422話:(1895年・初夏)百隻の約束
午前九時、首相官邸の長い回廊に、濡れた革靴の音が規則的に響いた。
夜半に降った細雨の名残が硝子窓を曇らせ、庭の新緑を薄く滲ませている。警護の詰所を過ぎ、重い扉が内側から押し開かれると、冷えた空気とともに、人の息づかいが一気に流れ込んだ。
長卓の上には、急ぎ綴じられた書類の山と、押しピンで留められた地図が並ぶ。遼東半島に赤鉛筆の太い円、威海衛から旅順へ伸びる線、海上には小さな紙片で艦隊の配列が示されていた。
大臣らは既に席に着き、目配せひとつ交わすことすら惜しむように紙面へ視線を落としている。
軋む車輪の音。
藤村晴人が、車椅子でゆっくりと入ってきた。
頬は痩け、呼吸は浅い。だが瞳だけは、水面に落ちる刃のように澄んでいた。
「……諸君」
晴人は卓の端に止まり、背凭れから手を離した。
「昨夜、英国から確報が入った。本日、三国が正式通告を行う」
室内の椅子が一脚、わずかに軋む。
沈黙を破ったのは陸奥宗光だった。
「総理、露独仏の動き、要点を申し上げます」
陸奥は資料を開き、淡々と音を刻むように読み上げた。
「ロシア――目的は不凍港の確保。バルチック艦隊、戦艦七、巡洋艦十二、駆逐二十。陸軍は極東へ十万の派遣用意」
「ドイツ――日本の膨張抑止と山東半島の確保。東アジア艦隊、総数二十五」
「フランス――清国への貸付保全と影響力維持。東洋艦隊、同じく二十五」
「三国合計、凡そ九十隻。戦艦十四、巡洋三十、駆逐五十」
数字が室内の温度を一段下げる。
海軍大臣・西郷従道が、手元の鉛筆を置いた。
「……わが連合艦隊は、総数で二十五。正面衝突は利あらず」
隣で陸軍大臣・児玉源太郎が短く頷く。
「陸上も同じ。十万を相手にすれば、戦は長引き、国は痩せまする」
晴人は卓上の遼東に指を置いた。紙の下で木の感触が堅い。
「しかし、英国がいる」
視線が一斉にこちらへ跳ねる。
「日英同盟は既に成立。英国は三国へ外交覚書を送付済みだ。さらに艦隊を東アジアへ大規模派遣する」
息を呑む音が、鎖のように連なる。
「総理、それは……規模は」
児玉の問いに、晴人は一拍おいて答えた。
「およそ百隻」
卓の端で紙束が揺れ、留金がわずかに鳴った。
「東洋艦隊に加え、地中海・インド洋・本国各隊からの増援。英国海軍総保有の四割を本海域へ――と、英大使は言明した」
西郷の頬に、ひびのような笑みが走る。
「ならば、海は持ちこたえられます。英艦の影は、列強の胸中を冷やしましょう」
児玉はすぐさま言葉を継いだ。
「総理、遼東は、わが将兵一千四百の血で得た地。ここで退けば、彼らの名が砂に埋もれます。守るべきであります」
長卓の反対側から、大久保利通が扇子を畳んだ。
「児玉閣下のご憂慮、もっとも。しかし、戦は最後の匙。英の影を背に、まずは外交で三国の鼻先を押し戻すべきです」
「外交で?」
児玉の声に棘が立つ。
「相手は軍事を以て脅す。理が通る相手か」
大久保はわずかに身を乗り出した。
「理を通すのではない。利を見せるのです。英艦百、海の秤は傾く。秤が傾けば、彼らも計算を改める」
卓上の地図に差し込む朝の光が、雲の流れに合わせて形を変えた。
晴人は静かに目を閉じ、短く息を整える。胸の奥で小さな痛みが灯り、すぐに消えた。
「――本日の勧告を受け、その文言を見極める」
ゆっくりと言葉を置く。
「日本は、脅しに屈せぬ。だが、無謀にも走らぬ。英の支援を梃に、最良の一手を選ぶ」
「外務は受領態勢を整えよ。陸海は即応配置、動員は段階で構わぬ。内務は市中の秩序確保、号外の氾濫を抑えよ」
指示は乾いた音で卓上に落ち、次の瞬間には走り出す足取りへ変わっていく。
陸奥が立ち上がり、最敬礼した。
「午後二時、外務省で受けます。条文は一字一句、記録に残します」
西郷は軍令書を胸に収める。
「艦は湾外待機、信号所には英大使館との直通を」
児玉は地図から視線を上げない。
「鉄道・電信の優先権は軍が押さえる。輸送計画、即時改訂」
晴人は最後に一座を見渡した。
剣の鞘、紙の匂い、墨の艶、窓の外の湿った土。そのすべてが、今朝という一点に収束している。
「諸君――本日は、ここまでだ」
重い椅子が順に引かれ、衣擦れが波のように寄せては返す。
扉が閉まると、広い室内に、柱時計の振り子だけが律義に時を刻んだ。
晴人は車輪を自ら押し、窓辺まで進む。
庭の若葉の向こう、灰色の空が低く垂れている。
これからやって来る言葉と艦影を、彼は正面から迎えに行くつもりで、そっと掌を握り直した。
午後二時、外務省の奥庭に面した回廊を、鈍い革靴の音が三つ、等間で叩いた。
曇天の光が磨かれた石畳に鈍色の帯を落とし、池の水面には風の鱗が細かく走る。
守衛が扉を開け放つと、黒い外套の裾が連ねて揺れ、ロシア、ドイツ、フランスの公使が、まるで時計仕掛けの歯車のように同期して、陸奥宗光の執務室へ進んだ。
書棚には青革の背表紙が並び、長卓の上には赤い細紐で綴じた条約謄本と、硝子の文鎮に押さえられた電報紙が重なっている。
陸奥は背筋を正し、正面の椅子から立ち上がった。顔は蒼白ではない。だが血の気をどこへ収めたか分からぬほど、静かな色だった。
「諸閣下、よくお越しくださいました」
礼を終えると、三人は互いに視線を交わし、最も年配のロシア公使が一歩進み出た。指先に白手袋の継ぎ目が張り、硬い声が室内の温度を一度下げる。
「陸奥外相。三国より、貴国へ友好的忠告を通達する」
彼は紙を持ち上げ、定規のように真直ぐな抑揚で読み上げる。
「下関条約により日本国が清国より割譲を受けた遼東半島は、北京を脅かし、朝鮮独立の名をして実を失わしめ、東洋の平和を恒久に危うくす――ゆえに、これを清国へ返還するを勧告す」
言葉が終わるや、ドイツ公使が続けざまに口をひらいた。
金縁の鼻眼鏡越しの眼は、磨かれた金属のように冷たい。
「拒否あらば、我らは軍事的手段を辞さない」
ロシア公使が補う。
「バルチック艦隊、戦艦七、巡洋十二、駆逐二十。陸軍十万、極東派遣の算段整う」
フランス公使が、淡く香水の匂いを漂わせて言葉を重ねる。
「東洋艦隊、戦艦四、巡洋十。ドイツ東アジア艦隊は戦艦三、巡洋八。――これで、十分に意向は伝わるはずだ」
静寂。
壁の振り子時計がひとつ打ち、しばし、遠い街路の車輪の音だけが薄く聞こえた。
陸奥は卓上の文鎮に指先を触れ、冷たさを掌で受け止めたあと、ゆっくり手を離す。
「……三国の勧告、確かに拝聴しました」
声は低いが、紙の端を切る小刀の刃のように、輪郭だけは柔らがない。
ドイツ公使が、形の良い肩をわずかにすくめ、表情に礼節と優越の中間の色を浮かべる。
「賢明な判断を期待する。遼東半島返還――それが、東洋の平和のために必要だ」
「東洋の……平和」
陸奥は繰り返し、目を伏せた。
瞼の裏で、砲煙の灰と、港に横たわる戦没者の名が、静かに浮かんでは沈む。
(平和を語る舌で、砲列の数を誇るか)
(正義を名乗る手で、地図の上の湾に指を刺すか)
胸の奥を一瞬、熱が舐めた。だが表には出ない。
「期限の定めは」
短く問うと、ロシア公使が即答した。
「速やかに、だ。英国艦の動静は承知している。彼らが本格的に集結する前に、賢明な返答を」
言葉の端に、硬い棘が潜む。
フランス公使は扇のように片手をひらき、上品な微笑を作った。
「友誼にもとづく忠告です、外相。列強の和を乱さぬために」
「承りました」
陸奥は深く一礼し、顔を上げたとき、眼の底だけがわずかに濃くなっていた。
「日本政府として、慎重に検討のうえ、速やかに返答いたします」
十七字に満たぬ定型が、室内の結露した空気へ沈んでいく。
退出の足音は来たときと同じく、三つ、等間。
扉が閉まると、外の回廊で燕が一羽、低く掠め、池に波紋をひとつ残した。
ひとり残った陸奥は、勧告文の角をつまみ上げ、力を込めないまま、それを真上から見た。
活字は整い、美しく、冷たい。
(偽善だ)
心の中でつぶやく。
(露は不凍港、独は山東、仏は借款――誰も平和など見ていない)
指先が、紙越しに震えを拾ったことに、自身が先に気づく。
彼は扉脇の呼鈴を押し、小声で命じた。
「直ちに首相官邸へ。馬車の用意、最短で」
廊下へ出る。回廊の白壁に、曇天の明りが薄く滲み、遠くで電信室の鍵打ちが乾いた雨のように鳴っている。
陸奥は歩幅を乱さず、しかし一歩ごとに地面を確かめるように進んだ。
玄関口で帽子を取り、外へ出る。
風が頬を撫で、紙の匂いが離れていく。
石段の下、黒塗りの車体が待ち、御者が鞭を掲げて会釈した。
乗り込むと同時に、車輪が砂利を蹴り、外務省の門柱が後ろへ滑っていく。
街路の角を回るたび、号外を抱えた少年の群れが現れては消え、紙面にはすでに大きな活字が踊っていた――《三国、遼東返還を勧告》。
(急げ)
胸の内で言葉が短く跳ねる。
(総理へ、一字一句、余さずに)
車窓の外、初夏前の曇り空の下で、旗の赤がひとつ、風に翻った。
陸奥は拳を握り、内側に爪の痛みを確かめた。
痛みは、小さく、しかし確かだった。
それが、これから向かう決断の温度だと――彼は知っていた。
午後三時。
官邸の執務室には、窓の隙間から春の光が薄く差し込み、帳簿と報告書の山を白く照らしていた。
外では椿の花が風に散り、石畳に赤い斑点を落としている。
その静けさを破ったのは、控えめなノックの音だった。
「――入れ」
晴人の声は掠れていた。
扉が開き、陸奥宗光が姿を現す。手に封筒を抱え、その顔には緊張の影があった。
「総理、三国からの正式な通告です」
短く告げると、陸奥は書類を机上へ置いた。
硝子越しの光が、封筒の赤い封蝋に鈍く反射する。
晴人は静かにそれを取った。指がわずかに震え、紙を破く音が室内に響く。
「……読む」
目を走らせるごとに、眉間の皺が深まっていく。
やがて――口を閉じたまま、目を伏せた。
長い沈黙。
バン!
次の瞬間、机が鳴った。
叩きつけられた文書が跳ね、インク瓶が小さく揺れる。
「――偽善だ!」
その一声は、老いた身体から放たれたとは思えぬほど鋭かった。
「陸奥、これは偽善だ!」
晴人は立ち上がり、拳を震わせる。
「ロシアは不凍港が欲しい。ドイツは勢力均衡を保ちたい。フランスは清国の利権を守りたい。それが真実だ!」
「だが彼らは、口をそろえて言う――『東洋の平和のため』だと!」
怒りの熱が室内を満たす。
窓辺の花瓶の水がかすかに震えた。
晴人は額の汗を拭いもせず、低く唸る。
「これが列強の外交だ。力を持つ者が正義を語り、弱い者が従うしかない……!」
拳を握る手に血が滲んだ。
陸奥はその姿を黙って見つめる。何かを言おうとして、結局、口を閉ざした。
しばらくして――晴人は椅子に腰を落とし、深く息を吐いた。
「……長かった」
呟きが、風に溶ける。
「この国を立て直すために、あまりに多くの年月を費やした」
「軍備を整え、教育を広め、財政を立て直した。飢えも、疫も、戦も――すべて乗り越えてきた」
「ようやく国が一つにまとまり、未来へ進もうとしている。なのに……」
言葉が途切れる。
沈黙の中、時計の針がひとつ音を立てた。
晴人は、机に散らばった書類の上を指でなぞる。
そこには戦没者の名簿、遼東半島の港湾地図、条約草案。
どの紙にも、自らの四十年が刻まれていた。
「この国を守るために積み上げてきたものを、彼らの都合で踏みにじらせるわけにはいかん」
顔を上げた瞳に、再び光が宿る。
「――陸奥、すぐに英国大使を呼べ」
「はい」
「英国の支援を確認する。三国干渉を、跳ね返す」
陸奥は深く頭を下げ、急ぎ足で部屋を出ていった。
扉が閉まると、静寂が戻る。
春の光が薄く傾き、机の上の金具に淡い輝きを落とした。
晴人は椅子を押し戻し、窓の前まで進んだ。
庭では一輪の桜がまだ散らずに咲き残っている。
その花を見つめながら、彼は小さく呟いた。
「……これが、最後の戦いになるかもしれんな」
その瞬間、胸の奥で鈍い痛みが走った。
「……っ!」
手を突き、息を詰める。視界が霞み、光が遠のく。
「めまいが……」
それでも倒れず、机の縁に手を伸ばす。
「大丈夫だ……まだ、終われない」
浅く息を吸う。だが次の瞬間、激しい痛みが胸を貫いた。
「くっ……!」
喉の奥で呻きが漏れる。冷たい汗が頬を伝った。
ベルを鳴らすと、慌てた足音が響いた。
「総理! どうなさいました!」
「……医者を……」
すぐに医師が呼ばれ、診察が始まる。
「総理、心臓が限界です。すぐに横になってください」
「……いや、まだやることがある」
「いけません! 一歩間違えば――」
「英国大使が来る。私はその場にいなければならん」
医師は押し黙り、やがて小さく頷いた。
「……せめて、今日が終わったらすぐにお休みを」
晴人は苦笑するように目を細めた。
「……ああ、そうしよう」
医師が去ったあと、室内に残るのは夕刻の光と、静かな時計の音だけだった。
机の上の通告文が風に揺れ、淡い影を床へ落とす。
晴人はそれを手に取り、もう一度目を通した。
「……『東洋の平和のため』、か」
皮肉の笑みを浮かべ、紙をそっと伏せる。
「ならば、真の平和とは何か――この手で示してやる」
そう呟く声はかすかだったが、確かな意志の温度を帯びていた。
外では、夕陽がゆっくりと沈み、空を朱に染めていく。
その光の中、老いた指が、再び地図の上に伸びた。
遼東の港へ、一本の線が引かれる。
――まだ終わらない、と、彼の瞳が語っていた。
夕刻の光が、官邸の硝子窓を薄く染めていた。
庭の桜はすでに花を落とし、若葉の緑が雨に濡れて輝いている。
その柔らかな色とは裏腹に、執務室の空気は張りつめていた。
「――英国大使がお見えです」
扉の外から、執事の声が届く。
藤村晴人は深く息を吸い、胸の痛みを押し殺した。
「通せ」
扉が静かに開き、英国駐日大使エリオット卿が姿を現した。
白い髪を後ろに撫でつけ、金縁の単眼鏡をかけた男は、淡い礼を交わすと席につく。
「総理、三国干渉の件について、ロンドンより正式な回答を預かってまいりました」
晴人は視線で促した。
エリオットは封蝋を解き、朗々とした声で読み上げる。
「――英国政府は、極東における日本国の主権と正当なる戦果を支持する」
「これを妨げようとする行為は、我が国への挑発と見なすものとする」
部屋の空気が、一瞬にして変わった。
沈黙を破るように、晴人は息を吐く。
「……本気か、英国は」
エリオットは小さく頷いた。
「ええ。陛下のご意志です。日本が築いた努力と近代の理を、我々は認めています」
その言葉に、晴人の胸奥で何かが静かに弾けた。
数十年の歳月が脳裏をよぎる。
疫病に沈んだ村、戦に散った青年たち、焼けた工場、疲弊する財政。
それでも人々を信じ、制度を積み上げ、教育を広めた。
――この国は、もう誰にも膝を屈さぬ。
「詳しく聞かせてくれ」
晴人の声は低く、しかし鋭かった。
エリオットは書簡を開く。
「地中海艦隊から戦艦五、巡洋艦八、駆逐艦十二。
インド洋艦隊から戦艦三、巡洋艦六、駆逐艦八。
本国艦隊から戦艦四、巡洋艦十、駆逐艦十五」
晴人の眉がわずかに動く。
「……合計、戦艦十二、巡洋艦二十四、駆逐艦三十五。七十一隻の増援か」
「はい。これに、すでに東洋に展開している三十隻を加えれば――」
エリオットは微笑を浮かべた。
「総艦隊数、百隻体制になります」
その瞬間、晴人の瞳に光が宿った。
「……百隻。世界の海を制する力だな」
「その通りです。英国の総艦艇は二百四十隻。その四割を極東に投入します。
ロシア・ドイツ・フランス、三国を合わせても九十隻前後。質でも数でも、我が国が上回ります」
言葉は静かだったが、その響きは雷鳴のように晴人の胸を打った。
「これで、彼らは軽々しく“干渉”などとは言えまい」
「はい。東洋における勢力均衡は、これで完全に崩れます」
晴人は椅子に背を預け、ゆっくりと目を閉じた。
外の光が頬を照らす。
「……ようやく、ここまで来たか」
長い歳月の重みが、指先に滲んだ。
思い返せば、戦も飢饉も幾度も越えてきた。
その果てに、ようやく世界が日本を“国”として認める。
「陸奥宗光に伝えろ。すぐに英国大使館に礼状を出す」
「承知しました」
「そして、これを国民に隠すな。
『我が国は孤立せず。理を掲げれば、友は来る』――そう伝えよ」
エリオットが深く頭を下げた。
晴人の横顔には、若き日の決意と同じ光があった。
だが次の瞬間、胸の奥が激しく痛んだ。
「……っ」
思わず机に手をつく。
「総理!」
駆け寄る秘書官の声が響く。
「大丈夫だ」
息を荒くしながら、晴人は小さく笑った。
「英国が味方だ。ならば、この痛みなど怖れるものか」
医師が呼ばれ、血圧を測りながら言う。
「心臓が限界です。今夜は休まねば――」
「いや。まだやることがある」
医師は言葉を失い、やがて静かに下がった。
残された晴人は、机に広げた世界地図を見つめた。
その上には、彼が自ら引いた赤い線――日本から遼東、そして海を越えて英領香港へ。
その線を指でなぞりながら、低く呟く。
「この線の先が、未来だ」
夕陽が沈み、室内に橙の光が溶けていく。
庭の若葉が風に揺れ、障子に影を落とした。
彼はその光景をしばらく見つめ、静かに言葉を継いだ。
「……ありがとう、エリオット卿。
この約束が、未来の日本を守る礎になるだろう」
微かに微笑み、彼は筆を取った。
「三国干渉に屈せず、誇りを持って歩む。
この文を、明朝、全国へ布告せよ」
筆が走る音が、静かな夜に溶けていく。
外では、初夏の風がまた一度、若葉を揺らした。
桜の散った枝の上に、月が昇る。
――この国の未来も、また昇ってゆくのだ。




