423話:(1895年・5月7日) 電報の海 動き出す列強
初夏の陽が、官邸の硝子窓を薄く照らしていた。
静まり返った廊下を、ゆっくりと車椅子の音が進む。
藤村晴人、七十一歳。
蒼白な顔には、かつて日本を築いた男の面影がなお残っていた。
その瞳には、衰えぬ光が宿っている。
「総理、こちらです」
秘書官が扉を開けると、閣僚たちが一斉に立ち上がった。
「おはようございます、総理」
晴人は小さく頷き、車椅子のまま議長席へ進む。
空気は張りつめ、誰もが息を潜めた。
壁にかかる時計の針が、午前十時を指した。
晴人は、深く息を吸い込み、静かに口を開く。
「――諸君。昨日、三国から正式な通告があった」
低い声が、閣議室の空気を震わせた。
「遼東半島の返還を要求している」
誰もが視線を落とす。
長い沈黙ののち、晴人は言葉を継いだ。
「本日、我々はその対応を決定する。
外交で退くか、武で進むか――日本の進路を決める日だ」
その声には、老いを超えた力があった。
「児玉、陸軍の現状を報告してくれ」
児玉源太郎が一歩前に出る。
鋭い眼差しに、戦場の男の気迫が宿る。
「はい、総理」
「我が陸軍の常備兵は約二十万。
現在、満州と朝鮮に展開しているのは約八万です」
彼は資料を開きながら、淡々と続けた。
「ロシアは、極東に十万の兵力を派遣可能としています。
現時点では、我が国の方が数で劣ります」
室内がざわめいた。
だが児玉は、声を強める。
「しかし――」
「予備役を動員すれば、さらに三十万を追加できます」
「日清戦争で確立した動員制度が、今こそ生きます」
彼の声が室内に響く。
「総動員すれば、日本陸軍は五十万。
そのうち二十八万を満州・朝鮮に展開可能です」
重苦しい空気の中、誰かが息を呑んだ。
「つまり、ロシア十万に対し、日本二十八万」
児玉は手にした地図を指でなぞりながら言う。
「――数では、我が国が上回ります」
西郷従道が頷き、静かに口を開いた。
「海軍も、同じです」
その声には、南国生まれの武人らしい重みがあった。
「連合艦隊は二十五隻。
三国九十隻には敵いません。
ですが、英国艦隊百隻が来れば話は別です」
閣僚たちの視線が、一斉に西郷へと集まる。
「日英合わせて百二十隻。三国九十隻を凌駕します」
「しかも英国の艦は最新鋭、訓練水準も桁違いです」
「海上では、完全に我が方が優位に立ちます」
その言葉に、児玉が力強く頷いた。
「陸でも海でも、日本は優位です。
ゆえに、三国が相手でも――勝てます!」
議場がざわめく。
しかしその熱を断ち切るように、大久保利通が口を開いた。
「……児玉閣下、少し冷静に」
その声は柔らかかったが、言葉には刃があった。
「確かに、数では優位かもしれません。
ですが、戦争は数の問題ではありません」
晴人が静かに目を細める。
大久保は一枚の書類を掲げた。
「日清戦争では、千四百名が命を落としました。
三国と戦えば、その十倍、いや二十倍の犠牲が出るでしょう」
「さらに、経済です」
「予備役三十万を動員すれば、農業も工業も停滞します」
「戦費は二億どころでは済まない。五億、十億に達する」
「日本の財政は持ちません」
重苦しい沈黙。
外では風が吹き、障子を揺らしている。
「戦争は、最後の手段にすべきです」
「英国の支援を背景に、外交で解決する。
三国も、英国を敵に回すことは望まぬはず」
「交渉で譲歩を引き出せるかもしれません」
児玉が顔を上げた。
その瞳には烈火のような激情が宿る。
「……では、大久保閣下。
遼東半島を返還し、亡くなった兵士の家族に何と言えばよいのですか」
「『あなたの息子の死は無駄だった』と?」
「彼らは、この国のために死んだのです!」
拳が震える。
「遼東を手放せば、日本の威信は地に落ちる!」
「我々はもう、二流国ではない!」
沈黙――。
晴人は深く目を閉じ、誰の言葉にも頷かない。
やがて、かすかな声で言った。
「……今日はここまでにしよう」
その声には、重く、深い疲労が滲んでいた。
「私はもう少し考えたい。明後日、再び閣議を開く」
「そのとき、最終の決断を下す」
誰も言葉を返せなかった。
重い沈黙が、老政治家の背に降り積もる。
晴人はゆっくりと車椅子を回し、扉の方へ向かった。
窓から差し込む陽光が、その背を静かに照らしていた。
午後の光が傾き、藤村邸の庭に長い影を落としていた。
白壁の上を、若葉が風に揺れ、どこか遠い日の匂いを運ぶ。
官邸から戻った晴人は、書斎の椅子に身を沈めた。
胸の奥に残る重みは、議場よりも深く、静かだった。
篤姫がそっと入ってくる。
「晴人様、お顔の色が優れません。どうか少し、お休みを」
その声には、長年寄り添った者にしか出せぬ柔らかさがあった。
晴人は微笑もうとしたが、唇が震えた。
「……篤姫。少し、一人にしてくれ」
「はい。ですが、無理はなさらないでくださいませ」
彼女は深く頭を下げ、静かに部屋を去る。
障子が閉まると、部屋は再び沈黙に包まれた。
書棚の上には、古びた公文書の束が積まれている。
「三国干渉」――その文字が、まるで剣の刃のように心を刺す。
晴人は瞼を閉じた。
暗闇の向こうに、幾千の声が蘇る。
「児玉が言った。陸軍は二十八万を動員できる」
「西郷は言った。英国艦隊百隻が来る」
「……ならば、我々は勝てる」
静かな独り言が、薄明の部屋に溶けていく。
だが次の瞬間、別の声が脳裏に響く。
――大久保が言った。戦争は避けるべきだ、と。
――犠牲が増え、経済が疲弊し、財政が崩壊する、と。
「……どちらも、正しい」
晴人は苦笑した。
老いがもたらすのは優柔ではなく、重すぎるほどの現実だった。
机の上のペンが、わずかに震えた。
「私は、どう決めればいいのか……」
雨の匂いがした。
窓の外では、厚い雲が空を覆い、庭の若葉がしずかに濡れている。
その音が、戦場の雨音に変わった。
――旅順。1894年、冬。
鉄と血の臭いが鼻を突く。
黒煙の中、若き兵士たちが崖を駆け上がり、次々と倒れていく。
指揮官が叫び、銃声が響く。
晴人は、軍帽を脱いで黙祷を捧げた。
「約千四百の命……」
「彼らは、遼東を奪うために死んだ」
目を閉じると、亡骸の傍らに泣き崩れる母親の姿が見えた。
――あの母に、どう顔向けすればよい。
――その命が無駄だったなどと、言えるはずがない。
現実へと戻る。
書斎の明かりが揺れ、影が壁に伸びていた。
晴人の頬を、一筋の涙が伝う。
「……だが、再び戦えば、今度は一万、二万では済まぬ」
「数万人の母が、また泣く」
老いた声が、風にかすれた。
「戦えば、勝てる。だが、守れるとは限らぬ」
「返せば、国の誇りが消える。
だが、守れば、人が死ぬ……」
彼はゆっくりと立ち上がり、窓辺へ歩いた。
外には、篤姫ときちが庭を歩く姿が見える。
犬が尾を振り、子供のような声で鳴いた。
それを見た晴人の胸に、一瞬の安らぎがよぎった。
「……この国も、人の営みでできている」
「守るとは、国を守ることか。人を守ることか」
その呟きは、誰にも届かぬ祈りのようだった。
翌朝。
淡い陽光が障子の隙間から差し込み、部屋を金色に染めた。
扉が叩かれる。
「父上、失礼いたします」
義信が入ってきた。軍服の胸章が光る。
その後ろに、久信と義親も続いた。
晴人は椅子に腰を下ろし、三人の顔を見渡した。
「……来たか」
義信が一歩進み、深く頭を下げる。
「父上、閣議の件、耳にしました。どうか、遼東をお守りください」
「私は旅順で戦いました。
部下の多くが、帰らぬ人となりました。
彼らは、祖国のために死んだのです」
声が震えている。
「遼東を返還すれば、私は彼らの家族に何と申せばよいのか。
『無駄に死にました』と?
それだけは、言えません」
久信が静かに口を開いた。
「兄上のお気持ちは分かります。
ですが、戦争は最後の手段です」
「父上は、英国と四十年かけて信義を築かれました。
その力を使うべきです。外交で戦うのです」
義親が二人の間に立った。
「兄上も久信も、どちらも間違っていません。
でも、どちらも父上を信じています」
晴人は三人を見つめ、ゆっくりと頷いた。
「……お前たちの言葉が、私の支えだ」
声が掠れた。
「この老いた身に、まだ国を導く力があるなら――それは、お前たちのおかげだ」
三兄弟が深く頭を下げ、静かに部屋を出ていく。
障子が閉まり、再び静寂が戻った。
晴人は目を閉じ、胸に手を置く。
その鼓動は弱く、だが確かに生きていた。
「……あと一度だけでいい。この命が燃えるなら、国のために使おう」
その夜、空には星がなかった。
ただ、遠くで波の音が聞こえた気がした。
それは、彼がまだ若き日、篤姫と共に見た鎌倉の海の記憶だった。
老政治家は静かに瞼を閉じた。
明日の朝、彼は決断を下す。
それが、どんな結末を呼ぼうとも――。
夜がほどけ、淡い光が障子を透かした。
鳥の声が一声、また一声と重なり、庭の若葉に露が光る。
晴人は、胸の奥の鈍い痛みと共に眼を開けた。
呼吸は浅い。だが、脳裏は澄み、冷たい水で研がれた刃のように輪郭を持っている。
枕元の懐中時計を開く。細い針が規則正しく進むたび、過ぎ去った四十年が耳の奥で合図を送った。
彼は静かに上体を起こし、衣を整える。襟を指で撫で、皺をひとつ伸ばす。その小さな動作に、戦場の命も、議場の決も、家族の笑みも、すべてを同じ秤に載せようとする意思が宿っていた。
扇風がそっと入る。庭の桜は半ば葉桜となり、枝先に残る数枚の花弁が、まだ春の名残を囁く。
――遼東は守る。
心の内で言葉が立ち、やがて骨となった。
ベルに指を伸ばしかけて、彼は手を止めた。
まず、独りでまとめきるべきことがある。机の上の白紙を手前へ寄せ、細い筆を取り、静かに墨を含ませる。
「第一に、外交。第二に、動員。第三に、封鎖。」
三つの文字列が紙の上に立ち上がると、部屋の空気がわずかに引き締まった。
玄関の方で気配。
「総理、お加減は――」
戸口に、大久保が姿を見せた。
晴人は頷き、椅子を指し示す。
「入れ。まだ朝餉前だが、時間が惜しい」
大久保が座ると、晴人は白紙を三枚に割って差し出した。
「これが骨子だ。
一つ、英国支援を前提に三国へ“代替案付き拒否”を通告する。
二つ、予備役の段階的動員。表は二十万、裏で追加十万の枠を確保。
三つ、対馬・下関・佐世保を基点にした“迂回封鎖”だ」
大久保の瞳が光る。
「……代替案、とは?」
「遼東の軍港化のみを緩和する。港湾管理の名目で“共同査閲団”を半年だけ受け入れる。領有は手放さない。その代わり、清への賠償金利払いの一部肩代わりを提案する。三国の“面目”を与えつつ、実質は譲らぬ」
大久保は短く息を飲んだ。
「三国は“勝利の印”を求めてきます」
「印は与える。だが血判ではない。墨でよい」
晴人の声は低く、揺れがない。
「海はどうなさる」
「英国の増援が来るまでの八日間、こちらが崩れぬこと。佐世保を枢に、対馬海峡の“見せる防御”を敷く。巡洋艦を薄く散らすのではなく、線ではなく点――“灯”を三つ。敵がその灯を数えて、こちらを測り損なうように」
「灯……」
「武力は、時に数でなく“誤読”で立つ。進路上に虚と実を織り交ぜ、バルチックの礫のような圧力を、霞ませる。英艦の先遣四隻が入ってきた瞬間、その灯は“群”に変わる」
大久保は深く頷いた。
「……戦を避けるための剣、ですな」
「剣は鞘にあるから効く。抜けば血が要る」
扉が叩かれ、陸奥が入る。
「総理、夜明けの電信。ロシアは返答期限を“十日以内”に短縮する意向です。ドイツとフランスの文言は柔らかいが、足並みは……微妙に揃っていません」
晴人の眼が細くなる。
「揃わぬ足並みは、こちらの呼吸だ。そこへ息を吹き込む」
陸奥は黙って晴人の手元を見た。三行の骨子。
「……総理、その“共同査閲団”は、彼らの体面を保つ一方で、内実はこちらの港則で縛る、という理解でよろしいですね」
「そうだ。入港時間、給炭規則、弾薬の陸揚げ禁止。査閲団は見るが、触れぬ。彼らが満足する“儀礼”に、こちらの“制度”を忍ばせる」
大久保が陸奥に目を送る。
「牽制の言葉は英国へ先に流せ。『査閲』の語を、英外相から三国へ“善意の橋”として囁かせる」
陸奥は一礼した。
「承知しました。……総理、御身――」
晴人は手を上げ、遮った。
「間に合ううちに、決を固めねばならん」
胸の奥がにわかに灼け、視界が白む。机の縁へ指をかけ、呼吸を整える。
「私は……大丈夫だ」
言葉の端に、かすかな掠れ。
陸奥の眉が寄るが、晴人は静かに続けた。
「児玉と西郷を呼べ。動員計画は“段階”。一挙はしない。
第一段は鉄道の余力を見積もった“静かな増兵”だ。列車時刻を乱さず、工場の炉を落とさず、農繁期の肩を折らず――それでも兵は集まる形に」
「経済を止めぬ動員……」
「銃を担ぐ者の背には、田の苗と炉の火がある。そこを折れば、勝っても負けだ」
庭の方で、犬が短く吠えた。朝露が跳ね、青い匂いが漂い込む。
晴人はゆっくりと立ち上がり、障子を開ける。
白い光が床に広がった。
「見ろ、大久保。朝だ。
――国に朝を見せるのが、我らの務めだ」
西郷従道と児玉が駆け足で入る。
「総理!」
晴人は二人に向き直り、目で合図した。
「席に」
短い儀礼のあと、晴人は紙を掲げる。
「決めた。
一、三国の“友好的忠告”は受領する。しかし領有の核心は譲らぬ。
二、“共同査閲団”の受入れを半年限りで提示。賠償金利払いの肩代わりを条件に付す。
三、対馬・下関・佐世保の三灯をもって海を守る。英艦到来まで八日――その八日を我らの知恵で延ばす」
児玉の拳が膝で固くなる。
「総理、戦となれば――」
「その時は戦う。だが、先に戦うのではない。
戦う覚悟を以て、戦わぬ道を押し通す」
西郷が口角をわずかに上げた。
「海は灯で守る、か。よかろう。艦の置き方は“見せる秩序”にします。敵の望遠鏡に、こちらの意図を誤読させる」
「頼む」
晴人は最後の紙を机に置き、筆を置いた。
「――これで行く。午后に正式閣議だ。各省、準備を」
立ち上がろうとして、足元がわずかに揺れた。
大久保の手が咄嗟に支える。
「総理」
晴人は息を吸い、静かに頷いた。
「心配は要らん。……まだ、やる」
障子の外、空は完全に明けた。
庭の端で、最後の花弁が一枚、草の上に落ちる。
その軽い音を耳が拾った気がして、晴人は目を細めた。
――散るは終わりではない。季節の輪の一部だ。
彼は背筋を伸ばし、声を整えた。
「午後三時、官邸。――日本の答えを、世界に告げる」
言い終えると、部屋に満ちていた緊張が、凪のように平らになった。
弱い心臓の鼓動が、しかし一定の歩調で刻む。
その歩調に合わせるように、政の歯車が回り始める。
決戦の刻は、まだ遠い。
だが“決意”の刻は、今ここにある。
ロンドンの空は、薄曇りだった。
初夏の霧がテムズ川を覆い、船の汽笛が鈍く響く。
英国外務省の古い石造りの庁舎の中、灯油のランプが一斉に灯る。
地図机の上には、極東の地図――日本列島から大陸の沿岸まで、無数の針と赤線が走っていた。
外相サー・キンバリーは、静かに書簡を読み上げる。
「地中海艦隊、ジブラルタルを出港。予定通り五月十五日に佐世保沖へ到着。
本国艦隊も、増援の準備を完了。総艦艇数、百隻を超える見込み」
報告官たちの顔に、微かな誇りが浮かんだ。
キンバリーはペンを取ると、ゆっくりと電文の文面を書き始めた。
「日本政府に通告せよ――“英国は貴国を全面的に支援する。英艦隊は予定通り出航しつつあり、いかなる脅迫にも屈しない”」
ペン先が紙を滑る音だけが、静かな部屋に響く。
その筆跡は、遠く海を越え、まもなく東京の外務省に届くことになる。
続けて、彼はもう一枚の電報紙を手に取った。
「三国――ロシア、ドイツ、フランス各政府へ」
「英国は日本との同盟関係に基づき、同国への圧力を英国への圧力と見なす。
英国艦隊は既に東洋へ向かいつつあり、極東における均衡を乱す行為は容認しない」
その文面は外交辞令に見えて、実際は宣戦布告にも等しい圧力だった。
秘書官が眉を上げる。
「閣下、強すぎるのでは?」
キンバリーは短く笑った。
「外交とは、強すぎる言葉を“礼儀”に包んで送る技だよ」
その言葉に、部屋の空気がわずかに和らいだ。
テレグラフ室へ運ばれた電文は、黒いコードを伝って世界へと放たれた。
ロンドンからアデン、インド洋、香港、そして長崎へ。
一本の電線が、列強の運命を繋いでいる。
外では、雨が降り出していた。
その音を聞きながら、キンバリーは窓越しにテムズを見つめた。
「――東洋の海で、今ごろ日本の老人が苦悩している」
呟きのような声。
「だが、あの男は退かぬ。彼が立つなら、英国も立つ」
◆
そのころ、遙か東――サンクトペテルブルク。
夜の冬宮殿には、燭台の炎が揺れていた。
厚い絨毯の上、ロシア皇帝ニコライ二世は、机に両肘をつき、電報紙を凝視している。
「英国艦隊百隻……」
低く押し殺した声が漏れた。
「地中海艦隊、インド洋艦隊、本国艦隊。
彼らは本気だ」
外相ロバノフが、慎重に言葉を選ぶ。
「陛下、電文は確かです。英外相キンバリーの署名入り。
彼らは“日本への圧力を英国への圧力と見なす”と明言しております」
ニコライは拳を握った。
「……我が艦隊は極東に四十隻。
ドイツ、フランスを合わせても九十。
英国単独で百隻を越えるか」
沈黙が流れる。
皇帝の背後の窓には、ネヴァ川の氷が薄く残り、夜気が青白く滲んでいる。
「彼らは海で戦う民族だ。
陸では我々が強いが、海では……一瞬で沈む」
ロバノフが頷く。
「英国と開戦すれば、我々は孤立します。
ドイツは経済的損失を恐れ、フランスは借款の保全を優先するでしょう」
「つまり、誰も命を賭けるつもりはないというわけか」
「……はい、陛下」
皇帝は立ち上がり、窓辺へ歩いた。
雪解けの風が入り、蝋燭の炎が揺らめく。
「だが遼東は我が国の夢だ。
冬を知らぬ港――旅順と大連を手に入れねば、我がロシアの南は閉ざされたままだ」
その声には焦りが混じっていた。
外相は一歩進み出て、静かに告げる。
「陛下、英国艦隊が日本近海に到着するのは五月十五日。
あと八日です。それまでに日本を屈服させねばなりません」
「八日……」
ニコライは窓の外を見た。氷の川面に、雲間の月がぼんやりと映る。
「八日の間に、日本は決断を下す。
我々が退くか、彼らが折れるか――」
「陛下、ドイツとフランスに通達しますか?」
「送れ。だが、尋ねよ。“英国と戦う覚悟があるか”と」
外相が頷くと、室内に再びペンの音が響く。
その音は遠く離れた欧州の各都市――ベルリン、パリ――へと広がり、
数時間後には、また別の返答が彼のもとに戻るだろう。
ニコライは机の上の地図に目を落とす。
その上には、日本列島の線が赤く引かれていた。
「……小国だが、侮れぬ」
「老いた首相が国を支えていると聞く。名は……藤村晴人、と」
「はい。日本の“理想主義者”だとか」
「理想主義者……」
皇帝は低く笑った。
「ならば、理想と現実、どちらが先に崩れるか見ものだ」
◆
夜明け前の東京。
英国からの電報が届いた。
「英艦隊は予定通り進発。日本を全面的に支援する」
外務省の通信室に灯がともり、陸奥がその文面を手に取る。
「……間に合った」
声が震えた。
すぐに、それを官邸の晴人へ届けるために走り出す。
そのころ、藤村邸の庭では、夜明けの光が差し始めていた。
雨上がりの石畳に、桜の花びらがまだ散り残っている。
家の中では、老いた総理がゆっくりと身を起こしていた。
遠い欧州の筆が動き、電線の上を火花が走る。
日本海へと向かう百隻の英国艦――
その全ての動きが、今、この国の老人の決意ひとつに繋がっている。
そして、誰も知らぬ場所で、時代が静かに反転しようとしていた。




