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【篤姫と結婚した公務員】水戸藩から始まる幕末逆転録 ~公務員が理と仕組みで日本を救う~  作者: 一条信輝


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3話:名もなき献身

 朝靄が城下を包んでいた。


 晴人は寺の門を出て、北へ向かう道を歩いていた。手には紙と筆、腰には墨壺。東湖から与えられた任務――避難所の状況把握と、責任者の選定である。


 息が白く立ちのぼる。霜月に入り、朝晩の冷え込みが厳しくなってきた。このまま仮住まいで冬を越せば、病が広がる。時間との戦いだった。


 最初の避難所は、城下の北端にある空き地だった。


 崩れた長屋の跡地に、葦と板で作った仮小屋が並んでいる。炊煙が細く立ち上り、子供たちの声が響いていた。


 「おはようございます」


 晴人が声をかけると、焚き火の傍らに座っていた老人が顔を上げた。白髪を後ろで束ね、顔には深い皺が刻まれている。


 「おお、あんたは……寺で炊き出しをしている人かい」


 「はい。藤村と申します。藤田様のお言いつけで、避難所の様子を見て回っております」


 「藤田様の……」


 老人の目に、かすかな警戒と期待が入り混じった。


 「何か、困っていることはありませんか」


 晴人は腰を下ろし、老人の隣に座った。焚き火の熱が、冷えた頬を温める。


 「困っていること、ねえ……」


 老人は苦笑した。


 「何もかもだよ。食い物は足りない、薬もない、寝床は寒い。子供は風邪を引くし、年寄りは足腰が立たなくなる」


 「米の配給は届いていますか」


 「昨日、少しだけな。でも、すぐになくなっちまう。ここには十五世帯、六十人以上いるんだ」


 晴人は紙を広げ、筆を走らせた。世帯数、人数、子供の数、病人の有無。情報を一つひとつ記録していく。


 「あんた、何を書いてるんだ」


 「状況を整理しています。どこに何人いて、何が足りないか。それがわからなければ、助けようがありませんから」


 老人は目を丸くした。


 「そんなこと、今まで誰もしなかったよ」


 「これからは、します」


 晴人は筆を止め、老人を見た。


 「お願いがあります。この避難所の責任者になっていただけませんか」


 「責任者? 俺が?」


 「はい。毎日の状況を私に報告してください。何人が病気か、食料はどれくらい残っているか、何が必要か。それを藩に伝え、必要な物資を届けます」


 老人は黙って晴人を見つめた。しばらくして、深い溜息をついた。


 「……わかった。やってみるよ」


 「ありがとうございます」


 晴人は深く頭を下げた。


     *


 午前中だけで、四つの避難所を回った。


 どこも状況は似たようなものだった。食料不足、医療不足、住居の問題。そして、情報の断絶。隣の避難所で何が起きているか、誰も知らない。余っている物資がある場所と、足りない場所が、わずか数町の距離で並立している。


 晴人は歩きながら、紙に書き込んでいった。


 北側空き地――十五世帯、六十三人。米残り三日分。病人五名。責任者・佐吉。

 東の寺――二十世帯、八十七人。米残り五日分。病人八名。責任者・住職。

 川沿いの仮小屋――十二世帯、四十一人。米残り一日分。病人三名。責任者・未定。


 情報が集まるほど、全体像が見えてくる。そして、問題の所在も明らかになる。


 ――川沿いは危険だ。米が一日分しかない。今日中に何とかしなければ。


 晴人は足を速めた。


     *


 昼過ぎ、藤田邸に戻った。


 書院に通されると、東湖が帳簿を広げて何やら計算をしていた。傍らには家臣が控え、次々と報告を受けている。


 「藤村か。どうだった」


 「午前中に四か所を回りました。報告いたします」


 晴人は紙を広げ、状況を説明した。世帯数、人数、食料の残り、病人の数。そして、最も緊急性の高い場所。


 「川沿いの仮小屋は、米が一日分しかありません。今日中に補給が必要です」


 東湖は眉をひそめた。


 「川沿いか……あそこは道が悪い。荷車が通りにくいのだ」


 「ならば、人の手で運びます。俵を背負えば、道は関係ありません」


 「人手は足りるか」


 「避難民の中から、働ける者を募ります。賃金を払えば、喜んで手を挙げる者がいるはずです」


 東湖の目が、わずかに光った。


 「賃金を払う……なるほど。ただ与えるのではなく、働かせるのか」


 「はい。働くことで自らの食を得られれば、人は立ち上がれます。そして、働くことが希望を生みます」


 東湖は深く頷いた。


 「よし。その方針で進めよ。必要な米は藩の蔵から出す。賃金も、俺が何とかする」


 「ありがとうございます」


 晴人は頭を下げた。


 「それから、もう一つお願いがあります」


 「何だ」


 「医者が足りません。特に子供の病気が増えています。藩医を派遣していただけませんか」


 東湖は腕を組んだ。


 「藩医だけでは足りぬな……城下全体の避難民を診るには、人手が圧倒的に足りない」


 「ならば、簡易の診療所を設けてはいかがでしょう。医者が常駐できずとも、応急処置ができる場があれば、重症化を防げます」


 「診療所か……」


 東湖は考え込んだ。


 「場所はどうする」


 「崩れた商家を使えばよいかと。持ち主の了承を得て、修繕すれば使えます。費用は藩が負担すると言えば、断る者はいないでしょう」


 「そなた、よく考えているな」


 東湖は感心したように言った。


 「現場を歩けば、見えてくるものがございます」


 「そうか……。よし、その件も任せる。診療所の設置、進めてくれ」


 「承知いたしました」


 晴人は再び深く頭を下げた。


     *


 藤田邸を出ると、日はすでに西に傾いていた。


 晴人は川沿いの避難所へ向かった。約束通り、米を届けなければならない。


 道すがら、数人の男たちを雇った。瓦礫の撤去をしていた者たちだ。


 「米を運ぶ仕事がある。一俵運べば、銭を払う」


 「本当か」


 「本当だ。藩の許可も得ている」


 男たちは顔を見合わせ、やがて頷いた。


 「やるよ。仕事があるなら、何でもやる」


 藩の蔵から米俵を受け取り、六人で川沿いへ向かった。道は確かに悪い。泥濘に足を取られ、石につまずく。それでも、男たちは黙々と歩いた。


 「あんた、名前は」


 先頭を歩いていた男が、晴人に尋ねた。


 「藤村だ」


 「藤村さんか。あんた、役人じゃないだろう」


 「ああ、違う」


 「じゃあ、何者だ」


 晴人は少し考えて答えた。


 「……ただの流れ者だ。たまたま、藤田様に拾われた」


 「ふうん」


 男は不思議そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。


 川沿いの避難所に着いたとき、日はすでに沈みかけていた。


 仮小屋の前で、女たちが不安そうに空を見上げている。子供たちは泣き疲れて眠り、老人は焚き火の傍らでうずくまっていた。


 「米を届けに来た」


 晴人の声に、女たちが振り返った。


 「米……本当に」


 「本当だ。五俵ある。これで、しばらくは持つだろう」


 女たちの顔に、安堵の色が広がった。一人が涙を流し、別の一人が手を合わせた。


 「ありがとうございます……ありがとうございます……」


 晴人は米俵を下ろし、周囲を見回した。


 「この中で、読み書きができる者はいるか」


 しばらくして、一人の若い男が手を挙げた。


 「俺、少しなら」


 「では、お前がこの避難所の責任者だ。毎日の状況を記録し、私に報告してくれ。何人が病気か、食料はどれくらいあるか、何が必要か」


 「俺が……」


 「頼めるか」


 若い男は戸惑いながらも、やがて力強く頷いた。


 「……わかった。やってみる」


 「よろしく頼む」


 晴人は男の肩を叩いた。


     *


 寺に戻ったのは、夜も更けてからだった。


 晴人は登勢の様子を見に、離れへ向かった。障子の向こうから、かすかな灯りが漏れている。


 「登勢様、失礼いたします」


 襖を開けると、登勢は布団の中で横たわっていた。顔色は悪くないが、どこか疲れた様子だった。


 「ああ、藤村さん。遅くまでご苦労様です」


 「お加減はいかがですか」


 「ええ、おかげさまで。今日は少し、咳が出ましたけれど」


 晴人は眉をひそめた。


 「咳を……。熱はありませんか」


 「いいえ、熱はないようです。ただ、少し胸が苦しくて」


 晴人は登勢の額に手を当てた。熱はない。だが、呼吸がわずかに浅い。


 「無理をなさらないでください。温かいものを用意しますから」


 「ありがとう、藤村さん」


 登勢は小さく微笑んだ。


 晴人は台所へ向かい、生姜湯を作った。生姜を細かく刻み、湯を沸かし、少しの蜂蜜を加える。体を温め、喉を潤す、母直伝の薬湯だ。


 椀を持って戻ると、登勢は目を閉じていた。


 「登勢様」


 「ええ……起きていますよ」


 登勢はゆっくりと目を開け、椀を受け取った。少しずつ口をつけ、ほっと息をつく。


 「……温かい。体の芯まで沁みますね」


 「良かった」


 晴人は安堵した。


 「藤村さん」


 「はい」


 「今日は、どこを回ってきたのですか」


 晴人は今日の出来事を簡潔に話した。避難所の状況、責任者の選定、米の運搬、診療所の計画。


 登勢は静かに聞いていた。やがて、穏やかな声で言った。


 「あなたは、本当によく働きますね」


 「やるべきことが、たくさんありますから」


 「でも、無理はしないでくださいね。あなたが倒れたら、困る人がたくさんいます」


 その言葉に、晴人の胸が温かくなった。


 「……はい。気をつけます」


 登勢は椀を置き、晴人を見つめた。


 「東湖が言っていました。藤村は、まるで未来を知っているかのように動くと」


 晴人は息を呑んだ。


 「未来なんて、知りません。ただ……」


 「ただ?」


 「……人が何を必要としているか。それを考えれば、やるべきことは見えてきます」


 登勢は微笑んだ。


 「そうですか。それは、とても大切なことですね」


 しばらくの沈黙の後、登勢が言った。


 「藤村さん。どうか、東湖を支えてあげてください」


 「はい」


 「あの子は、この国を変えようとしています。でも、一人では限界があります。あなたのような人が、傍にいてくれれば……」


 登勢の声が、かすかに震えた。


 「母として、それが何より嬉しいのです」


 晴人は深く頭を下げた。


 「必ず、お力添えいたします」


     *


 納屋に戻ったのは、子の刻を過ぎた頃だった。


 晴人は火鉢に炭を足し、冷えた手を温めた。外では風が竹を揺らし、どこかで梟が鳴いている。


 今日一日で、四つの避難所を回り、三人の責任者を選んだ。米を運び、診療所の計画を立て、登勢の看病もした。


 体は疲れ切っている。だが、心は不思議と軽かった。


 ――やるべきことがある。


 それだけで、生きている実感があった。


 晴人は手帳を開き、今日の記録をつけた。避難所ごとの状況、責任者の名前、明日やるべきこと。


 北側空き地・佐吉――明日、病人の容態確認

 東の寺・住職――薬の手配を依頼

 川沿い・源太――三日後に再訪問

 南の長屋――明日、責任者選定


 書き終えると、晴人は手帳を閉じた。


 火鉢の炭が、赤く静かに燃えている。その光を見つめながら、晴人は思った。


 県庁で働いていた頃、「何かを変えた」という手応えは一度もなかった。書類を積み、会議に出て、予算を調整する。その繰り返しの中で、自分という人間が薄まっていく感覚があった。


 だが、ここは違う。


 今日、米を届けたとき、女たちが涙を流した。責任者になってくれと頼んだとき、若い男が「やってみる」と言った。登勢が「あなたがいてくれて嬉しい」と言った。


 小さなことかもしれない。歴史を大きく動かすようなことではないかもしれない。


 でも、確かに誰かの役に立っている。


 それが、晴人にとっては何よりの報酬だった。


 外で、風が一際強く吹いた。竹林がざわめき、納屋の戸がかたかたと鳴る。


 冬が近い。


 これから、もっと厳しい季節がやってくる。寒さで病人が増え、食料はさらに不足する。やるべきことは、山ほどある。


 だが、怖くはなかった。


 晴人は火鉢の炭を突き、最後の灯りを消した。


 暗闇の中で、静かに目を閉じる。


 明日もまた、長い一日が始まる。


 それを、今は心から楽しみにしている自分がいた。

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