409話:(1894年・7月29日)成歓の戦い ― 勝利の代償
――八月、日本列島は歓声に包まれていた。
新聞は「帝国陸軍、大勝利!」と大書し、国民は提灯を掲げて夜通し練り歩いた。
だが、その熱狂の始まりは、ほんの数日前――。
時を、七月二十九日に戻そう。
朝鮮半島・成歓。
ここが、近代陸軍が初めて本格的に火を噴いた地である。
夜明け前の山間。
湿った霧が谷を満たし、遠くで野犬の吠える声がこだました。
陣幕の中、陸軍少将・大島義昌は地図の上に手を置いた。
「……敵陣はこの丘の上。清国軍、三千五百。陣地は強固だ」
低く落ち着いた声。
幕僚たちは息を殺して耳を傾ける。
「我が軍は四千。だが、油断は許されん」
「敵はこの地を守るため、塹壕を築いている」
大島の眼差しが、燃えるように鋭くなった。
「――薩摩の男として、この戦を恥じぬものにせねばならん」
短く息を吐く。
その声音に、長年の覚悟がにじんでいた。
――大島義昌、四十七歳。
薩英戦争と四国連合艦隊との戦いを経験した、数少ない実戦将校である。
西郷隆盛の薫陶を受け、明治初期より軍政改革に尽力してきた。
今、彼が背負うのは薩摩の意地ではなく、“日本陸軍”という新しい国家の象徴だった。
「この戦いは、日本陸軍の初陣だ」
「我らの一挙手一投足が、世界の目に映る」
「失敗は、国家の恥になる」
幕僚たちは深くうなずいた。
その背筋には、緊張が走っている。
外では、夜明けの霧が淡く揺れていた。
霧の向こうに、かすかに太陽の赤が差し込む。
「――進軍、開始!」
大島の号令と同時に、鼓隊の太鼓が鳴り響いた。
兵たちは一斉に立ち上がり、背嚢を締め直す。
「おい、これが最初の戦か」
「そうだ、日本陸軍の始まりだ」
「怖いか?」
「……怖い。でも、逃げたら後悔する」
「勝たなきゃ、日本が笑われる」
若き兵士たちは頷き合い、湿った土を踏みしめて前進した。
空気には火薬と汗の匂いが混じり、遠くの稜線には霧のような戦煙がかかっている。
一方、成歓の丘――。
清国軍陣営では、将軍・葉志超が地図を睨んでいた。
「日本軍が接近している?」
「はっ、将軍。敵はおよそ四千、南方より進軍中です!」
葉志超は鼻で笑った。
「四千だと? 小国の兵など恐れるに足らん」
「我が軍は丘を占め、陣地を持つ。守れば勝てる」
参謀が慎重に進み出た。
「ですが、敵の砲は新式です。射程が長く……」
「黙れ!」
葉志超は机を叩いた。
「我が軍の火砲も洋式だ。日本の玩具とは違う!」
その声には、わずかな焦りが混じっていた。
彼の脳裏には、数日前の報告がよぎる。
――「豊島沖、敗北」
「……海では負けた。だが陸では違う」
「陸は我が清国の本領ぞ」
「皇帝陛下の威光を、この地で示すのだ」
将兵たちは頭を下げた。
だが、誰の瞳にも不安があった。
補給は遅れ、弾薬も足りない。
腹を空かせた兵士が、銃を握りしめて震えていた。
(……この軍は、もう錆びついている)
葉志超は胸の奥でつぶやいた。
だが、声には出さなかった。
退けば、責任を問われ、首を刎ねられる。
「全軍、配置につけ!」
怒鳴り声が丘に響いた。
兵たちは慌てて塹壕に入り、古びた銃を構える。
朝の霧が晴れ、太陽が顔を出す。
その光の中で、遠くに旭日旗が揺れていた。
「……来たか」
葉志超は拳を握る。
「ここで叩き潰す」
同じ瞬間、丘の麓では大島義昌が軍帽をかぶり直していた。
「――これより、日本陸軍の第一歩を刻む」
その声は静かで、しかし確かな熱を帯びていた。
霧が晴れ、時代の幕が開く。
午前七時。
朝霧が完全に晴れ、丘陵地一帯を夏の陽光が照らし出した。
空は高く、雲ひとつない。
だが、その静けさは、まるで嵐の前の静寂のようだった。
「野砲、準備完了!」
砲兵隊の報告が上がる。
大島義昌は双眼鏡を握りしめ、丘の稜線を見据えた。
遠くに、土嚢を積み上げた清国軍の陣地が見える。
銃眼の影が動いた。敵もこちらを見ている。
「――撃て」
号令と同時に、大地が揺れた。
轟音。
火と煙が噴き上がり、風が一瞬止まったように感じられた。
続いて、砲弾が丘の上に炸裂する。
乾いた破裂音と、崩れ落ちる土の音。
視界の先、敵の陣地から黒煙が上がった。
「命中!」
砲兵の声が上がる。
「第ニ・第三中隊、射角三度下げ! 弾種、榴弾!」
「了解!」
再び、轟音。
弾丸が放物線を描き、丘を削り取るように炸裂した。
衝撃で地面が震え、足元の砂利が跳ね上がる。
耳が痛い。
だが兵たちは黙って弾を装填し、再び火を放つ。
――日本軍の野砲、射程約三千メートル。
――清国軍の火砲、射程約千五百メートル。
つまり、日本軍は敵の射程外から攻撃できた。
圧倒的な距離の優位。
それが、この戦の勝敗を決めた。
丘の上では混乱が広がっていた。
「弾が……届かない! 我が砲では届かぬ!」
「照準を上げろ! もっと上げろ!」
清国兵たちが必死に砲を押し上げるが、弾は空に消え、はるか手前に落ちる。
爆風だけが丘をなぶった。
葉志超は歯を食いしばった。
「くっ……日本の砲は、なぜこんなに遠くまで……!」
参謀が答える。
「最新鋭の山砲とのことです。西洋式で……」
「黙れ!」
怒声を上げたが、その目は怯えていた。
(……我が国は四億の民を誇るというのに)
(だが、腐敗が軍を蝕み、今や鉄よりも脆い)
そのとき、再び丘を揺るがす爆音。
土煙の中、清国兵が吹き飛び、叫び声が響く。
砲弾の破片が陣幕を切り裂き、旗が倒れた。
「退くな! 前を見ろ!」
葉志超が叫ぶ。
しかし、その声は爆音にかき消される。
兵たちは恐怖に駆られ、塹壕の奥へと潜り込んだ。
一方、丘の麓――。
「歩兵、前進準備!」
大島の命令が響く。
砲撃の音を背景に、歩兵たちが整列する。
背負う銃は新式の有坂式小銃。
射程五百メートル。命中精度も高い。
「前進は三段構え、第一・第二中隊が先頭、第三中隊は支援!」
「弾倉、確認!」
「はい!」
金属の音が一斉に鳴り響く。
緊張で喉が渇く。
それでも、誰一人声を上げない。
「……今だ」
大島の声は低かった。
だが、その一言で空気が動く。
「前へ!」
太鼓が鳴り響く。
陣幕が一斉に開き、兵たちが飛び出した。
丘を覆う草がなびき、地面が揺れたように見えた。
砲撃の合間を縫って、歩兵たちが一斉に進む。
その姿は、まるで波が押し寄せるようだった。
清国軍の塹壕から火花が散る。
パンッ、と乾いた音。
銃弾が飛び、土が跳ね上がる。
しかし、距離が遠い。
清国の旧式銃は、射程二百メートル。
日本軍は、まだ届かない距離にいた。
「敵弾、効果なし!」
報告が飛ぶ。
大島は短く頷いた。
「ならば、こちらの番だ」
「射撃用意――撃て!」
有坂銃の一斉射撃。
金属の閃光が並び、轟音が重なった。
清国兵が次々と倒れていく。
血煙が立ち上り、塹壕の中で混乱が広がった。
「日本軍の銃が……遠すぎる!」
「撃てども届かぬ!」
「退け、退けえっ!」
叫びが渦を巻き、塹壕から兵が飛び出す。
だが、その背を銃弾が撃ち抜いた。
丘の上は、もはや戦場ではなく、地獄だった。
大島は双眼鏡を下ろした。
「……敵の陣形、崩壊寸前」
参謀が答える。
「突撃の時機、いかがしますか!」
「まだだ。もう一度、砲撃を浴びせろ」
再び轟音が響く。
火煙が立ち上がり、丘全体が震えた。
爆風に混じって、焦げた草の匂いが流れてくる。
「……この戦いで、日本の名を刻む」
大島は小さく呟いた。
「薩摩で生まれた刀の魂を、今は砲火に宿すのだ」
空は青く澄んでいた。
だが、その下で、歴史は赤く燃え上がっていた。
砲声が、ようやく途切れた。
辺りに残るのは、焦げた草の匂いと、遠くで燃え続ける弾薬箱の爆ぜる音だけだった。
夏の陽が昇り、霧の消えた丘には、もう命の気配が薄かった。
「全軍、突撃準備――!」
大島義昌の声が響く。
歩兵たちが前進姿勢を取った。
砲撃で崩れた敵陣の輪郭が、煙の中にぼんやりと見える。
「行けっ!」
一斉に、兵たちが駆け出した。
銃を構え、泥を蹴り上げ、息を荒げながら丘を登る。
空には白い煙がたなびき、足元の草が焼け焦げて黒く変色していた。
土の中には、弾丸の薬莢が無数に転がっている。
「撃てっ!」
清国兵が叫び、塹壕の影から火花が散った。
パンッ、パンッ――。
だが、その弾は届かない。
日本軍の前進速度は早く、距離を詰めるたびに精度の高い射撃を浴びせた。
有坂銃が火を噴くたび、敵の兵が一人、また一人と崩れ落ちる。
弾丸が岩に当たり、砕けた石片が頬をかすめた。
鉄の匂い、血の匂い、汗の匂いが入り混じり、空気が重くなる。
「突撃ーっ!」
先頭の中隊が叫び、銃剣を構えて駆け上がった。
丘の上の塹壕に雪崩れ込み、銃剣と銃剣が交わる。
「うおおおおっ!」
「くそっ、退け、退けぇ!」
怒号と悲鳴。
清国兵が抵抗するが、統率はすでに失われていた。
逃げ出す者、銃を投げ出して降伏する者。
葉志超は馬上でそれを見つめていた。
「……終わりか」
彼は小さく呟き、鞭を落とした。
馬がいなないたが、将軍の目にはもはや光がなかった。
「退却せよ……」
その声は風にかき消えた。
清国軍は潰走した。
丘を越え、南へと逃げ去る。
戦場に残ったのは、倒れた兵と、硝煙の残り香。
日本軍の旗が、丘の頂に立てられた。
赤い日章が夏空に翻る。
兵たちは歓声を上げ、帽を振った。
「勝ったぞ!」
「成歓陥落!」
「日本陸軍、初勝利だ!」
興奮の波が広がる。
だが、その中に一人、若い兵が静かに座り込んでいた。
頬に泥をつけ、手には血の付いた銃を握りしめている。
「……勝った、のか」
隣にいた上等兵が笑って答える。
「ああ、圧勝だ。清国軍は逃げた」
「……そうか」
彼は、足元に転がる清国兵の亡骸を見つめた。
若く、まだ少年の面影が残る顔。
胸のあたりに、小さな銀の飾りがぶら下がっていた。
たぶん、家族が持たせたお守りだろう。
「……あいつにも、母親がいるんだよな」
上等兵が目を伏せる。
「……そうだな。だが、これが戦争だ」
「分かってる。でも、何か……胸が苦しい」
風が吹き、旗がはためいた。
勝利の歓声が遠くで響く。
しかし、その足元には、もう声を上げることのない者たちが横たわっていた。
「戦死者、約百名」
報告が届く。
大島は黙って受け取り、拳を握った。
「百名か……」
「はい。清国側は五百前後とのことです」
「……勝っても、死は減らぬな」
大島は帽を取り、静かに目を閉じた。
「全員、帽を取れ」
「これより、戦死者に敬礼を送る」
兵たちが整列し、無言で帽を脱ぐ。
丘の上に風が吹き抜けた。
その風が、血と汗の匂いを遠くへ運んでいく。
「……諸君、よく戦った」
大島は声を張った。
「だが、これは終わりではない。始まりだ」
「この勝利に酔うな。慢心は、敗北の母である」
兵たちがうなずく。
顔に泥と涙をにじませた若者たちの目には、光が宿っていた。
勝利の喜びと、死の現実――その両方を胸に刻んで。
午後、戦場の片隅では、捕虜となった清国兵が並べられていた。
怯えた顔。だが、銃を向けられてはいない。
日本軍の将校が歩み寄り、低く命じた。
「捕虜には食事を与えよ。負傷者には手当を」
「虐待は厳禁だ。これは命令である」
兵たちが敬礼し、行動に移る。
壊れた水筒から水を注ぎ、包帯を巻く。
清国兵の一人が、小さくつぶやいた。
「……日本の兵は、我らを殺さぬのか」
「殺さぬ。我らは武士の国の兵だ」
通訳がそう答えると、清国兵の目に涙が浮かんだ。
「我が国では、降伏すれば殺される……」
「そうか。だが、日本は違う」
沈黙。
そして、互いに短く頭を下げ合った。
そこには、戦争を超えた一瞬の人間らしさがあった。
夕方、太陽が西へ傾く。
丘の影が長く伸び、赤い光が血に濡れた地を染めていた。
大島は双眼鏡を下ろし、静かに言った。
「勝利の報を、本国へ」
「だが、死者百名を忘れるな」
参謀が頷く。
「了解しました。……陛下も、総理も、この報をお喜びになるでしょう」
「いや……晴人公は喜びよりも、次を考えるだろう」
大島の声は、風に溶けた。
「日本は、勝った。だが――戦は、まだ始まったばかりだ」
八月一日、東京。
蝉の声がうるさいほどに響く午後、内閣会議室の窓を開け放つと、熱気とともに街の喧噪が流れ込んできた。
外では号外が配られ、「成歓の戦い、日本軍の大勝利!」と書かれた紙面を手に、市民たちが笑い声を上げている。
その熱気とは対照的に、会議室の空気は重かった。
「――戦報、確かか?」
藤村晴人が低い声で問うた。
白髪に混じる黒がわずかに残る七十の顔は、精悍ながらも疲労の色を隠せない。
陸軍中佐・藤村義信が敬礼し、一歩進み出た。
「はい。成歓の戦い、我が軍の完全勝利にございます。
敵軍三千五百、潰走。日本側の損害は戦死百一、負傷百七十余。」
「……百一か。」
晴人は目を閉じた。
その声には、勝利の誇りよりも、重い痛みがにじんでいた。
「百の命を代償に、初戦を制したわけだな。」
大久保利通が頷いた。
「陸軍にとっては、歴史的な初戦です。
だが、国民は今、戦の現実より“勝利”だけを見ています。」
「号外がまた出ております。」
義親が報告する。
「『日本無敵』『清国壊滅』――過剰な文言です。
国民の熱狂は危険なほど高まっております。」
「……国が浮かれ、心が緩む。そこに敗北の芽が生まれる。」
晴人は静かに呟いた。
外務次官・藤村久信が書簡を広げる。
「英国特派員の報告によれば、ロンドンでは今回の戦いを“局地的な遭遇戦”と見ています。
ただし、“日本軍の近代装備と規律の高さは特筆すべき”とも。」
「ふむ……つまり、まだ評価は“途中”ということだな。」
「はい。ですから、この勝利を国際的信用に繋げる必要があります。」
久信の口調は落ち着いているが、目には熱があった。
「外務省としては、捕虜の扱いを正式に報告書にし、欧米諸国へ発信いたします。
“日本は文明国である”と。」
晴人が小さく頷いた。
「よい判断だ。――武力の勝利だけでは、国は強くならん。
品位があってこそ、列強と並び立てる。」
「はっ。」
そのとき、扇風機の羽がわずかに軋み、室内の紙がふわりと揺れた。
晴人は目を閉じ、深く息をついた。
「……国民に伝える言葉はどうする?」
義親が控えめに口を開く。
「『初戦勝利』として発表します。ただし、“油断するな”という文も添えたいと思います。」
「そうだ。勝利に酔わせるな。次は平壌だ。」
静寂が落ちた。
窓の外では、人々の歓声がなおも響いている。
その音が、ここだけ別の時を流しているかのようだった。
やがて、晴人がゆっくりと立ち上がった。
椅子の脚が床を擦り、重い音を立てる。
「――私は、長くこの国を見てきた。」
「戦が国を強くもするが、狂わせもする。」
その声に、義信・久信・義親の三兄弟が一斉に姿勢を正した。
「我らが父上を支え、必ずや戦を終わらせてみせます。」
「うむ……頼んだぞ。」
晴人は一瞬、壁際の古時計に視線をやった。
針は午後三時を指している。
秒針が静かに時を刻み、会議室の空気がさらに重くなる。
「……時間が過ぎるほどに、命も失われる。
一日も早く、この戦を終わらせねばならぬ。」
久信が筆を取った。
「勝利報を外務経由で世界に。
日本は規律ある軍、武士道の国として報道させます。」
義親はメモを取りながら頷く。
「新聞社へ通達します。“勝利は序章にすぎぬ”と。」
義信は拳を握った。
「平壌の戦いでは、私が前線に立ちます。
父上、この命、祖国のために使わせてください。」
晴人は静かに頷いた。
「……行け。だが、忘れるな。
勝利は命の上に成り立つものだ。」
外の喧騒が遠のく。
その静けさの中で、晴人はふと額を押さえた。
――ズキン、と痛みが走る。
肩も重く、視界がわずかに揺れた。
「……頭が痛むのですか?」
篤姫の声がした。
彼女が茶を盆に載せて入ってくる。
薄桃色の着物の袖が揺れ、静かな香が広がった。
「少し、疲れただけだ。」
晴人は微笑もうとしたが、唇の端がわずかに震えた。
「皆が支えています。どうか、ご無理なさらずに。」
篤姫の声は穏やかで、しかし芯があった。
「……国の主が倒れては、士気が下がりますゆえ。」
晴人は苦笑した。
「ふふ……昔はそなたが、私を叱る役ではなかったな。」
「今は、そうなってしまいました。」
「頼もしいことだ。」
茶の湯気が立ち上り、窓の外では夕陽が傾いていた。
その赤が、まるで戦場の血の色のように感じられた。
――そのころ、慶應義塾大学。
福沢諭吉は、学生たちに囲まれていた。
「先生! 日本が勝ちました!」
「成歓の戦い、大勝利です!」
福沢は書を閉じ、眼鏡越しに学生たちを見た。
「そうか。……勝ったか。」
学生たちの顔は輝いている。
その姿に、若き日の自分を重ねて、彼は小さく息をついた。
「諸君、喜ぶのはよい。だが忘れるな。」
「百の兵が死んだ。」
「百の家族が、いま泣いている。」
学生たちの表情が、静かに曇る。
「勝利とは、歓声よりも、沈黙の上に築かれるものだ。」
「戦とは、国家が人間を試すときだ。」
外では、鐘の音が鳴っていた。
夏の夕空が赤く染まり、校庭の木々が風に揺れる。
福沢は窓の外を見つめながら、ゆっくりと呟いた。
「……この国が、冷静さを失わぬように。」
その声は、祈りにも似ていた。




