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44話:交わる意思、笠間の盟約

1856年晩秋の風が、笠間城下の欅並木をざわめかせていた。


 藤村晴人は、馬の背に揺られながら、城下を見下ろす坂を登っていた。風は冷たかったが、その眼差しには迷いがなかった。目的はただひとつ――水戸藩から始める産業連携と、借金圧縮による“再建の楔”を打ち込むことだ。


 「水戸の若侍が、藩主様に直談判とな」


 城門前に立つ笠間藩の家老・山崎修理が、どこか試すような笑みを浮かべて言った。


 三万石の小藩、笠間。もとより武門の気風強く、他藩の威光に屈しない独立志向の色濃い領地である。


 「話し合いに上下はございません。必要なのは、共に進む覚悟だけです」


 晴人の口調は静かだったが、その奥底には譲らぬ芯があった。山崎は目を細めると、無言で手を掲げ、城内へと先導した。


 笠間城本丸の書院。文机に向かっていたのは、二十代半ばの藩主・牧野貞明。理知的な眼差しを宿した若き当主は、訪問の意を述べる晴人を一瞥し、やや意外そうに眉を上げた。


 「藩主たる者、道理なき情けには動かぬつもりだった。だが――君の語る“産業による国の再建”という構想、あれは本気で成せるのか?」


 「はい。水戸ではすでに製鉄、薬草の自家培養、火薬の改良が始まっています。ですが、水戸藩一つで背負うには荷が重い。藩を越えて協力しなければ、この地の未来は拓けません」


 晴人は懐から帳面を取り出し、木机の上に広げた。反射炉の構造図、新型火薬の配合比、五年計画の収支予測。それらは単なる夢物語ではなく、具体的な“再建の設計書”だった。


 牧野はしばらく無言でそれを見つめていたが、やがて目を伏せて言った。


 「君は我が藩の実情も把握しているのだろうな?」


 「はい。年貢は三万石。城下を含め人口は約二万。近年は蚕糸業にも注力され、民の生計は保たれている。だからこそ、私は資金よりも“人と技術”を求めています」


 その言葉に、家老の山崎が驚いたように目を細めた。


 「……金ではなく、人手の協力を?」


 「はい。水戸はすでに藩債二十万両のうち、八万両を棚上げ・一本化し、十二万両にまで圧縮しました。高利の借入を凍結し、利息も一律三分以下に調整済みです。この構造を、他藩とも共有するつもりです」


 牧野が唇を引き結ぶ。その視線の奥には、強く引かれるものと、独立藩主としての矜持が同居していた。


 「……我が藩も、藩士の給金を一年据え置く案がある。その分を“人力出資”と見なすならば、製鉄利権の一部を共有していただけるか?」


 「もちろんです。労働提供もまた、立派な出資と認識しております。貴藩には、“水戸に連なる礎”となっていただきたい」


 しばしの沈黙。障子の外では風が吹き、欅の葉を散らせていた。


 やがて、牧野が静かに頷いた。


 「……よかろう。我が笠間藩、君の提案に乗る。ただし――三年後までに実利が見えぬ場合は、協議のうえ撤退する。その条項だけは記してもらう」


 「異論ありません。三年で“国が変わり始める”証をお見せします」


 こうして、ひとつの小藩が――水戸の背に連なる意思を示した。


 その歩みは、小さくとも確かな一歩だった。常陸の地を越えて、志が繋がりはじめた瞬間である。

城下にある笠間藩の政庁――御用屋敷の奥にある書院では、藤村晴人と家老・山崎修理との対話が続いていた。


 屏風の奥で控えていた文士が帳面を持ち出すと、山崎はそれを一読しながら眉根を寄せる。几帳面に並んだ数字は、銅や鉛、紙、そして石炭と木炭の流通量。水戸藩が既に蓄積している交易網を示す資料だ。


 「なるほど。水戸には鉄はない。だが、燃料と製炭、技術者と木工、そして……国を変えようという胆力がある」


 「はい。ですので“製鉄”は、水戸単独ではなく“共同体としての常陸”で取り組むべきだと考えています。笠間藩には陶土があります。釜と築炉の技師も揃っている。高炉は土から始まります。焼き物を知る皆さまの力が必要です」


 「ふむ……我が藩の窯師たちの腕は、江戸でも認められていますな。だが、その分誇りも高い。簡単には他藩の人間には従いませぬ」


 「それでも構いません。現場の指揮は私ではなく、土と火を知る者に任せるつもりです。私は調整と支援に徹します。焦らず、技術を共に育てていきたいのです」


 山崎は、ふと目を細めた。


 「……貴殿、お歳は?」


 「三十二です。年だけは重ねましたが、未熟者には変わりません。されど、命を賭ける覚悟はあります」


 「三十二……ふむ、歳相応の落ち着きと、時折見せる焦り。……それでいて、志に曇りがない」


 静かな笑いが広がったが、すぐに空気は引き締まった。


 「我が藩も、先年の水害で田畑を失い、石高を一割減らされました。藩士の士気は低く、倹約を呼びかければ不満が出る。火薬の買い付けもままならぬ状況。……そこに“焼き物の窯で鉄が生まれる”などと持ち込まれても、信じる者はいないでしょうな」


 「ええ、だからこそ“最初の一歩”だけ、我々が支えます。反射炉一基でいい。模型でなく、実炉で火を灯して見せる。木炭炉の試験は水戸で行います。焼き窯の耐熱煉瓦は、笠間の土で焼いていただきたい」


 晴人は手元の図面を広げると、指でなぞるように説明を続けた。


 「反射炉は、銑鉄ではなく鍛造に向いた鉄を得られます。鍋、釘、鋤。すぐに生活を支える道具が作れます。火縄銃の銃身の基礎にもなり得ます。無駄にはいたしません」


 山崎は図面をじっと見つめ、やがて溜息をついた。


 「それほどまでに、本気か。……ならば、提案がある」


 家老は傍らの文士を呼び、手短に耳打ちした。


 「今年度、藩士全員の給金を半年延期しようと思う。兵糧米は藩倉に確保しているし、冬を越すだけなら耐えられる。……その分を、製鉄炉建設のための資材調達に振り向けたい」


 「お受けします。そのご決断、無駄にはしません」


 「ただし――」


 山崎の声が少しだけ鋭くなった。


 「収益が立たぬ場合、我が藩は即時にこの事業から手を引く。その権利だけは残していただきたい」


 「当然です。投資と同じですから。後は結果でお応えします」


 晴人は立ち上がり、深く一礼した。部屋に漂っていた緊張が、ようやくほぐれていく。


 その晩、笠間城の一角では、晴人と山崎が酒を酌み交わす姿があった。


 湯に浸した燗酒をすすりながら、山崎がぽつりと漏らす。


 「まさか水戸の若侍に、これほど引き込まれるとは……。そなた、いったい何者だ」


 「ただの学者崩れです。ただ、志を持っただけの」


 その言葉に、山崎は苦笑を返した。


 「では、我らはそなたの“志”に乗ったことになるな。……どうか、裏切らぬよう頼みますぞ」


 「誓います。必ず、火を灯してみせます」


 こうして、常陸の小さな一藩が――未来を賭けて、一歩を踏み出した。

応接の間を辞し、庭に出た晴人と山崎修理は、紅葉に染まる笠間城の中庭をゆっくりと歩いていた。足元に舞い落ちた赤や黄色の葉が、砂利の上でさくさくと音を立てる。


 「この地も、冬が近い。年貢を納めた農家の者たちも、今頃は囲炉裏を囲んでおる頃でしょうな」


 穏やかな語り口だが、山崎の横顔にはまだ探るような色が残っていた。


 「晴人殿――おぬしのやろうとしていることは、結構な大事おおごとだ。技術と利権を媒介に、他藩に先駆けて動けば、幕府の目も警戒もしかねん」


 「わかっております。ですが、幕府はもはや“緩やかな崩壊”にあります」


 足を止め、晴人は振り返る。北風に揺れる彼の羽織が、凛とした空気に映えた。


 「ならば、先に舟を組むのは我らの義務です。領民に飢えを強いないためにも、刀でなく鉄と火薬で、銭でなく知恵で……」


 「ふん、きれい事だけでは終わらんぞ」


 「もちろんです。だからこそ、失敗すれば私の責任。成功すれば皆の功績です」


 山崎は、しばしその顔を見つめた後、ふっと笑った。


 「まるで……かの藤田東湖殿を思わせますな。あの人も、国の未来に命をかけた」


 「光栄です。ただ私は、言葉より行動で示すつもりです」


 やがて彼らは、城内の一角――かつて武芸所だったという建屋の前に立った。


 「ここを鍛冶職人の臨時工房に改めておるのです。今は試験的に、越後から取り寄せた赤土で小炉を築き、鋳型の研究をしておる段階ですが……」


 山崎が案内した中では、炉の試作は未だ進行中で、火も入っていなかった。だが、その空間に満ちた熱意は、晴人にも伝わっていた。


 「こうした環境があるのは、まことに心強いことです。将来的に、鋳型と工具製造で連携ができれば、水戸の炉で鍛えた鉄を、笠間で形にできるでしょう」


 「その未来があるのなら、藩士の給金も一年は延期に耐えよう」


 山崎の言葉には、ただの忠誠ではない現実的な覚悟が滲んでいた。


 「水戸藩の借金――かつては二十万両に達していました。それを、商人筋との高利借入を債務再編によって一本化し、利息は一律三分以下に抑え、元金を五年の分割返済に変更。その結果、実質的には十二万両まで圧縮しています」


 晴人は静かに続けた。


 「この仕組みが機能すれば、三年で黒字転換が可能です。利子に利子を重ねて潰れゆく体質から、産み出す体質への転換が成されれば、財政は生き返ります」


 山崎が深く息を吐いたとき――背後から一人の若き職人が声をかけた。


 「……藩の仕事で、こんなふうに“ものづくり”ができるなんて……嬉しいです」


 その言葉に、晴人もふっと目を細めた。


 まだ炉も、鋳型も未完成だ。それでも、そこに火を灯したいという人間の意思が、確かに存在している。


 そして――その夜。


 笠間城の会議室に、晴人、藩主・牧野貞明、山崎修理、それに数名の家老や勘定方が集められた。


 提出されたのは、“技術出資協定書案”である。


 水戸藩と笠間藩が連携し、「技術協同組合」を設立。水戸からは鉄材と技術人材、笠間からは鍛冶職人と工房を提供。収益は四割を分配し、六割を設備・人材育成へ再投資する。


 「つまり……実質的には“投資”ではあるが、我が藩の持ち出しは現金ではなく人と技術。その対価は後から入るという理解で良いか?」


 牧野の問いに、晴人はうなずいた。


 「はい。いずれは火縄銃や農具の製造にも及びます。その時に備え、貴藩の鍛冶場が“試作と試験の拠点”になれば、将来の中心地にもなり得ます」


 「……面白い」


 牧野は、その場で筆を取り、協定書へと花押を記した。


 常陸の地において、藩を超えて手を結ぶ――初めての夜だった。

翌朝、晴人は夜明けとともに起床し、城内の庭を一人で歩いていた。


 石畳には霜が降り、昨夜の冷え込みが嘘のように晴れた空に白い吐息が消えていく。空は東から淡い金色に染まり、木々の隙間から差し込む陽が、地面に影絵のような模様を刻んでいた。


 「今日も、良い天気だな……」


 晴人は呟き、城の外れにある井戸のそばで足を止めた。昨夜遅くまで続いた協議の余韻が、まだ胸の中に残っている。


 牧野貞明の花押が捺された瞬間、城内の空気が静かに変わったのを、彼ははっきりと覚えている。


 「我が藩はこれに同意しよう」


 その一言が、形式を超えた覚悟となり、書面よりも重みをもって晴人の心に残った。


 笠間藩が加わったことで、水戸藩の構想は初めて「水戸一藩」から「常陸連帯」へと広がりを見せる。


 それは、もはや“再建”ではない。新たな秩序の“創成”だ。


 背後から足音がした。


 「お早うございますな、晴人殿」


 山崎修理が羽織を着込んで現れた。手には湯気の立つ茶を乗せた盆があり、そのまま晴人に差し出してくる。


 「昨夜は遅うございましたな。……よろしければ、今朝のうちに城下の鋳物師の工房をお見せいたしますが?」


 「ありがとうございます。ただ、今日はもう水戸へ戻ります。準備は済ませました」


 「そうですか……惜しい」


 山崎は盆を下ろし、井戸の脇に腰かける。共に朝の静けさを味わうように、二人は言葉少なに空を仰いだ。


 「お主の言う“技術”とは、鉄や火薬だけではない。人の意志を繋げる力でもあるのだな……昨日の家老たちの表情を見て、そう思いました」


 「もし、それを“力”と呼ぶのならば……私は、その力を“秩序”として使いたい。誰かを押さえつけるためではなく、皆が正当に働けるために」


 山崎は静かに笑い、頷いた。


 「ならば、これを」


 彼は懐から小さな封書を取り出し、晴人に手渡す。


 「我が藩が協定の証として、正式な書状を幕府に出す際、添状として使える文です。“藩内協議の上で自発的に進めた事業”と記してあります」


 晴人は封を開けることなく、深く一礼した。


 「重ねて、感謝いたします」


 「いや、礼など不要。お主の志は既に伝わっている」


 その後、城の門を出るまで、笠間藩の数名の藩士たちが見送りに並んだ。昨夜協定書に署名した家老の姿もあり、口には出さずとも、彼らの目に「次へ繋げる」という意思が宿っていた。


 馬の背に乗った晴人は、一度だけ振り返り、深く頭を下げた。


 そして、馬の腹を軽く蹴って歩ませる。


 陽が昇り切る前の道を、水戸へと戻る旅が始まった。


     ◆


 水戸城下に戻ったのは、昼過ぎだった。


 城の門で待っていたのは、側近の中根と、参政の佐川だった。彼らは晴人の顔を見るなり、声をそろえて言った。


 「お帰りなさいませ、晴人様!」


 「ご報告、ひとつ。常磐の問屋組合より、先日の『年末納入制度』に正式参加の返書が届きました!」


 「よし……あとは年内に金の流れを整えれば、年明けには人手も雇える」


 晴人は早足で登城し、すぐに藩の政務所へ向かった。机上には、次なる計画書が広げられている。


 笠間との協定成立を皮切りに、次は土浦藩、高萩藩、那珂湊の港湾組合とも接触を始める準備が整っている。


 ――ここからは、波になる。


 静かな言葉の裏に、晴人の全身から漲るような決意が滲んでいた。


     ◆


 その夜、屋敷に戻った晴人は、書斎の明かりのもとで一通の手紙を書き始めた。


 宛先は、江戸在住のある商人――かつて高利貸しとして水戸藩を締め上げていた、かの豪商・今西屋だった。


 だが、今の文面に含まれているのは脅しでもなければ、赦しでもない。


 「条件付きで再出資を求める書状」だった。


 〈水戸藩の再生は、すでに実証段階に入っております。過去の不信はすべて帳消しにする。ただし、利息は三分を限度とし、返済は三年で完了。監査役は我が方より出す。〉


 これは、戦いではない。


 “再構築”という、新しい勝ち方だった。


 筆を置いた晴人は、ふうと息を吐き、障子を開けた。


 外には月が出ていた。どこまでも静かで、確かに寒い――だが、それ以上に澄み渡った夜だった。


 「もう後には退けない。ならば……進むしかない」


 その言葉を呟いた晴人の顔には、微かに笑みが浮かんでいた。

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