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【篤姫と結婚した公務員】水戸藩から始まる幕末逆転録 ~公務員が理と仕組みで日本を救う~  作者: 一条信輝


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3話:名もなき献身

読者の皆様、いつもお読みいただきありがとうございます。

この度、エピソード5を全面改稿いたしました。前回の投稿後、キャラクターの言葉遣いや態度に一貫性がなく、「何者か」と繰り返し問われる展開が不自然との貴重なご指摘をいただきました。

改稿版では、登勢や東湖との信頼関係を既に確立されたものとして描き、新たな疑念は藩の役人など外部の人物からのみとしました。また、藤田家の庇護下にあることを明示し、江戸時代のリアリティを保ちながら物語を進めております。

既読の方も、ぜひ新しいバージョンをお楽しみください。今後ともよろしくお願いいたします。

朝霧が竹林を白く染めるころ、藤村晴人は井戸端で顔を洗っていた。

 冷たい水が頬を打ち、眠気は一息に引いた。寺の裏手の納屋を仮住まいにしてから、もう十日。寝床は粗末でも、屋根があり、雨風をしのげるだけでありがたい。


 手拭いで顔を押さえ、晴人は空を仰いだ。青の高みに薄雲がゆっくりと流れる。今日はよく働けそうだ。


 「藤村さん、おはようございます」


 振り向くと、若い僧が桶を抱えて近づいてくる。


 「おはようございます。今日も炊き出しの仕度、始めますね」


 「ええ、お願いします。昨日も皆さん、藤村さんの味噌汁を楽しみにしておられました」


 僧は微笑み、深く頭を下げた。


 炊事場に向かうと、すでに数人の女たちが火の用意をしている。彼女らも避難民だが、手つきに落ち着きが戻りつつあった。


 「藤村さん、おはよう」

 「今日は何を作るの?」


 「今日は根菜の煮物と、麦粥にしましょう。身体が温まりますよ」


 晴人は頷き、手際よく野菜を刻みはじめた。大根、人参、里芋――どれも寺の畑や近隣の農家からの分け前である。


 限られた食材でも、切り方と火加減を工夫すれば、滋養のある一皿になる。それは、現代で母を介護していたころに身につけた手だ。


 「藤村さんの料理は、どうしてこんなに優しい味がするんだろうね」


 年配の女が鍋を覗き込みながら呟く。


 「特別なことはしてませんよ。火を急がせないことと、出汁をきちんと取ることだけです」


 「でも、同じようにやっても、私たちじゃこうはいかないよ」


 女たちは笑い、晴人の包丁の動きを目で追った。


 火加減を見ながら、晴人は炊事場の隅に目をやる。数日前から手伝いに来ている少年がいる。名は市之進。十歳ほどで、両親を地震で失ったという。


 「市之進、薪を足してくれるか?」


 「はい!」


 少年は元気よく応じ、薪を抱えて走る。動きは素早く、無駄がない。


 「市之進は、よく働くね」


 「お兄さんの料理、美味しいから。手伝いたいんだ」


 少年は照れたように笑った。晴人はその頭を軽く撫でる。この時代の子らは幼くとも、生きる術を早く身につける。その逞しさは頼もしく、同時に胸が痛んだ。


 やがて支度が整うと、避難民たちが列を作りはじめた。老人、子ども、怪我人、疲れ切った顔の母親――皆、この炊き出しを頼りに一日を起こす。


 「はい、どうぞ。熱いので気をつけてくださいね」


 晴人は一人ひとりに丁寧に椀を手渡した。


 列の中に、見覚えのある横顔がある。数日前、怪我をした少年の兄だ。


 「調子はどうだ? 弟さんは」


 「おかげさまで、すっかり元気になりました。藤村さんのおかげです」


 兄は深々と頭を下げる。


 「いや、大したことはしていない。無理をさせず、よく休ませてやってくれ」


 「はい。本当に、ありがとうございます」


 兄は椀を受け取り、列を離れていった。こうした小さなやり取りが、晴人の励みになる。誰かの役に立てている実感――それが、この時代で生きる意味を与えてくれるのだ。


 そのとき、寺門のほうから馬の蹄が近づく音がした。


 振り返れば、藩の侍が数人、馬を降りて境内に入ってくる。先頭は四十代ほどの男。紋付の羽織に刀。歩みに隙がない。


 「ここが、炊き出しを行っている寺か」


 低く響く声に、空気がわずかに張る。


 住職が慌てて出迎えた。


「これはこれは、藩のお役人様。ようこそおいでくださいました」


 「地震以降の避難民の状況を改めに参った。話を聞かせてもらおう」


 男の視線が炊き出しへ移り、晴人の姿で止まる。


 「……あの男は?」


 「藤村晴人と申します。藤田東湖様のお母上、登勢様の世話をしております者です」


 住職の答えに、男の眉がわずかに動いた。


 「藤田家の推挙か。ならば素性は確かだな」


 男は晴人に近づいた。鋭いまなざしが、値踏みするように顔立ちと手元をなぞる。


 「推挙があるとはいえ、見慣れぬ面だ。どこの出か?」


 「遠国の郷士の家に生まれました。江戸で少し学んだこともあります」


 晴人は落ち着いて答える。この手の問いには、もう慣れていた。


 「ふむ……。で、なぜここで炊き出しなどを?」


 「登勢様の看護の傍ら、少しでも人の役に立てればと。手伝わせていただいております」


 男は頷き、鍋の中を覗き込んだ。


 「この煮物、見目はよいが……」


 椀を一つ取り、香りを確かめ、少しだけ口をつける。短い沈黙。


 やがて男は椀を置き、言い切った。


 「……悪くない。いや、上出来だ。限られた食材で、ここまでの味を出せるとは」


 「恐れ入ります」


 「だが、気になる」


 男の目が再び鋭さを帯びる。


 「おまえ、料理以外にも手が利くな? ただの郷士の手つきではない」


 背筋に冷たいものが走る。

 ――鋭い。これはただの視察役ではない。


 「……母が病がちでしたので、看病の心得が少し。薬草や傷の手当も、わずかに」


 「ほう。では、医術も?」


 「いえ、医者と呼べるほどでは。昔読んだ書の知識があるだけです」


 男はしばし晴人を見つめた。疑念と興味がない交ぜの視線である。


 「……藤田家が推すだけのことはある。だが油断はするな。この折、他藩の密偵も多い。疑われぬよう、慎重に振る舞え」


 それは警告であり、同時に助言でもあった。


 「肝に銘じます」


 晴人は深く頭を下げた。


 男は配下に目で合図し、事務的に問う。


 「この寺の避難民は何人いる?」


 「百二十名ほどにございます」


 住職が即座に答える。


 「食の備えは?」


 「米はあと十日分ほど。野菜は近在の農家から分けていただいております」


 「十日か……。藩からも支えを出そう。だが、いつまでもこのままというわけにはいかぬ。避難民には、自立の道を探らせねばならん」


 言は厳しいが、現実でもある。


 「承知しております。すでに幾人かは、近隣の農家で働きはじめました」


 「それはよい。では、その様子も含め、追って報せよ」


 男は踵を返し、侍たちとともに寺を後にした。


 その背を見送り、晴人は小さく息を吐く。


 (……やはり、簡単にはいかないな)


 この時代で生きるとは、絶えず疑いの目に晒されることだ。藤田家の庇護があろうと、信用は積み重ねて示すしかない。


 それでも――。


 晴人は鍋に向き直った。目の前には、まだ多くの人々が並んでいる。

 彼らを助けること。それが、いまの自分にできる確かな務めに違いない。

炊き出しが終わり、片付けを済ませるころには、太陽は中天に差しかかっていた。

 晴人は汗を拭い、登勢の様子を見に行くことにした。寺の奥の離れの一室が、彼女の療養の場である。


 襖をそっと開けると、登勢は窓際に座して外を眺めていた。庭の竹が風に揺れ、光と影が障子に淡く映る。


 「登勢様、お加減はいかがですか?」


 「ああ、藤村さん。ちょうどよいところに」


 登勢は穏やかな笑みで振り返った。顔色は、先日よりもずっと良い。


 「今朝のお粥、とても美味しゅうございました。あれは何を入れたのですか?」


 「梅干しと生姜を少し。胃に穏やかで、食欲を促します」


 「そうでしたか。あなたの作るものは、いつも心がこもっていますね」


 晴人は膳を整え、登勢の横に座る。


 「お体の調子が上向いて何よりです。東湖様もお喜びでしょう」


 「あの子は……心配ばかりかけて、申し訳なく思っています」


 登勢の目が、遠い記憶を見つめるように細くなる。


 「東湖は幼いころから真面目で、責任感の強い子でした。父が亡くなってからは、家を支えるため、必死に学び、働いてきました」


 「立派なお方です」


 「ええ。けれど……時折、あまりに多くを背負いすぎているように見えます」


 母の声には、静かな憂いが滲んでいた。


 「藤村さん、あなたは不思議な方ですね」


 「と、仰いますと?」


 「あなたと話していると、まるで遠い未来から来た人のような気がするのです」


 晴人は一瞬、息をのむ。


 「……気のせいでしょう」


 「いいえ、気のせいではありません。あなたの言葉には、この時代の者にはない“何か”が宿っています」


 登勢は静かに微笑んだ。


 「けれど、それが悪いとは思いません。むしろ、あなたのような人がいてくれることが、この混乱には必要なのかもしれません」


 晴人は答えを探さず、ただ深く頭を垂れた。人生を重ねた者ほど、言葉の奥の温度を感じ取る――登勢の感性は鋭い。


 「東湖に、よく伝えてください。母は元気だと。そして……あなたのような良い友を得たことを、嬉しく思っていると」


 「友、ですか?」


 「ええ。あの子には、本当の意味で心を許せる相手が少ないのです。家臣はいても、対等に語り合える人は……」


 言葉が細く途切れる。


 晴人はゆっくりと息を吸った。


 「私はただの世話係にすぎません。ですが、もし東湖様のお役に立てるのであれば、これほどの光栄はありません」


 「ありがとう、藤村さん」


 登勢は目を細めて笑う。その笑みを見て、晴人の胸の重さが少しほどけた。


 * * *


 その日の午後、晴人は藤田家の屋敷に呼ばれた。使者が寺に現れ、「東湖様がお呼びです」と告げる。晴人は身なりを整え、屋敷へ向かった。


 門をくぐり、庭を抜けると、書院の前で家臣が待っていた。


 「中へどうぞ。東湖様がお待ちです」


 案内された部屋には、藤田東湖が座していた。机の上には書物と書状が重なり、筆の先にまだ墨の艶が残っている。


 「藤村殿、よく来てくれた」


 東湖は筆を置き、晴人に目を向けた。


 「お呼びいただき、光栄です」


 「母の様子はどうだ?」


 「快方に向かっております。今朝も食が進み、顔色も良好でした」


 「そうか……それは何よりだ」


 東湖は安堵の息をつく。


 「すべて、そなたのおかげだ。礼を言う」


 「いえ、当然の務めを果たしたまでです」


 晴人が頭を下げると、短い沈黙ののち、東湖は姿勢を正した。


 「藤村殿、そなたに頼みたいことがある」


 「何でございましょう?」


 「この水戸の復興について、意見を聞かせてほしい」


 思わず、晴人は息を呑んだ。自分にそこまでを求められるとは思わなかった。


 「私のような者が、そのようなことを……」


 「いや、だからこそだ」


 東湖の眼差しは真っ直ぐだ。


 「そなたは炊き出しの場で多くの民と接している。彼らが何を求め、何に困っているか、肌で知っているはずだ」


 晴人は小さく頷き、懐から一枚の紙を取り出した。数日で作り上げた簡易の地図である。


 「これは寺周辺の避難民の分布です。どこに何人、どんな状態か。食料の残り、病人の有無――歩いて聞き取り、記しました」


 東湖は地図を受け取り、じっと見入る。


 「……詳しいな」


 「歩けば見えてくるものがございます」


 「申してみよ」


 「まず、食料の配分が不均等です。余る場所と不足する場所が並立し、情報が共有されていません」


 「ふむ」


 「次に、病人や怪我人の手当が遅れています。医者も薬も足りない。初期対応で防げる症状が、放置されて重くなっている」


 東湖は静かに頷いた。


 「そして――最も肝要なのは、民の『希望』です」


 「希望?」


 「はい。皆、今は生き延びることで精いっぱいです。しかし、それだけでは心が折れます。未来への道筋が見えなければ、人は立ち上がれません」


 東湖の目が、わずかに光を帯びた。


 「未来への道筋……か」


 「復興には順序が必要です。まず命をつなぐこと。次に暮らしを立て直すこと。そして、希望を与えること。この三つを段階的に進めるべきです」


 東湖は深く息を吸った。


 「そなたの言う通りだ。だが、それを実行するには人手も資源も足りん」


 「ならば、仕組みを作るのです」


 「仕組み?」


 「はい。一人の英雄が全てを救うのではなく、多くの人が少しずつ動ける仕組みを作る。それが持続的な復興につながります」


 晴人は、現代で培った行政の知識を総動員していた。災害対策、避難所運営、物資の配分、情報の共有――それらは全て“仕組み”があってこそ機能する。


 「具体的には、どうする?」


 「まず、避難所ごとに責任者を置きます。彼らが日々の状況を報告し、必要な物資を要請する。そして、それを統括する本部を設け、情報を集約し、優先順位をつけて配分します」


 「なるほど……」


 「次に、医療体制を整えます。医者だけでなく、簡単な手当ができる者を育てる。初期対応ができれば、重症化を防げます」


 「それは確かに理に適う」


 「そして、民に仕事を与えるのです。瓦礫の撤去、道の修復、畑の手入れ――働くことで人は自分の価値を取り戻します。賃金を得れば経済も回り始めます」


 東湖は目を閉じ、しばし考えた。


 やがて、静かに口を開く。


 「藤村殿……そなたの考えは、まさに“理で国を立てる”ということだな」


 「はい。武力ではなく制度で。感情ではなく理で。それが、この国を強くする道だと信じています」


 東湖は立ち上がり、窓の外を見た。


 「この国は今、大きな転換期にある。黒船が来航し、幕府の権威は揺らいでいる。このままでは、戦乱の時代が来るかもしれん」


 「……はい」


 「だが、そなたの言う通り、戦ではなく理で国を立てることができれば――この国は、違う未来を迎えられるかもしれん」


 東湖は振り返り、晴人を見据えた。


 「藤村殿、そなたに正式に頼みたい。水戸の復興に、力を貸してくれ」


 晴人は深く頭を下げた。


 「微力ながら、全力を尽くします」


 「ありがたい。では、明日から具体的な計画を立てよう。そなたの知恵を存分に貸してほしい」


 「承知しました」


 晴人は立ち上がり、一礼した。


 廊下に出ると、西日が畳を黄金色に染めていた。長く伸びる影の先で、風が竹を鳴らしている。


 (……ついに、本格的に歴史に関わることになった)


 胸の奥に、期待と不安が入り混じる。それでも、確かな決意があった。


 この時代で、自分にしかできないことをする。

 血の流れない維新を実現する。

 そのために、今できることを、一つずつ積み上げていく。


 晴人は空を見上げた。

 夕焼けが、空を赤く染めている。


 新しい時代の夜明けは、まだ遠い。

 だが、確実に近づいていた。


 その予感だけが、晴人の胸に静かに灯っていた。

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