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【篤姫と結婚した公務員】水戸藩から始まる幕末逆転録 ~公務員が理と仕組みで日本を救う~  作者: 一条信輝


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427話:(1895年・初夏)鎌倉への旅立ち

朝の光が、薄く障子の縁を染めていた。

 庭の楠が風にざわめき、遠くで鶯が一声鳴いた。初夏の匂いが、静まり返った官邸の一室に満ちている。


 病床の晴人は、上体を起こすのもやっとの状態だった。白い枕の上に乗せられた手は痩せ、皮膚の下を通る血管が浮かび上がっている。胸の呼吸は浅く、時折、痛みに耐えるように眉を寄せた。


 その傍らには、篤姫ときちが控えている。篤姫は氷嚢を替えながらも、手の震えを隠せなかった。きちは袖口を握りしめ、唇を噛んで俯いている。


 襖が静かに開き、三兄弟が入ってきた。

 義信、久信、義親。

 それぞれ軍服と背広を着込み、靴音を忍ばせながら父の寝室へ進む。


 晴人は、ゆっくりとまぶたを上げた。

 「……義信、久信、義親」

 声はかすれていたが、その響きには、まだかつての威厳が残っていた。


 三人は床に膝をつき、深く頭を下げる。

 晴人はしばし黙したのち、淡く笑みを浮かべた。

 「昨夜、心臓の発作を起こした。……医者は言った。次が来れば、もはや助からぬだろうと」


 篤姫が一瞬顔を歪めたが、晴人は手を上げて制した。

 「だから、私は決めた。——総理を辞任し、鎌倉に行く」


 その言葉に、空気が凍りついた。

 義信が身を乗り出す。「父上……」

 「三国干渉を撤回させ、遼東半島を守った。私の役目は終わった。残るは静かに潮の音を聞くことだけだ」


 久信が唇を噛んだ。

 「父上、私たちも……鎌倉へお供します」

 晴人は首を横に振る。

 「いや、お前たちは東京に残れ。お前たちには、まだ果たすべき務めがある」


 窓の外で、庭の松が風に揺れた。

 その音を聞きながら、晴人は一人ずつ名を呼んだ。


 「義信」

 「はい、父上」

 「お前は旅順の戦いで兵を率い、幾多の苦難を越えて勝利した。勇にして慎みを知る、お前のような軍人はそうはいない。これからも日本の陸軍を支えてくれ」

 「……はい」

 義信の瞳には光が宿り、その拳が微かに震えていた。


 晴人は続けて、久信へ目を向けた。

 「久信、お前は下関で李鴻章と交渉し、三国干渉を退けた。お前の胆力と理性が、日本の未来を守った。これからも外交を頼む」

 久信は唇を結び、深く頭を下げた。「はい、父上」


 そして、末の義親に目を向ける。

 「義親、お前は内務官僚として国を整えてきた。誰よりも誠実で、民に寄り添う。そのままであれ。——お前のような者が、国を支える柱となる」

 「……ありがとうございます、父上」

 若い義親の声が震え、涙が頬を伝った。


 晴人は三人を見渡した。

 「義信、久信、義親……。お前たち三人は、私の誇りだ。お前たちなら、この国を導ける」


 しばしの沈黙が訪れた。

 篤姫が目を拭い、きちは嗚咽をこらえながら口元を押さえた。

 障子の隙間から、春の名残を残す柔らかな風が流れ込み、掛け布の端を揺らした。


 晴人はゆっくりと目を閉じ、言葉を継いだ。

 「私は、お前たちを信じている。……そして、この国を信じている」

 「はい、父上!」

 三人の声が重なり、室内に響いた。


 その瞬間、晴人の頬をひとすじの涙が伝った。

 それは、悲しみではなく、安堵の涙だった。


 「ありがとう。——これで、心残りはない」


 晴人は再び横たわり、薄い息を吐いた。

 外では、初夏の陽光が庭の砂を照らし、白く眩しい光が揺れていた。

 それはまるで、彼の長き旅路を静かに照らす、最初の“鎌倉への光”のようだった。

午後の陽が、首相官邸の白壁を淡く染めていた。

 長い会議室の中央には、漆塗りの長机が据えられ、閣僚たちが静かに座している。窓の外からは庭の楓が風に揺れ、薄い影を障子に映していた。


 その扉がゆっくりと開き、車椅子に乗った晴人が姿を現した。

 かつて演説で国を動かした男の姿は、今や細く、儚げだった。だが、その瞳だけは、今なお光を失っていなかった。


 「……総理」

 大久保が立ち上がり、一歩前に出ようとしたが、晴人は手を上げて制した。

 「座れ。今日は、ひとつ話をするために来た」


 会議室に、静寂が降りた。

 晴人はゆっくりと呼吸を整え、声を絞り出すように言葉を発した。


 「——諸君、私は本日をもって総理大臣を辞任する」


 一瞬、誰も言葉を発せなかった。時計の針が一度、乾いた音を立てた。

 児玉が身を乗り出す。「総理……なぜ今——」


 晴人は淡い笑みを浮かべた。

 「三国干渉を撤回させ、遼東半島を守った。私の務めは終わったのだ。これ以上、己の身体を国の上に置くことはできぬ」


 声には疲労がにじんでいたが、その響きは不思議なほど穏やかだった。

 「この四十年、私はこの国を導くことに命を懸けてきた。飢饉も疫病も、戦も外交も——すべてはこの日のためだった」


 陸奥が眼鏡を外し、静かに頷く。

 「総理、しかし、あなたを失えば国は——」

 「国はもう、自ら歩ける。お前たちが育てた官僚、技師、教師、兵士——皆が立っている。私ひとりの国ではない」


 晴人の視線が順に閣僚たちをめぐった。

 「大久保」

 呼ばれた名に、若き参謀が背筋を伸ばす。

 「お前は、私の右腕だった。誰よりも現実を見て、民を思った。これからは、お前が舵を取れ」


 「……総理、私が、ですか」

 「そうだ。後任は、お前に任せたい。私には、もう次を見守る力しか残っていない」


 大久保は拳を握りしめ、深く頭を下げた。

 「お任せください。命に代えても、この国を守ります」


 晴人は小さく笑みを浮かべた。

 「陸奥、お前の外交は見事だった。——日本がここまで辿り着けたのは、お前の理と忍耐の賜物だ」

 「恐縮です」

 「児玉、西郷……お前たちの手があったからこそ、軍は近代を知った。刀を捨て、鉄と理で戦う軍を築いた」


 室内の空気が震えた。

 誰もが口を閉ざし、ただその言葉を胸に刻んでいた。


 「諸君」

 晴人は静かに息を吸った。

 「ありがとう。……私の四十年は、諸君の四十年でもあった」


 言葉が終わると同時に、机の上の書類が風に揺れた。

 誰かが嗚咽を漏らしたが、晴人はそれを聞き流すように目を閉じた。


 「この国は、もはや誰にも脅かされぬ。剣ではなく理と法で、列強と並ぶ国となった。それで、十分だ」


 会議室の全員が立ち上がり、一斉に頭を下げた。

 「——総理、ありがとうございました!」


 その声は、官邸の廊下を震わせるほどに響いた。


 晴人はその音を背に、静かに車椅子を回した。

 廊下に出ると、外の光が眩しかった。

 白砂の庭に、季節遅れの桜の花びらが一枚だけ落ちている。晴人はそれを見つめ、心の中で呟いた。


 ——終わったのだな。


 *


 翌朝。

 藤村邸の書斎には、朝の光が差し込んでいた。

 医師が聴診器をあてる音だけが、静かな空間に響いている。


 「総理……」

 医師は顔を上げ、言葉を選びながら口を開いた。

 「率直に申し上げます。——心臓は、もう限界です」


 篤姫が顔を歪めた。

 医師は続ける。

 「東京に留まっても、鎌倉に行っても、長くはありません。……しかし、私は鎌倉をお勧めします」


 「なぜだ」

 晴人の声は弱々しかった。


 医師は静かに微笑んだ。

 「鎌倉の海は、心を癒します。波の音、潮の香り、そして夕日の光——それらは、総理の心を穏やかにしてくれるでしょう」

 「……海、か」

 晴人の目がわずかに潤んだ。


 「東京は喧騒が多く、ストレスも強い。鎌倉なら静かで、自然の中にいられます。総理のような方には、静かな時間が必要です」


 しばらくの沈黙。

 窓の外では、ツツジの花が朝露に濡れていた。

 晴人はゆっくりと頷く。

 「医者……ありがとう。——鎌倉に行こう」


 医師は一礼し、篤姫ときちに指示を出した。

 「出立は早いほうがよろしいでしょう。……明日にも」


 晴人は小さく笑みを浮かべた。

 「ならば、明日だ。……海を見に行こう」


 その声には、奇妙な静けさと、どこか少年のような明るさが混じっていた。

五月二十九日、朝の新橋駅には、すでに黒山の人だかりができていた。

 駅舎の屋根には朝の光が斜めに差し込み、鉄路を照らして銀色に光らせている。蒸気機関車の煙がゆるやかにたなびき、人々のざわめきと汽笛の音が、まるで一つの楽章のように重なっていた。


 構内の中央には、車椅子に座る晴人の姿があった。

 その周囲を、義信・久信・義親の三兄弟、大久保、陸奥、児玉、西郷ら閣僚たちが取り囲んでいる。

 晴人は黒の羽織をまとい、胸元に白い花を一輪挿していた。顔色は蒼白く、呼吸は浅い。それでも、その眼差しには確かな意志の光が宿っていた。


 「総理……」

 義信がそっと声をかけた。

 晴人は微笑を浮かべ、頷いた。

 「行こう。……これが、私の最後の旅だ」


 その声は穏やかで、どこか懐かしさを含んでいた。


 汽車の停まるホームには、すでに数百人の市民が集まっていた。

 「藤村総理……!」

 「四十年間、ありがとうございました!」

 叫ぶ声が次々とあがり、涙を拭う者の姿も多かった。老若男女が入り混じり、誰もがその小さな車椅子の人物に向かって深々と頭を下げていた。


 晴人は目を細め、彼らの顔を一人ひとり見るように視線を巡らせた。

 (この国の顔だ……)

 子どもの笑顔、農夫の手、兵士のまなざし、女学生の瞳。

 すべてが彼の築いてきた「日本」という名の風景そのものだった。


 「……ありがとう」

 晴人はかすかに呟き、車椅子の肘掛けに手をかけて立ち上がろうとした。

 だが、足が震え、力が入らない。

 「っ……」

 肩が大きく揺れ、息が詰まる。


 「父上!」

 義信が駆け寄り、彼の体を支えた。

 晴人は義信の肩に手を置き、震える声で言った。

 「……立たねばならぬ。民に、最後の挨拶をせねば」


 義信が支える腕に力を込める。

 晴人は、ゆっくりと足を踏み出した。

 わずか数歩の距離が、遥か千里にも感じられた。

 それでも、彼は立った。


 その瞬間、ホームにどよめきが起きた。


 晴人は義信の支えを受けながら、まっすぐに群衆を見つめた。

 「諸君……」

 その声は弱く、しかし確かに響いた。

 「四十年間……ありがとう」


 風が吹き抜け、彼の羽織を揺らした。

 「私は、日本を愛していた。日本を強くしたいと願ってきた。……そして、いま、その願いは果たされた」

 頬に一筋の汗が流れ、光を反射した。

 「三国干渉を退け、日本は大国となった。これは私ひとりの力ではない。諸君——この国のすべての民の力だ」


 その言葉に、人々の嗚咽が広がった。

 「総理! ありがとう!」

 「ばんざい!」

 「日本ばんざい!」


 泣きながら手を振る者、子どもを抱き上げる母親、帽子を掲げて叫ぶ青年。

 その光景は、まるで春の嵐のように激しく、美しかった。


 晴人の胸が波打つ。呼吸が荒くなり、視界が揺れた。

 それでも彼は、笑った。

 「……ありがとう」


 言葉と同時に、力尽きたように膝が折れ、再び車椅子に身を預ける。

 義信が支え、久信と義親が駆け寄った。

 「父上……!」

 「大丈夫だ、心配するな」

 晴人は小さく頷き、手を上げて群衆に向けて振った。


 その手の動きは、静かで、優しかった。


 駅員が汽笛を鳴らす。

 「出発、いたします!」


 汽車の車輪が、ゆっくりと動き出した。

 蒸気が白く上がり、群衆がいっせいに手を振る。

 「藤村総理——ありがとう!」

 「ばんざい!」

 その声が次第に遠ざかる。


 車内の窓際で、晴人は最後の力を振り絞り、手を振り返した。

 その手の指先は震えていたが、その表情は穏やかだった。


 列車が速度を増す。

 市民たちは線路沿いを走り、必死に追いかける。

 やがて追いつけなくなり、足を止めた彼らが、ただ手を高く掲げ続けた。


 晴人は、その小さくなっていく人影を見つめながら、胸の奥で呟いた。

 「……さようなら、みんな」


 風が車窓を叩き、光が揺れた。

 涙が一筋、頬を伝い、手の甲に落ちた。


 外の景色がゆっくりと流れていく。

 町の屋根、川の橋、遠くの山並み。

 そのすべてが、彼の生きた四十年を映していた。


 「——ありがとう、日本」


 その言葉は、汽笛の音にかき消されながらも、確かに彼の胸の内に刻まれた。

 やがて列車は、新橋を離れ、南へと走り出す。

 晴人の旅路は、静かに、そして確かに鎌倉へ向かって始まっていた。

夕陽が地平へと沈みかけていた。

 馬車の車輪が土の道をきしませながら、ゆるやかに進む。横浜を過ぎ、海沿いの街道に出ると、潮の匂いがふいに風とともに押し寄せた。


 車内で晴人は薄く目を開けた。

 窓の外には、黄金色の光に染まる相模湾が広がっている。波が岩に砕け、白い飛沫をあげていた。

 「……海だ」

 その声はかすれ、だが確かに嬉しそうだった。


 久信がそっと父の肩に布をかける。

 「冷えます。もうすぐ鎌倉です」

 「そうか……」

 晴人は小さく頷き、再び視線を外へ戻した。


 沈みゆく太陽が海に道をつくっている。

 その光は、まるで彼の歩んできた四十年を象徴するように、長く、静かに延びていた。


 「……美しい」

 彼の唇がかすかに動く。

 「海は、時を超えて同じだ。人が争おうと、国が変わろうと……波はただ寄せては返す」


 馬車はやがて由比ヶ浜の町へと入った。

 道の両側には、鎌倉の人々がずらりと並び、深々と頭を下げている。

 中には農夫の姿もあれば、僧や子どもたちの姿もある。

 「藤村公だ……」

 「東京からお越しになったのか……」

 その囁きが、静かな夕暮れに溶けていった。


 晴人はゆっくりと窓を開け、片手を上げた。

 「ありがとう……」

 それはかすかな動きだったが、通りの人々の胸を打った。

 誰もが声を出さず、ただその姿を見送った。


 やがて馬車は、海に面した別荘の前で止まった。

 木造の平屋、広い庭には桜の木が一本。

 潮風に枝が揺れ、若葉の匂いを運んでいた。


 晴人は車椅子に移され、静かに敷居を越えた。

 「……ここが、鎌倉か」

 篤姫がそっと彼の背を支える。

 「はい、あなた。ここでゆっくりお休みになってください」


 部屋の奥、障子を開け放てば、すぐそこに海が見える。

 夜の帳が降りはじめ、波間に月の光が落ちていた。


 「いい音だ……」

 晴人は耳を澄ませた。

 波の寄せる音、松林のざわめき、遠くで聞こえる風鈴の涼やかな音。

 それらすべてが、一つの静かな調べのように心を包んだ。


 篤姫が枕元の灯を灯す。

 「東京の灯より、こちらの方が穏やかですね」

 晴人は頷いた。

 「東京は、いつも喧騒に満ちていた。……ここには、静けさがある」


 彼はゆっくりと目を閉じた。

 「二十年前、私はよく海を見に行った。仕事に疲れた夜、波を見ながら心を落ち着けたものだ」

 「……」

 「そして今、また海を見ている。……それだけで、十分だ」


 篤姫は涙を拭った。

 「あなたは、ずっと走り続けてこられました。どうか今は、止まってくださいませ」

 「止まる……か」

 晴人はかすかに笑みを浮かべた。

 「人は、止まるために生きているのかもしれんな」


 波の音が、ふいに強くなった。

 夜風が障子を揺らし、蝋燭の炎がひととき震えた。

 彼はその光を見つめ、低く呟いた。

 「……ありがとう、この世界」


 *


 夜が明ける。

 鳥のさえずりとともに、薄い光が部屋に差し込んだ。

 潮の香りが空気に満ち、遠くで鐘の音が聞こえる。


 晴人は目を開けた。

 海が金色に輝いていた。

 波が朝日を反射し、無数の光の粒が跳ねる。


 「……鎌倉の朝か」

 彼の声はほとんど囁きのようだったが、その瞳には生の輝きがあった。

 「静かだ。……いい朝だ」


 篤姫が障子を開け、潮風を通した。

 カーテンのように白い障子が揺れ、光が畳の上に踊った。


 晴人は目を細め、微笑んだ。

 「ここで、静かに過ごそう。……海を見ながら、過去を思い出しながら」

 「はい」

 篤姫が頷く。


 「そして、いつか眠るように逝こう」

 彼はゆっくりと天井を見上げ、深く息を吸い込んだ。潮の香りが胸に満ちる。


 「この国は、もう大丈夫だ。お前たちがいる。……それで十分だ」


 波が再び打ち寄せ、引いていく。

 その音は、祈りのようでもあり、子守唄のようでもあった。


 彼は目を閉じ、薄く笑った。

 「——ありがとう、海よ」


 その穏やかな笑みのまま、藤村晴人の鎌倉での新しい朝が始まった。

 命の炎はなお静かに燃え続け、その光は、やがて夜明けの海とひとつになっていった。

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