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【篤姫と結婚した公務員】水戸藩から始まる幕末逆転録 ~公務員が理と仕組みで日本を救う~  作者: 一条信輝


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418話:(1895年3月26日〜28日) 文明の証文 李鴻章の涙とビッグベンの鐘

午後の陽光が、海からの風にわずかに揺れていた。

 港町・下関は、講和交渉の緊張をはらみながらも、どこか浮き足立った空気に包まれていた。

 露店では焼き魚の香りが漂い、子どもたちの笑い声が遠くに響く。だが、春帆楼の周辺だけは異様な静けさがあった。

 そこには、戦の勝者と敗者が、同じ卓を囲んでいるという、歴史の皮肉が息づいていた。


 ――午後三時。

 李鴻章の馬車が、春帆楼から宿舎へ向かって出発した。

 老外交官は、分厚い外套に身を包み、薄く笑んでいた。

 「ようやく、終わりが見えてきた……」

 七十二歳の身体には、長旅の疲れが重くのしかかっていたが、それでもその瞳には揺るぎない光が宿っていた。

 彼の心には、ただ一つの願い――「清国の存続」だけがあった。


 馬車は、通りの角をゆっくりと曲がる。

 道端には、群衆が集まり、誰もが興味と警戒の入り混じった視線を向けていた。

 「これが、清の使節か」

 「敗戦国の代表だ」

 そんな囁きが、風に混じって漂う。


 その群衆の中に、一人の青年がいた。

 小山豊太郎――二十四歳。

 外套のポケットに、冷たい鉄の感触を確かめながら、静かに息を整えていた。

 顔は青白く、唇は乾いていた。だが、その瞳には、狂信にも似た光が宿っていた。


 「李鴻章……」

 小山の胸の中で、その名が呪詛のように反響する。

 「三億両の賠償で足りるのか? 朝鮮の独立だけで足りるのか?」

 「この国を、真の強国にするためには……清国を地に叩き伏せねばならん」

 彼は、自分の行為を「正義」だと信じていた。

 「この引き金ひとつで、歴史を正すことができる」

 拳銃の冷たさが、彼の信念を確かにする。


 馬車の車輪が、石畳を軋ませて近づいてくる。

 馬の蹄が、乾いた音を刻む。

 李鴻章は、窓の外を見た。

 春の陽光の中に、一瞬、青年の視線が交わった。


 ――あの男。


 老外交官の背筋を、ひやりとした風が走った。

 しかし、言葉を発するより早く、それは起きた。


 バン――!


 甲高い銃声が、春帆楼の坂道に響き渡る。

 周囲の人々が悲鳴を上げた。

 「撃ったぞ!」「誰か倒れた!」


 李鴻章の頬を、熱い痛みが貫いた。

 視界が白くはじけ、血の匂いが立ち上る。

 「……っ!」

 彼は反射的に顔を押さえた。

 左眼窩の下、皮膚が裂け、温かい血が手のひらを濡らしていた。


 護衛の清国兵が叫ぶ。

 「閣下! 伏せてください!」

 馬車の外で怒号が飛び交う。


 もう一発、銃声が鳴った。

 だが今度は空を切り、石壁に弾痕を残した。

 小山は再び引き金を引こうとしたが、背後から警官が飛びかかる。


 「動くな!」

 「離せ! 離せ! 李鴻章を殺すんだ!」

 もみ合いの中で、拳銃が地面に転がり、火花を散らした。

 群衆が雪崩れ込み、怒号と悲鳴が交錯する。


 李鴻章は、朦朧とした意識の中で、遠くの空を見ていた。

 「……これが、戦の報いか」

 血が頬を伝い、衣の襟を染めていく。

 「まだ、死ねぬ。……この国を、残さねば」


 馬車の扉が開かれ、護衛が彼を抱え出した。

 伍廷芳が駆け寄る。

 「閣下! 閣下!」

 「……私は……大丈夫だ。顔を撃たれただけだ……」

 老外交官は痛みに耐えながらも、声を絞り出した。

 その冷静さに、周囲の誰もが息を呑んだ。


 やがて、宿舎に運び込まれると、医師が急ぎ到着した。

 医師は傷口を洗い、慎重に弾を摘出する。

 「幸い、骨には達していません。命に別状はありません」

 伍廷芳は胸を撫で下ろした。

 だが、李鴻章の瞳には怒りがなかった。

 あるのは、静かな悲しみだけだった。


 「……日本の右翼活動家、か」

 彼は独りごちるように呟いた。

 「私は、清国の全権大使としてここにいる。

  それを狙撃した――これは、日本の恥だ。

  だが同時に、利用もできよう」


 伍廷芳が顔を上げた。

 「閣下、つまり……?」


 「我々が強く出れば、賠償を減らせる。

  だが私は、それをしない。

  ――これは外交の試練だ。国と国の誠を測る秤だ」


 包帯に染み込んだ血が、じわりと赤く滲む。

 それでも、李鴻章の声は穏やかだった。

 「この事件をどう扱うかで、日本の文明が試される」

 「彼らが、いかに勝っても、驕らぬ国であるか――私は、それを見たい」


 外では、雨の気配があった。

 春の風が湿り気を帯び、屋根を打つ音がかすかに響く。

 その音を聞きながら、老外交官は目を閉じた。

 その胸中には、戦いではなく“試される平和”への決意が静かに灯っていた。

夕陽が沈む頃、下関の海は鉛色に染まっていた。

 春の風が潮の匂いを運び、宿舎の外壁を叩くように吹き抜ける。

 その風の中に、ただならぬ気配が混じっていた。


 「……なに?」

 陸奥宗光の前に、伝令が息を切らして駆け込んできた。

 顔は青ざめ、手には血の跡が残る封書を握っていた。


 「閣下……清国全権・李鴻章閣下が、狙撃されました!」


 室内が凍りついた。

 陸奥の目が鋭く光る。

 「……今、なんと言った?」


 「李鴻章閣下が、市街を通行中に日本人活動家の銃撃を受けられました!

  左眼窩下に被弾――しかし、命に別状はないとの報です!」


 報告を聞いた瞬間、陸奥は椅子を蹴るように立ち上がった。

 周囲の幕僚たちが慌てて距離を取る。

 「まさか……講和交渉の最中に……!」


 久信が立ち上がる。

 「父上……」

 陸奥は深く息を吐いた。

 額の血管が浮き上がり、声が低く震えた。


 「これは外交の惨事だ。いや、国家の恥だ」


 彼は懐中時計を取り出し、秒針をじっと見つめた。

 「この一報が、外国公使館に伝わるまで――おそらく二時間もかからん」

 「我が国は、たった一人の暴徒によって“未開国”と嘲られるだろう」


 窓の外で、汽笛が遠く響いた。

 それはまるで、国家の鼓動が乱れているかのようだった。


 「久信。すぐ支度をせよ」

 「……はい」

 「我々は、李鴻章閣下のもとへ行く。謝罪だ」


 宿舎を出ると、夜の気温は急に下がっていた。

 道端には提灯が灯り、風に揺れている。

 清国の宿舎――旧長府藩邸の門前には、すでに兵が列をなしていた。

 彼らの表情は険しく、銃口がわずかに陸奥たちの方を向いている。


 「陸奥宗光です。日本政府の代表として参りました」

 門衛が躊躇いながらも頷く。

 「……お通しします」


 邸内の空気は張りつめていた。

 廊下に漂う薬草の匂い、包帯の白、血の匂い。

 それらすべてが、戦の臭気よりも重かった。


 案内された部屋の奥、李鴻章が横たわっていた。

 左頬には厚い包帯。

 だが、その瞳には痛みよりも、静かな理性の光が宿っていた。


 陸奥は深く一礼した。

 「李鴻章閣下――このたびの非礼、まことに申し訳ございません」


 通訳が中国語で伝える。

 李鴻章は、しばらく黙したまま、陸奥を見つめていた。

 やがて、微かに首を横に振る。


 「……大臣、顔をお上げください」


 その声は掠れていたが、不思議と優しかった。


 「これは日本政府の責任ではありません。

  一個人の過激な行動です。

  私は三十年以上、外交の現場におりました。

  過激な思想を持つ者は、どの国にもおります」


 陸奥は顔を上げ、深く息を吸い込む。

 「……それでも、日本の恥です。

  私たちの交渉の場で、このようなことが起きた」


 李鴻章は、包帯の下でかすかに笑んだ。

 「人間の行いは、国の品格を決めます。

  あなたが今ここに来たこと――それこそが、日本の誠意でしょう」


 沈黙が落ちた。

 春帆楼の夜気が、障子の隙間を抜ける。

 どこか遠くで犬が鳴いた。


 李鴻章はゆっくりと続けた。

 「ですが、陸奥大臣。交渉は一時中断させていただきます。

  私の身体が回復するまで……」


 「もちろんです」

 陸奥はすぐに頷いた。

 「閣下が回復されるまで、我々も筆を置きましょう。

  どうか、静養なさってください」


 そのとき、久信が一歩前に出た。

 若い外交官の顔には、深い敬意があった。

 「李鴻章閣下……あなたの勇気と寛容に、心より敬意を表します」


 李鴻章はその言葉に、微かに目を細めた。

 「若い方……お名前を」


 「久信と申します。藤村総理の嫡子です」


 「そうですか……あなたの国は、よい後継者を持ちました」

 「私も、かつてはあなたのような青年でした」


 短い対話だったが、その響きには国境を越えた温度があった。


 陸奥は再び深く頭を下げた。

 「閣下、必ずや藤村総理にこのことを報告いたします。

  そして、日本国として誠意を尽くす所存です」


 李鴻章は頷き、目を閉じた。

 「……私は、それを信じます」


 部屋を出ると、夜の空気が肌を刺した。

 提灯の火が風に揺れ、長い影を石畳に落とす。

 しばらく歩いた後、久信が口を開いた。


 「陸奥閣下……李鴻章閣下は、あの状況で、なお冷静でした」

 「もし私が同じ立場なら……あれほどの言葉は出せません」


 陸奥は夜空を見上げた。

 「李鴻章閣下は七十を超え、三十年外交を生き抜いた男だ。

  彼の背には、国の重みと、敗戦の責任がある。

  それでもあの穏やかさを失わぬ――本物の外交官だ」


 久信は黙って頷いた。

 その瞳には、尊敬と同時に、未来への決意が宿っていた。


 宿舎に戻ると、陸奥は机に腰を下ろし、すぐに電報を打った。

 ――「清国全権李鴻章、狙撃さる。命に別状なし。交渉一時中断。誠意ある対応、至急検討を要す。」


 送信を終えた後、彼はゆっくりと手を握った。

 「……晴人公。あなたの“理の国”が、今こそ試されております」


 窓の外では、海が闇に溶け、灯台の明かりが遠くで瞬いた。

 嵐の前の静けさ――

 それは、やがて訪れる“日本の決断”の夜明けを告げる光でもあった。

朝の光は白く、障子を透かして書斎をぼんやりと照らしていた。

 藤村邸の静けさは、病室のそれに似ていた。時計の針が律儀に進むたび、晴人の胸の奥で何かがきしむ。


 枕元の電報が、まだ温もりを残している。

 ――「李鴻章、狙撃さる。命に別状なし。交渉、一時中断。」

 墨の黒が、国の恥を刻むように濃く見えた。


 「……篤姫。」

 寝台脇に控えていた篤姫が、そっと顔を上げる。

 「はい。」

 「大久保と児玉、それに陸奥と久信へ連絡を。――臨時閣議だ。電信で構わん。」

 「ですが、医師は絶対安静と……」

 「寝たままでやる。机を、こちらへ。」


 使用人が机を運び入れ、文箱と地図を並べる。

 息を吸うたびに胸が軋み、視界の縁が白く霞む。


 卓上電話のベルが短く鳴いた。

 「総理、陸奥です。」

 「状況を。」

 「犯人は小山豊太郎、単独犯。李鴻章閣下は左眼窩下を負傷、弾は貫通。命は無事です。こちらの謝罪を受け、交渉は回復次第再開とのこと。」

 「……そうか。」


 続いて児玉の低い声。

 「世論は沸騰しております。だが軍の規律は保たれております。」

 大久保が言葉を継ぐ。

 「欧米の新聞は早いでしょう。“日本は文明国たり得るか”と。」


 晴人は一呼吸置き、低く言った。

 「――聞け。今必要なのは“怒り”でも“弁解”でもない。“秩序”だ。」


 障子の外で、うぐいすが一声鳴く。


 「第一。犯人・小山豊太郎を厳罰に処す。罪名は“講和妨害・国辱”――終身刑。法務に即日指示せよ。」

 「承知。」大久保の声。

 「第二。清国皇帝への親書は、私が起草する。“政府の恥を恥と知る”文言を入れる。外務は翻訳を最上級で整えよ。」

 「拝命。」陸奥の声が低く響く。

 「第三。李鴻章個人への見舞金――銀十万両。医療費も日本が全額負担だ。」

 「外務で手配いたします。」


 晴人は深く息を吸い、最も重い言葉を落とした。

 「第四。賠償金を減ずる。三億両を、二億五千万両へ。」


 電話口の向こうが凍りついた。

 児玉が最初に声を発した。

 「総理、それでは日本の国益が――」

 「わかっている。」

 「兵は血を流しました。遺族も多く……」

 「だからこそ、だ。」


 晴人は机に片手を置き、節の浮いた木目を押さえた。

 「この五千万両は、“礼”の代価ではない。“文明”の証文だ。」


 声が震え、しかし一語ごとに力がこもる。


 「我々は勝者だ。だが、勝者の振る舞いこそが国の品位を決める。

  講和の場で相手の全権が血を流した――この不名誉を、法と理で償う。

  怒りではなく、理で国を動かす。これが“文明”の責任だ。」


 電話の奥で陸奥が息をつく。

 「……総理、世界はこの判断を見ております。」

 「評価されるためにやるのではない。われら自身の秩序を守るためだ。」


 咳が込み上げ、胸を押さえる。篤姫が湯を差し出す。

 晴人はかすかに笑った。

 「まだ終わらん。」


 「減額は情にあらず。“秩序維持の費用”だ。」

 「一、見舞金および医療支援。

  二、講和継続の担保。

  三、欧州世論の鎮静。

  この三点を見越した投資だ。」


 「英吉利イギリスには?」と大久保。

 「在倫公館へ打電せよ。――『日本、暴挙を憎み、理に拠る。減額は文明の証左なり。遼東の正当性に曇りなし』と伝えろ。」

 「承知。」


 晴人は地図を広げ、下関から遼東、満州の鉄路予定線をなぞる。

 指先がかすかに震えた。

 「この線は血で引くな。ペンで引け。」

 その言葉は、祈りにも似ていた。


 若き日、ロンドンの霧の街で聞いた外交官の言葉が、脳裏をよぎる。

 ――「勝者の節度は、敗者の尊厳を守るためにある。」


 電話が再び鳴る。

 「総理、新聞各社が談話を求めています。」

 「こう答えよ。『日本は力で勝ち、作法で守る。無作法なる勝利を、われらは勝利と呼ばぬ』。」


 そのとき、襖が開き、義信と義親が駆け込んできた。

 「父上!」

 晴人は顔を上げ、わずかに笑う。

 「顔色が悪いのは、国の方だ。……私ではない。」

 その冗談に、二人は言葉を失い、涙を堪えた。


 「聞け。」晴人の声が再び引き締まる。

 「三国干渉は必ず来る。英と歩調を合わせよ。独仏は言葉を飾るが、ロシアは“遼東を返せ”と迫る。

  ――よいか。譲る時は“恩”で譲り、守る時は“理”で守る。

  今回の減額は“恩”だ。遼東は“理”である。取り違えるな。」


 電話の向こうで陸奥の声。

 「御意。」


 通話が切れ、静寂が戻る。外では小雨が降り出し、庭の杉垣を濡らしている。

 晴人は筆を取り、親書の冒頭を書いた。

 ――『朕邦ノ過ヲ恥トス――』

 墨はみずみずしく、しかし筆圧は弱い。


 篤姫がそっと肩に羽織を掛けた。

 「あなたの“理”は、まだ温かいままです。」

 その言葉に、晴人は短く頷いた。


 雨脚が強まり、屋根を叩く音が鼓動のように響く。

 ――国の心臓は、まだ止まっていない。

 倒れているのは、ただこの老いた身体だけだ。


 筆の先が最後の一字を置く。

 墨が灯火に照らされ、黒の中に静かな光を宿す。

 晴人は息を整え、つぶやいた。


 「これで――“理の国”は、まだ歩ける。」

午後の陽が、春帆楼の瓦を柔らかく照らしていた。

 海の向こうでは、まだ冬の風が尾を引いている。

 その光の下、陸奥宗光と藤村久信は、静かに歩を進めていた。

 李鴻章の宿舎――かつての旅館を改修した洋館の玄関前には、清国の旗が風に揺れている。


 門番の清兵が敬礼をし、二人を中へ通す。

 廊下には薬の匂いと消毒液の匂いが混ざっていた。

 遠くで誰かが静かに中国語で祈りを唱えている。

 李鴻章の部屋の前で立ち止まり、陸奥が深く息を整えた。


 「入るぞ。」

 障子を開けると、ベッドの上に横たわる李鴻章の姿があった。

 左の頬に白い包帯が巻かれ、顔はやつれている。

 しかし、その目だけは、まだ戦場に立つ将のように鋭かった。


 「李鴻章閣下、陸奥でございます。」

 通訳がすぐに中国語へ訳す。

 李はゆっくりと首を動かした。

 「……陸奥大臣、お手を煩わせてしまい申し訳ない。」

 その声音には、痛みよりも礼が先に立っていた。


 陸奥は深く一礼し、封筒を両手で差し出した。

 「本日は、日本政府を代表してお見舞いに参りました。

  まずは、藤村総理よりの親書をお渡しいたします。」

 通訳が言葉を重ねると、李の目が静かに見開かれた。


 李は震える手で封筒を受け取った。

 封蝋を解き、紙を開く。

 墨の匂いが、ふっと部屋に広がった。


 「――“我邦ノ過ヲ恥トス。文明国ノ道、理ニ在リ。敵国ノ使節ニ災ヲ蒙ラシメシハ、我ニトリ最大ノ恥ナリ。”」

 老いた唇が、ゆっくりと読み上げる。

 その一字一字が、彼の胸の奥へ染み込んでいく。


 李はやがて顔を上げた。

 「……陸奥大臣。これほどの言葉を、私は三十年の外交の中で一度も受けたことがない。」

 包帯の下、口元がかすかに震えていた。


 陸奥はさらに言葉を続けた。

 「藤村総理から、追加の通達がございます。」

 通訳が読み上げる。


 「一、小山豊太郎は終身刑に処す。

  二、清国政府に正式な謝罪文を送達する。

  三、李鴻章閣下に見舞金として銀十万両を贈る。

  四、賠償金は当初の三億両から二億五千万両へ減額する。」


 静寂が訪れた。

 時が止まったように、誰も動かなかった。

 李は信じられぬように、陸奥の顔を見つめた。


 「……賠償金を、減額する……と?」

 「はい。」

 「なぜだ。」


 陸奥は目を伏せ、短く答えた。

 「日本は、勝者としての作法を重んじます。

  文明国の名は、相手を打つ力ではなく、赦す理によって立つ。

  総理の決断でございます。」


 李の目に、光が滲んだ。

 長い沈黙ののち、かすれた声で言った。

 「……これは、“恩”ではなく、“理”の決断なのですね。」

 「その通りです。」陸奥が頷く。


 李はゆっくりと息を吐き、右手を胸の上に置いた。

 「私は七十二歳です。外交の場に三十年以上立ち続けました。

  だが、これほどの誠意を見たことがありません。」

 声が震え、包帯の下から涙が一筋、頬を伝った。


 「私は清国のためにこの地へ来ました。

  屈辱も恥も、すべて飲み込む覚悟でした。

  だが……この傷の痛みよりも、あなた方の言葉の方が深く刺さります。」


 陸奥は静かに頭を垂れた。

 「藤村総理の望みはただ一つ。

  ――戦の終わりを、理と礼で飾ることです。」


 李は両手で親書を包み、胸に当てた。

 「この手紙は、私の心の中で永遠に残ります。

  私は、貴国を尊敬します。」


 窓の外、春の海が静かに光っていた。

 風が一陣、カーテンを揺らす。

 その中で、李の頬を伝う涙が、まるで潮のように輝いた。


 陸奥と久信は深く一礼し、部屋を後にした。

 廊下を歩く二人の足音が、板の間に吸い込まれていく。

 「……これでよかったのでしょうか。」久信がぽつりと呟く。

 陸奥は短く答えた。

 「よかったかどうかは、歴史が決める。だが――文明国は、こうして試されるのだ。」


 外に出ると、下関の港には春の風が吹いていた。

 釣り人の少年が波止場に糸を垂れ、遠くで汽笛が鳴る。

 その音は、まるで時代が新しい航路に入ったことを告げる鐘のようだった。


 ――三日後、ロンドン。


 厚い霧が街を覆い、ガス灯がぼんやりと霞んでいる。

 英国外務省の執務室では、外相キンバリー卿が新聞を手にしていた。

 その見出しには、こうある。

 「Japan shows humanity after victory.(日本、勝利の後に人道を示す)」


 「……ふむ。」

 外相は微笑み、側に控える秘書官に言った。

 「見たかね。日本は狙撃事件のあと、賠償金を減額した。」

 「はい、閣下。終身刑と謝罪、さらに見舞金も支払ったとか。」

 「実に見事だ。勝利してなお、この節度。

  文明とは、こういうものだ。」


 キンバリー卿は窓の外を見やる。

 灰色の雲の下、テムズ川の水面が銀色に揺れていた。

 「……ロシアの南下を止めるのは、日本だ。」

 秘書官が頷く。

 「では、同盟交渉を進めますか。」

 「もちろんだ。」

 外相は静かに言った。

 「この国なら、信頼できる。」


 ペン先が羊皮紙を滑る。

 ――“英国は、日本と連携し、極東の均衡を保つ意向にあり。”

 書き終えると、インク壺の蓋を閉じた。

 その音が、まるで新しい時代の扉を叩く音のように響いた。


 テムズの風が窓から吹き込み、書類の端をめくった。

 外相は一度だけ空を見上げ、静かに呟いた。

 「文明とは、勝ち方を知ること――藤村総理、その理に敬意を。」


 霧の向こう、ビッグベンが時を告げる。

 その鐘の音は、はるか極東の下関まで届くかのように、長く、深く、鳴り響いていた。

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