娘のひとりが筆を取り、墨で「文庫目録」と書かれた紙を掲げていた。
「これで……いいでしょうか?」
娘は晴人の顔を不安そうに見上げる。
「ええ、上出来です。……その“文”という字に、きっと多くの希望が宿ります」
晴人がそう答えると、彼女は頬を染め、照れくさそうに頭を下げた。
建物の内部では、大工たちが床板を張る音が響き、近くでは新たに届いた教本が包みから解かれていた。『養生訓』『農業全書』『洋算初歩』――そのどれもが、羽鳥という無名の地に新しい知をもたらそうとしていた。
「知は力なり。子どもたちが未来を選べるようにするのが、大人の役目です」
晴人は誰にともなく呟いた。
その言葉に応えるように、遠くから馬のいななきが聞こえてきた。
――仮設の診療所では、佐久間象山が町医者と向き合っていた。
藁葺きの屋根の下、簡素な木製ベッドが並び、片隅では乾燥させた薬草が吊るされていた。白い布で覆われた棚には、持ち込まれた西洋薬の瓶や、煎じ薬の道具が整然と並んでいた。
「佐久間先生、この“青き丸薬”……これは何と申すのです?」
「これは“クレオソート”じゃ。肺を侵す咳に効く。江戸の蘭学塾から取り寄せたものじゃが、まだこのあたりでは珍しいな」
「なるほど……。だが、名ばかりで高い薬も多い。目利きができる者が必要ですな」
「それはお主の仕事じゃ、医者殿。俺はあくまで、道を開くだけ」
その背後で、晴人がそっと診療所に入ってきた。
「先生、準備の進み具合はどうですか?」
「ふむ、悪くはない。だが……やはり人手と知恵が足りぬ」
晴人は頷いた。
「医療も、知も、鉄も。すべては“育てていく”ものですから」
そして、彼らが再び外に出ると、印刷所の設営現場が賑やかに動いていた。
軒下には「活字棚」と書かれた木箱がずらりと並べられ、その横では、印刷機の部品が大工たちによって組み上げられていた。人力の簡易プレス式だったが、それでもこの時代の田舎には異質な“音”を発していた。
ギィ……バタン。ギィ……バタン。
「先生、これが……“未来の声”です」
江戸から来た印刷技師が、手を真っ黒にしながら振り向いた。
「おかげで、もう三十部刷れました。次は羽鳥の“お触れ”です。住民全員に届けられる」
「その紙を誰かが読み、また別の誰かに伝える。そして情報は“武器”になる」
佐久間象山が低く呟いた。
印刷所の一角では、子どもたちが刷り上がった紙を眺めていた。
「これ……読めないけど、すごいね!」
「父ちゃんの名前が載ってる!」
晴人はその様子を見ながら、ふと口元をほころばせた。
夕暮れ時、二人は再び丘の上に立ち、羽鳥の全景を見下ろした。
煙突からは細く白い煙が上がり、焚き火の煙が斜陽の中を漂っていた。町の輪郭はまだ曖昧だが、確かに“生き物”のように動いていた。
「……“人の集まり”が“町”になる。町が“志”を持てば、それは国になる。お主がやっているのは、まさにそれじゃな」
「志を持つ町……。そうなれば、武力も威圧もいらない世界が来るかもしれません」
「お主が未来を語るたびに、我が儒学が薄っぺらに感じられるわ」
象山は苦笑した。
「それでも私は信じます。今ここに灯った光が、百年後も誰かを照らしていると」
「それは“信仰”に近いな」
「そうかもしれません。ですが、先生。人が信じるものを持てぬなら、何のために生きるのでしょうか?」
象山は、しばし口を閉じた。
やがて、静かに頷く。
「ならば私も、この地の未来を信じてみよう。お主が命を懸けると言うなら、我もその片翼になろう」
その言葉は、風の音の中に、確かな誓いとして刻まれた。
羽鳥の町に、またひとつの希望の灯がともった。
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