417話:(1895年・3月)下関条約交渉① 倒れゆく宰相と、海を越える盟約
春の光が、下関の海を白く照らしていた。
早朝の港はまだ霧が立ちこめ、船の汽笛が鈍く響く。潮の匂いと、遠くから運ばれる石炭の煙の匂いが混ざり合い、戦の終わりを告げる街の空気を包んでいた。
春帆楼。かつて旅人が海を眺めて憩ったこの楼閣は、いまや二国の命運を決める「戦後会議」の舞台となっていた。
畳敷きの大広間。障子を透かす光の中、机には地図と条約草案、硯、銀時計、そして沈黙が並んでいる。
午前十時。
陸奥宗光が静かに立ち上がり、会議の開会を告げた。
「李鴻章閣下、第2回会議を始めます」
その声は低く、しかし芯が通っていた。
李鴻章はゆっくりと頷き、扇子を畳んで卓上に置いた。七十二歳の顔に刻まれた皺は深く、戦と政治が刻んだ歴史そのもののようだった。
「陸奥大臣、前回の会議で、私は多くの条件を受け入れました」
声は低いが、よく通る。通訳が日本語に訳す間もなく、その眼差しの強さが場を支配した。
「朝鮮の独立、遼東半島の承認、通商権の拡大、最恵国待遇。だが、賠償金――銀三億両。これは、あまりに過酷です。再考をお願いしたい」
通訳が淡々と日本語に訳す。
会議室の空気が一段と重くなる。
陸奥は、少しの間を置き、落ち着いた声で応じた。
「李閣下。前回も申し上げた通り、賠償金は交渉の余地はありません」
李は静かに扇を開き、顔を伏せた。
「陸奥大臣。清国の年間歳入は八千万両にすぎません。三億両とは、その四年分。
民は飢え、国家は立ち行かなくなります。それは……もはや政治ではなく、人道の問題です」
その言葉に、通訳が一瞬詰まった。
室内の空気が微かに震える。
対する陸奥は、目を細め、まるで感情を凍らせたように言葉を返した。
「李閣下、日本もまた、この戦で血を流しました。
戦費は二億円、兵士一千四百余名が命を落としました。
賠償金はその犠牲の補償であり、遼東と満州の開発の礎です。
それは“勝者の権利”ではなく、“文明国の責任”です」
李の眉がぴくりと動いた。
その静寂の中で、藤村久信が胸の鼓動を感じていた。
(……これが、外交の戦場)
筆を取る手が震えている。陸奥が淡々と話す一言一言が、剣よりも鋭く、場を斬り裂いていた。
(父上……私も、ここで戦わねばならぬ)
李鴻章が再び口を開く。
「陸奥大臣、では、銀二億両に減額することは――」
陸奥は即座に遮った。
「できません」
その瞬間、場の空気が一気に凍りつく。
筆を走らせていた書記官の手が止まり、誰もが息を潜めた。
久信の喉がひとり震えた。
(……今だ)
父の教えが、脳裏に蘇る。
“理は人を従わせる。感情ではなく、数字と秩序で語れ”
「李鴻章閣下」
若い声が、静まり返った会議室に響いた。
李の目が、その声の主を捉える。
「藤村久信と申します」
久信は背筋を正し、手にした書類を机上に置く。
「賠償金三億両の内訳を、ご説明いたします」
通訳が訳す前に、李は日本語のまま頷いた。
「聞こう」
久信は深呼吸し、声を張った。
「一億両――戦費の補償。
一億両――遼東および満州開発の資金。
一億両――戦没者遺族と国内復興のための支出。
この三つ、いずれも正当な理由に基づいています」
李の目が動かない。
その視線に、若い外交官の言葉が耐えきれるかどうか、試しているようだった。
久信の声が少し震えたが、すぐに静かな熱を帯びた。
「この戦は、日本だけの勝利ではありません。
東アジア全体の近代化の証でもあります。
清国も、再び立ち上がるために、この痛みを共有すべきです」
通訳が訳すと、室内に一瞬だけ風が通った。
李は長い沈黙ののち、静かに微笑んだ。
「藤村殿……あなたは若い。しかし、厳しい」
「お父上に、似ておられる」
久信は頭を下げた。
「ありがとうございます」
李は視線を落とし、扇を閉じた。
「……では、この三億両を十年分割で支払うことは、できませんか」
陸奥は黙考し、久信に目をやった。
視線の合図。
久信は頷く。
「閣下、十年は長すぎます。七年ならば、我々も受け入れます」
李がわずかに息を呑む。
その隣で伍廷芳が小声で囁く。
「閣下、七年であれば……日本の譲歩を引き出したと報告できます」
李はゆっくり頷き、扇を静かに閉じた。
「……よろしい。七年分割で支払います」
陸奥が席を立つ。
「では、本日の議題はこれまでとします」
筆記官が条約草案に印をつける音が響く。
その音が止んだとき、久信はふっと息を吐いた。
(……終わった。だが、これは始まりだ)
李の視線が再び久信に向けられる。
敗者の眼ではなかった。
むしろ、三十年を国家に捧げた男の、誇りの残光。
「藤村殿――よい言葉を持っている。どうか、それを失わぬように」
久信は深く頭を下げた。
その言葉の重みを、静かに胸に刻みながら。
春帆楼の灯りが、夜の海を淡く照らしていた。
潮風に混じって、石油ランプの匂いが漂う。港のざわめきは遠く、波の音だけが会談の終わった静寂を包んでいた。
二階の一室、障子の向こうでは、春の虫の声が微かに聞こえる。
陸奥宗光は、洋装の上着を脱ぎ、椅子にもたれていた。疲労の色が濃いが、その眼光はまだ冴えている。
卓上のランプが、地図と書簡を淡く照らしていた。
「……李鴻章は、すべてを受け入れた」
陸奥は低く呟き、紙に目を落とした。
向かいに座る藤村久信は、姿勢を正したまま、まだ胸の鼓動が収まらないでいた。
「賠償金、七年分割での決着……閣下、これは日本にとって、十分な成果です」
「成果か」
陸奥は苦く笑った。
「勝ちすぎた戦は、往々にして災いを呼ぶ。久信殿、この静けさを“勝利の証”と思うな。嵐の前触れだ」
久信は顔を上げた。
「嵐……」
陸奥は頷いた。
「ロシアだ。遼東半島を日本が領有すれば、あの国は黙っておらぬ」
ランプの光に浮かぶ陸奥の横顔には、冷たい影が差していた。
「彼らにとって遼東は、満州への門戸だ。南下政策の要。日本がそれを塞げば、必ず牙をむく」
久信の背筋に冷たいものが走った。
「……ロシアが、干渉を?」
「ロシアだけではない。ドイツ、フランスも動くだろう。三国が手を結び、“文明の名のもとに”日本を圧迫してくる」
陸奥はグラスを手に取り、水をひと口含んだ。
「勝者であっても、孤立すれば弱者となる。それが、国際政治だ」
久信は、膝の上で拳を握りしめた。
「では……我々は、どうすればいいのですか」
陸奥の視線が、久信の目をまっすぐ射抜いた。
「英国だ」
「……英国?」
「そうだ」
陸奥は静かに立ち上がり、窓の外を見やった。
月明かりに、関門海峡が銀色の帯のように輝いている。
「お前の父上――藤村総理は、三十年前から英国との関係を築いてきた。満州開発、通商条約、海軍顧問。すべては“この時”のためだった」
久信の胸が熱くなる。
「父上が……」
陸奥は続けた。
「英国はロシアの南下を警戒している。日本の勝利は、彼らにとっても都合がいい。だから、もし三国が日本を脅したら――英国が動く」
「……英国が、我々を守ると?」
「守るのではない。共に立つのだ」
陸奥の声は力強かった。
「日本と英国は、利害を共有している。“ロシアの南下を阻止すること”――それが両国の共通の目的だ」
久信は、手元の地図を見つめた。
海峡を越えた先、朝鮮、遼東、満州、そしてさらに北――シベリア。
「……では、日英同盟を結ぶ、と?」
陸奥は振り返った。
「そうだ。お前の父上は、すでに英国と交渉を進めている。ロンドンの外相とも何度も会談を重ねてな。
日英同盟――それこそが、三国干渉を跳ね返す唯一の盾だ」
ランプの炎が、ぱち、と音を立てた。
久信の瞳にその光が映る。
「……父上は、そこまで見ておられたのか」
陸奥はゆっくりと頷いた。
「藤村晴人という男は、十年先ではなく、三十年先を見て動く。私が政治を学んだのも、彼の背中を見てからだ」
短い沈黙ののち、陸奥はふっと微笑んだ。
「だがな、久信殿。お前もまた、その血を継いでいる」
久信の喉が熱くなった。
「……私は、まだ未熟です。今日も、あの場で声が震えました」
「震えて当然だ」
陸奥の声がやわらかくなった。
「外交とは、言葉で命を賭ける戦だ。震えぬ者など、いない」
久信は視線を落とした。
「李鴻章閣下は、立派な方でした。敗れてなお、国を背負っていた。……尊敬します」
陸奥は小さく笑った。
「敵を尊敬できる者だけが、本当の外交官になれる。李は敗者だが、誇りを捨てていなかった。そこを見抜いたお前の目は正しい」
外では、風が障子を揺らした。
関門の潮の音が静かに響く。
「久信殿」
陸奥の声が少し低くなった。
「これからの日本は、刀ではなく条約で戦う時代だ。
お前の父上が制度で国を創ったように、お前は言葉で国を護れ」
久信は深く頭を下げた。
「……心得ました」
陸奥はグラスを掲げ、ランプ越しにその光を透かした。
「下関の海を見ろ。潮は満ち、やがて引く。だが、流れは止まらん。
この潮が英国へと渡る――それが、次の時代の始まりだ」
久信は窓辺に立ち、夜風を感じた。
月の光が海面に筋を描き、対岸の灯りが瞬いている。
彼の胸に、ひとつの決意が生まれた。
――父の築いた三十年を、今度は自分が未来へ繋ぐ。
その夜、下関の空には雲がなかった。
潮の音とともに、歴史の歯車が静かに回り始めていた。
ロンドンは薄灰の空を低く垂らし、春とは名ばかりの冷気がテムズの川面を鈍い鉛色に沈めていた。
外務省の石造りの壁は雨を吸い、古い石炭の煤と混じって、どこか鉄の匂いがする。馬車の車輪が濡れた石畳をゆっくりと滑り、遠くでビッグ・ベンの鐘が、雲にくぐもった音を落とした。
長い回廊に、ガス灯が等間に灯っている。磨き込まれた木の床を、黒靴が静かに渡った。
日本の駐英大使は、胸に小さな汗を置いたまま、背筋だけを凛と伸ばして歩く。受付の書記官は慣れた手つきで名刺盆を差し出し、淡い笑みだけで通り道を示した。
応接室の扉が開く。
高い天井、漆黒のマントルピース、壁を埋める地図と油彩。石炭ストーブの熱が、濡れた外衣の湿りをじわりと追い出していく。
窓には厚いドレープのカーテン。窓辺の鉢植えの月桂樹が、外気の震えを吸って微かに葉を鳴らしていた。
英国外相は立ち上がり、手を差し出した。
鷹のような鼻梁、薄い唇、冷えた海を思わせる灰青の瞳。
「遠路、ご苦労を。どうぞ、お掛けください」
言葉は礼儀正しいが、視線は海図の羅針のようにぶれない。
大使は礼を尽くし、椅子に腰を据える。
テーブルにはクリスタルの水差しと、薄い磁器のカップ。紅茶の琥珀色が湯気とともに揺れ、柑橘の皮をひと刷け落とす香りが、鋭さの余韻を部屋に残した。
「まずは、日本の勝利に祝意を」
外相が言う。
「黄海、遼東、そして威海衛。記録は拝見しました。手際も、速度も、諸君は我々の想像以上だった」
大使は一度だけ頷き、言葉を選ぶように口を開いた。
「ありがたく拝受します。――ですが、本題はここからです」
外相の片眉がわずかに動く。
大使は懐から封筒を取り出し、卓上に静かに置いた。封蝋は鮮やかな緋。そこに押された桜花の印章が、部屋の冷たい色調に一滴の体温を落とす。
「下関で講和会議が始まりました。朝鮮独立、遼東の承認、賠償銀――大枠は動きません。そこで、貴国に確認を」
外相は封筒に触れず、まずは大使の目を見た。
「確認?」
「ロシアは、動くでしょう」
“しょう”の音に、火の粉のような硬さが混じる。
「ドイツとフランスも、名分を纏えば軽やかに踊るはず。――遼東を返せ、と」
外相は笑わなかった。指先でコースターの縁を一周撫で、ついで海図の“満洲”の上に手を置いた。
「遼東は、門です。北から南へ、もしくは南から北へ。門は、所有が重要ではない。“誰に開いているか”が重要だ」
大使はすぐに応じる。
「ゆえに、日本は門番となる。門を閉ざすのではない、開く相手を選ぶ――秩序の門番です」
石炭がぱち、と弾け、赤い芯が一つ潰れた。
外相は紅茶を一口、長い沈黙をあえて挟む。灰青の瞳は、霧の向こうの艦影を見るように遠い。
「仮に、三国が勧告する。日本は耳を貸さない。――その時、我が政府は?」
大使は鞄から薄い覚書を取り出し、二枚を重ねて差し出す。
「非公式の覚書です。第一に、極東の現状変更を一方的圧力で迫る択は、長期の不安定を生みます。第二に、日本は通商を妨げない。“門”は英国商船に開かれている。第三に、日本は借款・資材・顧問の受け入れで、貴国を優先的に遇します」
外相は紙を受け取り、目だけで上から下へ、刃のような速度で読んだ。
口元にごく薄い笑みが走る。
「……我が国の新聞は、勇ましい見出しが好きでしてね。『新興の東洋の国、欧州を驚かす』。売れるでしょう」
「見出しは自由に。しかし本文は、互いに書きましょう」
大使は静かに返す。
「同盟――名称は要りません。形式も、今は。必要なのは、中身と速度です。三国は“講和の直後”に来る。遅い約束は、約束であって約束でない」
外相は片手で懐中時計を取り出し、蓋を開いて白い盤を一秒だけ見た。
「速度――よろしい。ではこちらからも、三つの条件を。
第一、日本は遼東において無用な拡張を避け、秩序を保つこと。
第二、通商・航路・電信の便益において、英国に“実効上の最恵”を与えること。
第三、万一の外交圧迫に際しては、まず情報を共有し、独断の“決裂”を避けること」
「受けます」
大使の答えは刃先のように細く、迷いがなかった。
外相の目が、初めてやわらいだ。
「決断が早い。貴国の総理に似ておられる」
「彼は三十年、先に地図を引いて歩く男です」
言葉に、少しだけ誇りが混じる。
外相は頷いた。
「承知しています。――それで良いでしょう。公式文書にはしません。だが、我々は“用意をしておく”。外交は、準備した側が勝つ」
窓外を叩く霧雨が音を強め、テムズの方角から汽笛が一つ、低く響いた。
外相は席を立ち、暖炉の上の額装地図に歩を進める。英国の赤が世界に散り、海路が蜘蛛の糸のように絡み合っている。
「極東は遠い。しかし海は繋がっている。――ロシアは陸で迫り、我々は海で回り込む。日本は、その節目に立った」
大使も立つ。
「節目に立つ者は、風を読むだけでは足りません。帆を張る腕が要る」
外相は愉快そうに目を細めた。
「帆――いい比喩だ。では帆柱は、我々が一本用意しましょう」
彼は執務卓の呼び鈴を鳴らし、秘書官に短い指示を与えた。
「覚書の骨子を起草。機密扱い。文言は“相互便宜・友好・極東安寧”。……名は要らない」
秘書官が去ると、室内に再びストーブの呼吸だけが戻った。
外相は手袋を取り、握手を求める。指は温かく、掌は乾いている。
「風向きは、東から西へ。今夜はそれで良い」
大使はわずかに頭を垂れた。
「次に風が変わる前に、港を出ます。三国が帆を張る前に――我々は帆を張りました」
別れの礼を終え、扉が静かに閉じる。
回廊を戻る靴音が、石と木を交互に叩いた。
外に出ると、霧雨は細かな針のように顔に触れ、街灯の光を粒に変えて舞わせる。
馬車台までの短い距離、ロンドンの空気は冷たいのに、胸の内側は不思議と温かい。
大使は馬車の扉に手を掛け、ふと背後を振り返った。
石の巨体は黙し、しかし確かに頷いたように見えた。
鞭が軽く鳴り、馬車が動き出す。
濡れた車輪が水を上げ、街の灯が長い線となって流れた。
――三国が来る。だが、その前に、英国は立つ。
その確信は、テムズの鈍い光よりも鮮やかに、心臓の鼓動と同じ拍で、静かに強く刻まれていた。
春の朝が、霞のように淡く降りていた。
東京の空は、薄い雲が幾重にも重なり、光を透かして柔らかく街を包んでいる。庭の梅はすでに散り、若葉がのぞく。遠くで鶯が鳴いた。
藤村邸の書斎。
障子越しの光が、机の上の書類を白く照らしていた。硯の黒が鈍く光り、火鉢の炭が静かに赤い芯を覗かせている。
その前に、藤村晴人は身を預けるように腰を下ろしていた。
七十一歳の身体には、長年の激務が確かに刻まれている。髪は白く、手の甲の血管は浮き上がり、指先が細かく震えていた。
机の上には、電報が一通。
――「第二回会議終了。賠償金七年分割にて合意。李鴻章、他条件すべて受諾。」
晴人は目を細め、紙を指で押さえながらゆっくりと読み上げた。
「……そうか。陸奥も、久信も、よくやった」
声は掠れていた。喉から出るというより、胸の奥から漏れるような声だった。
しかし、その安堵はすぐに痛みに変わった。
胸の奥が、重く軋むように疼く。
「……ふ、まただ」
椅子に背を預け、深く息を吸い込もうとする。だが、肺の奥まで空気が届かない。
息が浅い。
手を伸ばそうとするが、指が思うように動かない。
書斎の隅で、篤姫が朝の支度を整えていた。
その静けさが、余計に音を遠ざけていく。
晴人は視界の隅で、光がゆらめくのを見た。
――立たねば。
その意志だけで身体を起こそうとしたが、脚に力が入らない。
目の前が急に傾き、世界が逆さになった。
「……っ!」
床に倒れる音が、鈍く響いた。
筆立てが転がり、硯の水が机を伝って畳に染みていく。
「晴人様!」
篤姫が駆け寄る。顔から血の気が引いていた。
「晴人様、しっかりなさって!」
彼女の声が遠く聞こえる。
晴人はかすかに目を開けた。
「……少し、めまいがしただけだ」
「めまい? そんな……!」
篤姫は手を握る。その手は冷たい。震えていた。
「すぐに医者を呼びます!」
彼女は廊下へ駆け出し、使用人を呼ぶ声が響く。
「至急、先生を! 急いで!」
間もなく、医師が駆けつけた。
白い髭をたくわえた中年の医師が、脈を取り、瞳孔を覗き、胸に耳を当てる。
しばらく沈黙が続いた。
やがて、医師は深く眉を寄せた。
「……極度の過労です。そして、心臓が弱っています」
篤姫の顔が青ざめる。
「心臓……?」
「脈が不規則です。胸の音も異常があります。心不全の兆候です」
医師の声には迷いがなかった。
「このままでは危険です。総理、すぐに入院を」
晴人は小さく首を振った。
「……入院はできん。まだ仕事がある」
医師が驚き、篤姫が叫んだ。
「晴人様! もう、十分に働かれました! どうかお身体を……!」
晴人は、薄く微笑んだ。
「講和条約の調印が終わるまでは、倒れるわけにはいかんのだ」
医師は唇を結び、言葉を飲み込んだ。
「せめて……安静に。絶対に無理はなさらぬように」
医師が去った後、息子の義信と義親が駆けつけた。
「父上!」
「父上、大丈夫ですか!」
晴人は布団に横たわり、かすかに笑った。
「……騒ぐな。少し休むだけだ」
義信は目を赤くして言った。
「父上、もうおやめください。医師が申しておりました。心不全の兆候だと……」
義親も声を震わせた。
「父上、もう十分です。どうか、引退を……」
晴人は静かに首を振った。
「まだだ。講和条約を締結し、三国干渉を乗り越えるまでは、やめるわけにはいかん」
篤姫がそっと手を握る。
「……お願いです、無理だけは」
「分かっている。だが、これは私の務めだ」
しばらくの沈黙。
障子の向こうでは、春の光が揺れている。
庭の池では鯉が跳ね、風に竹が擦れる音がかすかに響く。
やがて晴人は目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
「……英国との関係を、築いておいて良かった」
彼の脳裏に、若き日の光景が浮かんだ。
――1860年代。
まだ黒髪の頃、ロンドン公使館で英国大使と握手を交わした日。
「ロシアが南下すれば、我らは共に立ち向かう」
「良い。君たちが海を開くなら、我々は航路を支える」
その約束が、彼の胸に根を下ろした。
――1870年代。
満州開発の構想を掲げ、英国の資本を呼び込んだ。
蒸気機関、鉄道、通信、造船――すべて英国式。
「文明は国境を越える。だが、心がなければ植民地になる」
その警句を、彼は若い官僚たちに何度も語った。
――1880年代。
帝国議会の開設、殖産興業、教育改革。
英国との交流は経済だけでなく、人材育成にも及んだ。
留学生を送り出し、工学を学ばせ、語学を身につけさせた。
「知識こそ、最大の防壁だ」
そして今。
その三十年の積み重ねが、海の向こうで形になろうとしている。
英国が動く。
ロシアも、ドイツも、フランスも――もはや恐れるに足らぬ。
晴人は微笑んだ。
「三十年の絆が、今、我が国を護る……」
目を閉じると、海の香りがした。
遠い記憶。ロンドンの霧、灰色の空、テムズの水面。
あの日見上げた灰色の雲が、いま東京の空にも広がっている。
「――これでいい」
彼は小さく呟き、深く息を吐いた。
篤姫がその傍らで、静かに涙を拭った。
火鉢の炭がぱち、と鳴る。
外では、春の風が木々を撫で、花びらが空へ舞っていく。
そして、その夜。
藤村邸の灯が一つ、遅くまで消えなかった。
歴史の流れを見届けるために、老いた英雄の瞳は、なおも光を宿していた。




