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41話:赤土の命、菌が灯す光

梅雨の名残が色濃く漂う水戸の野山。じっとりと湿り気を含んだ空気の中、一人の男が膝をつき、地面に手を伸ばしていた。


 「……やっぱり、この赤土、ただの土じゃないな」


 晴人は指先で土塊を崩し、鼻先に近づけた。湿土のにおいに交じって、どこか薬草めいた、しかし植物とは違う芳香がある。目を細めた彼は、どこか懐かしげに呟いた。


 放線菌――自然界に潜む、命を救う“菌”。


 それはかつて、大学の実験室で嗅いだ香り。命を蝕む菌を逆に“殺す菌”、自然がもたらすもう一つの戦いのかたち。


 「鉄で国を変えるって言うなら、俺は……土から“命を救う”力を引き出してやる」


 独りごちるその背後、藪をかき分けるようにして現れた影が一つ。鋭い眼光を持った壮年の男――村田蔵六だった。


 「また土いじりか、晴人。お前は百姓にでもなる気か?」


 「医者も百姓も、命と向き合ってるって意味じゃ一緒さ」


 二人は笑ったが、その視線は土の上で真剣そのものだった。


 村田も膝をつき、晴人が手にした赤土を手のひらで転がすように眺める。


 「……確かに妙だな、この香り。“生きてる”ような気がする」


 「培養してみたい。大豆煮汁、米ぬか、そして寒天で培地を作って、こいつを育てる」


 「火鉢室なら温度も安定してるな。ただし火だけは絶対に入れるなよ。全部無駄になる」


 「分かってる。菌は火に弱い。俺たちが育てようとしてるのは、剣じゃない。もっと脆くて繊細な“希望”なんだ」


 そう言って、晴人は立ち上がり、赤土を陶器の鉢に詰めた。


 その日のうちに簡易の培養設備が整えられた。火鉢室の奥に和紙と竹、陶器と藁灰で工夫された“培養棚”が作られ、赤土は薄く濾され、煮沸した培地に塗布された。


 三日後――。


 薄暗い火鉢室にて、晴人は再び村田と並び、陶器鉢の中を覗き込んだ。


 「……見てくれ、これが命の糸だ」


 そこには、白い綿毛のような菌糸が静かに広がっていた。赤土から芽吹いた、美しくも力強い自然の奇跡だった。


 「放線菌……見た目も臭いも間違いない。薬効のある菌のはずだ」


 「で、これが……本当に薬になるのか?」


 「いや、“する”んだよ。俺たちの手で」


 晴人は記録帳に手早く観察を記し、次なる段階――分離と精製の方法を検討していた。


 滅菌器も遠心分離器もない時代。使えるのは蒸留甕、和紙の濾過、藁灰による消毒。それでも、晴人の頭は確信に満ちていた。


 「この菌は、百の剣より多くの命を救う……そう信じてる」


 村田は一瞬言葉を失い、やがて小さくうなずいた。


 「剣なら折れるが、菌は生かし続けられる限り働く……確かにな。お前らしい理屈だ」


 その夜――。


 晴人のもとに、女中の一人が息せき切って駆け込んでくる。


 「晴人さま……遊女町の“ほたる”様が倒れました。高熱が三日も続いていて……薬草も、お祈りも効きません」


 「……ほたる?」


 その名に、記憶が甦る。かつて扇子の修理を頼まれた、若く無邪気な遊女――白い歯で笑い、無垢な瞳で「また会いたい」と微笑んだあの娘の顔が脳裏をよぎった。


 「……菌を試す」


 「待て、晴人。まだ安全性も確かじゃない。菌が害になる可能性もある」


 村田が制するように声を上げたが、晴人は静かに首を振った。


 「……あの子には“時間”がない。今を逃したら、手遅れになる」


 村田は黙り込んだ。そして、しばらくの沈黙の後、静かに口を開いた。


 「……分かった。手を貸す。ただし、使うのは最も穏やかな株だけにしろ。なるべく自然に近い形で、体に馴染むように」


 「ありがとう。もし何かあっても、責任は俺が取る」


 晴人は菌の培養器から、慎重に分離した液体を濾過し、自然蒸留した清水と混ぜ、陶製の小瓶に詰めた。


 そして、暗がりの中、遊女町へと静かに歩を進めた――命を救うために。

薄明かりの灯る遊女町の一角。陽が沈んだ後の路地は静まり返り、時折聞こえるのは風鈴の音と、遠くで咳き込む誰かの声だけだった。


 晴人は風呂敷にくるんだ陶瓶を抱え、足音を忍ばせるように長屋の裏口に回った。病の噂を聞きつけた者たちが近づかぬよう、表の通りはすでに戸が閉められ、灯も落とされている。


 「……失礼します」


 板戸をそっと開けると、そこには線香の香りと、湿った布の匂いが満ちていた。


 「お兄さん……来てくれたんだね……」


 か細い声に導かれるように、晴人は部屋の奥へと進む。


 敷かれた布団の上で、汗に濡れた髪を額に張りつかせた少女――ほたるが、ぐったりと横たわっていた。顔色は青白く、唇には血の気がない。目はかろうじて開いていたが、焦点は定まっておらず、夢と現の狭間を彷徨っているようだった。


 「来たぞ、ほたる。……遅くなってすまない」


 晴人はそう呟きながら、付き添っていた女将に視線を向けた。


 「熱は……?」


 「三日前から下がらず、いまは四十度を超えております。脈も弱く、意識も……」


 女将の声は震えていた。


 晴人は静かに頷くと、風呂敷から瓶を取り出し、手早く蓋を外した。中にはわずかに白濁した液体――赤土から育てられた放線菌の培養液。


 「まず、これを少量。口に含ませてみてくれ」


 村田の助言通り、最も穏やかな株から抽出した液である。危険性は低いはずだが、それでも確証はない。それでも――命を救える可能性があるなら、晴人は迷わなかった。


 女将がそっと匙を使ってほたるの唇に触れさせる。微かに顔がしかめられ、彼女の喉が小さく動いた。


 「……飲んだ」


 女将が息をのんだ。


 しばらく、誰も言葉を発さなかった。火鉢のぬるい熱が部屋を包み、時折、ほたるの吐息が小さく漏れるだけだった。


 やがて――


 「……ふぅ……あつい……」


 掠れた声が、布団の中から聞こえた。


 晴人が思わず顔を上げると、ほたるの額に浮かんでいた汗が一滴、こめかみを伝って落ちていた。そして、あれほど熱かった頬の赤みが、ほんのわずかに和らぎ始めていた。


 「……下がり始めてる。熱が……」


 女将が目を見開き、涙をためながら呟いた。


 晴人は、震える指で彼女の脈を測る。まだ弱々しいが、さっきよりもはっきりとした鼓動が、確かに指先に伝わってきた。


 「……効いてる。菌が、炎症を抑えている」


 それは確信に近い感触だった。


 村田と交わした数多の仮説が、今この瞬間に“現実”として目の前の命を救いつつある。晴人の胸には、熱く抑えきれない何かがこみ上げていた。


 「ありがとう、ありがとう……」


 女将が晴人の手を取って、何度も頭を下げる。その背に、ほたるのかすかな寝息が続いていた。


 「――この子の命、助けたのはお前のその瓶じゃない。信じた“覚悟”だ」


 気づけば、背後に村田が立っていた。どこかから密かに様子を見ていたのだろう。決して顔には出さないが、その眼差しには確かな敬意が宿っていた。


 「……これが、俺たちのやるべきことだと思ってる。剣や砲で守る命もあれば、菌で救う命もある」


 晴人はそっと、眠るほたるの髪をなでながら呟いた。


 ――その晩、遊女町では静かな感動が広がった。


 噂は瞬く間に長屋へ、周囲の町屋へと広がり、「藩の若様が、不思議な“赤土の薬”で遊女を救った」と話題になった。迷信や祈祷、呪術に頼るしかなかった時代に、目に見えぬ“微生物”の力が実証されたことは、まさに革命的だった。


 翌朝には、同じように高熱で寝込んでいた年配の下働きの女性にも試薬が使われた。結果は同じ――数時間後には熱が下がり、食事を受け付けるまでに回復した。


 水戸城下の一角で、誰も見たことのない“白い薬”が、命をつなぎ始めていた。


 後に、この赤土由来の抗菌液は「晴人の土」と呼ばれ、藩内の医術の在り方を一変させていくことになる。

翌日、晴人は城内の医療棟に呼び出された。


 通されたのは、藩医たちの集う診療方会の一室。床の間には典薬寮から下賜された薬箪笥が据えられ、壁には薬草の図譜や処方例が丁寧に貼り付けられている。香炉から漂う生薬の匂いが、どこか緊張を誘った。


 「これは、菌を育てた……とな?」


 一番奥に座すのは、老齢の藩医頭・倉橋宗庵。白髪を丹念に結ったその風貌は威厳に満ち、長年、藩の医療を担ってきた人物として知られる。


 その脇には、中堅の薬種方や町医者あがりの者たちが控えていた。彼らは晴人が差し出した陶瓶と、添えられた記録帳を興味深げに眺めている。


 「この“赤土の液”を、あの遊女町の娘に与えたところ……熱が下がったと?」


 「はい。三日前からの高熱で、薬草も効かず、祈祷も虚しく……。しかし液を服用して半刻ほどで、発汗が始まり、脈が落ち着きました」


 晴人の声は冷静だったが、手元の記録を指す指には僅かに力が入っていた。


 「ほう……これは、その培養の工程か。ふむ……米ぬか、大豆煮汁、寒天……これは、まるで豆腐屋の台所だな」


 小笑いを漏らしたのは、中堅の薬種方・杉浦。


 「菌を育てる……とは聞いたことがありませんな。虫下しに糞虫は使いますが、病を治す菌というのは……」


 「虫や草と同じです。自然から得た“力”です。ただ見えにくいだけで、確かに“そこにある”」


 晴人は、あくまで静かに言った。


 宗庵はしばし記録帳に目を通し、ゆっくりと筆を置いた。


 「……これが効いたのは、事実であろう。しかし、なぜ効いたのか、体に何が起こったのか――それを我々は知らぬままだ」


 「承知しております」


 「それでも、お前はこれを――薬と呼ぶか?」


 静寂が満ちた。


 晴人は、遊女・ほたるの痩せた指を思い出す。その掌に、熱が戻った瞬間の感触を思い出す。


 「――はい。未完成ですが、命を救いました。ならば“薬”です」


 宗庵の目が細くなった。


 しばらくの間、室内を包むのは火鉢の炭のはぜる音だけだったが、やがて彼は静かに口を開いた。


 「……我々医者にとって最も難しいのは、知らぬものを認めることだ。だが――」


 宗庵は晴人の目をまっすぐに見据えた。


 「お前は、命に賭けた。ならば、我らも一度、己の殻を破らねばなるまい」


 そう言って、彼はうなずいた。


 「試験場を設けよう。城下の薬種倉にある道具も使ってよい。手伝いもつける」


 それを聞いた瞬間、空気が動いた。後ろに控えていた若い薬種方たちが、一斉に顔を見合わせる。


 「……おい、まさか、殿が“あの薬”を許すってのか」


 「城の中で菌を育てるだなんて……」


 中には眉をひそめる者もいたが、倉橋宗庵が首を振った。


 「誤解するな。これは、晴人一人に任せるには惜しい。藩として“学ぶ”のだ。未知を、恐れずにな」


 「――ありがとうございます」


 深々と頭を下げる晴人に、宗庵はふっと笑みを返した。


 「若造に言われて悔しくないわけではないがな……まあ、たまにはこういう“薬種騒ぎ”も悪くない」


 そうしてその日から、水戸藩は“赤土の研究”という前代未聞の事業に踏み出した。


 遊女町で命を救った実例は、徐々に庶民にも伝わり、薬草屋には「赤い土でできた薬をくれ」と問う者まで現れ始めた。


 医療棟の一角には、簡易培養室が作られ、村田蔵六が技術指導にあたる傍ら、町医者たちが手順を学び始めた。


 ある若い薬種方が、晴人に問うた。


 「殿、これはやがて、どんな病にも効くようになるのでしょうか?」


 晴人は少し考えてから答えた。


 「万能薬にはならない。だが、“命を繋ぐ猶予”にはなる。……それが、どれほど多くの人を救えるか」


 その答えに、若者はしばらく黙って頷いた。


 そして、その夜――。


 村田蔵六は晴人のもとを訪ね、蒸し返すように言った。


 「お前、ほんとうに“刀”じゃなくて、“菌”で戦う気か?」


 「戦ってるさ。おれなりに、な」


 月明かりの中で、晴人は遠くに広がる田畑を見つめた。


 「この藩には、まだまだ変わらなきゃいけないものが山ほどある。でも、人を変えるのは“痛み”じゃない。“希望”だと思ってる」


 その言葉に、村田は口元をわずかに緩めた。


 「――道理だ。だから、お前は俺の“主”なんだろうな」


 火鉢の中で、一筋の炭が、静かに赤く光を灯していた。

七日後。


 薬草も神仏も効かぬと諦められていた遊女町の“ほたる”が、起き上がり、笑った。


 「……おにいさん、来てくれたんだ」


 痩せ細った顔に、かすかな赤みが戻っていた。かつて扇子を差し出して「なおしてほしい」と恥ずかしげに頼んできた少女の面影が、そのままそこにあった。


 晴人は、ほたるの手を軽く握った。


 「よく……頑張ったな。熱は、もうないか?」


 「うん……あの赤い薬、すごく苦かったけど、飲んだら……ふわっと、体が軽くなって……」


 彼女の言葉はかすれていたが、確かな命の力がそこにあった。


 付き添っていた年配の女中が、ぽろぽろと涙をこぼしながら、頭を下げた。


 「この子……もうあかんと思っておりました。何をしても熱が下がらず……。それが、あの、お役人さまの“土の薬”で……!」


 「俺じゃない。菌が、救ったんだ」


 晴人はそう言いながらも、胸の奥からこみ上げるものを抑えきれなかった。かつて学んだ知識が、遠い時代の、誰かの命に届いた――それは、想像を超える実感だった。


 帰り道。


 遊郭の裏手、竹垣の影にひとり立っていた村田蔵六が、晴人を待ち受けていた。


 「目の下、真っ赤だぞ。泣いたか?」


 「泣いてないさ。……ちょっと、風が強かっただけだ」


 「そうかい。なら、風を恨むなよ」


 二人は並んで歩いた。


 路地の先、町の小さな薬種屋に、子どもを背負った母親が並んでいた。耳に届いたのは、


 「赤い土の薬、残ってるかね?」


 「今朝、火鉢室でまた育ててるそうだよ。夕刻には――」


 そんなやりとり。


 村田は立ち止まり、ぽつりと漏らした。


 「おい、晴人。もしかしたら、あんたの赤土は……この国を変えるかもしれんぞ」


 晴人は、すぐに答えなかった。


 町の灯が揺れていた。人々の暮らしは貧しく、病に倒れればそれまで、という現実は何も変わっていない。それでも、小さな“希望の種”が芽を出した――その確信だけが、晴人の足を前に進めていた。


 「……鉄は、剣を作る。金は、戦を動かす。でも、“命を救う知識”は、それらより長く、深く、未来に届く」


 「それが、お前の戦か」


 「ああ。俺は、命をつなぐ戦を選んだ」


 その答えに、村田は何も言わず、ただうなずいた。


     ※


 赤土の培養は、水戸藩の中で密やかに、だが着実に広がっていった。


 武士階級だけでなく、町医者や農村の助産婦、修験者たちまでもが火鉢室を見学に訪れ、微生物を“目に見えぬ神仏”として学び始めた。


 晴人の手元には、毎日のように「熱に効いた」「膿が引いた」「子どもが助かった」という報告が寄せられるようになった。


 ある日、町の薬屋・中井屋の老主人が、晴人のもとを訪れた。


 「お役人様……いえ、晴人様。うちでも赤土の“液”を仕込んでおります。まだ恐る恐るですが、先月は三人の病人が快癒いたしました」


 「そうですか。それは……よかったです」


 「それで、ひとつお願いがございます」


 晴人は目を上げた。


 「“赤土薬”に、名を。名札を下げさせてください。これは、晴人様が広めた“民の薬”であると」


 しばし、沈黙が流れた。


 晴人は首を横に振った。


 「俺の名は、いりません。それより、育てた人の名前を記してください」


 「……え?」


 「この菌は、生きています。扱う人の心が、治療の精度を変える。ならば、名を記すのは、育てた人。……それがいちばん、命に向き合う姿だと思うから」


 老主人は、その言葉に目を丸くし、深く頭を下げた。


 「……お見事。やはり、晴人様は“ただの役人”ではござらぬな」


     ※


 後年、晴人が“水戸における民医薬の祖”と呼ばれるようになるきっかけとなったのが、この“赤土菌”の普及であった。


 戦の影が色濃くなる世の中で、彼の研究は「剣ではなく菌で守る民の命」という一筋の灯火として受け止められた。


 村田蔵六はのちに語った。


 ――「あれほど、誇らしい戦はなかった。俺が見た中で、唯一、命を奪わぬ戦だった」


 そして、火鉢室の一隅に残された晴人の書き置きには、こう記されていた。


 > 「鉄は刀を、土は命を育む。どちらが上かではない。どちらも、この国に必要だ」

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