4話:策士の素顔、炭火の対話
早朝の光が寺の瓦屋根を滑り落ちるころ、藤村晴人は僅かな緊張を胸に抱えながら、寺の裏門をくぐった。
竹林を抜けてのその道は、すでに彼にとって日課となりつつあった。が、今日は違う。登勢の体調が快方に向かっていることを報告するため、彼女の息子である藤田東湖との面会が待っている。
――ようやく、直接話す機会が来たか。
晴人は帯をきゅっと締め直し、慎重に足を進めた。道の脇に咲く藍の花が、湿気を帯びた朝靄の中で鮮やかに揺れている。季節は初夏に差し掛かっていた。
寺の一室で登勢が静かに横になっている。晴人が用意した粥はすでに口にされ、女中代わりの老尼が片付けに入っていた。
「今日はよく召し上がられましたよ。顔色も、ずいぶん良くなりました」
微笑む老尼の言葉に、晴人は安堵の息をついた。そのまま一礼し、寺をあとにする。
城下にある藤田家の屋敷は、地震の影響こそ軽微だったが、応接の間に通された晴人は、襟元からうっすら汗がにじむのを感じていた。
畳の上に凛と佇むのは――藤田東湖。白麻の衣に身を包み、筆を握ったまま彼は静かにこちらを見つめていた。
「母のこと、世話になっている」
それが最初の言葉だった。低く、しかし通る声。
晴人は膝を揃えて座し、深く頭を下げた。
「恐れながら……登勢さまは、今朝も穏やかなご様子でした。顔色も良く、食も進んでおります」
東湖は黙ったまま頷いた。筆先で紙を押さえたまま、じっとこちらを観察するような眼差しを崩さない。
――試されている。
そう直感した晴人は、用意していた言葉を慎重に選ぶ。
「地震の直後、すぐに避難がなされたのは、御家中の方々の賢明なご判断かと存じます。私のような者が口を挟むのも恐縮でしたが……あの土地の地盤の緩さを耳にしたとき、つい口を滑らせてしまいまして」
にこりと笑う晴人。しかし東湖の目は笑わない。
「その“口を滑らせた”というのは、どこで仕入れた知識か?」
「……地元で暮らす間に、農家の方や瓦職人の方々と話すうちに、自然と耳にしたことでございます。水はけの悪さや、地層の崩れやすさなど……」
嘘ではない。けれど真実のすべてではない。
東湖はふうと一息ついた。筆を硯に戻し、両手を膝に置く。
「君は、何者だ?」
真正面から問われた。晴人の背筋が一瞬だけ強張る。
だが、それも想定内だった。
「私は――郷士の家に生まれ、少しばかり、字を読み書きすることを得意としています。若年の折、江戸で学んだこともありました。今は、ただ、目の前の人々の役に立てればと……」
「それで、母の食事を工夫し、寺に通い、避難所で子供たちに読み書きを教え、薬草の煎じ方まで知っているというのか」
東湖の声に皮肉はない。ただ、事実を列挙しているに過ぎなかった。
晴人は深く頭を下げた。
「望まれれば応えるだけです。望まれなくなれば、立ち去るまで」
その言葉に、東湖はようやく眉を緩めた。
「奇妙な男だな。……だが、母は君を信じている」
その一言に、晴人は胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。
「恩を返せるとは思いませんが、せめて、御身の健やかなる日々の一助となれれば幸いです」
言葉を終えると、部屋の隅に置かれた古い火鉢が、ぱちりと音を立てて炭を弾いた。
しばしの沈黙が、ふたりの間を静かに流れる。
「……君のような人間が、水戸に現れるとはな」
東湖がぽつりと呟いたその声音には、警戒と期待が混じっていた。
「ならばひとつ、問おう。君は、筆と銃、どちらが未来を変えると思うか?」
突拍子もない質問に見えて、実は彼の思想を象徴する問い。
晴人は一拍置き、目を逸らさず答えた。
「筆で人の意を繋ぎ、銃で守る――その両方が必要になる日が、いずれ参ります。ですが、始まりは……言葉からかと」
東湖の瞳が細められた。ゆっくりと頷き、立ち上がる。
「言葉の先に志があるなら、いつかまた話をしよう。……母のこと、頼んだぞ」
そう言って背を向ける東湖の姿を、晴人は深々と頭を下げて見送った。
――きっと、これが始まりだ。
この国が変わっていく始まり。そして、俺が歴史に関わっていく第一歩。
部屋の襖が音もなく閉まったとき、晴人の心には、はっきりとした覚悟が芽生えていた。
藤村晴人は藤田東湖との対話を終え、屋敷を後にした。
まだ朝の気配が残る城下町を、静かに歩く。空には霞がかかり、遠くの山並みはぼんやりと輪郭を溶かしていた。水戸城の白壁が朝日に淡く染まり、崩れかけた塀やひび割れた石畳の隙間から、地震の爪痕が今も色濃く残っているのがわかる。
「……俺がこの時代にいて、できることってなんだろうな」
独り言のように漏らしながら、晴人は寺の方向へと足を向けた。
炊き出しの煙が、静かに立ち昇っている。すでに数人の避難民が列を作り始めていた。竹林を抜け、裏門から寺の敷地に足を踏み入れると、炊事場の傍らで火をくべる老人と目が合った。
「おう、兄さん。今日もよろしく頼みます」
皺だらけの顔がほころぶ。晴人は黙って頭を下げ、用意されていた俵に腰を下ろした。
米は少ない。味噌も底をつきかけている。それでも、少しでも“温かくて、口当たりのいいもの”をと考えた末、今日は「南瓜のすり流し」にすることにした。干し柿の皮で出汁を取り、南瓜を潰して混ぜ、わずかな塩で味を整える。
「熱いから、気をつけてくださいね」
老人の手に椀を渡すと、その隣に立っていた小さな少年が、晴人をじっと見上げていた。
「……ねぇ、おじさん。どうしてそんなに、料理がうまいの?」
少年は十歳前後だろうか。髪は土埃でくすみ、着物の裾は擦り切れていた。それでも瞳だけは、まっすぐに晴人を射抜いてくる。
「うまいかどうかは知らないけど、昔、母親が体が弱くてね。食べるもので元気になるって、何度も見てきたんだ」
「……それだけ?」
晴人はふっと笑って、目を細めた。
「あと、勉強も少ししたんだ。栄養とか、火の通し方とか。体の中の“仕組み”についても、いろいろ教えてもらった」
「体の、仕組み……」
少年は呟くように繰り返し、膝の前で両手を握ったまま立ち尽くしていた。
そのとき、寺の奥から女の声が響いた。
「晴人さま、登勢様がお呼びです!」
晴人は振り返り、少年に笑いかけた。
「またあとで話そう。名前は?」
「……市之進です」
「わかった。じゃあ、市之進。またな」
藤村晴人は、筆を置いた。
墨の香りが鼻をくすぐる。この数日間、書状の代筆や記録の清書を任されていた。藤田東湖のそばに控えながら、彼の言葉を写し取る役目は、静かでありながらも精神の研ぎ澄まされる作業だった。
だが、晴人の手が遅れたとき、東湖はふと問いかけてきた。
「晴人殿……そなた、字の書き癖が、この国のものとは少し違うように見えるが」
その声には、咎めではなく探るような柔らかさがあった。晴人は一瞬、筆を止めた。
「幼いころ、読み書きを教えてくれた師が、変わった人でして。京から来たと聞いております」
笑ってごまかすように言ったが、東湖の視線は静かに鋭い。
彼のような人物に下手な嘘は通じない。
この空気を変えるべきだ。晴人は思考を切り替えた。
「筆に詳しいのですね」
すると東湖はわずかに目を細め、ゆっくりと立ち上がった。書院の障子を開け、庭の方へ歩み出る。控えめな庭の手入れは行き届いており、小さな白梅の木が春の訪れを先取りするように、蕾をふくらませていた。
「筆を使う者にとって、文字は剣に等しい。そなたがどこで鍛えられたか……いずれ分かることだ」
その背に、晴人は一礼した。
――何もかも話すわけにはいかない。
今はまだ、信を得るべき時ではない。
※
その日の夕方、晴人は寺へ戻る前に城下の裏通りを歩いていた。
道ばたに置かれた桶には、湯気を立てる煮物。通りかかる母子が「美味しそう」とつぶやきながら通り過ぎる。
湯気の向こうから、あの少年――仁太が手を振ってきた。
「おにいさん、今日も来てくれたんだな!」
仁太は数日前、寺での炊き出しに混じっていた孤児の一人だった。だがこの少年はただ飯をもらいに来るのではなく、目を輝かせて晴人の調理風景を見ていた。
「今日は味噌を少し工夫してな、赤味噌と麦味噌を合わせてみた。こっちの方が身体が温まる」
晴人が小鍋の蓋を開けると、ふわりと広がる香ばしい香りに、仁太の目が丸くなる。
「すげえ……あの、これ、どうやって作るの?」
少し悩んだあと、晴人はしゃがんで仁太の目線に合わせた。
「知ってどうする?」
「いつか、オレも寺の人たちみたいに人に食べさせてやりたい。おにいさんみたいに」
その言葉に、晴人の胸の奥が静かに熱を帯びた。
「じゃあ……今夜、余った分を包んでやる。お前の分と、誰かの分な。誰かのために料理するのが第一歩だ」
仁太は嬉しそうに頷いた。
※
夜、寺に戻った晴人は、登勢の様子を見に裏の一室へ足を運んだ。
戸を開けると、彼女は小さな火鉢の前で横になっていたが、目を開けていた。
「藤村……今日も来てくれたのかい」
「ええ、いつものように」
静かな声で言いながら、晴人は手拭いを暖めてから登勢の手にそっと当てる。
「……あたたかいねぇ。こうして、手をかけてくれる者がいるだけで、寿命が延びた気がするよ」
その言葉に、晴人は笑って返した。
「気がするんじゃなくて、本当に延びてますよ」
「口がうまいのぅ、まったく……」
だがその目尻は、確かに嬉しそうに緩んでいた。
ふと、登勢がぽつりと呟く。
「……あの子は、何も言わんが、きっと心を痛めておる。わたしがこんなだから」
「いえ、東湖さまは……むしろ、安心しておられるように見えました」
晴人は嘘をつかなかった。確かに藤田東湖は母への想いを言葉にせず、行動に託していた。だが、彼の信頼を晴人は感じていた。
それは現代における上司や同僚との付き合いでは得られなかった、静かだが確かな「繋がり」だった。
※
その夜、晴人は寺の裏手にある小屋に戻ると、火を起こして煮炊きを始めた。
今日の残り物――それに少し手を加えて作るのは、仁太の分と、もう一つの“初めて”の贈り物だった。
「――さて、俺も、誰かのために作ってみるか」
目の前に広がる幕末の世界。
その空の下、現代人の知識と優しさが、少しずつ周囲を変え始めていた。
火鉢の炭がぱちりと音を立てた。部屋の空気には微かに炭の香りが漂っていた。
「……母は、だいぶ顔色も良くなってきた」
そう呟いた藤田東湖は、ゆっくりと卓の上の茶を口に含んだ。
「晴人、おまえの働きには感謝している。登勢がここまで持ち直せたのは……おまえがついていたからだ」
晴人は深く頭を下げた。
「お力になれて光栄です。ただ、自分は傍で世話をしていただけにすぎません」
「いや、それが一番だ。病の床につく者にとって、食べ物も、声をかける相手も、生きるための灯となる」
晴人は黙って頷いた。
(本来なら、この時代の人間が背負うべき負担だったかもしれない。でも、俺には“知っている”という優位がある)
今の自分にできることをする。未来を知る者として、目の前の命を救うことに意味があるはずだ。
「なぜ、おまえは“この先に起こること”を知っているような口ぶりなのだ」
沈黙を破った東湖の問いに、晴人はわずかに口角を上げて答えた。
「書物を読むのが好きで、つい……思考の先を追ってしまうだけです。流れを見れば、未来の形が見えてくることもあります」
「詭弁だな」
東湖の声音には怒りはなかった。むしろ楽しげな響きすら混じっていた。
「だがその詭弁には、芯がある。己の理を持った者の言葉は、耳に残る」
「恐れ入ります」
晴人は一礼したのち、顔を上げた。
「水戸には、今もなお多くの民が飢えと寒さに苦しんでいます。復興には、順序が必要です。限られた資源の使い方ひとつで、救える命が増えると思います」
「それを、外様であるおまえが口にするのか?」
「外様だからこそ、しがらみなく見えるものもあるかと」
東湖の目が細くなった。晴人の言葉に試すような色が宿る。
だが、彼の唇がゆるんだ。
「……面白い男だな。まるで策士のようだ」
「とんでもありません。ただの料理人です」
東湖は、ふっと笑った。
「その“ただ”が、いかに貴重なことか。わしのような立場にいる者こそ、それが身にしみて分かる」
晴人は、袂から一枚の和紙を取り出した。
「地図を作りました。土砂崩れ、避難者の分布、炊き出しの可能な広場、水源の状態……拙い手作りですが、全て歩いて確かめました」
東湖は受け取ると、しばらく無言で見つめた。
「……ただの料理人が、ここまでのことを」
「誰でもできることです。ただ、見て、話して、記録する。それだけです」
「だが、それができる者が、いないのだ」
東湖は地図を卓に置き、じっと晴人の顔を見た。
「おまえの思考は、百年先を見ているようだ」
「百年どころか、明日の飯に困る者がいます。私は……できる限りの“今”を整えたいのです」
その言葉に、東湖は一瞬、何かを思い出すように目を細めた。
「晴人」
「はい」
「この地図と考え、上に伝える。だが、おまえ自身が語るべきだろう。言え。民の前で、堂々と」
それは、一種の許しであり、任命だった。
晴人は、深く頭を下げた。胸の奥に熱いものがこみ上げる。
(この時代で、俺にしかできないことが、きっとある)
それを証明するために、ここにいるのだ。
この夜を境に、晴人は「ただの世話係」から、一歩を踏み出す。