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【篤姫と結婚した公務員】水戸藩から始まる幕末逆転録 ~公務員が理と仕組みで日本を救う~  作者: 一条信輝


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431話:(1895年・夏)義親との対話

夏の陽光が、鎌倉の海を白く照らしていた。潮の匂いを含んだ風が、障子の隙間から細く差し込み、畳の上を静かに撫でていく。セミの声が遠くで途切れず鳴いている。季節の音は生命の証であり、同時に、晴人の身に残された時間を静かに刻む拍子でもあった。


 枕元の花瓶には、白い百合が一輪。篤姫が今朝、新しく生けたものだ。香りは薄く、しかし確かに部屋を満たしている。晴人はその香気を吸い込みながら、まぶたを閉じた。


(義信が来て、二週間。久信が来て、一週間……)


 日付の感覚は曖昧になりつつある。それでも、子らの訪問は記憶の中で鮮明だった。義信には「戦を」、久信には「外交」を託した。

 そして今日――最後に会うのは、三男・義親。


 晴人の胸の奥で、言葉にできぬ想いがゆっくりと渦を巻いた。あの少年は、生まれた時から異彩を放っていた。人の会話より早く数字を覚え、歴史書を読むより先に、国家の構造を理解していた。十歳で既に成人のように語り、十五歳には国の欠陥を図面のように整理してみせた。


(義親……お前は、私を超える)


 心の内でつぶやいた瞬間、襖の向こうから衣擦れの音がした。篤姫の静かな声が響く。


「晴人様、義親様がお見えです」


 晴人は、目を開けて小さく頷いた。

「……義親が来たか。通してくれ」


 篤姫は一礼して襖を開ける。その瞬間、庭の光が一筋、室内に流れ込んだ。白い光が畳の縁をまっすぐに照らし、その上を若い影が歩んでくる。


 義親、二十四歳。

 その姿は、まるで硝子を通した光のようだった。細身だが凛とし、無駄のない所作。学者の冷静さと政治家の覇気が同居している。眼差しは深く、どの一点も見逃さない強度を帯びていた。


「父上」


 その声は落ち着いていて、どこか抑制された優しさを含んでいた。

 晴人は、微笑みながら応えた。

「義親……来てくれたか」


 義親は膝を折り、静かに座る。その姿勢の美しさに、晴人の胸の奥がわずかに疼く。


(この落ち着き……二十四にして、すでに宰相の器だ)


「父上、お身体の具合はいかがですか」


 義親の声は、医師のように穏やかで、観察者のように冷静だった。

 晴人は少し笑い、ゆっくり首を横に振る。

「……変わらない。ただ、少しずつ、弱っている」


 言葉に苦味はなかった。死期を悟っている者の静かな受容だった。


「義親、お前は一人で来たのか」


「はい。父上と、二人きりで話がしたくて」


「……そうか」


 晴人は篤姫へ視線を送る。彼女はすでに心得ていたように、一礼して部屋を出ていった。襖が閉じる音が、夏の蝉時雨に溶ける。


 室内には、ふたりだけの呼吸音が残った。

 静寂は、緊張ではなく、尊重の間だった。


 義親は姿勢を崩さず、静かに父を見つめている。まるで、老木の根の奥に流れる時間を感じ取るかのように。晴人はその視線を受け止めながら、胸の奥でひとつ息を吐いた。


(義信は戦の中に理を求めた。久信は交渉の中に真を求めた。

 だが義親――お前は未来そのものを見ている)


 薄い雲が日を覆い、一瞬、部屋の光がやわらぐ。

 海からの風が障子を押し、香り立つ潮の気配が流れ込む。

 義親の髪が少しだけ揺れた。光の中で、その黒が鋭く際立つ。


 晴人は、静かに声を出した。

「義親、お前は……」


 言葉の途中で、胸が詰まる。

 代わりに、微笑みが浮かんだ。


「……いや、いい。話は、これから聞こう」


 義親が深く頷く。

 その動きは若者の勢いではなく、熟考する賢者のようだった。


 海の音が遠くで砕ける。

 晴人の視線は義親の瞳の奥に吸い込まれていった。

 そこには恐れも驕りもない。未来だけを見つめる、純粋な理性の光があった。


(この子に託せば、日本は続く。百年、二百年先まで――)


 そう思った瞬間、胸の奥で小さな痛みが走る。だが晴人は顔に出さなかった。

 ただ、窓の外の青空を見上げ、ゆっくりと目を閉じた。


 風が通り抜ける。

 セミの声が一層強くなり、夏の空気が満ちていく。

 父と子の間に言葉が生まれようとしていた。


 ――義親との対話、その始まりである。

障子越しの陽光が、少し傾いた。

 庭の向こうでは、松の枝がわずかに風に揺れている。セミの声は絶えず続き、その単調な音の中に、時間の流れが見えない糸のように延びていた。


 義親は膝の上で指を組み、父の顔を見つめていた。

 その瞳は湖のように澄んでいて、そこに映るのは老境の父ではなく、ひとつの時代の終わりだった。


「父上、私は――一つ、お聞きしたいことがあります」


 静かな声。だがその言葉は、部屋の空気を変えるほどの重みを持っていた。

 晴人はゆっくりと顔を上げ、息を整える。


「……何だ、義親」


 義親は一拍置き、まっすぐに言った。


「父上、日本は――百年後、どうなっているべきでしょうか」


 その瞬間、外の蝉時雨がふっと遠のいたように感じた。

 晴人の胸の奥が静かに打つ。


「……百年後、だと?」


「はい、父上。」


 義親の声には、迷いがなかった。

 まるで、すでに未来を見てきた者のように、確信に満ちていた。


「父上は、この四十年、日本を強くしてこられました。

 軍事、外交、経済、教育……すべてが発展しました。

 ですが、それらは――手段ではないでしょうか」


 晴人は言葉を失ったまま、義親の次の言葉を待った。


「では――目的は何でしょうか。」


 蝉の声が遠くから戻ってきた。

 ひとつの命が鳴き、もうひとつが応える。

 夏の音が、まるでこの対話を見守っているかのようだった。


「日本は、何のために強くなったのでしょうか。

 そして、百年後の日本は、どうあるべきでしょうか。」


 義親は、声を抑えながらも、内に燃えるものを隠さなかった。

 若さの激情ではない。

 理性の奥底に燃える“使命”の炎だった。


 晴人は、しばらく黙していた。

 瞳を閉じ、指先に力を込める。

 その沈黙の中に、半世紀の歳月が凝縮されていた。


(義信は今を戦う。久信は現実と渡り合う。

 だが、義親は……百年先を問うのか)


 目を開けたとき、晴人の瞳には、かすかに涙が光っていた。


「……義親。良い質問だ。」


 その声には、深い感嘆が滲んでいた。


「お前は、国家の未来を“時間の軸”で捉えている。

 その視点を持つ者は、歴史上でもわずかだ。」


 義親は黙って父の言葉を聞く。

 その姿は、まるで真理の前にひざまずく学徒のようだった。


「日本が強くなったのは――民を守るためだ。」


 晴人の声が、静かに響く。


「もし日本が弱ければ、列強に侵略され、国民が苦しむ。

 だから我らは、鉄を鍛え、艦を造り、外交を結んだ。

 だが――それだけでは、足りぬ。」


「……父上?」


「義親。国が強くとも、民が苦しんでいたら、それは幻の強さだ。

 力は守るためのものであり、支配のためのものではない。」


 晴人は、窓の外の空を見上げた。

 蝉の声の向こう、青空の奥に、百年先の未来を思い描くように。


「百年後の日本は、こうでなければならぬ。」


 その声には、まるで宣言のような力が宿っていた。


「第一に――国民が幸せであること。

 衣食住が満たされ、教育と医療が行き届いていること。

 民が笑える国でなければ、文明とは呼べない。」


 義親は頷き、手元の小さなノートに何かを書き留めた。

 晴人の目がそれをとらえ、かすかに微笑む。


「第二に――平和であること。

 戦がなく、子供が安心して眠れる国であること。

 戦で築いた繁栄など、砂上の楼閣だ。」


 風が障子を揺らし、紙の端が震えた。

 その震えがまるで、過去の犠牲者たちの声のように響く。


「第三に――豊かであること。

 貧困がなく、誰もが自分の力を活かせる社会。

 富が一部に偏らず、民の中に循環していること。

 これが、真の繁栄だ。」


 晴人の声が、徐々に穏やかに変わっていく。

 まるで祈りのように、一つ一つの言葉が大地に刻まれていく。


「義親。日本は、この三つを備えた時――初めて真に独立した国になる。」


 義親は深く息を吐いた。

 胸の内に、父の言葉が静かに染みていく。


「……はい、父上。」


 その声には、若者の情熱と、学者の冷静が共に宿っていた。


 晴人は目を細め、微笑を浮かべた。


「お前なら、わかるだろう。

 “国”とは、法でも軍でもない。

 民の幸福こそが、国家の根であり、支柱だ。」


 義親は、その言葉を胸に刻むように頷いた。

 彼の瞳の奥で、未来の地図が静かに描かれていく。


 蝉の声がまた強くなり、夏の空気が部屋を満たした。

 その音の中で、二人の呼吸がゆるやかに重なる。


 父と子――世紀を越える対話は、ここに始まった。

午後、陽射しは少し和らいでいた。

 庭の松の影が畳の上に細い筋を落とし、風が海の匂いを運ぶ。先ほどまでの蝉の声は遠のき、かわりにひぐらしの声が、時を区切るように鳴いている。


 晴人は、上半身を少し起こし、義親の方へ身を向けた。

 目の前に座る三男は、静かな佇まいの中に、異様な集中を纏っている。

 その瞳は琥珀のように透き通り、しかしどこか冷たい光を帯びていた。


「父上、私は――日本の現状と未来を分析しました」


 義親は言葉を区切るごとに、まるで数式を解くように思考を積み重ねていく。

 その声音は澄んでおり、感情の波を一切感じさせない。


「第一に、軍事です」


 義親は懐から一枚の紙を取り出した。

 そこには細密な数字と、簡潔な地図のような図が並んでいた。


「現在、日本の陸軍は五十万。

 対して、ロシアの極東軍は二十万。

 表面上は我が国が優勢に見えます。

 ですが、シベリア鉄道の完成予定は一九〇三年。

 完成後、ロシアは一年で五十万の兵を極東に送れる。

 五年で二百五十万――日本は到底支えきれません。」


 晴人の眉がわずかに動いた。

 その数字の正確さ、そして先見の冷静さに、息を呑む。


「つまり、日本がロシアと戦うなら――一九〇〇年までに決着をつけねばならない。

 それを越えれば、勝機は消えます。」


 淡々と語る義親の声音に、戦略家の冷酷さが滲む。

 彼の思考は、感情を排除した論理の結晶だった。


「第二に、外交。」


 義親は紙の裏を返した。そこには英国とロシアの国旗を描いた小さな図。


「日英同盟は、共通の敵が存在する間だけ続きます。

 もしロシアが弱体化すれば、英国は日本を牽制に回る。

 なぜなら、英国は常に“大陸の覇権国”を恐れるからです。

 ゆえに、日英同盟の寿命は十五年から二十年――長くはありません。」


 晴人は思わず口を開いた。

「……お前は、外交も読んでいるのか」


 義親は小さく頷いた。


「外交とは、信頼ではなく利害で結ばれるもの。

 感情ではなく均衡です。

 ゆえに、同盟とは“時間制の契約”にすぎません。」


 風が障子を揺らす。

 義親の声だけが、部屋の中に凛と響く。


「第三に、経済。」


 義親の指が紙の上の数字をなぞる。


「現在、日本の国内総生産は四十年前の十倍。年平均成長率は約六パーセント。

 しかし、その繁栄は国民の犠牲の上にあります。

 農民の税負担は収入の四割、工場労働者の労働時間は週七十時間。

 これでは、国は豊かでも民は貧しい。」


 晴人の喉が鳴る。

 思わず胸の内に、過去の改革の記憶が蘇った。

 ――民を苦しませてまで成長を得た国。それが理想であろうか?


 義親の声は続く。


「つまり、日本は成長を続けるために、富の再分配を行わねばなりません。

 富裕層に累進課税を課し、その税収を教育と医療に回す。

 これにより、税負担率を四十から三十パーセントに下げ、

 労働時間を七十から六十時間に短縮できます。」


 晴人は、まるで未来を予言する預言者の声を聞くように感じた。


「第四に、人口です。」


 義親は再び紙を取り替える。

 そこには地図が描かれ、満州に赤い印が打たれていた。


「現在、日本の人口は約四千五百万人。

 この増加率では、五十年後には八千万を超えます。

 しかし日本列島の耕地面積では、全員を養うことは不可能です。

 ゆえに、日本は新たな大地を必要とします。

 その答えが――満州です。」


 義親の指が地図をなぞる。

 赤線が鉄道のように、北から南へ伸びていく。


「満州の耕地は、日本の三倍。

 ここを開発すれば、百年後、日本は一億人を養える。

 日本人五百万を移住させ、農地を開墾し、鉄道を敷く。

 それが、国民を飢えから救う唯一の道です。」


 晴人の手がわずかに震えた。

 それは驚きではなく、畏れに近い感情だった。


(この子は……未来を見ている。いや、未来を計算しているのだ)


 義親の言葉は止まらない。


「第五に、技術です。

 日本は今、欧米の技術を導入し、真似て成長しています。

 ですが、それは“借り物の文明”です。

 本当の文明とは、自ら創造すること。

 ゆえに――基礎研究を育てねばなりません。

 東京帝国大学を拡張し、京都・大阪・名古屋に新たな帝国大学を設立。

 十年で研究者を三倍に増やします。」


 義親の筆が止まる。

 紙の上には、軍事・外交・経済・人口・技術の五分野が整然と並んでいた。

 それは、国家の解剖図そのものだった。


「父上、これが私の分析です。」


 その声には、満足でも誇りでもなく、ただ静かな確信だけがあった。


 晴人は深く息を吸い込み、ゆっくりと吐いた。

「……義親、お前は、すべてを見ている。」


 義親は淡く微笑む。


「はい。軍事、外交、経済、人口、技術――それぞれが独立していては意味がありません。

 これらは互いに影響し合う、一本の樹の枝です。

 全体を統合して見なければ、国家は成長できません。」


 陽が再び傾き、部屋に金色の光が差し込んだ。

 義親の横顔が、その光の中に浮かび上がる。

 若き知性の輪郭は、まるで未来を象る彫像のように美しかった。


(……義親。これがIQ二〇〇の頭脳というものか)


 晴人の胸の奥で、言葉にならない感情が膨らむ。

 誇り、安堵、そして――少しの寂しさ。


(お前は、私を超えた)


 そう呟いた時、蜩の声がまたひとつ鳴いた。

 その声は、父から子へと時を告げる鐘の音のように、夕暮れの空へ消えていった。

夕陽が西の海へ傾き始めていた。

 障子の隙間から差し込む橙色の光が、畳をゆっくりと染めていく。

 海鳴りが遠くで響き、波の音が一瞬ごとに近づいたり、離れたりする。

 夏の終わりを告げる風が、庭の竹を揺らした。


 晴人は、半身を起こしたまま、義親の顔を見つめていた。

 その瞳には、疲労の色と同時に、満ち足りた静けさがあった。


「義親――お前が、私の後を継ぐ。」


 その言葉は、風の音に溶けるほど静かだったが、

 確かな決意を帯びていた。


 義親の背が、わずかに動いた。

「……父上、それは――」


「義親。お前は、天が与えた知を持っている。」

 晴人の声は、穏やかでありながらも、どこか神聖な響きを持っていた。


「IQ二〇〇――それが何を意味するか、私はわかっている。

 十一歳でハーバードを卒業できた頭脳。

 だが、お前は日本に残った。

 日本のために、この国のために働くことを選んだ。」


 義親は目を伏せ、唇をわずかに噛んだ。

 褒められることには慣れていても、“託される”ことには慣れていない。

 その沈黙の中に、若き責任感の震えがあった。


「父上……」


「ありがとう、義親。」


 晴人の声が、かすかに震えた。

 義親は顔を上げ、その目に父の光を見る。


「お前は、軍事、外交、経済、人口、技術――

 すべてを理解している。そして、それらを統合して考えられる。」


 晴人は、手を伸ばそうとした。

 だが力が入らず、指先が空を掴むだけだった。

 それでも、言葉は止まらなかった。


「義信は戦の才を持ち、久信は外交の才を持つ。

 だが――義親、お前は“全体を見る力”を持っている。」


 夕陽がさらに傾く。

 義親の横顔が黄金色に照らされ、まるで未来の象徴のようだった。


「お前は、私を超えている。

 そして――この国を導く資格を持っている。」


「……父上。」


 義親の喉が小さく震えた。

「しかし、義信兄上も、久信兄上も――私より年上です。

 私が……彼らを束ねるなど、恐れ多い。」


 晴人は微笑んだ。

「義信は軍人として戦場を望み、久信は外交官として世界を望む。

 彼らは政治を望まぬ。だが、お前は違う。

 お前は“国そのもの”を見ている。」


 晴人の声が低く、確信に満ちていた。


「だから、お前が束ねるのだ。

 義信、久信、そしてお前――三人が揃えば、日本は必ず守られる。」


 義親は静かに頷いた。

 その頷きの中には、覚悟が宿っていた。


 晴人は、力を振り絞り、上体をさらに起こした。

 義親が慌てて支えようと手を伸ばす。


「父上! お身体が――」


「構わぬ。」


 晴人は息を整え、震える手を義親の前に差し出した。

 そして、そのまま、ゆっくりと頭を下げた。


 義親の息が止まる。

「父上……な、なりません!」


「義親――頼む。」


 その声は、老いた肉体の限界を超えた、魂の言葉だった。


「日本を、頼む。

 国民を、頼む。

 お前なら……できる。」


 その言葉と共に、晴人の肩が小さく震えた。

 義親は慌てて両手で父の肩を支え、涙をこらえた。


「父上……どうか、頭をお上げください!」


「いや……これは、感謝だ。

 そして、祈りだ。」


 晴人は、かすかな笑みを浮かべながら、言葉を続けた。


「私は四十年、この国を導いてきた。

 だが、私は万能ではなかった。

 常に孤独で、全てを一人で考えねばならなかった。」


 その目が、優しく義親を見つめた。


「だが、お前なら違う。

 お前には兄がいる。仲間がいる。

 そして、国を思う心がある。」


 晴人はゆっくりと手を握った。

 指先が震え、骨ばったその手に、生命の火が微かに宿っていた。


「義親、最後に――伝えたいことがある。」


 義親が姿勢を正す。

「はい、父上。」


 晴人は静かに微笑んだ。


「民を、大切にせよ。」


 言葉が落ちるたび、蝉の声が一瞬止まり、また鳴き始める。


「軍も、外交も、経済も、すべて民の上に成り立つ。

 民が幸せでなければ、国は強くならぬ。」


「……はい。」


「義親。お前は百年後の未来を見ている。

 だが、忘れるな。

 今を生きる国民も、同じように大切だ。」


 晴人の瞳に、涙が光った。


「未来は、今の延長にある。

 今を救わぬ者に、未来は作れぬ。」


 義親の唇が震えた。

 その胸の奥で、父の言葉が刃のように刻まれていく。


「……父上。

 民を大切にします。

 そして未来を見ます。

 今を生きる国民を幸せにし、百年後の日本を築きます。」


 晴人は満足そうに頷いた。

 その表情には、安堵と誇りとが同時に浮かんでいた。


「……ありがとう、義親。」


 外では、夕陽が海の水平線に沈もうとしていた。

 空は金から茜へ、茜から紫へと変わり、世界は一瞬だけ静まり返る。


「もう行け。東京でやるべきことがある。」


「はい、父上。」


 義親は深く一礼し、立ち上がる。

 襖が静かに開く。光が差し込み、彼の背を黄金色に染めた。


 晴人は、その背中を見つめながら、かすかに微笑んだ。


(――義親。お前は、私を超えた。)


 襖が閉まる音。

 部屋の中には、潮風と蝉の声、そして、沈みゆく光だけが残った。


 晴人は窓の方を向き、海を見つめた。

 波がゆっくりと寄せては返し、水平線の向こうに太陽の残光が揺れている。


(義信、久信、義親……お前たち三人なら、日本を導ける。

 私はもう、安心して逝ける。)


 頬を伝う一筋の涙。

 それは、敗北の涙ではなく、長き戦いの果てに得た安息の証だった。


 晴人は、ゆっくりと目を閉じた。

 部屋に、波の音だけが残る。

 風が障子を揺らし、その隙間から、最後の陽光が彼の頬を優しく照らしていた。

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