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42話:水戸に香る異国の味

午前の陽射しが、城下の石畳に斜めから降り注いでいた。瓦屋根の隙間からは湯気が立ち昇り、町人たちの活気ある声が遠くから届く。だが、今日の台所裏は、いつもとは違う香りに包まれていた。


 「……クミン、コリアンダー、ターメリック。あとは、唐辛子を少し。うまくいけば、辛さの奥に深みが出るはずだ」


 晴人は、擦り鉢にスパイスを入れ、丁寧にすり潰していく。使うのはすべて乾燥品。町の薬種屋で“芳香の薬”として入手できたものを、少しずつ揃えてきた。クミンやフェヌグリークは、薬効を期待されて「胃に良い香草」として扱われていたが、組み合わせれば立派な異国の味になる――その確信が、晴人の手を止めさせなかった。


 「晴人さま、本当にこれを“おかず”にするのですか?」


 顔をしかめるのは、料理係の中年女中・お滝。彼女は十年以上、藩の台所を預かってきたベテランである。


 「いや、これは“汁”だ。飯にかける。野菜と煮込んで、滋養を高める“食べる湯”だと思ってくれればいい」


 「汁をかけて……飯を……? は、はあ……」


 腑に落ちぬ様子ながらも、彼女はせっせと野菜を刻んでいく。里芋、牛蒡、人参、大根――庶民の根菜に、小麦粉を炒った“ルウもどき”を混ぜ、そこに鶏の干し肉で取った出汁を注ぐ。


 ぐつぐつと鍋が煮立ち始めると、蔵の裏から“新たな匂い”が湧き上がった。


 「……うわっ、なんだこの香りは!? 薬か? それとも……」


 村田蔵六が鼻をひくつかせながら現れた。その後ろには、河上彦斎と沖田総司の姿もある。


 沖田は、漂う香りに顔をほころばせた。


 「うわあ、美味そうですねー……なんか懐かしいような、でも新しいような……」


 「薬草の煮込みにしては……ずいぶんうまそうな匂いだな」


 河上も眉をひそめながらも足を止める。鍋の中身を覗き込んだ沖田が目を丸くする。


 「え、でも見た目……茶色で泥みたいですね」


 「はは、それが“異国の知恵”ってやつだよ。見た目じゃなくて、味で勝負だ」


 晴人は笑って、木の杓文字で一杯すくい、茶碗に注いだ。飯の上にとろりとかければ、香り立つ“異国風の汁かけ飯”が完成する。


 「名付けて……カレーライス、ってとこかな」


 「かれ……らいす? 米は分かるが、“かれ”とは?」


 「向こうの国では“辛くて香る料理”をそう呼ぶんだ。まあ、信じて食ってくれよ」


 一口。


 村田が無言で噛みしめた。河上は、顔をしかめながらも飲み込み、沖田は最初の警戒心を忘れたかのように、口いっぱいに掻き込んだ。


 「――うまい!」


 声を上げたのは沖田だった。


 「なんだこれ、野菜の甘みと香りが混ざって……不思議だけど、やめられねぇ!」


 「米との相性も悪くないな。これは……兵糧としてもありだ」


 村田も、味の深みに舌鼓を打つ。


 「体が、じんわり温まってきた。これはただの汁じゃねぇ……栄養湯ってやつだな」


 「だから言ったろ。“食べる湯”だって」


 晴人はほくそ笑み、次の準備に取りかかる。


 それは、甘味――氷菓だった。


 冬の間に蓄えておいた天然氷を、地下室で保存していたのだ。その氷を木箱に並べ、冷えた器に甘く煮た小豆と、寒天ゼリーを重ねる。上から、甘葛あまづらと呼ばれる山葡萄の濃縮蜜をかけ、涼しげな色合いに仕立てる。


 「食後の“ひやし”です。どうぞ」


 器を差し出された村田は、最初は訝しげだったが、一口含んだ瞬間、目を丸くした。


 「な、なんだこれは……! 氷で冷えて、舌に甘い……だと!?」


 沖田と河上も次々に口にする。


 「冷たい……のに、うまい! いや、冷たいから、うまいのか!?」


 「こんなものが、この国に……いや、水戸にあるとは……!」


 その時、藩の炊き出し所にいた足軽の一人が、仲間に小声で話しかけているのが耳に入った。


 「聞いたか? この飯、町の若旦那が工夫して作ったんだと」


 「藩主のご命令じゃないのか?」


 「違う。異国嫌いのご政道からすれば、むしろ黙認ってやつさ。だけど……婆様が言ってた。“こりゃ医者いらずの飯だ”ってよ」


 町の片隅に生まれた“異国の味”は、じわりと人々の心と胃袋を掴みつつあった。

「――ごちそうさまでしたっ!」


 鍋の中のカレー風“汁”が底を尽きた頃、藩の台所裏には、炊き出しに訪れた足軽たちが何度も頭を下げていく。木の茶碗を返す手がどれも温かく、晴人はその様子を見守りながら、そっとため息をついた。


 「まさか……ここまで受け入れられるとはな」


 「そりゃあ、うまいんだから当然ですよ!」


 声を張ったのは、皿を洗っていた沖田総司だった。腕まくりをして、袖をまくった若侍が笑顔で水を撒く。珍しく元気な彼の様子に、周囲の町娘たちも笑顔を見せる。


 「晴人さまの飯、また食べたいってさっきも十人くらいが言ってましたよ」


 「ありがたいな。でも……問題はここからだ」


 晴人は、煮炊きの道具が並ぶ台所を見回した。水戸の台所にある食材だけでは、スパイスの調達が限られる。今は薬種屋から少量を買ってきているが、庶民に普及させるには量産が必要だ。


 「……さて、本格的にやるなら“店”を作るべきかもな」


 そのつぶやきに、背後から低い声が響く。


 「“異国亭”、って名がもう出回ってるらしいぞ」


 振り返ると、村田蔵六が腕を組んで立っていた。衣の袖には水しぶきが残っており、先ほど皿洗いを手伝っていたらしい。


 「最初に言い出したのは誰だ?」


 「さあな。町の口ってのは、誰が広めたのか分からんほど早い」


 村田は半眼で笑いながら、そっと板の間に腰を下ろす。


 「にしても……“氷菓”ってやつ、あれは反則だろう。こんな暑さの中で、あの冷たさと甘さは……」


 「病みつきになりそうか?」


 「いや、もう病だな。癖になった」


 晴人は笑いながらも、胸の奥で手応えを感じていた。たかが食べ物、されど“飯”は人の命を支える根幹。飢えを満たし、癒やしを与える異国の知恵は、間違いなくこの国に必要なものだ。


     ※


 翌日、晴人は旧呉服屋の空き家を視察していた。広さは十坪ほど、通りに面した立地で、裏には井戸もある。


 「ここを“異国亭”に?」


 案内していた家主の老人が、少し驚いた顔で問い返した。


 「ここは昔、染物をしていた店でしてな。火を使っても問題ないが……飲食となると町役人の許可が」


 「そこは、藩の炊き出し延長という形で通します」


 「そ、そうでっか……。しかし、まさか武家のお方が飯屋を……」


 「今は武士も、手を汚して生きる時代です」


 晴人のきっぱりとした口調に、老人は目を丸くして頷いた。


 「ならば、ぜひ使ってくだされ。わしも、この土地で育った者です。皆が笑って食える場所になるなら……本望でさあ」


 契約が成立した。


     ※


 数日後、通りに新たな看板が掲げられた。


 《異国亭 食するは民の力なり》


 木彫りの札に、炊き出しで使った鍋や道具が持ち込まれる。厨房には晴人を筆頭に、お滝、沖田、村田が立ち、日替わりで根菜カレーと氷菓が提供される体制が整っていった。


 開店初日――。


 「おお、ここが噂の……」


 「“からいがうまい”飯だってよ」


 「“冷たいあまもん”があるって娘が言ってた」


 町の男たち、女たち、武士崩れの者たちまでが列をなした。


 木椀に盛られた汁かけ飯は、かぐわしく、温かく、どこか心を包み込む味があった。


 子供が最初の一口をためらいながら口に入れた瞬間――ぱっと瞳を見開いて言った。


 「おかあ! これ、すっごく、おいしい!!」


 母親が微笑み、隣の父もそっと笑う。町の空気が、ほんのわずかだが柔らかくなる。


     ※


 その夜、片付けを終えた晴人は、店の板張りに腰を下ろし、余ったカレーを一口すする。


 「……やっぱり、うまいな」


 そうつぶやくと、背後から沖田が器を抱えてやってきた。


 「俺も、もう一杯いいですか?」


 「食いすぎると明日動けなくなるぞ」


 「だいじょぶですって。今日も明日も、全力で働きます!」


 その明るさに、晴人も笑った。


 火の灯る“異国亭”には、人の声が絶えず響いていた。

“異国亭”が開店してから十日余。梅雨明け間もない水戸の街には、連日うだるような暑さが続いていたが、それでも店の前には朝から行列ができるようになっていた。


 「おばあちゃん、今日も“ひやし”あるかな?」


 「あるともさ。早く行かないと売り切れちまうよ」


 炊き出しを通じて評判となった「冷たい甘味」は、いまや町の子どもたちの小さな楽しみとなっていた。木箱に詰められた天然氷と寒天、煮小豆に山葡萄の蜜――それらが混ざり合う爽やかな味わいは、暑さに疲れた心身をほどよく癒してくれる。


 「冷たいのに、腹が冷えすぎない……。まるで薬膳のようだ」


 そう口にしたのは、町医者の田村老人である。


 彼はある日、病後の回復期にあった娘を連れて訪れた。医師の目から見ても、その甘味は“ただの贅沢”ではなく、“滋養”として理にかなったものだと舌を巻いた。


 「甘味をただ“遊び”にせず、食後の体を整える一部にする……まさか、それを水戸の一角でやるとはのう」


 そう評した田村は、自らも藩医として台所方に提言を行い、氷菓に使われる素材の衛生状態や保存法を指導してくれた。


 一方、厨房の裏では、村田蔵六が晴人に向かって呟く。


 「……なあ、この“異国亭”って店、ただの食堂で終わらせるつもりはないだろ?」


 晴人は火加減を見ながら、言葉少なに頷いた。


 「店の評判が広まれば、交易と物流に波が起こる。今は町の薬種屋で仕入れてるスパイスも、いずれは――自分たちで育てるか、仕入れルートを築く必要がある」


 「やっぱりな。もう“ただの飯屋”じゃない。これは……文化を育てる場所になるぞ」


 晴人は静かに笑った。


 「“異国亭”は、食べ物を通して、異なる知恵を受け入れる場だ。こだわりすぎず、けれど侮らず、異なる風を町に通す。そのための旗印だよ」


     ※


 そんなある日の午後――。


 「異国亭に、京の薬問屋から贈り物です」


 町役人の小者が駆け込んできた。荷馬車に積まれていたのは、袋に詰められた乾燥スパイスの束、そして蒸留器の図解と試作機。


 「……これは?」


 「お手紙が添えられております。“水戸の飯に、異国の香りを。あなたの志に共鳴しました”と」


 差出人の名は書かれていなかったが、文面には異国の香草の扱い方や蒸留の心得、香油や薬膳としての応用などが記されていた。


 「こいつはまた……物好きがいたもんだな」


 村田は苦笑したが、晴人の瞳には強い光が宿っていた。


 「誰であれ、見てる人は見てるってことだ。“水戸の片隅で始まった一杯の飯”が、遠く京まで届いた」


 「たかが飯、されど飯。だな」


 「……いや、違うさ。たかが飯じゃない。これは“命と文化”の橋なんだ」


     ※


 夕刻、店を閉めた後――。


 厨房では、晴人が何やら新しい鍋を火にかけていた。香りは今までのカレーとは違い、もっと複雑で、ふくよかだった。


 「……なんですか、これ?」


 お滝が眉をひそめる。


 「煎った小麦粉の代わりに、粟粉と乾燥ひよこ豆を砕いた粉を入れたんだ。これで“ルウ”を作ってみる」


 「また妙なことを……でも、確かに香ばしい香りですな」


 「いつか……もっと米が少ない国でも、野菜さえあればできる料理を作る。それが“戦のあと”に必要なことだと思ってる」


 晴人は、誰に語るでもなくそう言った。


 「国が貧しくとも、胃袋を満たし、心を支える味を……“水戸”という地方から、届けてみたいんだ」


 それはただの夢ではなく、すでに店先で行列を作る民たちが示していた現実だった。


 食は生を支え、文化を育む。


 そして、晴人の挑戦はまだ始まったばかりだった。

藩庁からの正式な許可を得て、“異国亭”は城下に常設されることとなった。名目上は「試食所」、だがその実、晴人が目指す“文化の発信点”として機能し始めていた。


 この日、晴人は米倉の裏に積まれた荷を見下ろしていた。近在の農家から取り寄せた豆類、干し芋、小麦、野草。異国のスパイスに頼らずとも、和の素材だけで“豊かな味”を引き出せるよう工夫を重ねている最中だった。


 「……そろそろ、次の手を打たねばならん」


 独りごちる晴人の隣で、村田蔵六が腕を組んだ。


 「冷菓にしろ、香辛料にしろ、物流が追いつかん。飯だけじゃなく、供給網が要だ」


 「だな。いまの人力中心の運びじゃ、城下を超えて広げられない」


 そのとき、小走りで姿を現したのは、工作好きの若い足軽・貞助だった。


 「晴人さま、例の……アレ、できやしたぜ!」


 晴人の目が輝く。


 「持ってきてくれ」


 貞助が引いてきたのは、一台の木製の台車だった。前方に小さな車輪がひとつ、後方に柄が伸び、両手で押して進める形――それは、現代で言えば「一輪車」のような構造をしていた。


 「どうだい、名付けて“押し車”! 一人でも、百斤は運べやす!」


 車輪には牛革を巻き、地面の凹凸にもある程度は耐えるよう工夫されている。車体も軽く、細い路地でも押しやすそうだった。


 「……これがあれば、飯屋の食材も、氷も、町まで運べるな」


 「はいっ! いま試しに、氷室から氷を運んでみたんですが、汗一つかかずに運べました!」


 貞助の報告に、村田も目を見開いた。


 「これは……軍でも使えるぞ。弾薬、兵糧、傷病者の運搬にも応用できる。……なあ、これを量産できないか?」


 「うん、町の大工組合と話をしてみる。いっそ“押し車組”として発注してもいいな」


 晴人は、すでに次の計画を思い描いていた。


     ※


 夕刻――。


 “異国亭”の厨房では、最後の皿を洗い終えたお滝が、ぐったりと腰を下ろしていた。


 「はあ……今日も大入りですなあ。まさか“香りの汁かけ飯”がこんな人気になるとは」


 「胃が楽になるって評判だしな。夏の暑さにも負けないって話だ」


 晴人は水を飲みながら、店先を眺めていた。灯籠に照らされた暖簾の向こうでは、近所の親子が氷菓を分け合いながら笑っていた。


 そこへふらりと入ってきたのは、町の書生風の青年だった。


 「ここが、例の“異国亭”か……まるで京の茶屋のようだ」


 小声で呟きながら、彼は卓に座る。晴人が自ら盆を運んだ。


 「初めてかい? 今日は野菜の香味汁に、粟ごはん、甘酢漬けの根菜つき。食後に冷菓もあるよ」


 「ふむ……まるで異国の膳立てのようだな。しかし、気取ってなくてよい」


 彼は静かに口をつけた。そして、しばらく無言のまま味わった後、低く、しかし確かな声で言った。


 「……これは、文化の味だな」


 晴人は驚いたように青年を見つめた。


 「武や芸ではなく、“食”で国を動かす者……いや、民の未来を支える者が現れるとは」


 その青年は、懐から名刺代わりの木札を差し出す。


 「名は言わぬが、私は江戸の文人だ。これほどの試み、記録せぬわけにはいかん」


 「……好きにしてくれ。ただ、変わるのはここからだ」


 晴人の視線は、裏手の倉庫へと向けられていた。そこには、試作中の“押し車”がずらりと並んでいた。


 「文化を伝えるには、まず“運ぶ”こと。異国の香りも、氷の甘味も、車輪がなければ広がらない。だから、まずは……動かすんだ」


 その言葉に、青年は深く頷いた。


 「水戸に、風が吹いている。いずれ、江戸も京も、この味を知るだろう」


     ※


 その夜。


 台所の隅に腰掛けていた沖田が、氷菓を口に含みながら呟いた。


 「……まさか、冷たいものがこんなにうまいとはなあ。剣の修行で汗かいた後、これを食ったら極楽ですよ」


 河上は腕を組んだまま、氷菓を見つめていた。


 「剣で守る命もあるが、こうして体を癒す力も、また戦のうちだな」


 そして、村田は静かに、しかし熱を帯びた目で晴人を見た。


 「お前は、本当に……“変える”つもりなんだな、この国を」


 晴人は答えず、ただ火の落ちた鍋を見つめていた。


 ――香りが、明日へと続いていく。

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