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【篤姫と結婚した公務員】水戸藩から始まる幕末逆転録 ~公務員が理と仕組みで日本を救う~  作者: 一条信輝


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第413話:(1894年・冬)旅順攻略 ― 三十年の成果

暁の霜はまだ溶け切らず、窓の桟を薄く白く縁取っていた。奉天総督府の作戦室。厚いフェルトで覆われた長卓に、等高線のうねりが呼吸するように広がっている。旅順半島、東鶏冠山、二龍山、松樹山――砲台の名が赤鉛筆で囲まれ、補給線の綿糸が満州の奥へと伸びていた。壁際ではモールス電信の針が乾いた音を刻み、蒸気暖房の管が低く鳴っている。


 河井継之助は、骨ばった手で地図紙の皺を押さえた。六十八歳の指が一点を軽く叩く。「――ここだ」

 旅順港の楕円の上に指が止まる。「この喉首を塞げば、黄海はわれらの池となる」。

 隣に立つ大村益次郎が、わずかに頷いた。七十歳の双眸は未だ濁らず、砲台群をひとつひとつなぞるように数えている。


「まず砲だ」

 大村の声は低く、確信を帯びていた。灰色の図面にクルップ二四センチ榴砲の断面が描かれている。「射程六千。敵砲は三千。届く者と届かぬ者、その差は単純な算術だが、用意には三十年を要した」。

 その言葉に、参謀たちは息を呑む。大村は続けた。「藤村総理が六〇年代から進めた近代化の果実だ。火砲も小銃も、もはや欧州と同列――いや、それ以上だ」。


「訓練は?」と河井が問う。

「士官は欧州留学組、兵は二年課程。射撃は秒単位、変隊は三拍号令。机上ではなく、雪原で叩き込んだ」と大村。

 卓上には、有坂式小銃の分解図と射程帯の楕円が描かれている。八百――赤い楕円が清国の四百を呑み込む。


 秋山好古は、姿勢を正して敬礼した。三十五歳、臨時大将。若い肩章に金糸の光が淡く揺れる。

「砲火で砲台の鼓膜を破り、歩兵で要所を制圧します。左翼は偽攻、中央は圧攻、二龍山へ工兵を前に出します。灯火は禁じ、暁に一気に押し切ります」


「補給はどうする」

 河井の問いと同時に、奥で電鍵の音が早く弾んだ。通信伍長が紙片を差し出す。

 ――奉天工廠、榴弾五千、今夕発。奉天‐金州間、臨時列車増発。

 河井は紙を弾き、「満州の鉄路はこの日のためにある。倉から港へ、港から砲口へ。一本も途絶えるな」と命じた。

 満州に築かれた鉄道網と工廠、そのすべてが「三十年の蓄積」という言葉の重みを帯びていた。


 そして、大村は声を落とした。「規律だ」

「藤村総理からの達し。攻略後、民に一指も触れるな。略奪・凌辱・報復――いずれも軍法会議に付す。文明国は勝ち方で測られる」

 沈黙が一瞬、室を支配した。火かき棒が炉を鳴らす音がやけに鋭い。

 秋山は口を開いた。「徹底いたします。興奮は術で鎮め、怒りは命令で縛る。それが指揮官の務めです」


 大村は満足げに頷き、卓上の地図に黒い駒を置いた。砲兵旅団、工兵大隊、衛生隊、憲兵――整然とした配置図の背後に、雪風と塩の匂いが漂っていた。旅順湾の上には、黒鉛筆の陰影で「定遠」「鎮遠」と記されている。秋山の視線がそこに止まった。あれらが、もう動かなくなるのだ。


「三十年かけたものを、三十時間で示せ」と河井が静かに言った。

 老将の声には、誇張ではない現実の重みがあった。奉天に鉄が走り、銅が鳴り、紙幣が巡り、人々の背骨に“規律”という見えぬ糸が通った年月――その集積が、いま眼前の地図に結晶している。


 参謀の一人が進み出た。「市街戦移行の際の避難誘導、各中隊に現地語訳付きで通達済みです。――“我々は民を傷つけない。外へ出よ、旗の下へ”」

「よろしい」と大村は頷き、釘を刺す。「だが、言葉だけでは足りぬ。銃口の向きが言葉となるのだ」


 外では、馬橇の鈴が鳴り、薄霧が窓外を流れていく。

 河井は最後の確認として指で旅順の輪郭をなぞった。「砲撃は暁六つ、歩兵は八つ。東鶏冠山を叩き、松樹山で肋骨を折る。二龍山には工兵を前に。――秋山」


「はい」


「お前の名は、明日から“勝ち方”に刻まれる。勝ち“そのもの”ではない。その違いをわかるか」


 秋山は一瞬息を止め、静かに頷いた。「勝つだけなら容易です。しかし、勝ち方を誤れば国を失います。――私は、勝ち方で勝ちます」


 河井は満足げに目を細め、大村は帳面の端に「規律―再念」と細く書き加えた。針がまた一つ、遠い局と約束を交わす。蒸気の音が伸び、作戦会議は閉じられた。


 廊下に出ると、冷気が肺の底に落ちた。秋山は手袋をはめ、掌に伝わる微かな震えを感じる。それは恐怖ではない。張りつめた弦が鳴る直前の緊張。

 窓外、北へ延びる線路の上に黒煙がまっすぐ刺さっている。三十年という長い時間が蒸気となり、今日を押し出していた。やがてそれは砲焔へと変わる。


「行こう」と独りごちる。白い息はすぐに形を失った。


 用意はすべて整っている。

 あとは、勇気と規律。

 勝ち方で、勝ちに行く。

十一月二十一日、黎明。

 旅順半島を包む霧は、夜の名残のように低く漂っていた。海は鉛のように重く、波は岸壁に鈍い音を残して砕ける。

 東鶏冠山の稜線が、やがて薄朱に染まった。


 午前六時、砲撃開始。

 号令と同時に、谷間が震えた。二十四センチ榴砲の砲口から閃光が走り、次の瞬間には大気そのものがうなった。

 ドォン――。

 砲声は空を裂き、土を押し上げ、旅順の丘を波のように叩いた。

 清国軍の陣地が遠くで閃光を返す。だがその砲弾は届かない。彼らの砲の射程は三千、こちらは六千。距離の差は、時代の差だった。


「第一砲、修正角右三度!」「第二砲、発射準備完了!」

 砲兵たちが声を張り上げる。冷気の中、吐く息が煙のように散った。砲尾の金属が熱を持ち、霜を溶かしながら唸る。

 発射の反動で大地が震え、砲身の周囲に霜柱が崩れ落ちる。

 照準手の額には汗が浮かび、耳の鼓膜が震動に軋んだ。


「照準、良し!」

「撃て!」

 再び閃光。

 遅れて響く轟音が、空を裂いて戻ってくる。清国の砲台が一つ、爆炎に包まれた。

 観測手が叫ぶ。「命中!東鶏冠山、第一砲台、沈黙!」


 秋山は指揮壕から双眼鏡を覗いた。

 煙の彼方、敵陣の輪郭が崩れ、土砂が噴き上がるのが見える。

 「よし。第二波、継続砲撃。歩兵、前進準備!」


 午前八時。砲火が一瞬やみ、山腹に静寂が戻る。

 その瞬間、歩兵の号令が響いた。

 突撃ラッパ――。

 氷のような風が、銅の音を遠くまで運ぶ。

 「全軍、前進!」秋山の声が、騎兵の馬上から響いた。


 兵たちは一斉に立ち上がる。背の荷を揺らしながら、泥に足を取られつつ坂を登る。

 有坂式小銃の金属音が列を揃えて鳴る。連発式の引き金が次々と火を吐き、白い硝煙が風に押し流されていく。

 ――バン!バン!バン!

 音は絶え間なく続き、空気を切り裂いた。

 清国兵の弾は届かない。射程が半分しかないからだ。

 敵弾は途中で力を失い、泥に沈む。だが日本兵の弾丸は正確に敵陣を貫き、血と砂を巻き上げた。


 「撃ち続けろ、間隔を詰めるな!」

 「焦るな、照準を合わせろ!」


 各小隊の下士官が怒鳴る。秩序は保たれ、混乱はない。

 訓練で叩き込まれた動作――それが、いま生きていた。

 兵たちは一発ごとに膝をつき、息を整え、照準を合わせ、また撃つ。

 彼らの顔は若い。だがその表情には恐れよりも確信があった。

 「俺たちは強い」「俺たちは正しく訓練された」――その信念が、銃口の先で燃えていた。


 清国陣地の後方から、敵の砲弾が返る。

 爆煙が上がり、土砂が飛ぶ。

 一人の若い兵士が被弾し、地面に倒れた。

 隣の兵が駆け寄り、肩を抱き起こす。

 「大丈夫か!」「…行け、俺の代わりに…」

 言葉は砲声に掻き消される。兵士の血が雪に散り、赤い花のように滲んだ。

 それでも列は乱れない。

 死が前にあっても、命令は一つ――「前へ」。


 午後一時、東鶏冠山の稜線が見えた。

 秋山は馬上から叫んだ。「突撃!」

 号砲が重なり、兵たちは銃剣を装着して駆け出す。

 敵陣から銃撃の火花が散るが、勢いは止まらない。

 泥を蹴り、叫び声が響く。

 「日本軍だ!」「退け!」――清国兵の声が混乱に沈む。

 白兵戦が始まる。

 銃剣が火花を散らし、銃床が頭蓋を打つ音が響く。

 秋山は馬を降り、泥を踏んで前線へ出た。

 「怯むな! ここを越えねば明日はない!」


 銃撃、悲鳴、砲声。

 戦場は音の洪水だった。

 それでも秋山の耳は冷静だった。どの砲が沈黙し、どの小隊が崩れたか、音だけで判断できる。

 指揮棒を掲げ、左翼を押し上げる。「二中隊、回り込め! 三中隊、援護射撃!」


 東鶏冠山の砲台が、一つ、二つと静かになった。

 午後二時半、白煙の中で日章旗が翻る。

 「東鶏冠山、陥落!」報告の声が上がる。

 山頂に掲げられた旗は、風に裂かれながらも、確かに立っていた。

 兵士たちがその旗を見上げ、歓声を上げる。「万歳!」「やったぞ!」


 秋山は深く息を吐いた。

 戦場の風が顔を叩く。硝煙の匂いと血の匂いが混ざり合い、胸の奥に残る。

 「まだだ。松樹山を叩け。砲兵、角度五度修正!」


 午後五時、日が沈む頃、旅順市街の屋根が見えた。

 遠くで港の水面が赤く光り、爆炎が揺らめく。

 秋山は再び号令を下した。

 「全軍、市街突入!――ただし、民間人を攻撃するな! 民を守れ! 違反者は軍法会議だ!」


 その声は、怒号と砲声の中でも確かに響いた。

 兵士たちは頷き、銃口を上へ向けたまま進んだ。

 燃え残る夕陽が、戦場のすべてを黄金色に染めていた。

日が落ちた。

 旅順の丘に沈む夕陽は、火のような赤を残し、煙の向こうで砕けた。

 風が止み、戦場には静寂が降りた。だが、その静けさは死の上に立っている。

 焦げた木片、破れた布、土にめり込んだ銃。どこを見ても、形の残るものは少なかった。


 秋山好古は、砲台跡の高台に立ち、夜の海を見下ろしていた。

 煙の切れ間から、旅順港が見える。

 そこには、黒く沈む艦影――清国の装甲艦「定遠」「鎮遠」。

 数時間前まで、東洋最強と謳われた巨艦。

 いまは、白い泡をまとい、ゆっくりと傾いていく。


「……終わったか」

 秋山の声は低く、風に紛れた。

 傍らの副官が答える。「主砲陣地は完全に沈黙しました。敵、白旗を掲げております」

 報告の声にも熱はない。皆、言葉を失っていた。


 秋山は頷き、ゆっくりと深呼吸をした。

 硝煙、血、油、そして潮――あらゆる匂いが肺を満たす。

 それは勝利の匂いではなかった。

 ただ、戦いという現実の重さがそこにあった。


「……慰霊をせよ。敵も味方も、同じようにだ」

 秋山は静かに命じた。

 副官がうなずき、後方に走る。

 兵士たちが集められ、無言で帽を脱いだ。

 列は整然としている。誰も声を上げない。

 燃え残る砲台の火が、彼らの顔を赤く照らしていた。

 どこかで、誰かが笛を吹いた。

 それは勝利の行進ではなく、鎮魂の旋律だった。


 ――ドン。

 一発の空砲が鳴る。

 夜の海に響き、遠くで波が答えるように寄せた。

 秋山は目を閉じた。脳裏に浮かぶのは、戦場に倒れた若者たちの顔だ。

 彼らの中には、昨日笑っていた者も、家族を想っていた者もいた。

 だが彼らは「勝つため」ではなく、「国を失わぬため」に戦った。

 その違いを理解する者だけが、将となる資格を持つ。


 背後で、憲兵隊の報告が届く。

 「民家の略奪、暴行、報復行為――いずれも確認されず。すべて規律に従い行動中です」

 秋山はうなずき、低く言った。「それでいい。それが我々の戦だ」


 彼は砲台の縁に立ち、遠くの港を見た。

 海面に沈みゆく「鎮遠」の船体が、傾いた夕焼けを映している。

 その光は、血よりも赤く、炎よりも静かだった。

 三十年の近代化、その頂点にある勝利。だが、歓喜よりも重い勝ち方。


 そこへ、河井継之助と大村益次郎が歩いてきた。

 老将たちは互いに目を交わし、言葉もなく頷いた。

 「終わったな」と河井。

 大村は小さく首を振る。「いや、始まったのだ。これが“文明国の戦”の初日だ」


 秋山はその言葉を噛みしめた。

 「……勝ち方で国を立てる、ということですね」

 「そうだ。武力は手段にすぎぬ。力を律することこそ、国家の証だ」

 大村の声は掠れていたが、揺るぎなかった。

 老将の目には、すでに次の時代――近代日本の影が見えていた。


 夜が深まるにつれ、旅順の灯がひとつずつ点り始めた。

 それは、戦火に焼け残った民家の灯、避難した者たちが戻った灯でもあった。

 兵士たちは焚き火を囲み、冷えた飯を黙って食べた。

 誰も歓声を上げない。

 勝利は声ではなく、静寂の中で噛み締められるものだった。


 秋山は筆を取り、戦況報告の書面に記す。

 ――「旅順陥落。敵艦沈没。略奪・暴行なし。軍律完全保持。」

 紙面の上で筆が止まる。

 しばしの沈黙のあと、彼は一行を加えた。

 ――「この戦、文明の名に恥じず。」


 報告書を畳むと、夜気が頬を刺した。

 天を仰ぐと、雲間から星がひとつ顔を出していた。

 それは遠い、しかし確かな光。

 まるで、三十年の努力を見届けるようだった。


 「……藤村総理に報せろ」

 秋山の声は、凛としていた。

 「旅順、陥落。だが――我らは、ただ“勝った”のではない。“正しく勝った”のだ、と。」


 報告兵が敬礼し、走り去る。

 その背を見送りながら、秋山はゆっくりと手袋を脱ぎ、指先で冷たい風を感じた。

 鉄と火の時代が終わり、人の理性が試される時代が始まる。

 その夜、旅順の空に初雪が舞った。

 白い粒は、血と煙を覆い隠し、静かに地に落ちた。

冬の風が、霞が関の松並木を渡る。

 陽は短く、午後の光はすでに夕の色を帯びていた。

 江戸政府本庁の一角、総理執務室。

 分厚いカーテンが半ば閉じられ、石炭暖炉の炎が淡く揺れている。

 机の上には、遠く奉天から届いた一通の報告書。


 「――旅順、陥落」

 藤村晴人は、その一行を無言で読み返した。

 秋山好古の筆跡が続く。

 「敵艦沈没。略奪・報復・暴行、皆無。軍律、完全保持。」

 そして最後の一文。

 『我らは勝った。しかし“勝ち方”で国を示した。』


 晴人は、指先でその行を押さえ、目を閉じた。

 胸の奥がじんと熱くなる。

 三十年――幕府が改革の旗を掲げ、鉄と蒸気、教育と法を積み上げた歳月。

 血を流さず、権力を競わず、制度で未来を作る。

 あの日、老中会議で掲げた理念が、いま戦場の末端まで届いていた。


 「……これが、我らの“維新”だったのかもしれんな」

 小さく呟いたその言葉に、すぐ我ながら首を振った。

 倒して築くのではない。守って進めるのが、この国の道だった。


 扉が開く。

 大村益次郎、河井継之助、児玉源太郎が順に入ってくる。

 雪の気配を帯びた外気が、部屋の空気を震わせた。

 「秋山からの報告ですな」と大村。

 晴人は頷き、報告書を手渡した。

 「見てくれ。文明国としての戦を、彼は完遂した」


 大村は読みながら低く唸った。「規律、完全保持……立派なものだ。あの若さでここまで徹底できるとは」

 河井が口を開く。「兵も変わった。三十年前なら、敵を倒すことが目的だった。今は違う。“国を保つための戦”をしている」

 晴人はうなずく。「それこそが、我々の教えの成果だ。幕府が剣を抜かず、法と知で国を立てた理由も、ここにある」


 児玉が立ち上がり、地図を広げる。

 遼東半島の先に、赤い印が記されている。

 「旅順を押さえた今、黄海の制海権は完全に掌中にあります。だが――ロシア、フランス、ドイツが動く気配」

 晴人は顎に手を当て、静かに言った。

 「戦よりも、これからが難しい。三国が干渉を始めたとき、我々はどうするか」


 大村が応じる。「我らは、剣で勝ったのではなく、理で勝った。ゆえに理で押し返すしかない」

 河井が笑う。「軍より外交が血を流す時代だ。やっと、あんたの得意分野になるな、藤村総理」


 晴人は苦笑し、椅子から立ち上がった。

 胸の痛みが、また少し刺す。

 だが、その痛みは不思議と誇らしかった。

 「戦は終わっていない。だが、文明の証は立った。秋山が証明したようにな」

 児玉が敬礼する。「全軍、彼の規律に倣わせます」


 そこへ、西郷従道が入室した。

 軍帽を脱ぎ、深々と頭を下げる。「旅順の勝報、拝受いたしました。陛下より勅電にて、将兵の節度を賞すとのこと」

 晴人はそれを受け取り、声を整えた。

 ――『勝利は誉れにあらず、節度こそ国の光なり。民を守りし軍を讃う。』

 墨跡がまだ新しい。

 晴人はゆっくりと読み上げ、火の光の中で紙を閉じた。

 「……この言葉を、永く残さねばならんな」


 沈黙のあと、大村が穏やかに言った。

 「三十年で、幕府は“恐れられる支配”から、“信じられる国家”へと変わりましたな」

 晴人は頷き、窓の外の雪を見た。

 「幕府という名に、かつての影を見なくなった。

  もはや“政”は人にあらず、制度に宿る――それでよい」


 河井が暖炉の火に手をかざしながら笑った。

 「これでようやく、諸外国に言える。“我らは後進国にあらず。理と規律で立つ帝国”だと」

 晴人は静かに応じる。

 「帝国でも共和国でもない。――“理の幕府”だ。力と節度が並び立つ国、それが我々の理想だ」


 窓の外で雪が強くなった。

 夜の江戸は静かで、街灯の下を人力車が一つ通り過ぎていく。

 晴人は手帳を開き、細い字で書きつけた。

 ――「旅順の勝利は、文明の勝利である。だが、次の戦いは剣ではなく、心に宿る。」


 その筆跡は揺れも乱れもなく、確かな線を描いた。

 炉の炎が最後の薪を噛み、パチリと音を立てた。

 「……秋山を呼べ。彼に新しい役を与える。軍律ではなく、“後の世を導く教師”として」

 児玉が頷き、部屋を出た。


 雪の向こうに月が昇る。

 藤村はその光を見ながら、静かに息を吐いた。

 「戦が国を変えたのではない。三十年の積み重ねが、この一日を作ったのだ」


 炉の火が落ち、静寂が残る。

 ――その夜、“幕府日本”は世界に示した。

 倒さずして変わる国家、戦わずして勝つ理。

 それが、この国が歩む文明の道だった。

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