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【篤姫と結婚した公務員】水戸藩から始まる幕末逆転録 ~公務員が理と仕組みで日本を救う~  作者: 一条信輝


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406話:(1894年・夏)豊島沖海戦

霧が、海を覆っていた。

 朝鮮半島西岸――豊島沖。

 夏の湿った潮風が、白い靄を孕みながら水平線を消している。

 波の音も吸い込まれ、世界の輪郭がぼやけたようだった。


 午前五時。

 日本巡洋艦「浪速」は、霧の海を慎重に進んでいた。

 甲板は夜露に濡れ、木材がしっとりと艶を帯びている。

 水兵たちは誰も口を開かず、ただ水平線の方を見つめていた。

 風はほとんどなく、蒸気機関の唸りだけが、沈黙の中で低く響いている。


 艦橋の上。

 東郷平八郎大佐は双眼鏡を構え、霧の奥を見据えていた。

 金属の冷たさが手のひらに食い込み、骨の奥まで冷えるようだった。

 海上を漂う薄い硝煙のような霧が、彼の頬を撫でる。


 ――薩摩の海を、思い出す。


 故郷・鹿児島。

 あの桜島の上に立ち上る黒煙。

 少年の頃、薩英戦争の砲声を海岸で聞いた。

 英国の軍艦が港を焼き、町を焦がす光景。

 それでも、薩摩の人々は恐れずに立った。

 その時に見た“火”の色が、今も脳裏に焼きついて離れない。


 そして今、自分は――その英国に学び、英国の理を胸に抱いた将校として、

 異国の海に立っている。


 「……理を学び、力を制すと信じてきた。

  だが、理を守るためには――やはり、力が要るのだな」


 東郷の声は、海風に消えた。

 彼の顔は無表情だったが、その眼差しの奥には、燃えるような静けさがあった。


 艦の上空を、海鳥が一羽、霧の中から現れては消える。

 その羽音さえ、波音に呑まれた。


 「見張り! 異常ないか!」

 「異常なし! 視界不良、前方濃霧!」


 声が飛び交い、霧の中に溶けていく。

 海上の湿気は増し、衣服が肌に張りつく。

 兵たちは眉間に皺を寄せ、黙々と任務を続けていた。


 その時――。


 「艦長! 前方、艦影を確認!」


 見張り台から鋭い声が響く。

 甲板がざわめいた。

 東郷はすぐに双眼鏡を上げ、前方の霧の向こうを見据える。


 視界の奥で、ぼんやりと黒い塊が三つ、ゆらりと浮かんだ。

 霧が薄れ、輪郭が現れる。


 副官が息を飲む。

 「清国艦隊かと!」


 ――その瞬間、霧がわずかに割れた。

 黒い艦影。煙突が二つ、砲塔の影。

 艦尾には「済遠」の旗。

 その背後には、砲艦「広乙」、さらにその横には大型の輸送船。


 副官が報告する。

 「艦長、輸送船は“高陞号”の模様。英国船籍。

  ですが、清国軍兵を多数輸送中との情報があります」


 「数は?」

 「約一千です!」


 東郷は、短く息を吐いた。

 (千人の兵を……)


 「英国船籍、か……」

 その声には、かすかな苦味が混じっていた。


 霧の中、清国艦の甲板で旗が翻った。

 こちらに気づいたのだ。

 艦体がゆっくりと旋回を始める。


 「敵艦、変針! 砲口こちらに向けています!」

 「全艦、戦闘配置!」


 その号令が飛んだ瞬間、艦全体が動き出した。

 金属の軋み。

 水兵たちの靴音が木甲板を打つ。

 砲弾が運ばれ、滑車の音が連なって響く。

 火薬の匂いが風に混じり、濃密な緊張が船を包んだ。


 東郷は艦橋に立ち、全体を見渡す。

 「慌てるな。砲門、待機位置で固定。照準はまだ早い」

 「はっ!」


 副官が命令を伝える。

 信号旗が上がり、次々と隣艦へと指令が飛ぶ。

 「吉野」「秋津洲」――三隻が連携し、三角陣形を取る。


 霧の向こうから、鈍いエンジン音が迫ってくる。

 波がうねり、海が息づく。

 時間が粘りつくように遅く感じられた。


 そして――霧が薄れ始めた。

 朝陽が昇る。

 黄金色の光が海面に反射し、ゆらめく。

 敵艦の姿が、明確な輪郭を持って姿を現した。


 距離、約三千メートル。

 これ以上の猶予はない。


 「吉野、秋津洲と連携。目標は広乙。……砲撃は敵の動きを見てからだ」


 副官が命令を伝え、信号旗を高く掲げる。

 風が吹き、赤と白の旗が翻った。


 午前七時五十二分。

 最初の砲声が、霧を裂いた。


 ――ドォン。


 海が震えた。

 日本巡洋艦「吉野」の主砲が火を噴き、火花と煙が交錯する。

 砲弾が白い弧を描いて飛び、霧を切り裂いて「広乙」の艦橋に突き刺さった。


 爆発音。

 黒煙が立ち上がる。

 海鳥が驚いて飛び立ち、灰色の空に散った。


 「命中!」

 兵の歓声が上がる。

 だが東郷は、微動だにしなかった。


 「……戦争、始まったか」


 その声は、誰にも届かぬほど小さく、

 しかし確かに、戦の幕開けを告げる音だった。


 次の瞬間、清国艦「済遠」も反撃した。

 砲弾が唸りを上げて飛来し、「浪速」の舷側をかすめた。

 木片が飛び、甲板に火花が散る。


 「被弾三発、損傷軽微!」

 「機関異常なし!」


 東郷は頷く。

 「怯むな。敵は旧式だ。砲術も粗雑。――近づけ」


 命令が伝わり、艦は大きく旋回を始めた。

 波を蹴り、黒煙が空を覆う。

 その煙の向こうで、もう一度「吉野」が火を噴いた。


 砲弾の衝撃が海面を走り、音が腹の底に響く。

 水兵たちの目は炎のように輝き、

 東郷はその中心で、ひとり凍てついた表情を保っていた。


 「広乙」、火柱。

 「済遠」、後退。

 「高陞号」、逃走。


 戦の序曲は、すでに血の匂いを孕み始めていた。

砲声が、霧を破った。

 海が震え、波が立ち上がる。

 「吉野」の主砲が吐き出した火は、広乙の艦橋を真っ二つに裂いた。

 爆風。火花。木片と鉄片が混ざり合い、雨のように降り注ぐ。


 甲板上では、水兵が倒れた。

 清国兵の叫びが風に混じる。

 血と火薬の匂いが潮の匂いを塗り替え、灰色の空を焦がしていく。


 「命中確認!」

 「続けて撃て!」


 怒号が飛び交う。

 砲弾を運ぶ音、装填の金属音、弾殻が転がる甲高い響き。

 人間の声も、機械の唸りも、すべて一つの旋律に溶けていった。


 東郷平八郎は艦橋で、ただ黙して立っていた。

 眼下では部下たちが駆け回り、砲撃の準備を続けている。

 彼の視線は遠く、炎上する広乙の艦橋を見据えていた。


 ――これが、開戦の現実か。


 済遠が黒煙を上げ、舵を切った。

 広乙は傾き、海面に火が映る。

 波が赤く光り、まるで海そのものが血を流しているようだった。


 「敵、退避します!」

 「追撃はするな。――焦るな、敵の動きを読め」


 東郷の声は冷たく、静かだった。

 だがその内側では、ひどく熱いものが揺れていた。


 (我らは、理を守るために剣を抜いた。

  だが、理を語る前に人が死ぬ――それを正義と言えるのか)


 広乙が大きく傾き、海面に沈みかけている。

 甲板で火が走り、砲塔の中から黒煙が吹き出す。

 煙の中で、一人の清国兵が海へ飛び込んだ。

 次々と、人影が続く。


 「助けてくれ!」

 「母上!」


 叫びが海面を渡る。

 だが誰も舵を切らない。

 命令は“前進”――ただそれだけだった。


 「広乙、沈没確認!」

 副官の声が響く。

 午前八時十二分。

 日本海軍、初の勝利。


 だが歓声は、なかった。


 東郷は帽を押さえ、顔を上げる。

 視線の先――霧の向こうに、巨大な船影が見えた。


 「……高陞号」


 英国船籍を持つ清国輸送船。

 甲板には、整列した兵の列。

 銃を構え、砲を据え、明らかに“商船”ではなかった。


 「清国兵、一千。大沽より仁川へ向かう途上。

  英国旗掲揚中――」

 「英国旗か……」


 東郷の目が細まる。

 彼の頭に、少年時代の薩英戦争が甦る。

 あの日、英国艦の砲火が薩摩の街を焼き、父の知人の家を吹き飛ばした。

 その英国の旗が、今は敵の盾として翻っている。


 「信号――停船せよ」


 副官が命令を復唱する。

 信号旗が掲げられ、風に翻る。


 だが高陞号は応えなかった。

 むしろ、白波を蹴って逃げ始めた。


 「停船せず! 速度上昇!」

 「繰り返せ」

 再び信号旗が上がる――停船セヨ。


 数十秒後。

 高陞号の甲板で、銃口が閃いた。


 乾いた音が、空を裂く。

 弾丸が浪速の甲板に弾け、水兵の一人が崩れ落ちた。


 「被弾一名! 軽傷!」

 「敵、発砲確認!」


 艦内がざわめく。

 東郷の眉がわずかに動く。


 (英国旗を掲げる船への砲撃は、外交問題に発展する……

  だが、このまま逃がせば――千の兵が上陸し、日本の血が流れる)


 副官が言葉を飲み込みながら問う。

 「艦長、如何いたしますか……!」


 東郷は答えない。

 胸の内で、薩英戦争の光景がよぎる。

 燃える港、泣き叫ぶ人々、白い旗――。


 (理を守るための力。その力を使う時が来た)


 東郷は、静かに右手を上げた。

 風が止まったように、時間が凍りつく。


 「……撃沈せよ」


 その言葉は、低く、しかし誰よりも明確だった。


 号令。

 砲門が火を噴く。

 轟音が海を裂き、白煙が立ち昇る。

 高陞号の船尾に衝撃。火花が散り、爆炎が吹き上がる。


 次弾が蒸気室を貫き、煙突が崩れ落ちた。

 海面が爆ぜ、熱風が浪速の甲板を舐める。


 甲板に立つ水兵たちの顔が、炎に照らされて赤く染まる。

 彼らは誰も声を上げない。

 ただ、燃える船を見つめていた。


 高陞号は、悲鳴と共に傾き始めた。

 清国兵が次々と海に飛び込む。

 波が黒く渦を巻き、油が広がる。


 「助けてくれ!」

 「家に帰りたい!」

 「母上!」


 無数の叫びが風に流れた。

 浪速の甲板で、それを聞いた若い水兵が歯を食いしばる。

 拳を握り、唇を噛む。


 東郷はただ、沈みゆく船を見つめていた。

 炎が帆を焼き、英国旗が灰となって空に舞う。


 「高陞号、沈没確認」

 副官の報告が響く。


 午前九時。

 海は再び静寂を取り戻した。

 燃え残った木片が波に揺れ、白い煙が空へ昇っていく。


 東郷は帽を取った。

 風が、汗を冷やす。


 「全員、帽を取れ。――海に沈んだ者たちに、敬礼」


 兵たちが整列し、帽を脱ぐ。

 海風が頬を撫で、潮の匂いと血の匂いが入り混じる。


 (これが勝利ならば……あまりに重い)


 東郷は目を閉じ、静かに呟いた。


 「……戦は、まだ始まったばかりだ」


 その声は、誰にも届かず。

 ただ、海の底へと沈んでいった。

戦が終わったあとの海ほど、重いものはない。

 波の音さえ、まるで人の呻きのように聞こえる。


 艦上では、砲煙がまだ漂っていた。

 硝煙と焦げた油の匂いが、夏の湿気に絡みついて離れない。

 火薬庫の扉が開かれ、整然と砲弾が確認されていく。

 砲手たちは黙々と手を動かし、煤に汚れた顔に表情はなかった。


 「損傷部、修繕完了!」

 「機関、異常なし!」

 「通信系統、復旧済み!」


 報告の声が次々と響く。

 それは勝利の報告であるはずなのに、どこか沈んでいた。


 東郷平八郎は艦橋から海を見下ろしていた。

 彼の顔に汗はなく、風に吹かれた髪が静かに揺れていた。

 波間には、沈んだ高陞号の破片が漂っている。

 時折、浮かび上がる影――それが人であることを、誰も言葉にしなかった。


 (これが戦争だ)

 (数字で報告される死者。その一つひとつに、名があり、人生がある)


 東郷は懐から時計を取り出した。

 針は九時二十分を指している。

 ――戦闘開始から、わずか一時間半。

 その短い間に、数百の命が海に沈んだ。


 副官が歩み寄る。

 「艦長、これより帰投命令を?」

 「いや……まず、戦況報告を作成する」


 東郷は艦橋の机に向かい、手早く筆を取った。

 硝煙に染まった手が、わずかに震える。

 それでも、筆先は正確だった。


 『七月二十五日、豊島沖ニ於テ清国艦済遠及広乙、高陞号ト交戦。

  広乙及高陞号ヲ撃沈。済遠退却ス。

  我損害軽微。戦意旺盛ナリ。』


 記録係がそれを写し取り、電信室へと駆けていった。

 しばらくして、機械の音が艦内に響き始める。

 「トントン……トトトン……」

 モールス信号が、海を越えて日本本土へと飛んでいった。


 ――勝利の報が、国へ届く。


 だが、東郷の胸は重かった。

 海を渡る電波の向こうに、民の歓声が上がるだろう。

 新聞は「初戦大勝」と書き立てるだろう。

 だが、それは“事実の一部”にすぎない。


 「……勝利とは、いつも静かだな」

 東郷の呟きに、副官が首を傾げた。

 「は?」

 「いや、何でもない」


 そのとき、船腹に打ちつける波の音がした。

 遠くで雷のように低く響く。

 風が少し強くなり、燃え残った木片が軋んだ音を立てた。


 東郷は帽子を取って胸に当てる。

 そこには、亡き者たちへの無言の祈りが込められていた。

 ――声に出さずとも、誰もが理解していた。


 「戦死者は、敵にのみあらず」

 誰に言うでもなく、そう呟いた。

 副官が一瞬、息を呑んだ。


 (勝った者もまた、何かを失っている)


 やがて、通信士が走ってきた。

 「本国より返信! ――“勝報ニ接シ、陛下深ク嘉賞ノ旨”!」

 艦内に歓声が上がる。

 水兵たちの顔に、ようやく光が差した。


 だが東郷は、静かに窓の外を見ていた。

 「嘉賞か……」

 声は低く、風にかき消された。


 (陛下のため、国のため。――だが、私はこの手で何を得た?)


 遠く、沈没した高陞号の位置から、白い泡が立ちのぼる。

 それは海の底からあがる最後の息のようだった。


 「艦長、記念撮影を――」

 「不要だ」

 東郷は短く答えた。

 「勝利を写すより、教訓を記せ」


 副官が姿勢を正す。

 「はっ」


 機関が再び唸りを上げ、艦はゆっくりと進路を南へ向けた。

 針路は、佐世保。

 だが誰も“帰還”という言葉を使わなかった。


 波が船体を打ち、音が遠くへ消えていく。

 兵たちはそれぞれの思いを胸に、甲板に立ち尽くした。

 海の色が、夕陽に染まって朱く変わる。


 東郷は、帽をかぶり直した。

 「……これより帰投する。全員、持ち場を離れるな」

 その声は、かすかに掠れていた。


 日が傾く。

 燃えるような夕陽の下、浪速はゆっくりと豊島沖を離れていった。

 海面には、沈んだ船の影が赤く染まり、まるで血の帯のように広がっていった。


 東郷は振り返らず、ただ前を見据えた。

 (この戦を、国がどう語ろうとも――私の胸には、沈んだ者たちの顔が残る)


 風が頬を撫でる。

 潮の匂いが、いつかの鹿児島の海と重なった。

 彼は小さく、誰にも聞こえぬ声で呟いた。


 「薩摩の海よ……これで、正しかったのだろうか」


 その言葉は、風に溶け、空へと消えていった。

翌朝、東京。

 空は一面の薄曇りであった。

 蝉の声だけが、夏の都を震わせていた。


 首相官邸の玄関に、伝令が駆け込む。

 「報告! 豊島沖にて、我が海軍大勝!」


 廊下にいた書記官が驚きの声を上げる。

 その声が奥の執務室に届いた。


 藤村晴人は、机の上の地図から目を上げた。

 白髪が増えた頭を上げると、その瞳には深い皺と、光があった。

 「……そうか。ついに始まったか」


 報告書が手渡される。

 『広乙沈没。高陞号撃沈。済遠退却。我損害軽微。』


 文字の列を、晴人は指でなぞった。

 「……軽微、か」

 呟きには、安堵と重さが混じっていた。


 「陸奥を呼べ」


 しばらくして、外相の陸奥宗光が入ってきた。

 深く頭を下げ、机の上の報告に目を走らせる。

 「この戦いは、開戦の口火でございます。

  世界は我が国の動きを見ています。特に英国が――」


 晴人はうなずく。

 「高陞号は英国船籍であったな」

 「はい。しかし実際は清国兵を輸送していた。

  国際法上、交戦行為とみなされます」

 「英国は抗議するか?」

 「……おそらく形式的な照会に留まるでしょう。

  東郷艦長の判断は正当です。あの男に迷いはない」


 「そうか……」

 晴人の声は低く、わずかに震えていた。


 窓の外で、庭の木々が風に揺れている。

 その音が、戦場の波のように思えた。


 「……陸奥」

 「はい」

 「この戦を、長引かせてはならぬ。

  清国は巨大だが、内部は腐っている。

  だが我らも、余力は無い。

  一気に叩き、講和へ導け」


 陸奥は頷いた。

 「承知いたしました」


 そのとき、執務室の扉が開いた。

 篤姫が茶を盆に乗せて入ってきた。

 「お疲れでしょう、晴人様」

 「ありがとう。……よく眠れたか?」

 「いいえ。昨夜はずっと、外が騒がしくて」


 彼女は茶を置き、報告書に目を落とした。

 「これが、戦の始まりなのですね」

 「そうだ。だが……終わらせるための戦だ」


 篤姫は静かに頷いた。

 その表情には、戦国の世を生き抜いた者のような強さがあった。

 「晴人様。戦を終わらせることができるのは、あなたしかおりません」


 晴人は微笑んだ。

 「そう言ってくれるのは、お前だけだな」


 彼女が去ると、部屋に静寂が戻った。

 机の上には、地図と報告書と、一本の古びたペン。

 そのすべてが、戦よりも静かで、重かった。


 ――勝利は、苦悩の別名である。


 晴人はゆっくりと立ち上がり、地図の上に手を置いた。

 「朝鮮。遼東。――そして、満州へ」

 その指先が、国境を越えていく。


 (この地図の線を動かすたび、人の命が動く)

 (私が決めることは、千の死を意味する)


 その思考に、かすかな痛みが走った。

 腰に重みがあり、身体の奥で鈍い痛みが広がる。

 老いの痛み。それが、責任の形にも似ていた。


 「義信を呼べ」


 しばらくして、軍服を着た義信が入ってきた。

 その顔には若さと緊張が混ざっている。

 「陸軍は、いつでも出動可能です」

 「成歓ソンファンでの初戦、頼むぞ」

 「はっ!」


 晴人は一拍置いて、静かに言った。

 「……だが、忘れるな。勝つことより、終わらせることを考えろ」


 義信がはっと顔を上げた。

 「……はい」


 父と子の間に、わずかな沈黙が流れた。

 その沈黙こそが、何よりも重かった。


 外では夕立が始まっていた。

 雷鳴が遠くで鳴り、雨が硝子を叩く。

 まるで、戦場からの報せが空に響いているようだった。


 「戦争とは、政治の言葉を失った末路だ」

 晴人の声が、静かに響いた。

 「ゆえに我らは、言葉を取り戻さねばならぬ」


 義信は深く頭を下げた。

 「はい。父上」


 その背中を見送りながら、晴人は独りごちた。

 「……日本は、今、真に試されている」


 火鉢の中の炭が、ぱちりと音を立てた。

 部屋の中には、雨音とともに、戦の影が静かに滲んでいった。


 (これが最後の戦になるかもしれぬ。

  いや、そうせねばならぬ)


 外の雨が、徐々にやみ始めた。

 雲間から差し込む光が、障子を透かして淡く部屋を照らす。


 晴人は天を仰ぎ、小さく呟いた。

 「どうか、国を守らせてくれ。

  そして、この戦を終わらせる力を」


 その祈りは、誰にも聞こえなかった。

 ただ、静かな風が障子を揺らし――

 明治二十七年の夏が、ゆっくりと夜へと沈んでいった。

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