405話:(1894年・初夏)開戦前夜 東亜の海、動く
六月の朝鮮・漢城は、早くも湿り気を帯びた暑さに包まれていた。
朝霧の残る市街を抜けると、東門の外では日本軍の兵が列を成し、鉄兜の金具が薄陽を受けて鈍く光っている。
馬蹄の音、銃の整列する音、靴底が石畳を叩く音。
その全てが、これから訪れる“戦”の予感を孕んでいた。
通りには朝鮮の民衆が群れ、物見高げに兵たちの行進を見送っていた。
だが、その眼差しは決して一様ではない。
白衣を着た老農が、口を震わせながら呟いた。
「……また戦か。国が潰れる……」
隣の若い男は、腕を組んで答える。
「日本の軍が来てから、村には道も通った。税も軽くなった。俺は日本の方がましだと思う」
それを聞いた老婆が睨みつける。
「馬鹿を言うでない。清国こそが我らの親国だ。日本はただの客人。すぐに追い出されるわ」
喧嘩腰の声を、別の若者が止めた。
「……どっちでもいい。俺たちはただ生きたいだけだ」
その一言に、誰もが口を閉ざした。
戦の影が、すでに民の心を分断していた。
市街の外、丘の上からは、日本と清国の陣営が見渡せた。
両軍の距離、およそ十キロ。
朝鮮半島の小さな平野に、二つの大国が睨み合う。
日本軍は漢城南部に六万、清国軍は北部に三万。
風に揺れる両国の旗が、太陽の下で対峙している。
日本軍の野営地では、兵たちが汗まみれになりながらも、整然と砲を磨いていた。
「おい、もうすぐ始まるのか?」
「分からん。でも清国の奴ら、やる気ねぇ顔してたぞ」
「なら勝てるさ。俺たちには新式銃がある」
その声に応えるように、近くの砲兵が笑った。
「弾薬庫も満杯だ。あとは命令を待つだけだ」
軍靴が地を打つたび、乾いた音が響いた。
若い将校が天幕を出て、空を見上げる。
雲一つない青空。
しかしその穏やかさが、かえって不気味に思えた。
一方、北方の清国軍陣では、空気が重く淀んでいた。
兵舎の壁は崩れかけ、錆びた銃が山のように積まれている。
「弾は足りてるのか?」
「知らん。上が何も言わん」
「給料も来ねぇ。隊長は金を懐に入れたらしい」
苛立ちと諦めが交じった声が、次々と漏れる。
清国の将校が怒鳴りつける。
「静かにせい! 我が大清は天の国、日本など小虫に過ぎぬ!」
だがその声にも、兵たちは冷めた視線を返すだけだった。
夜が近づくと、両陣営に焚き火の灯がともる。
夕闇の中で、無数の炎が草原に点々と揺らめき、まるで地上に星が降ったように見えた。
日本軍の天幕では、若い兵が日記帳に何かを書きつけている。
「明日、戦が始まるかもしれない。父上、母上……俺は怖くない。日本のために戦う」
彼の隣で、上官が静かに呟いた。
「……誰もがそう思っている。だが、戦場は理屈ではない」
夜風が草を撫で、遠くから犬の吠える声が響いた。
彼らの頭上には、まばらな星が瞬いている。
その光を、誰もが無言で見つめていた。
開戦の命は、まだ下らない。
だが、引き金に指をかけた者たちは、すでに息を止めていた。
湿った風が、漢城の上空をゆるやかに流れていた。
遠く、北の山並みの向こうには薄く霧がかかり、街の屋根のあいだからは、兵の掛け声と鉄靴の音が絶え間なく響いてくる。
人々は口を閉ざし、ただ空気の重さに耐えていた。
朝鮮総督府――。
厚い石壁に囲まれた建物の一室で、西郷隆盛は静かに机上の地図を見つめていた。
黒々とした線で描かれた境界、その北側には「清軍」、南には「日本軍」と朱筆が記されている。
距離、わずか十里。
その間に流れる鴨緑江を、どちらが最初に越えるか――誰もが息を潜めていた。
「総督、各地の部隊、配置完了いたしました」
報告を終えた将校が一歩下がる。
「清国軍は?」
「三万、平壌方面に布陣とのことです」
「ふむ……」
西郷は眉を寄せ、無言で指先を顎にあてた。
白髪が混じった髭が、かすかに揺れる。
その表情には、薩英戦争や四国連合艦隊との戦いを生き抜いた男の、静かな厳しさが刻まれていた。
彼の背後に立つ者たちには、もはや言葉は不要だった。
やがて、副総督の藤田小四郎が入室した。
静かに扉を閉め、報告書を差し出す。
「清国は北洋軍を追加派兵中です。外交上は“東学党鎮圧のため”と称していますが、実質的には侵攻準備です」
「やはり、そうか」
西郷は短くうなずき、目を細める。
「彼らは“宗主国”の意地を捨てられん。だが、朝鮮の未来はもう別の道を歩み始めておる」
その言葉には、怒りよりも哀しみがあった。
机の端に置かれた古びた鞄の中には、かつて自らがこの地に持ち込んだ改革案の草稿が挟まれている。
税制、教育、衛生、司法――。
いずれも、武よりも理をもって国を立て直すための提言だった。
それらを実行し、ようやく安定が見え始めたところでの、この騒乱である。
「総督、陛下(高宗)は両軍の撤退を望まれております」
藤田が静かに言った。
「当然じゃ。だが、清国が退かぬかぎり、我らも退けぬ」
「……戦になります」
「ああ、避けられぬ」
西郷は立ち上がり、窓の外を見た。
曇天の下、衛兵たちの槍が規則的に並び、その先に遠く城外の丘が霞んでいる。
その丘の向こうに、清国軍の陣地がある。
「小四郎。そなたに頼みたいことがある」
「何なりと」
「この国の民を、守れ。たとえ戦になろうとも、我らの手で荒らすことは許さん。
ここは“征服の地”ではない。共に立つ土地だ」
藤田は深く頭を垂れた。
その声音に、かつて尊王の志を掲げて共に戦った青年の影を見るようだった。
西郷は机の上の軍帽を取り上げ、しばらく手の中で重みを確かめる。
その帽には、いくたびもの遠征で褪せた金章が光っている。
「……これが、わしの最後の戦になるかもしれんな」
「総督?」
「いや、独り言じゃ。だが小四郎、お前には次を託す。
この地を、武ではなく知で治めよ。
我らが火を起こし、そなたが灯を絶やさぬように」
藤田の瞳が静かに揺れた。
「承知いたしました。総督のお志、必ず継ぎます」
そのとき、外から太鼓の音が響いた。
緊張が空気を裂き、伝令が駆け込んでくる。
「報告! 清国軍、国境地帯に動きあり!」
「距離は?」
「まだ十里の外です。しかし陣を前へ――」
「よい、慌てるな。東京の指示を待て」
西郷の声は低く、しかし確固としていた。
嵐の前の静けさの中で、彼は胸の奥にひとつの確信を抱いていた。
――日本は、もう昔の日本ではない。
そして、清国もまた過去のままではいられない。
この戦は、ただの領土争いではない。
新しい東洋の秩序を決する試金石である。
遠雷が再び鳴り、窓硝子がわずかに震えた。
藤田はその音に顔を上げ、西郷の横顔を見つめる。
白髪の将は微動だにせず、北の空の一点をじっと見据えていた。
その眼には、戦ではなく“次の時代”を見ている光があった。
六月の東京は、湿気を含んだ空気が重くのしかかっていた。
雲間から差す薄い陽光が、首相官邸の白壁を鈍く照らす。
梅雨の雨が石畳を濡らし、庭の紫陽花がしっとりと色を深めていた。
玄関に並ぶ黒塗りの馬車。
次々と降り立つ閣僚たちの靴音が、緊張の朝を告げていた。
執務室。
藤村晴人は、報告書の束を前に沈思していた。
背筋を伸ばし、ゆっくりと指先で眼鏡を押し上げる。
白髪交じりの髪に、灯の光が反射して銀色に光った。
大久保利通、陸奥宗光、児玉源太郎、西郷従道――
そして義信・久信・義親の三人の息子が、円卓を囲んで座っている。
「――西郷総督より報告。日清両軍、朝鮮北部で対峙。距離十里、双方交戦の恐れあり」
陸奥宗光の声が、低く響いた。
紙を置く音が重なり、室内の空気がさらに張り詰める。
「清国の数は?」
晴人が問いかける。
「三万。さらに北洋軍から二万の増援が出兵準備中です」
「日本軍は?」
「六万。西郷総督は“先制攻撃を禁ず”との閣議方針を遵守しています」
晴人は小さくうなずいた。
机上の地図には、赤と青の駒が並んでいる。
赤は日本、青は清国。
それらが朝鮮半島の細い地形の上で、今にも衝突しようとしていた。
「児玉」
「はっ」
「陸軍の準備は」
「完全です。兵站は釜山まで整い、輸送船も出航待機中。
ただし、先に撃てば“侵略”と見なされる恐れがあります」
「わかっておる。国際世論は我らの武器ではない」
次に、晴人の視線が久信へと向いた。
「外務はどうだ」
「英国公使から、“清国が先に攻撃すれば日本を支持する”との書簡が届いております。
フランスとロシアは中立を表明。ただし、長期戦となれば口を挟むでしょう」
「ふむ……三国干渉の芽はすでにある、ということか」
晴人は軽く息を吐き、指先で机を叩いた。
乾いた音が響く。
「我らが求めるのは、征服ではない。
朝鮮の安定と、清国の腐敗に終止符を打つこと――その一点だ」
その声には、静かだが揺るぎない力があった。
沈黙が数秒続き、やがて義信が立ち上がった。
「父上、参謀本部の判断を申し上げます。
清国が動けば、ただちに第一師団が北上。
海軍は黄海で迎撃態勢を取り、清国艦隊の補給線を断ちます」
「海軍の指揮は西郷従道だな」
「はい。すでに“松島”“厳島”“橋立”が出航準備中です」
義親が補足する。
「民衆の多くは戦争を支持しています。新聞は“朝鮮を守れ”と書き立てていますが、
一部には“清国は大国、日本はまだ若い”という不安も残っています」
「……ならば伝えよ」
晴人が静かに言葉を切り、全員を見渡した。
「戦うのではない。試されるのだ。
この三十年、我らが築いた近代国家が、本当に世界と肩を並べられるかどうか――」
その言葉に、室内の誰もが背筋を伸ばした。
雨の滴が窓を伝い、かすかな雷鳴が遠くで鳴る。
陸奥宗光が咳払いをして言った。
「総理。開戦は避けがたいでしょう。
だが、宣戦布告の形式を整えねば、後に口実を与えることになります」
「うむ、法を守る戦であらねばならん」
晴人は頷き、筆を取る。
手が震える。だが、その筆致は確かだった。
「――“清国が我が国に対し不当な軍事行動を行えば、
日本はこれを自衛のための戦争とみなす”」
墨の匂いが部屋に広がる。
その黒い一行が、東洋の新時代の扉を叩くように見えた。
やがて閣議が終わる。
官邸の外では、報道記者たちが傘を差しながら待機していた。
雨粒が彼らの肩を濡らし、鉛筆の先が震える。
「戦争になるのか?」
「首相は何と?」
押し寄せる声を背に、久信が官邸を出て一言だけ告げた。
「――我が国は、正義の立場を守る」
その言葉は夕刊の号外に大きく載り、
「日清、開戦秒読み!」の見出しが東京中に踊った。
銀座の街では、酒場に人が集まり、
職人や学生が新聞を掲げて論じ合っていた。
「清国なんぞ恐れることはない!」
「いや、あちらは大国だ。油断すれば潰されるぞ」
「藤村総理がいる。あの人が負けるはずがない」
人々の声は熱を帯び、しかしその熱の裏には不安が潜んでいた。
誰もが知っていた――この戦が、単なる一戦ではなく、
日本という国の運命を賭けた“試練”であることを。
その夜、官邸の灯は遅くまで消えなかった。
窓辺に立つ藤村晴人の背に、雨音が淡く響く。
彼は静かに地図を見つめながら、胸中で呟いた。
――戦いは、すでに始まっている。
刀ではなく、言葉と信念の戦が。
紫禁城の空は、どこか鈍い。
六月の北京は熱気に満ちているのに、宮中には奇妙な寒気が漂っていた。
朝露を含んだ風が、龍の彫られた瓦屋根をすべり、宮門の朱塗りを撫でていく。
西太后の居所からは、早朝の鐘が響き渡り、その音が灰色の空に吸い込まれていった。
広い謁見の間――
若き皇帝・光緒帝が玉座に座し、その前に李鴻章をはじめ、満漢両派の大臣たちが控えていた。
沈黙が長く続いた。
御簾の向こうからの視線を意識しながら、誰もが息を潜めている。
ようやく光緒帝が口を開いた。
「――朝鮮の報せは、確かか?」
声はまだ若く、どこか不安を帯びていた。
李鴻章が恭しく一歩進み出る。
「はっ。陛下、朝鮮において“東学党”の乱が鎮圧された後も、日本軍が撤退せず、今や六万が北部に布陣しております」
「日本が……六万?」
皇帝の眉がわずかに動いた。
「我が国の駐留軍は三万。
さらに北洋軍より二万を追加派兵いたします。
陛下の威光を示す好機にございます」
李の声は穏やかだが、その背後には緊張が潜んでいた。
「だが……」
光緒帝は言葉を濁し、沈黙した。
視線は床に敷かれた龍の文様を彷徨っている。
「日本は、近ごろ西洋の兵制を取り入れたと聞く。
我が軍は、彼らに匹敵するのか?」
広間が静まり返る。
老臣たちが互いに顔を見合わせた。
答える者は誰もいない。
やがて李鴻章が口を開く。
「陛下、ご安心を。
確かに日本は近代化を進めております。だが、所詮は小国。
我が大清は四億の民と、悠久の歴史を持つ大国にございます。
数も、資金も、威信も、比較になりませぬ」
「……そうであろうか」
光緒帝は小さく呟き、視線を逸らした。
その瞳の奥には、わずかな怯えが宿っていた。
その怯えを見逃さぬように、李は一層丁寧に言葉を重ねる。
「陛下、この戦は天の与えた機会です。
我らが宗主の名を正し、朝鮮を再び清の庇護に戻す――それこそが天命にございます」
皇帝はしばらく黙した。
静寂の中で、庭の風鈴が小さく鳴った。
やがてゆっくりと頷く。
「……よかろう。出兵を許す」
その瞬間、文官たちが一斉に頭を下げた。
だが、誰の顔にも歓喜はなかった。
謁見の間を下がると、李鴻章は扇を閉じ、重い息を吐いた。
廊下の先に佇む古びた石像のように、彼の顔は沈んでいる。
足元をすれ違う若い文官が、小声で囁いた。
「大臣、本当に勝てましょうか。日本は電信を使い、鉄道を使い、兵はよく訓練されていると……」
李は立ち止まり、ゆっくりと振り返った。
「勝敗を語るのは愚か者のすることだ。国家に“退く”という選択肢はない」
低い声だった。だが、その裏には苦い諦念が滲んでいた。
北洋艦隊司令部――天津。
黄海へと通じる港には、黒煙を吐く戦艦「定遠」と「鎮遠」が停泊している。
かつて清国の誇りであった巨艦も、今では老朽化が進み、砲の錆が目立つ。
桟橋を歩く李鴻章の目に、その姿はどこか時代遅れの象徴として映った。
「修理は終わったのか」
「はっ、応急処置にて。ですが、砲弾の在庫が……」
「補給を急げ」
声を張るが、返るのは疲弊した兵たちの曖昧な返事ばかりだった。
その夜、李は執務室に戻ると、一人で地図を広げた。
薄暗い燭の火が紙の上で揺れ、海と陸の境をぼんやりと照らす。
「……我が国は病んでいる」
老いた唇から、誰に聞かせるでもない言葉が漏れた。
官僚は賄賂に溺れ、軍は訓練を怠り、将校は出世のみに血眼になる。
それでも大清は“帝国”の名を掲げ続けねばならぬ。
窓の外では、天津の空に稲妻が走った。
李は扇を畳み、静かに目を閉じた。
「日本……藤村晴人。
おぬしらの国は、どこまで見ている?」
机上の報告書には、日本の連合艦隊が黄海に展開したとの電文が置かれている。
李はその紙を指先で押さえたまま、じっと考え込んだ。
――負ければ、清の威信は地に落ちる。
だが、勝っても何も残らぬ。
腐敗を抱えたこの国では、勝利さえも腐っていく。
その夜遅く、彼は北京への報告書をしたためた。
筆は重く、墨は滲んでいる。
最後にこう記した。
「本戦、勝敗いずれにせよ、東亜の形は変わる」
書き終えた李は、筆を置き、蝋燭の火を吹き消した。
部屋は闇に沈み、外では遠く黄海の波が静かにうねっていた。
その音は、まるで老いた帝国が、深い眠りに沈もうとする呼吸のようでもあった。
六月下旬、黄海。
灰色の空が果てしなく続き、低い雲が波の上に垂れ込めていた。
潮風は塩を含み、肌に刺さる。
波頭が風を裂き、砕けるたびに白い飛沫が艦橋を打った。
日本連合艦隊――。
その旗艦「松島」の艦橋で、司令官・伊東祐亨中将は遠眼鏡を握りしめ、東の水平線を見据えていた。
空気は静まり返っている。だが、海の下では何か巨大な力が蠢いているような気配がした。
「北洋艦隊の定遠、鎮遠はいずこか」
伊東の低い声に、副官が答える。
「報告によれば、威海衛を出港。
現在は山東半島沖を北上中とのことです。数は十隻前後。こちらは十三隻」
「数では勝るが、敵の装甲は厚い。侮るな」
艦内では、機関の鼓動が絶えず響いていた。
艦底の蒸気機関が唸りを上げ、鉄板の震動が靴底に伝わる。
火夫たちは上半身裸で汗にまみれ、石炭を炉へと投げ込んでいる。
甲板では砲手たちが訓練を繰り返し、砲身に油を塗り、照準器を何度も確認していた。
砲術長が小声で呟く。
「風向きが北に変わりやした。雨の前兆ですな」
「雨なら好都合だ」
伊東が即答した。
「霧と雨は、敵の巨艦の視界を奪う。我が艦の機動力が活きる」
その言葉に、艦橋の将兵たちは短く頷いた。
彼らの顔には恐怖もあったが、それ以上に“試される時が来た”という昂ぶりがあった。
やがて、通信士が駆け上がってくる。
「電信! 東京より!」
紙を差し出す。
伊東は受け取り、素早く目を走らせた。
――「開戦前夜。清国が先に手を出せば、即時反撃せよ」
署名は“藤村晴人”。
艦橋の空気が、ひときわ張りつめた。
伊東は黙って文を折り畳み、胸の内ポケットにしまう。
そして海を見つめた。
遠く、雲の切れ間から一筋の光が差し込んでいる。
まるでその光が、これから起こるすべてを照らす導きのように思えた。
「……戦は近い」
伊東の声は低く、だが確信に満ちていた。
「艦隊、針路維持。速力八ノット。――決して挑発に乗るな。敵の砲火をもって戦を始める」
「了解!」
号令が伝わり、汽笛が鳴る。
艦首がゆっくりと向きを変え、灰色の波を切り裂いた。
そのころ、黄海のさらに北。
清国北洋艦隊の旗艦「定遠」でも、別の緊張が漂っていた。
艦上には赤い龍の旗。
船体は巨大だが、老朽化した装甲板には錆が浮き、艦砲の旋回も重い。
兵たちは湿った弾薬を乾かし、上官の怒声が飛ぶ。
「弾薬を守れ! 貴様ら、手を抜くな!」
「閣下、石炭が不足しています!」
「督促は天津に送った! 泣き言を言うな!」
艦長は憤りを隠せず、苛立ちを吐き出すように煙草をくわえた。
海図の上で指が震える。
敵の艦影はまだ見えない。だが、誰もがわかっていた――次にこの海で銃声が響けば、それが“戦端”となることを。
その夜、海は闇に包まれた。
風が止み、波が静まり、星も見えない。
ただ、船の腹を叩く微かな水音だけが響いている。
「松島」艦橋では、伊東がひとり甲板に立っていた。
上衣の裾が風に揺れ、髭が潮で濡れている。
懐中時計を取り出す。時刻は午後十一時。
明日もまた、戦わぬまま夜を越えるかもしれない――そう思いながらも、胸の奥に確かな予感があった。
――もうすぐ、歴史が動く。
やがて士官が静かに近づく。
「提督、見張りより報告。南東方向、灯火を確認。距離十二海里」
「敵艦か?」
「断定できません。だが、巡洋艦の灯と見られます」
「……よし、全艦停泊。照明を落とせ。こちらの位置を悟らせるな」
闇の中、旗艦は静かに動きを止めた。
周囲の海はまるで眠っているように穏やかだが、その静けさの裏で、何か巨大な“うねり”が形を成しつつあった。
伊東は空を仰いだ。
雲の切れ間に、一瞬だけ星が見えた。
それはまるで――国運を映す光のように、冷たく、しかし確かに瞬いていた。
彼は帽を押さえ、低く呟いた。
「……藤村総理。
この海の風は、たしかに変わりつつあります」
潮騒が答えるようにざわめき、
夜の海に、戦の匂いが静かに満ちていった。
六月の終わり。
東京は湿り気を帯びた熱を抱き、夜でも風が動かぬほどに重かった。
首相官邸の灯は深夜を過ぎても消えず、窓越しに蝋燭の明かりがゆらめいていた。
外では、遠雷が低く唸っている。
書斎の机に広げられた地図には、朝鮮半島の地形と黄海の航路が克明に描かれていた。
藤村晴人は椅子に深く身を沈め、片手で腰を押さえながら、もう一方の手で眼鏡を外した。
額から滑る汗が紙に落ち、地図の端をわずかに濡らす。
――戦は、避けられぬ。
その言葉が何度も脳裏を巡る。
机の端には、英国公使からの書簡が置かれていた。
封蝋を割り、再び目を通す。
〈日本は冷静であれ。清国が先に撃てば、我が国は貴国の立場を支持する〉
簡潔な一文だった。だが、晴人にはその裏の意味が痛いほどわかった。
“お前たちが先に撃てば、孤立する。”
英語の文面を見つめる視線が細くなり、手にしたペンがわずかに震える。
「……狡猾だな、英国は」
声は低く、苦味を帯びていた。
しかし同時に、彼は理解していた。
それが国際政治というものだ。
情よりも利、正義よりも均衡。
この三十年間、藤村晴人が築き上げてきた「理の政治」もまた、その冷たい現実の上に立っている。
ノックの音。
「入れ」
扉が開き、久信が姿を見せた。
外務次官としての顔ではなく、息子としての表情だった。
「父上、英国公使より電信。
“清国が挑発を続けているが、日本の自制を高く評価する”とのことです」
「……つまり、まだ撃つなということだ」
「はい」
「西郷総督には伝えたか」
「すでに通達しております。“先制攻撃は禁止”と」
晴人は小さくうなずいた。
「よい。だが、敵が一発でも撃てば――容赦はいらぬ」
その声音に、かすかな怒気が滲んでいた。
久信は一瞬、言葉を失い、やがて深く頭を下げた。
「承知しました」
そして静かに退室していった。
扉が閉まると、再び静寂が戻る。
晴人は立ち上がり、窓際へと歩み寄った。
外は闇に沈み、遠くで犬の鳴く声がした。
梅雨の湿気が肌にまとわりつき、蝋燭の火が小さく揺れる。
――七月。
清国が動くのは、間違いない。
西郷隆盛は朝鮮を守り、藤田小四郎が現地行政を支える。
児玉源太郎は陸軍を掌握し、伊東祐亨が黄海を押さえる。
これほどの布陣は、もう二度と作れぬ。
だが、これを動かす軸が今の自分であることが、どこか恐ろしくもあった。
机に戻り、椅子に腰を下ろす。
腰の痛みがじわりと広がる。
だが、顔に浮かぶのは苦痛ではなく、覚悟の色だった。
――日本は、勝たねばならぬ。
この戦は、ただの領土争いではない。
“文明の証明”である。
文明とは、血で書かれる。
晴人はそう信じていた。
そこへ、静かな足音が近づいた。
「晴人様」
篤姫が扉の外に立っていた。
彼女は手に茶托を持ち、いつものように穏やかな微笑みを浮かべている。
「もう遅うございます。お身体をお休めに」
「……もう少しだけだ」
晴人は茶を受け取り、ひと口含む。温かい。
胃の奥にじんわりと染みていく。
「戦が始まるのですね」
篤姫の声は静かだったが、その瞳には恐れと決意が共に宿っていた。
「そうだ。だが、我らが先に撃つことはない。
清が撃てば、我らは応じる。正義の戦として」
「どうか……お身体を大切に」
晴人はわずかに笑い、首を振った。
「身体など、もう半ば朽ちておる。だが、心はまだ燃えている」
篤姫は深く頭を下げ、静かに退いた。
残された晴人は、再び窓の外を見た。
遠雷が光り、空を裂いた。
瞬間、暗闇の中で庭の松が白く照らし出される。
彼は胸の内で呟く。
――この光の次に、火が上がる。
それが戦の炎であろうと、文明の灯であろうと、
私はその始まりを見届けねばならぬ。
筆を取り、机の上の紙に書きつける。
〈西郷隆盛に伝う。清国が一発でも撃てば、即時反撃せよ〉
筆先が止まる。
そして小さく続けた。
〈――ためらうな。日本の未来は、その一発から始まる〉
紙を畳み、封をして、蝋を垂らす。
火が小さくはぜた。
その光を見つめながら、晴人は目を閉じた。
脳裏には、朝鮮の地に立つ西郷の姿、
黄海を進む伊東の艦影、
そしてまだ見ぬ戦火の光景が浮かんでいた。
外では雨が降り出していた。
静かで、長い雨。
それはまるで、これから始まる歴史の幕を洗うようだった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
面白かったら★評価・ブックマーク・感想をいただけると励みになります。
気になった点の指摘やご要望もぜひ。次回の改善に活かします。




