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40話:鉄を打つ、未来を鍛つ

朝靄が晴れゆく頃、水戸城下の外れ。荒地をならして造られた作業場では、簡素な石組みの高炉から、赤く燃え立つ炎と白煙が立ちのぼっていた。


 炉の前に立つのは、煤けた袖をまくった晴人と、異様な存在感を放つひとりの男――村田蔵六である。


 彼は、元々宇和島藩の客員として理化学を教えていたが、晴人の産業構想に強い関心を示し、自ら水戸に視察へ赴いた。最初は一時的な逗留のつもりだったが、晴人の技術計画と志を目の当たりにし、“これぞ時代の要”と直感する。


 ほどなくして、彼は晴人の案内で藩の技術開発区画を巡るうち、自然と“水戸藩の機密”に関わるようになった。これを受けて藩は、彼を正式に水戸藩士として召し抱えることを決定する。


 最初に与えられたのは、二人扶持・年給十両という決して高くはない禄高であった。しかし、蔵六が持つ幅広い知識――冶金、医術、工業、そして兵学までを理解する多才ぶりに晴人は驚嘆し、再三にわたって推挙を行う。


 「彼の才は、ひとつの藩が独占するには惜しいほどです。しかし、ここ水戸でなら、未来を共に描ける」


 晴人の強い説得により、ついには藩政の重臣たちも動いた。議論の末、蔵六は百石取りの上士格として再任されるに至り、晴人のブレーンとして、町づくり・国づくりの中枢に参画することとなった。


 ――そして今、彼は晴人と肩を並べ、火の前に立っている。


 「風圧、よし。炭床、均等」


 蔵六が簡素な炉口に目をやりながら、手元の図面に目を落とす。高さ一丈(約3m)程度のこの高炉は、竹組みと耐熱土で構成され、構造は簡単だが、内部は綿密に計算されている。


 「この構造、熱が滞ることなく下まで流れる……実に理にかなっている」


 「町の鍛冶職人たちと一緒に、失敗と修正を繰り返しました」


 晴人は、ふいごを操る若者たちに声を掛けながら、炉の前へと歩み寄った。


 「今日が、その答えです」


 空気穴からふいごが送り出す風が、勢いよく炭を燃やし、砂鉄と共に鉄を溶かし始める。


 炉の側には、すでに形をなした試作の農具がいくつも並んでいた。鍬、鋤、鉄釘、鎌――それらは木工に頼っていた従来の農村道具とは一線を画す、頑丈で精緻な造りである。


 「……これらの道具を、金で買えぬ者にも届くようにしたい」


 晴人のつぶやきに、蔵六はゆっくりと頷いた。


 「民の暮らしを変えるのは、力でも金でもない。こうした“手に届く進歩”だ」


 その時、ふいご番が声を張る。


 「温度、よし! 出ます!」


 炉口が開かれた瞬間、炭と砂鉄の混合から、どろりと赤く輝く鉄滓が溶け出した。職人たちは一斉に動き、鍬を手に取りスラグを分離しながら、銑鉄を鋳型へと導いていく。


 「……いい色だ。しっかり還元されてる」


 蔵六がうなずき、鋳型の周囲で膝をつく晴人を見やる。


 「これは道具じゃない。民の“未来”を打つ槌なんです」


 晴人の言葉に、工舎の周囲にいた鍛冶職人や若者たちが静かに頷いた。


 「晴人さん、あの車輪も今日作ってみますか?」


 そう声をかけてきたのは、岩崎弥太郎であった。炉の後方では、鉄輪付きの一輪車――通称“リアカー”の試作フレームが組まれ始めている。


 「まずは町の商人に運ばせてみたい。市場の荷、農家の野菜、薪……女手でも押せるようにしたいんです」


 弥太郎の目は既に“売り方”を見ていた。


 「丈夫な鉄の車輪に、転がる滑らかさを加える。……名をつけるとしたら?」


 「そうですね……“水戸輪車りんしゃ”なんてどうです?」


 そのやりとりに、周囲から笑い声が漏れる。


 そして、再び炉の火が高まる中、村田蔵六は晴人の背に声をかけた。


 「これで終わりではないぞ。この鉄から、次の発展が生まれる」


 「ええ。銃でも、釘でも、橋でも。……未来は、まだこれからです」


 その言葉の先には、まだ見ぬ“次代”の国づくりがあった。

陽が南中を迎える頃、鍛冶場の裏手に設けられた簡素な広場には、異様な形の木造台車が数台、日を浴びて並べられていた。


 「……これが“試作一号”。鉄輪付きの一輪車です」


 晴人が手を添えると、それはかすかな軋みを立てながら地面を滑る。全体の骨組みは軽い杉材と竹で構成されており、前方には厚い鉄帯を巻かれた車輪が一つ――地面への接触抵抗を軽減し、軟弱な土路でも沈み込まず進む工夫がなされていた。


 「天秤担ぎに比べて、同じ力で倍以上の荷が運べる。しかも、腰や膝への負担も少ない。農民たちの往復回数が減れば、それだけ作業効率も上がるはずです」


 「ふむ、確かに……道が整っておらぬ水戸の村々では、大八車は幅も荷重も合わんからな」


 腕を組んで見つめていたのは、晴人のすぐ脇に立つ村田蔵六。彼は当初、宇和島から視察に来た際に晴人の構想力と構築計画に魅了され、機密情報への関与をきっかけに水戸藩に正式召抱えられた。今や工業・兵学の要人として、政から現場にまで深く関わっていた。


 「車軸と鉄輪の重心を後方寄りにすれば、押し手の負担も軽くなります。……この設計はまだ試作段階ですが、改良を加えれば、老いた者でも使えます」


 「つまり“労力の平準化”か。男だけでなく、女も、子どもも、老人までも……この一台が担えるわけだな」


 「はい。加えて、荷の傷みも抑えられます。大根や里芋、木炭や卵といった“揺らすと傷むもの”でも、安定して運べる。将来的には、町の商業流通でも用いられるでしょう」


 村田はしゃがみ込み、車輪の接地部分を手でなぞる。鉄の帯は薄く均一で、鍛冶場で打たれたばかりのものだった。


 「……よく、ここまで成したな。鋳鉄ではない、鍛接の薄帯。数度の焼き直しで、ここまで強度が出せるとは」


 「鍛冶職人たちの地力が高いのです。あとは、彼らが“何のために打つか”を明確にすれば、技術は加速します」


 「……何のために、か」


 蔵六は立ち上がり、ふと空を仰いだ。町の遠景に、まだ整備されきらぬ山路と、ぽつぽつと点在する農家の屋根が見えた。


 「物流が変われば、町が変わる。町が変われば、国も変わる……それを、一輪の車で成そうとは。愉快だ」


 そのとき、数名の商人風の男たちが、小走りで広場へ駆け込んできた。晴人が事前に呼んでおいた、町民商会の面々だった。


 「晴人様、ご連絡の通り、試作品を拝見に参りました」


 「ありがとうございます。こちらが“荷運び車”――新型の流通道具です」


 商人たちは興味深そうに手で触れ、実際に押してみたり、縄で荷を括ってみたりと動作を試す。そのうちの一人が、深く頷いて言った。


 「こいつは……野菜や炭だけじゃない。酒樽や、釘箱、染め物の反物にも使える。市場や宿場に運ぶには持ってこいだ」


 「いずれは、商人向けにも“改良型”を出すつもりです。泥除け付きで、段差でも安定するような車輪幅にする予定で」


 「……いい。これ、町に十台あれば、商会の運搬費が三割は削れる。人足の賃金も抑えられる」


 もう一人がぽつりとつぶやいた。


 「こんな便利なもん、江戸でも見たことねぇ。水戸から流れたって噂になれば、商いが変わるかもしれねぇな」


 晴人は微笑みつつ、その手を鉄輪に重ねた。


 「町の商人も、村の農民も、工場の職人も。……皆が使える道具でこそ、価値があるんです。“特別な者だけの道具”では、広がりませんから」


 村田はその横顔を見つめたのち、静かに口を開いた。


 「晴人よ。おぬしは“工”を民に戻そうとしているのだな」


 「……ええ。道具は上の者のものではなく、手に取る者の未来を開く鍵です」


 その言葉に、広場の空気が一瞬だけ静まり返った。


 やがて、再び金槌の音と、鍛冶場の煙が広がっていく。鉄は打たれ、車は動き、町が少しずつ変わり始める。


 ――これは“革命”ではない。“積み重ね”によって育つ、民の力の芽吹きなのだ。

数日後、試作された数台の鉄輪一輪車――通称「荷運び車」は、晴人の指示により、まず水戸近郊の三つの村へ無償貸与された。


 そのうちの一つ、下市村では、早朝から農道に軽いざわめきが走っていた。


 「……おい、見たか? あれ……牛車じゃねえ、なんだあれ」


 畑の脇道を、木箱を積んだ台車が音も軽やかに滑ってくる。その後ろには、年老いた男がゆっくりと手を添え、黙々と歩を進めていた。


 「じいさま、腰は大丈夫かい?」


 「おう、なんともねぇよ。背負い籠より、よっぽど楽だ。これなら、今日中に三往復できるわい」


 村の者たちは次々に集まり、台車を囲んだ。車輪は田道の凹凸を巧みに受け流し、荷物が左右に揺れることもない。


 「ほう、この車輪、鉄で巻いてあるんか……」


 「ふんどしも吊るしとけそうだな……。いや、それより、これで薪も運べるぞ。雨に濡れんように布かければ」


 ざわざわとした興奮の中、一人の若者がふと顔を上げて言った。


 「……これ、誰が考えたんだ?」


 その問いに、年寄りは白髪を揺らしながら静かに答えた。


 「お侍様じゃ。名は……確か、晴人様とかいったな。町から来たのに、田のことも山のことも、よう見とる方だった」


 「ふうん……。なら、これが続けば、町の荷も村の荷も、同じ道を行き来できるようになるってわけか」


 まるでそれは、“人と人”の距離を、物理的にも心理的にも縮める装置のようだった。


 ◇


 一方、町のほうでも変化はすぐに表れた。


 水戸城下・南町の問屋街では、早くも“荷運び車”を導入した米問屋があった。従来は一俵を担いで運ぶ人足が四人必要だった荷が、二台の荷車で二人だけで済むようになった。


 「……これは、商いが変わるぞ。午前に二往復、午後に三往復。それで五俵分じゃ」


 帳場で算盤を弾く番頭が、目を見開いていた。


 「一月で見れば、往復百回の人足代が、三割は浮く……その分、うちの米を一文安く売ることができる。競りでも有利に立てる」


 「……町で一番乗りだな、親方」


 「よし。荷札に“水戸流”と書いとけ。向こうで話題になるやもしれん」


 町人たちはこぞってこの新たな運搬具に目を留めた。日が暮れる頃には、呉服屋の番頭も、酒屋の蔵番も、「わしらにも見せてくれ」と鍛冶場を訪ねるようになった。


 ◇


 その夜、鍛冶場の奥の作業小屋では、晴人と村田蔵六が試作の改良案を囲んでいた。


 「……なるほど。手押しの支点をもう少し下げると、腕にかかる力が分散するか」


 「はい。実地で押してくれた年配の方が、曲がる時に肩が固くなると申しておりまして。体格に合わせた重心調整が要ります」


 「ふむ……おぬし、なぜそこまで民の体格にまで目を向ける?」


 「“道具は体に合ってこそ”だと、幼い頃から祖父に教わりました。……民が使えなければ、技術はただの飾りです」


 「……よく、見ているな」


 蔵六は微かに頷いた。その目は既に、鉄の向こうにある民の未来を見ていた。


 「晴人よ。いつかこの町の商いは、物流を基盤に変わるだろう」


 「ええ。運ぶ力が整えば、集める力と分ける力も育ちます。“市”も“蔵”も、在り方が変わるでしょう」


 「そのとき……この一輪の鉄が、“水戸”を一歩先に進めているかもしれんな」


 火床の残り火が、赤く揺れた。


 晴人は、その揺らぎの先に、民が荷を運び、子どもたちが学び、女たちが商品を売り買いする新たな風景を見ていた。


 それはまだ遠い未来かもしれない。だが、一台の荷車が走るたびに、その未来は確かに、すぐそこまで近づいていた。

早春の水戸。まだ肌寒さの残る空気の中、郊外の農村では、一本の轍が小道に刻まれ始めていた。


 それは牛車でも馬車でもない、ただ人の力だけで引かれる「一輪車」の通り道だ。


 「……あれが通った跡じゃな」


 田の畔に立つ老農が、指先で土をなぞるようにして言った。


 「雨のあとでも沈まんようにしてある。車輪が鉄で、土に埋まらんのだ」


 「前は雨ん中じゃ、ぬかるみで荷が半分腐っちまってたからな……ありがてえ」


 隣に立つ若者が、しみじみと呟いた。


 農村では、収穫物だけでなく、薪や灰、肥料、布、女たちの手織り糸までがこの一輪車で町に運ばれるようになっていた。中には「水戸町まで片道三里を三往復した」と誇らしげに語る農家も現れはじめている。


 晴人は、そんな声を定期的に聞き取り、すぐさま設計図に赤を書き加えていった。彼にとって、試作とは「完成」ではなく、「始まり」に過ぎないのだ。


 ◇


 一方、町では別の波紋が広がっていた。


 「奥さん、それ、どこで仕入れたの?」


 「この荷台? 西町の鉄屋よ。米屋が先に使いはじめて、今じゃ薬種問屋も真似してるって話」


 「へえ……それなら、うちも茶葉を運ぶのに……」


 町人たちが広場の一角に集まり、試作された荷車を囲んでいた。鮮やかな赤錆が浮いた車輪、角材を丁寧に組んだ荷台、その脇には晴人の筆による簡素な手引きが巻物として添えられていた。


 『坂は避けよ。石はどけよ。――力は、路と共にある』


 その短い言葉に、町の者たちは静かに頷いた。


 今や、鍛冶屋では一日に三台の荷車を仕上げるのがやっとであり、晴人の設計を忠実に再現できる職人は限られていた。だが、弥太郎の動きはすでに次の段階へと進んでいた。


 ◇


 水戸城下、藩庁の奥まった一室にて。


 「……道具が売れているというだけでは、まだいちにはならん」


 そう断じたのは、財政を預かる年配の勘定吟味役だった。


 「ですが、町と村の間を往来する荷が、今や三倍以上に増えております。これは“物流”の誕生に等しいと、私どもは考えております」


 冷静に反論したのは岩崎弥太郎だ。彼は、町と村を結ぶ定期路を整備し、さらに“運搬を請け負う者”――いわば水戸版の「運送業者」を育てる構想を説明した。


 「弥太郎。これは、“買い手が町に出る時代”ではなく、“売り手が村から来る時代”ということか」


 部屋の奥に座っていた晴人が口を開いた。


 「その通りです。村が町を求め、町が村に頼る。車が走ることで、両者が“等しく”商いの主になるのです」


 重々しい沈黙ののち、年配の重役がゆっくりと息を吐いた。


 「……聞けば、あの一輪の鉄は、おぬしが叩かせたそうだな。ならば、今度はその道を広げることだ」


 「はっ。既に、次の型も考えております。二輪化による安定性の向上や、日除けの布屋根をつけた旅商人用荷車も視野に入れております」


 そう語る晴人の横で、村田蔵六が目を細めた。


 「……ならば、次は橋か。荷車が増えれば、田川の浅瀬だけでは不便が出る。洪水期には流れるぞ」


 「承知しております。石橋か、浮き桟橋か、素材と川底の安定を見て判断します」


 水戸の未来は、いま、道に現れようとしていた。


 ◇


 その晩。


 鍛冶場の裏手。火の落ちた炉の余熱がまだ漂う中、晴人は一枚の設計図を手にしていた。


 「……これは?」


 覗き込んだ蔵六が眉を寄せた。図面には、車台の下に板バネが取りつけられ、衝撃を吸収する仕組みが描かれていた。


 「農道だけでなく、岩場や段差の多い山間地にも対応できるように――と」


 「……ほう。ならばそれは、陸だけでなく、海に近い港でも使えるかもしれんな。船荷を港から町まで……」


 「……“水戸港”が商業港になる日も、遠くないかもしれません」


 二人は顔を見合わせ、どちらからともなく微笑んだ。


 それは、ただの荷車ではなかった。民を動かし、町を変え、藩を揺らす――鉄の輪が刻む、希望の軌跡だった。

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