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【篤姫と結婚した公務員】水戸藩から始まる幕末逆転録 ~公務員が理と仕組みで日本を救う~  作者: 一条信輝


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424話:(1895年・春)政府内の議論

東京・霞が関。

 五月の朝は、まだ冷えが残っていた。

 雲間から差し込む光が、官邸の白壁に斜めの線を描き、その淡い影が廊下をゆっくりと移動していく。

 その静けさの奥、閣議室の扉がゆっくりと開かれた。


 藤村晴人――七十一歳。

 白髪を整え、深緑の羽織をきちんと着込んだ彼は、車椅子に身を預けて入室した。

 その顔には長年の疲労が刻まれているが、眼光だけは研ぎ澄まされた刃のように冷たく、強い。


 「――諸君、本日、三国への対応を最終決定する」

 晴人の声が響いた瞬間、部屋の空気が一段重く沈んだ。


 長机には閣僚たちが整然と並ぶ。

 内務大臣・大久保利通、外務大臣・陸奥宗光、陸軍大臣・児玉源太郎、海軍大臣・西郷従道。

 さらに、特別招集として、陸軍大将・藤村義信、外交官・藤村久信――晴人の息子二人が、その両端に座していた。


 午前十時。

 壁掛け時計の振り子が静かに揺れ、針がわずかに鳴る。


 晴人は手元の資料を一瞥し、言葉を続けた。

 「英国地中海艦隊六十隻は、五月十五日に日本近海へ到着する。

  我々は、どう対応すべきか――」


 沈黙が、部屋の隅々まで張りついた。

 誰もが息を呑み、椅子の軋む音さえ許されぬような静寂が訪れる。


 晴人はゆっくりと視線を上げた。

 「まず、強硬派の意見を聞きたい」


 その瞬間、児玉源太郎が椅子を押し、立ち上がった。

 「はい、総理。陸軍の立場から申し上げます」


 彼の声は張りがあり、戦場の報告を思わせる硬さを帯びていた。

 「予備役を動員すれば、我が陸軍は五十万。満州・朝鮮には二十八万を展開可能です。

  対するロシアは十万――我が国は数でも質でも優位にあります」


 児玉は手元の地図を指で叩いた。

 そこには、朝鮮半島から遼東にかけての軍展開線が赤線で引かれている。

 「戦えば、勝てます。

  我々が遼東を譲れば、これまでの犠牲――千四百名の兵士たちの命は無に帰します」


 拳が机を打つ音が響いた。

 「この戦で得た血の地を、ただの紙切れ一枚で手放すのですか?

  それこそ、国の威信を自ら折ることになる!」


 隣席の西郷従道が口を開いた。

 「海軍も同意見です。英国艦隊百隻が到着すれば、我が海軍と合わせて百二十隻。

  三国の九十隻を圧倒できます。

  海上封鎖を敷けば、ロシアの補給は途絶えましょう」


 彼の声は低く、しかし確信に満ちていた。

 「この機を逃せば、二度と日本は列強と肩を並べられません。

  戦わずして退けば、世界は我々を侮る」


 晴人は、静かに頷いた。

 次に視線を送ったのは義信だった。

 若き将軍は、父を真っ直ぐに見返した。


 「総理……父上。

  私は旅順攻略戦で指揮を執りました」

 その声に、わずかな震えが混じる。

 「そのとき、私は見ました。ロシア軍の弱点を。

  彼らの補給線はあまりに長く、シベリア鉄道は未完成。

  補給の大半は海路に頼っています」


 義信は手を広げ、机上の地図を示した。

 「もし、我々が英国艦隊と共に海上封鎖を行えば、

  ロシア軍十万は、補給を絶たれ、動けなくなります」


 彼の言葉は冷静で、軍人としての確信が滲む。

 「補給なき軍は、ただの影です。

  我々には、勝つ算段がある」


 しばし沈黙。

 その後、義信はゆっくりと拳を握りしめた。

 「しかし……父上、私はもうひとつ、理由があります」


 晴人の眉がわずかに動く。

 「旅順で倒れた兵たちの魂を、無駄にしたくはありません。

  彼らの血で染まった地を、誰の命令で返すのですか」

 声が震えた。

 「日本の未来は、彼らの犠牲の上にあります。

  遼東を失えば、あの戦は何だったのですか」


 児玉がすかさず続けた。

 「その通りです。

  我々は、勝ち取った果実を守らねばならない。

  もしここで退けば、日本は“勝って負けた国”として記録されるでしょう」


 西郷が頷き、硬い声で言った。

 「我々の艦は、すでに出撃準備を整えています。

  敵の艦影を待つだけです」


 義信の目が父を見据えた。

 その瞳には、信念と、わずかな怒りと、深い悲しみが混ざっていた。

 「父上……私たちは、守るために戦いました。

  今度は、“信じたものを守るため”に戦わせてください」


 晴人はゆっくりと目を閉じ、静かに頷いた。

 室内の空気が熱を帯びる。

 強硬派三人――児玉、西郷、義信。

 それぞれの声が、重なるように響く。


 「戦えば勝てる。今こそ、日本の力を示す時だ」


 その言葉が閣議室の壁に反響し、長い影を残した。

 廊下の外では、衛兵の靴音が遠くで鳴り響いている。

 硝子戸の向こう、庭の若葉がわずかに風に揺れ、春の光が斑に差し込んだ。


 ――だが、晴人の胸の内は静まり返っていた。

 戦うべきか、守るべきか。

 その答えは、まだ口にすべき時ではない。


 彼はただ、沈黙を選んだ。

 老いた指が、机の上でわずかに震える。

 誰にも見せぬ痛みが、胸の奥にあった。


 「……分かった」

 晴人は、短く言った。

 「次に、慎重派の意見を聞こう」


 その声は穏やかだが、明確な重みを帯びていた。

 そして、室内の緊張は再び深まり――

 今度は、別の“理”が語られようとしていた。

閣議室の空気が、わずかに冷えた。

 児玉の力強い声が消えたあと、誰も口を開かない。

 窓の外では、初夏の風が庭の松を揺らし、わずかに葉擦れの音が聞こえていた。


 晴人は、静かに目を閉じた。

 長い沈黙ののち、低く、しかし明確に言葉を落とす。

 「――次に、慎重派の意見を聞こう」


 重い扉が軋むように、空気が動いた。

 大久保利通が、ゆっくりと立ち上がる。

 灰色の髪に光が差し、額の皺が刻まれて見えた。


 「総理……内務の立場から申し上げます」


 その声は穏やかでありながら、部屋の隅々まで届いた。

 「児玉閣下、西郷閣下、そして義信閣下の言葉。

  どれも、正しい。軍事的には日本が優位です」


 机上の資料に視線を落とし、ゆっくりと指先で頁をめくる。

 「だが――それでも、戦争は避けるべきです」


 児玉の眉がわずかに動く。

 「なぜだ、大久保閣下。勝てる戦を避ける理由があるのか」


 大久保はその視線を受け止めたまま、淡々と答える。

 「理由は四つあります。

  第一に、犠牲。日清戦争では約千四百人が死にました。

  次の戦は、その十倍、いや二十倍の死者を出すでしょう」


 部屋の中に、わずかなざわめきが走った。

 「第二に、経済です。予備役三十万を動員すれば、

  農も工も商も止まる。国は“勝つ”前に“枯れる”」


 ペンを握る手がわずかに震えていた。

 「第三に、戦費。日清戦争で費やした金は二億円。

  三国と戦えば五億、十億に膨らむかもしれない。

  日本の財政は、まだそこまで成熟していません」


 晴人が静かに頷いた。

 大久保は言葉を区切り、最後に一息置いてから続けた。

 「第四に――国際関係です。

  三国は“東洋の平和のため”と称しています。

  もし我々が戦えば、世界は“日本が平和を乱した”と見るでしょう。

  正義は、勝者が名乗るものではありません。

  敗者がどれほど正しくても、歴史はそれを記さない」


 児玉の拳が机を打ちかけたが、西郷が手を伸ばして静かに止めた。

 重い沈黙の中、大久保は深く頭を下げ、椅子に腰を戻した。


 続いて、陸奥宗光が口を開いた。

 「総理、外務の立場から申し上げます」


 その声には疲労と緊張が混じっていたが、言葉は鋭く研ぎ澄まされていた。

 「三国干渉は、軍事の問題ではなく、外交の問題です。

  軍の力は、外交の背景。使い方を誤れば、ただの暴力に堕します」


 彼は書類の束を開き、電信紙を一枚取り出した。

 「これは、ロンドンからの最新電報。

  “英国艦隊百隻、極東に向けて進発中”――そうあります。

  つまり、我々にはこれほど強力な後ろ盾がある。

  これを剣としてではなく、“交渉の盾”として使うべきです」


 晴人が、静かに顔を上げた。

 陸奥は続ける。

 「外交とは、刃を抜かずに勝つ技です。

  我々は英国を背にしている。

  この切り札を無駄にせず、まずは交渉でロシアを譲歩させるべきです」


 児玉が低く唸った。

 「譲歩しなければ?」

 陸奥はためらわず答える。

 「その時こそ、剣を抜けばいい。

  だが、抜く前に“勝負をつける”のが、外交というものです」


 その言葉に、西郷が小さく息を吐いた。

 「……なるほどな」


 晴人の視線が、もう一人の男――次男・久信に向けられる。

 「久信、お前はどう思う」


 久信は静かに立ち上がった。

 長身の体をまっすぐに伸ばし、父の目を真っすぐに見据えた。

 「総理、私は外務官僚として、李鴻章閣下と下関で交渉を行いました」


 彼は一瞬、言葉を切り、遠い記憶を思い返すように目を伏せた。

 「あの時、感じたのです。

  剣よりも、言葉が国を動かすことがある――と」


 義信が静かに弟を見た。

 久信は続けた。

 「戦争は、外交の失敗です。

  今、日本には世界が注目しています。

  もし三国を相手に戦えば、一時の勝利を得ても、

  日本は“乱を好む国”と見なされるでしょう」


 晴人が口元に手を当て、ゆっくりと息を吐いた。

 久信は言葉を選びながら、静かに続ける。

 「英国艦隊百隻という後ろ盾を背景に、我々はロシアと交渉できます。

  恐れることはありません。

  ただ、焦って剣を抜くべきでもない」


 その瞳は冷静で、どこか父に似ていた。

 「戦わずして守る――それが真の勝利です」


 部屋の中が静まり返った。

 春の陽が障子の隙間から差し込み、白い光が床に筋を描いている。

 誰もがその光を見つめながら、それぞれの立場で思考していた。


 やがて、晴人が目を開ける。

 「……なるほど」

 低く、だが確かに、声が響いた。

 「強硬も理。慎重も理。どちらも、この国を想う心からだ」


 机の上の蝋燭が、わずかに揺れた。

 燃える炎の向こうに、戦と和平、二つの未来が揺らめいているようだった。


 誰もが、老総理の次の言葉を待っていた。

 そして、やがて――彼は、ゆっくりと息を吸い込んだ。


 「……では、私の考えを述べよう」


 その瞬間、部屋の空気が再び引き締まった。

 それは、四十年の政治と戦争を経た男の、最後の決断の始まりだった。

蝋燭の焔が、かすかな気流に揺れた。

 障子越しの光は白く薄く、床の木目に淡い筋を描いている。

 藤村晴人は、車椅子の肘掛に片手を置いたまま、もう片方の手で胸を押さえ、ゆるやかに息を整えた。

 指先がわずかに冷たい。心臓は不規則な拍で小さな警鐘を打ち続けている。


 「……諸君」


 静かな呼びかけに、部屋の温度が一段下がったように感じた。

 児玉が背筋を伸ばし、西郷の軍服の肩章が鈍く光る。

 大久保は瞼を半ば伏せ、陸奥は書類の角を正し、久信は父の唇の動きに視線を据えた。


 「強硬の理も、慎重の理も、どちらも正しい。

  私は、そのどちらも、四十年の間に身で学んだ。

  戦は、最後の手段だ。

  だが――理不尽に膝をつく国には、未来がない」


 児玉の顔に血が通い、西郷の顎がわずかに上がる。

 大久保と陸奥は交錯する視線を一瞬だけ交わし、黙って頷いた。


 晴人は、机上の地図へ手を伸ばした。

 白い紙の海に、赤い鉛筆で引かれた線が幾重にも走っている。

 遼東、旅順、朝鮮海峡、ウラジオ――ひとつひとつを確かめるようになぞる指は、痩せて骨ばっているが、触れるたびに決意の温度を帯びていった。


 「第一に――我々は、英国の支援を背景に、交渉を選ぶ」


 言葉が落ちると同時に、空気が動いた。

 大久保が深く息を吐き、陸奥の喉仏が小さく上下する。


 「英国地中海艦隊は十五日に来る。

  続いてインド洋、本国の増援。

  日英は、海において三国を凌ぐ。

  この“事実”を、刃ではなく言葉の柄に巻いて、ロシアへ差し出す」


 晴人は、机の端の銀懐中時計を開いた。

 ロンドンで贈られたそれは、磨り減った縁にいくつもの傷を宿しながら、なお整然と刻み続けている。


 「時間を、こちらの味方につける。

  英艦の到来まで、一刻一刻が、相手にとっては枷となる」


 やや間をおき、低く、だがはっきりと。


 「第二に――交渉が決裂したなら、ためらわずに戦う。

  予備役を発す。満州・朝鮮に二十八万を展開。

  海上は英艦とともに封鎖線を張る。補給を断たれた十万は、ただの数字だ」


 児玉の拳が、音にならぬ音で机上を叩いた。

 西郷の口元に、短く鋭い笑みが走る。

 だが晴人は、その昂ぶりを手のひらで静めるように、掌を軽く上げた。


 「戦う覚悟は、交渉を強くする。

  そして、交渉の意志は、戦を賢くする」


 蝋燭の焔が、またひと筋撓った。

 晴人は小さく息を詰め、胸の奥の痛みをやり過ごす。

 額に浮いた汗を袖口で拭い、視線を真正面に戻した。


 「ここで譲れば、遼東だけが失われるのではない。

  我々が積み上げた“近代”そのものが、砂の城になる。

  一千四百の亡骸に、我々は何を語るのか――“偽善に従った”と、言うのか」


 義信が椅子から立ち上がりかけ、ぐっと堪えて背筋を伸ばした。

 久信は瞼を伏せ、静かに拳を握る。


 晴人は、ゆっくりと彼らを見わたした。

 陸軍大臣、海軍大臣、内務大臣、外務大臣――そして息子たち。

 それぞれの双眸に灯る色が違えど、焦点は一つの点へ収束している。


 「久信」


 名を呼ぶ声に、部屋の気配がわずかに動いた。

 次男は立ち上がり、父の前へ一歩進む。

 磨いた靴底が床を擦る音が、均整の取れた弧を描いた。


 「お前を、ロシアとの交渉担当に任ずる。

  陸奥、全力で補佐せよ」


 「拝命いたします」


 陸奥が即座に頭を垂れ、久信も深く礼を取った。

 その姿勢は若木のようにまっすぐで、しかし風に折れぬしなりを宿している。


 「必要なのは、怒りを理に変える舌。

  英艦百隻の影を、脅しではなく約束として示せ。

  “帝国は、東の同盟を敵に回す覚悟があるのか”――問い続けるのだ」


 久信の喉仏が上下し、短く息を整える。

 「はい。虚勢を剥ぎ、計算を露わにさせます。

  譲歩の出口は二つ――“時間”か“面子”。

  どちらでも構いません、遼東は渡しません」


 晴人の口元に、淡い笑みが浮かんだ。

 父としての情を滲ませるには短すぎ、総理としての厳しさを解くには柔らかすぎる、刃先のような微笑だった。


 「諸君、これが我が国の方針だ」


 車椅子の肘掛から手を離し、両掌をゆっくりと卓の上に置く。

 古い欅の天板が、重い響きを一つ返した。


 「第一――交渉をもって事に当たる。

  英国の到来を鐘として鳴らし、相手に時間の恐怖を教える。

  第二――剣は鞘にあるが、錆びてはいない。

  拒むならば、我らは戦う。勝つために戦う」


 沈黙ののち、最初の音は児玉の軍靴だった。

 「陸軍、即応――総理のご決断、しかと承る」

 その声に続いて、西郷が短く「海軍異議なし」と答え、大久保が「内務は動員体制と物資統制の準備に入る」と紙片を束ね、陸奥が「今夜より草案を」と筆を走らせた。


 晴人は、最後に視線を天井に上げた。

 梁の節目が数珠つなぎに並び、遠い昔から積み重ねられてきた時間の層のように見えた。


 「――この国は、もう弱くない」


 囁きのような声だったが、閣議室の隅々まで染み込んだ。

 障子の外、風が変わる。雲がほどけ、白い光が、焔と地図と人々の顔を均す。


 「本日の決は以上。

  各省、直ちに行動に移れ。

  我々の敵は、軍だけではない――迷いと、遅れだ」


 最後の言葉を置くと、晴人は小さく咳き込み、胸に手を当てた。

 義信が一歩踏み出し、椅子の背にそっと手を添える。

 晴人は「大丈夫だ」と目で合図し、息をととのえた。


 扉が次々と開き、靴音が遠ざかる。

 残ったのは、薄い蝋の匂いと、銀時計の規則正しい鼓動だけ。

 晴人は懐中時計を閉じ、掌にその冷たさを確かめた。


 ――あと七日。英艦の影が、海の地平を染めるまで。


 彼は視線を遼東へ落とし、鉛筆で小さく、静かに丸印をつけた。

 その円は、祈りにも、誓いにも見えた。

午後の陽が傾きはじめたころ、東京の空はどこか重たく沈んでいた。

 閣議の余韻を残したまま、街のざわめきが遠くまで広がっている。通りには号外を配る少年たちの声が響き、人々の手にはまだ乾ききらぬインクの新聞紙があった。


 「政府、三国への対応を決定! 交渉優先、決裂なら戦争!」


 大書された活字が風にめくられ、空へと舞う。

 屋台の湯気のむこう、職人や書生、軍服姿の若者たちがその見出しを囲んでいる。


 「英国艦隊が来るんだってよ」

 「百隻だと? それなら勝てるじゃないか」

 「だが、戦争になればまた息子を取られる……」


 男の声が震えた。隣の女が唇を噛み、抱いた子を胸に引き寄せる。

 誰もが胸の奥で、誇りと恐れをないまぜにしていた。


 路地裏からは新聞売りの声が続き、白い鳩が群れをなして飛び立つ。

 人々の視線は、未知の戦火ではなく、その先にある「国の未来」へ向かっていた。


 そのころ、霞が関の一角ではロシア公使館の窓に灯がともっていた。

 公使ウラジーミル・コヴァレンコは、分厚い電報を机に置き、額に指を当てていた。


 ――「英国艦隊、東アジアに向け出港。日本との同盟を明言」

 ――「三国の結束に綻びの兆し」

 ――「ロシア政府、追加圧力を検討中。決定を急げ」


 蝋燭の炎が紙の上を揺らめき、彼の顔に影を刻む。

 「……日本は、どう出るか」

 低く呟いた声は、煙の中へ溶けた。

 外では馬車の車輪が石畳を擦る音がして、やがて遠ざかる。


 彼は立ち上がり、窓辺へ歩いた。

 ガラス越しに見える日本の夜景――整然と並ぶ街灯、静かに行き交う人々。

 それはまだ若い国の光であり、どこか不気味な強さを秘めていた。


 「この国は……思ったよりも、早く成長している」

 コヴァレンコの指先が窓をなぞる。

 「陛下は、これを侮ってはならぬ」


 その声は、誰にも届かぬまま闇に沈んだ。


 夜。

 風が冷たく変わる。

 藤村邸の庭では、虫の声が弱々しく鳴き、月明かりが砂利を銀に染めていた。

 書斎の奥、晴人はベッドの上で筆をとっていた。机の上には、使い慣れた便箋と英国製の万年筆。


 「久信よ、ロシアとの交渉、必ずやり遂げよ」

 震える筆先で、一文字ずつ確かめるように書き進める。

 「お前には、理がある。熱がある。そして何より、冷静さがある」


 筆を置き、深く息を吐く。

 胸の痛みは、日に日に強くなっていた。

 医師は「静養を」と言ったが、彼に静けさは許されなかった。


 窓の外を見ると、遠くの空に一筋の白煙が見えた。

 汽笛。

 それは港へと向かう列車の音。英国艦隊への物資が、東へ運ばれているのだ。


 「――間に合うか」

 小さく漏らした声は、かすれていた。

 晴人は手元の懐中時計を開き、秒針の音に耳を傾けた。

 その音が、まるで遠くの波のように聞こえた。


 やがて扉を叩く音。

 篤姫が入ってくる。手には湯気の立つ茶碗を持っていた。


 「もうお休みになられては?」

 「……もう少しだけ、考えたい」

 「考えすぎは、お身体に毒です」

 「毒なら、もう十分に抱えておる」


 ふと、晴人は微笑んだ。

 その顔には、老いの皺の中に不思議な静けさがあった。


 「私はね、篤姫。

  国というものは、人の心のようなものだと思う。

  恐れを抱けば縮み、信じれば広がる。

  今の日本は、ようやく自らを信じはじめた」


 篤姫は何も言わず、ただ頷いた。

 障子の向こうで、庭の竹が小さく鳴る。

 晴人はゆっくりと目を閉じた。


 そのころ、はるか地中海。

 濃紺の海を切り裂くように、英国地中海艦隊が進んでいた。

 戦艦マジェスティックの甲板には、風を切る帆布の音が響く。


 艦隊司令官のハミルトン提督は、双眼鏡を下ろした。

 「予定どおり、十五日に日本海へ到達する。

  全艦、補給を完了次第、東洋艦隊と合流だ」


 副官が頷く。

 「三国が動けば、我々はただちに日本を支援しますか?」

 「当然だ。

  日本は小さな国だが、志は大きい。

  その志を守るのが、文明国の義務だ」


 夕陽が海面を赤く染め、艦の影が波間に長く伸びた。

 水兵たちが号令に合わせて帆を張り、蒸気の唸りが一斉に高まる。

 百隻を超える鋼鉄の群れが、ひとつの意思のもとに動いていた。


 夜。

 東京の空にも、同じ月がのぼる。

 藤村邸の書斎で、晴人は再び目を開けた。

 窓の外、風が庭の桜の若木を揺らしている。


 「……久信よ」

 小さく呟く。

 その声は、祈りにも似ていた。


 「お前なら、やれる。

  理不尽を理に変え、剣を言葉に変えろ。

  私が築いた四十年の礎を、お前が守ってくれ」


 その言葉とともに、晴人は静かに瞼を閉じた。

 銀の懐中時計が小さく鳴る。

 秒針がひとつ進むたび、遠くの海では、英国艦隊の煙突から新しい火が上がっていた。


 ――あと七日。

 遼東の空に、再び風が吹くまで。


 外の闇は深く、しかし東の空にはかすかな黎明の色がにじみ始めていた。

 それはまるで、この国の夜明けそのもののように、ゆっくりと確かに広がっていった。

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