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43話:菌を量る、命を繋ぐ』

朝霧に包まれた水戸の城下に、どこか薬草にも似た匂いが漂っていた。


 晴人は白衣に似た薄い羽織を身にまとい、簡易な研究棟と化した一角――旧蔵屋敷の一室に立っていた。木製の作業机の上には、土壌から分離したばかりの菌体を入れた陶器皿がずらりと並ぶ。その隣には、寒天を流し込んだ竹の器、濾過に使う絹布、そして竹筒で作った簡易培養器。全て手作りだ。


「……培地の湿度が足りないか」


 晴人は目を細め、ひとつの皿を指先でそっと持ち上げた。目の前の菌は、常陸の赤土から採取された放線菌。西洋の記憶を頼りに、抗生物質――ペニシリンの再現を目指していた。


「村田先生、菌の繁殖が昨日よりも鈍っています」


 台所から戻ってきたのは、身なりこそ粗末だが動きに無駄のない青年だった。村田蔵六――宇和島から移ってきた医師にして技術者。晴人の記憶を信用し、共に未知の研究に没頭する数少ない同志の一人だ。


「この気温の上下が影響してるな。水戸の朝晩はまだ寒い。……火鉢で温めてみるか」


「火鉢じゃ温度が一定にならない。……水を張った鍋の中に竹筒を浮かべて、その下に炭火を使えば温度管理ができるかも」


 そう言いながら、晴人は筆をとり、設計図のようなものを描き始めた。複数の菌種を同時に培養するため、装置の構造が次第に複雑になっていく。


 突然、外から駆け込む足音がした。


「失礼します!」


 風を切って現れたのは、いつの間にか晴人の側近のように動くようになった河上だった。元々は剣士として仕えていたが、今では医や政にも理解を示し、現場との橋渡し役としても信頼されている。


「遊郭の“朝霧楼”から急報です。昨日の患者、熱が引きました。全身に出ていた斑点も薄くなっています」


「本当か……!」


 晴人は思わず声を上げた。昨日、その女性に“ペニシリンらしき抽出液”を試験的に投与していた。結果が出るのは早くても三日後と思われていたのだが、まさか翌朝に兆候が現れるとは。


 村田も驚いた様子で、湯飲みを握ったまま固まっていた。


「これは……可能性がありますな。培養がうまくいけば、本格的な治療薬として使えるかもしれん」


 だが、その瞬間こそが戦いの始まりだった。


「晴人様」


 低く、そして慎重な口調で、河上が口を開く。


「……この薬の扱いは、慎重になさってください。効き目が確かであるほど、それを欲しがる者も増えます。遊郭に噂が広まれば、売買の対象にされかねません」


「わかってる。だからこそ、正式な“施設”を作らなきゃいけない」


 晴人は机に両手を置き、ぐっと前を見据えた。


「医師が常駐し、看護があり、記録をつけて治療を管理できる場所……“水戸養生院”を創ろう。感染症の人々が安心して集まれ、庶民でも診てもらえる場だ」


 その言葉に、河上の眉が動く。


「……人を斬る剣を捨て、人を生かす手となったか。変わるものですね」


「河上、お前も手伝ってくれ。医療も、剣も、力ではない。人の命を守る知識が、これからの“剣”になる」


 河上は一歩、静かに前へ出て、深々と頭を下げた。


「お言葉、肝に銘じます。私は未だ剣しか知りませんが……この国が変わるなら、その歩みに加わらせていただきます」


 その背後で、村田が苦笑した。


「まるで新しい時代の軍医ですな。だが確かに、これは戦争ではなく、命の戦だ」


 部屋の中、静かに菌が繁殖していく。微細な変化の先に、確かに「未来」があった。

朝の霧が晴れ、陽が差し込む頃、旧蔵屋敷の中庭では、晴人たちが手作業で組み立てた仮設の乾燥小屋が稼働し始めていた。


 その小屋の中、薄い和紙を張った棚の上には、乾燥工程に入ったペニシリンの原粉が、慎重に並べられている。寒天培地から抽出された液体を、絹布で濾し、陶器の鉢でじっくりと水分を飛ばしていく工程だった。


「粉末化にはまだ時間がかかるが、これなら輸送や保存にも耐える」


 村田が布をめくり、淡黄色の結晶に目を細めながら呟く。かすかに甘酸っぱい匂いが立ち込め、それが命をつなぐ薬であることを思い出させた。


 一方、晴人は養生院の開設に向け、書状を手にしていた。宛先は水戸藩政の中心、郡奉行所。設置許可と、遊郭周辺の土地利用に関する諸問題の協議を願い出るためのものだった。


 紙の上には、実直な筆致でこう綴られていた。


「一、疫病に苦しむ者を隔離し、療養させる場所とすること

 一、診察及び投薬は庶民にも等しく行うこと

 一、女中や遊女であっても、命を守る観点から差別なき対応を行うこと」


 書き終えると、晴人はそっと筆を置き、深く息を吐いた。


 そのとき、土間を挟んで隣室から声が上がった。


「晴人様! “菌”の拡張培養、第二群も増殖確認しました!」


 弾んだ声で報告に来たのは、若き助手の一人――元は駕籠かきだったという少年、常松だった。晴人の働きかけで研究補助として雇われ、今では誰よりも菌の培養に夢中になっている。


「よくやった、常松! 昨日の絹布、湿らせ方が上手かったな」


「はいっ。先生に教わった通り、水を吸わせすぎないようにして……それから、火鉢の位置も調整しました」


 満面の笑顔に、晴人も頬を緩めた。医術は特別な者だけのものではない。工夫と手と心があれば、誰でも未来を紡ぐ歯車になれる――それを証明する存在だった。


 その後、晴人は昼前に“朝霧楼”を訪ねた。


 障子を開けると、昨日と同じ部屋に、やつれた顔の女性が横になっていた。だが、その目には昨日までの濁りがなく、薄く笑みすら浮かんでいる。


「……先生。手が、あたたかいの」


 細い声が漏れた。晴人は静かに頷き、脈を取りながら彼女の額に手を当てる。


 熱は引き、皮膚の発疹も後退している。何より、彼女自身の“生きようとする力”が、肌から伝わってきた。


 側に控えていた中年の女将が、涙を浮かべて頭を下げる。


「先生……この子は、見世に入ってまだ間もない娘でして……薬の匂いがした時は、もう駄目かと……」


「もう、大丈夫です。ただ、あと三日は安静に。薬は強い力を持つが、回復には心も必要です」


 そう言って薬包みを手渡すと、女将は深く深く頭を下げた。


「晴人様、もしよろしければ……この子を、先生のところで手伝わせてやってくれませんか?」


「え?」


「命を繋いでもらったこの手で、今度は誰かを助けたいと申しております」


 晴人はしばし言葉を失い、それから静かに頷いた。


「名前は?」


「“お琴”と申します」


「わかった。では、“お琴”――私たちの“水戸養生院”で、命を守る側に立ってもらおう」


 こうして、最初の看護補助員が決まった。


 その日の夕方。研究棟に戻ると、河上が文机の前で資料を整理していた。彼は今、感染症の流行履歴と、藩内の診療所の数を調べている。医療を戦として捉え、敵を知るための「地図」を描こうとしていたのだ。


「河上、どうだ?」


「はい、晴人様。やはり、冬場に咳を伴う高熱が集中しており、遊郭と寺子屋、それに農閑期の村落に多く見られます。感染経路と衛生環境の相関性は……」


 そう言いながら、彼は手書きの地図を広げた。


「ここです。水路の近くにある集落で、頻発しています」


「なるほど……では、その周辺に分院を置こう。“水戸養生院”本院と連携し、現地でも初期対応ができる体制を作る」


「承知いたしました」


 河上の目は、戦場を知る者のそれだった。だが、そこに宿るのは“破壊”ではなく“守護”の意志だ。


 その夜、晴人は灯明の下、静かに紙をめくっていた。


 医学館――藩内の学問所に付属する形で、医師の育成と診療知識の整理が始まっている。村田が講義を担当し、助手の常松や元遊女のお琴も聴講生として参加しているという。


「知は、人を選ばぬ」


 その信念が、少しずつ水戸の空気を変え始めていた。


 その頃、城下の印刷所設立を願い出る署名も、静かに集まり始めていた――。

夕刻、暮れなずむ空の下。水戸城下の一角――武家屋敷から転用された小さな学び舎では、講義の声が漏れていた。


 畳敷きの部屋には、粗末ながら整えられた長机と、墨で書かれた「菌類」「治療法」「衛生管理」などの札。講義台に立つのは、白髪交じりの村田蔵六。晴人の協力者にして、養生院の“知の柱”でもある。


「――ゆえに、同じ“熱”を発する病でも、その原因となる菌は異なる。症状を見て一概に薬を投じるのではなく、診たてと観察が先にあるべきです」


 その言葉を、数人の聴講生が必死に書き取っている。中には、前日まで見世にいた遊女・お琴の姿もあった。


 彼女は袖をまくり、竹筆を握り締めている。筆に慣れぬ手で、文字の形もまだぎこちない。それでも、目だけは真っ直ぐに前を向いていた。


「……“先生”は、命を見捨てなかった」


 その記憶が、彼女の心に火を灯していた。


 机を並べて座っているのは、農家出身の若者や町医者見習い、寺子屋で学んだ武士の子。職も階級もばらばらだが、目指すものは一つ――“命を守る知”だった。


 一方その頃、晴人は城下にある古い倉庫の前にいた。


 そこは、戦で傷んだ米蔵を改修して使っていた場所で、彼はここに“印刷局”の設置を計画していた。


「これが……手動式の印刷台?」


 背後から声をかけたのは、鍛冶職の棟梁・早川。晴人の図面をもとに、印刷用の木製圧版を試作してきた人物だ。


「活字を並べ、墨をつけて紙を押し当てる仕組みです。欧羅巴の技術を簡略化して再現しましたが、試し刷りもできますぜ」


「ありがとう、早川さん。これで、養生院の治療記録や、予防法を広く配れる」


 晴人は心から礼を述べると、試しに一枚、紙を押し当ててみた。


 ギギ、と軋む音のあと、木の圧板が持ち上げられ、白い和紙にはこう印字されていた。


《疫より身を守る十箇条》

一、人ごみを避け、風通しよく過ごすべし

二、手を洗い、口を清めることを怠るなかれ

三、病の者と触れたる後は、衣服を改めるべし

……以下略


 墨の匂いと共に広がるのは、“知”の香りだった。


 これまで文字というものは、武士や寺子屋の子供たちに限られていた。だが、読み書きできぬ者にも「絵解き式」で伝える工夫が、晴人の中にはあった。


 その構想を、すぐに河上に伝えた。


「庶民にも届く“言葉の医術”……それが、印刷局の役割です」


「……民に剣を持たせず、盾を与える考え方。実に、お前らしい」


 河上はわずかに微笑んだ。その眼差しには、すでに晴人を“ただの上役”ではなく、“共に戦う同志”として見る色が宿っていた。


 その日の夜、旧屋敷の一室。晴人は一枚の紙を前に、静かにペンを走らせていた。


 それは、“水戸養生院”の組織図と、将来的な医療網の計画だった。


 中央に本院。そこから放射状に広がる分院構想。その周囲には「産婆補助員養成」「簡易診療所」「移動式治療馬車」などの文字が躍る。


「これが完成すれば、城下ばかりか農村部にも医の光が届く……」


 だが、そのためには人材も、資材も、そして信頼も必要だった。


 晴人はふと、机の隅に置かれた一冊のノートを開いた。


 そこには、これまで診てきた患者の記録が、細やかな筆致で記されていた。


「遊女“お琴” 発熱・皮疹・意識混濁。ペニシリン溶液を投与。翌朝、症状の緩和確認」


 その後には、彼女の言葉も記されていた。


『……次は、わたしが誰かを助けたいんです』


 思わず、晴人はペンを止めた。


 彼のしていることは、ただの“技術導入”ではなかった。過去の記憶を頼りに進める文明の模倣でもない。


 人と人の想いを繋ぎ、未来の“希望”をつくること。


 ――それこそが、異国から来た彼の“使命”であり、選ばれた理由だったのかもしれない。


 翌朝、日が昇る前から、養生院の敷地には人の気配があった。


 中庭で消毒水を準備するお琴。煎じ薬の用意を進める常松。村田は分院向けに新しい処方例を印刷所に届けていた。


「誰かの命を守るには、誰かの手が必要だ」


 晴人は静かに呟き、深く息を吸い込んだ。


 そして、その胸の奥に――ある決意が芽生えた。


 それは、ただ病を治すための医療ではない。


 命を“生き抜かせる”ための、社会全体を支える基盤を築くという、大きな構想だった。


 その先にあるのは、戦ではない。


 “共に生きる国”――それを形にする戦いだった。

昼下がりの水戸養生院には、静かで張り詰めた空気が流れていた。


 晴人は一枚の文書を手に、院の一角にある小さな事務室にいた。文書の冒頭には「水戸藩医療施策協議書草案」とあり、そこには、感染症予防のための出張所設置、看護補助員の雇用基準、農村向け診療巡回制度――といった計画が詳細に記されていた。


 彼の目が止まったのは、末尾の一文だった。


「本計画の実施には、医学と行政の連携を要す。医療とは人を救う手段であると同時に、“国を繋ぐ柱”ともなる」


 まさしく、それこそが彼の目指す未来だった。


 その時、扉が控えめに叩かれた。


「失礼します……少々、お時間をいただけますか」


 入ってきたのは、着物の裾をきちんと結い上げた少女。年の頃は十六、七。かすかに緊張を滲ませながらも、その目は真剣だった。


「あなたは?」


「遊郭“月の庵”で下働きをしていた者です。……あの、ここで働かせていただけませんか」


「理由を聞いても?」


 少女はためらうことなく、静かに口を開いた。


「……兄を病で失いました。診てもらえなかったんです、身分のせいで。でも、晴人様が“誰でも診る”と仰ったと聞きました」


 その言葉に、晴人は目を伏せ、一拍置いてからうなずいた。


「名は?」


かえでと申します」


「では、ようこそ楓。ここは命を守る場所だ。君もその一員になってくれるのなら、歓迎するよ」


 その場で、彼女は看護補助員見習いとして登録された。


 後日、楓は村田の講義を熱心に聞き取り、筆記の代わりに絵で記録を残し、やがては手洗いの方法を他の補助員に教えるまでになっていく。


     *


 一方その頃、晴人は養生院裏手の小さな倉庫で、河上とともに“印刷物の流通体制”の改善に取り組んでいた。


「……これまでは藩役人に頼っていたが、迅速性に欠ける。定期的に情報を届ける手段が必要だ」


「いっそ“通信所”を作りませんか? 文を送るのではなく、印刷された“命の知識”を各地に配る。……届けるのは言葉ではなく、未来です」


 河上の冷静な提案に、晴人は目を細めて頷いた。


「“郵便局”というには早すぎるが、“医療通信所”ならできる。まずは養生院の一室を改装して、定期刊行の“健康札”と“疫病報”を刷って配ろう」


 それは、のちの“水戸藩衛生通信網”へと発展する第一歩だった。


     *


 日が傾くと、城下南通りに一台の屋台が現れた。


 木製の台車の上には、氷室から取り出された小樽が並んでいる。屋台の男は声を張り上げた。


「冷たい菓子はいかがですか~! 本日分、あと五つ!」


 それは、晴人の発案によって試験的に販売が始まった“氷菓”――いわば、簡易な“アイス”だった。


 牛乳に卵黄と砂糖を加え、火を通してから塩と氷で冷やす。夏の栄養補給、病後の体力回復、そして子どもたちへのご褒美にもなる。


「……“冷やす力”を、食に使えば、民も笑顔になる。治療の前に、“心を癒す”ことも必要だ」


 晴人のその言葉に、村田と若い料理人が工夫を重ねて完成させた“甘味”だった。


 その前で、一人の少年が目を輝かせて立ち尽くしていた。


「……母ちゃん、病気で……これ、食べさせてやったら、元気になるかな」


 屋台の男は柔らかく笑って、木樽からひとつを取り出し、少年に手渡した。


「持ってきな。これは“薬の一歩手前”だ。……冷えてるうちにな」


 少年は目を丸くして、深々と頭を下げ、駆けていった。


 それを遠くから見ていた晴人は、小さく息を吐いた。


「……制度も技術も、こういう温もりがなければ根づかない。結局、“人の心”なんだよな……」


     *


 夜、水戸城の奥御殿。


 晴人は、帰藩中の斉昭、そして藤田東湖と向き合っていた。


「養生院の規模をさらに拡張したいと考えております。印刷局と氷室、通信所を連携させることで、医療知識と実地支援を藩内に広めていきたいのです」


 斉昭はしばし黙し、厳かに口を開いた。


「そなたの進める道は、戦ではない。されど――これは、民を守るための“戦”か」


「はい。この国の土台を守るための戦いであると、自覚しております」


 藤田東湖が静かに微笑した。


「……それでこそ“備え”というもの。戦が起こらずに済むなら、それが最も良い。だが、その時が来れば――民は、お前の築いたこの仕組みに救われるだろう」


 静かな共感が、部屋の空気を満たしていく。


 晴人は深く頭を下げた。


「――水戸から始めます。この国を、“生きていてよかった”と心から思える場所に変えるために」


 その声は、静かだが確かに響いた。

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