39話:富岡ではなく、水戸にて
朝靄が水戸の町に淡く降りる中、新たに建てられたばかりの製糸舎には、白い湯気と共に人の気配が満ちていた。
「……始めてみよう」
その言葉とともに、静かに足踏み車が軋んだ音を上げる。
中では、晴人が自ら設計した撚糸・巻取りの仕掛けに手をかけていた。装置は、竹で組まれた車軸に小さな歯車を噛み合わせ、蚕の繭から引いた細い絹糸を、撚りを加えながら一定の速さで巻き取っていく仕組みになっている。
「回ってる……」
娘たちが見守る中、一筋の白糸が均等にねじられ、くるくると巻き上がっていく。誰かが、小さく息を呑んだ。
「今までは、撚りをかけるのも、巻き取るのも、手の加減任せでしたから……」
「こうして機構に任せれば、太さも力も揃う」
岩崎弥太郎が目を細め、低く呟く。
装置の動力は、極めて簡素なものだ。水戸の町で手に入る竹や木を使い、軸受けには和紙を重ねて滑りをよくし、滑車の回転は足踏みによるもの。だが、晴人が試行錯誤して組み上げた設計図には、細部にわたり“再現性”と“均一性”が考慮されていた。
「女手でも動かせるよう、軽くしてあります。力のない者でも、仕事が続けられる」
「……いや、これは使いやすいよ。ほんとに」
年長の娘が、試験用の糸枠を前にそう呟いた。手元の糸を張るための糸掛けも、従来のものより浅く、手元を見ずとも作業ができる。慣れれば、一人で複数台を動かすことも不可能ではない。
晴人は、にこりと微笑む。
「どんなに良い繭があっても、それを活かす撚糸の腕がなければ、良い絹にはなりません」
「つまり……水戸で“売れる糸”が繰れるようになる、ってことか」
弥太郎がぽんと手を打ち、晴人を見た。
「だが、晴人さん。この仕掛け、どうして思いついたんです?」
「織物の手入れを見ているうちに、ねじれを加えながら巻いている手元の動きを見て思いました。『これを、足で回せるようにしたらどうなるか』と……」
「なるほどなあ……。手元の動きを機械に置き換える、か。職人任せにしないから、一定の品質が保てるってわけだ」
晴人は頷きつつも、その先を見据えるように目を細めた。
「水戸で育てた繭を、水戸で撚り、水戸で織る。その糸が“水戸の名で”江戸に並ぶ日を、私は見たいんです」
その言葉に、弥太郎の表情が変わる。今まで“地方の一藩”と見なされてきた水戸が、技術と工夫によって“生産地”として都に評価される。――それは、ただの技術革新ではなく、“水戸の誇り”を賭けた挑戦でもあった。
その日から、製糸舎には連日、娘たちが集まるようになった。湯屋の脇に干された真新しい布、軒下に吊るされた糸巻き。撚糸機の軋む音が町に響くたびに、それは新しい時代の胎動として、人々の心を揺らした。
晴人は、工舎の片隅でそっと呟く。
「水戸で成したい。……ここで始める意味がある」
弥太郎もまた、その言葉に力強く頷く。
「上等だ。ならば次は――売る段を考えようじゃないか。俺の出番だな」
そして、この日生まれた糸は、やがて“水戸撚糸”の名で江戸に出回ることとなる。
陽が高く昇る頃、製糸舎の隣に設けられた小さな建物――そこは、糸を撚る娘たちや工の者たちが集まるための“労働食堂”であった。
柱には「しょくどう」と書かれた白い布が結ばれ、軒先からは湯気がゆらゆらと立ち昇っている。
「はいよ、今日もできてるよ。あっついご飯に、例のやつかけてごらん」
茶碗を手にした娘が、一歩前に出る。
食器棚の脇には、壺のような陶器に入った白い調味料が並んでいた。見た目は味噌とも違う、しかし何とも香ばしい香りが立ち上っている。
「これ……ほんとに、卵と酢だけで?」
「うん。あと少しの塩と油な。混ぜる加減にコツが要るけど、一度できたら冷やしておくだけで何日ももつ」
調理を担っている女衆のひとりが、どこか得意げに頷く。晴人が教えた“乳化”という技法は、彼女たちの手にも馴染んでいた。
娘は箸で白い調味料をすくい、ご飯の上に載せる。さらに、その上に千切りにした蕪や人参の漬物を乗せると、見た目にも鮮やかな“即席丼”が完成する。
「……いただきます」
ひと口、頬張る。
とろりとした舌触りと共に、梅酢の香りが口内に広がり、卵のやさしい旨味がそれに寄り添った。
「……おいしい!」
隣の娘も笑い、もう一人もすぐに続いた。たちまちのうちに食堂には賑わいが満ち、外で並ぶ若い娘たちの間にも「梅マヨ、もう出た?」「残ってるうちに急がなきゃ」という声が飛び交う。
そう、“梅マヨネーズ”――それは、水戸で生まれた新しい味だった。
最初に発案されたのは、たまたま調理当番となった若い町娘が「酸っぱい物があれば食が進むのに」と呟いたことがきっかけだった。
それを聞いた晴人が、卵と酢、油を使って「簡易的な乳化」を教え、さらに地元で手に入る“梅酢”を加えたところ、まろやかで香り高い調味料が完成したのだ。
「名前をどうするかって? そりゃあ、“水戸梅マヨ”でいいんじゃねぇか」
最初にそう言ったのは、岩崎弥太郎だった。
彼は食堂に足を運び、蒸し野菜にかけて試食しながら「うん、これは江戸の飯屋にも出せるぞ」と頷いた。
「この味は、流行る。……女衆だけじゃない、男の者にも評判になるはずだ」
そう言った彼の読みどおり、水戸城下では“梅マヨ”を求める者が次第に増えていくこととなる。
ある商人は、「この味噌のような、酢のような、白い塗り物はなんだ?」と食堂で尋ね、食べ終えたあとにその場で瓶詰めを注文していった。
またある町人の子は、「梅マヨにすると、苦手な野菜も食える」と母親を喜ばせた。
その一方、調理担当の女たちも密かに驚いていた。なにせ、卵と酢、油というありふれた材料で、ここまで喜ばれるとは思っていなかったのだ。
「贅沢品じゃないのに、特別感がある……」
「ねぇ、これ……食べると元気が出るよね」
「たしかに。なんだか、疲れが残らない気がするわ」
調理場に置かれた瓶の中には、すでに次の仕込みが始まっていた。
割った卵の黄身をすり鉢に落とし、梅酢を加え、少しずつ油を垂らしては丁寧に練り上げる。
「ここを焦って混ぜると、分離するんだよねぇ」
「ほら、焦ると失敗するのは、恋と一緒だよ」
そんな冗談交じりの会話が飛び交いながらも、誰もがその作業に真剣だった。
やがて、日が傾きかける頃、食堂の外には小さな行列ができるようになる。
「お袋に持って帰りたいんですが、少し分けてくれませんか」
「この味を、隣の村の親戚にも食べさせてやりたくて……」
晴人は、弥太郎と共にその光景を静かに見守っていた。
「“水戸梅マヨ”は、金にはならないかもしれません。でも……暮らしを変える“味”になるかもしれません」
「それが大事なんだ。食が変われば、働く力も変わる。活気が出る。活気が出れば、人が集まる。そうなれば、町も変わる」
晴人の言葉に、弥太郎はにっと笑った。
「おぉ、商売の芽がまた一つ咲いたな。次は……これを“瓶詰め”にして、江戸に持ってくかね?」
それはただの調味料ではなかった。
水戸に生きる人々の、知恵と工夫、そして暮らしへの想いが詰まった、“やさしい革命”の味である。
ある晩のこと。岩崎弥太郎の帳場に、灯火のもとで集まったのは、晴人と数名の商人、そして陶工や瓶詰め職人たちだった。
机の上には、ずらりと並ぶ小さな陶瓶。どれも色も形も微妙に違い、口元の厚みや注ぎ口の角度など、ひとつとして同じ物がない。
「どれが一番、味が逃げねぇと思います?」
陶工のひとりが、弥太郎に尋ねる。
「そりゃあ、蓋がしっかり締まるやつに限るな。けど……見た目も大事だ。手に取った時、“誰かに贈りたくなる”ようなもんがええ」
「なるほど……」
陶工は頷きつつ、釉薬の艶を確認するように瓶を持ち上げる。
晴人はその様子を横目に見ながら、紙に図を書いていた。
「注ぎ口は少し斜めにして、液垂れを防ぎたい。あとは……封をしてから“開封日”が分かるように印を押すのもいいかと」
「ほぉ。なるほどな、開けた日を書かせるってか。それなら古くなったもんも分かりやすい」
やがて試作品の瓶に、筆で“水戸梅味調”和と書かれた紙が巻かれ、結び紐で留められていく。晴人が考案したのは、あえて「マヨネーズ」の名を避けた、和風調味料としての打ち出し方だった。
「“梅マヨ”は、呼び名としては親しみやすい。けれど、それを江戸で売るとなれば、格式も大事にしたい」
「……なるほど。“マヨ”ってだけで『西洋かぶれ』と警戒する連中もいるからな」
弥太郎が頷く。
こうして、完成した瓶詰めの「水戸梅味調和」は、晴人の筆による柔らかな文字と、控えめな香の印が添えられ、ついに出荷の準備が整った。
最初の販路は、江戸の水戸屋敷にほど近い町屋だった。かつて石鹸を売り出したときと同じく、水戸藩公認・町民商会のつてを活かし、商人たちの協力を得て“試供”という形で取り扱いを開始する。
「おっ、これかい? “手前味噌”ってんならよく聞くが、こりゃ“手前酢味噌”か?」
「いやいや、卵が入ってるらしいぞ。けど、不思議と油臭くないんだって」
「それで野菜が食えるなら、うちの坊主にも試してみようかしらね」
通りすがりの女房連中が、試食台に目を留める。
店先では、陶瓶を開けた小皿に、大根の薄切りを載せた一口サイズの試食品が並べられ、ひとりの若い店員が元気に声を張る。
「こちら、“水戸の風味”。卵と梅酢を練り上げた、やさしい口あたりの調味料です!」
「お試しは一口から、どうぞご遠慮なく!」
日が暮れる頃には、試供用に用意した瓶がほとんどなくなっていた。
「なんだい、あんたたち水戸じゃ香りの石鹸だけじゃなく、こんなもんまで作ってたのかい」
「次は何が出るんだ? 水戸の菓子か? 水戸の酒か?」
商人のひとりが冗談交じりにそう言うと、店員がきらりと目を光らせた。
「いいえ。次は“水戸の茶”が控えております。香りの茶葉に、甘い干菓子を添えて……どうぞお楽しみに」
その軽口に、通行人たちは笑いながら足を止めていった。
こうして、“水戸梅味調和”はわずか半月のうちに、江戸の武家屋敷・長屋・料理屋にまで口コミで広がっていった。
武家の奥方は「魚の臭みを抑えてくれるわね」と上品に微笑み、町娘たちは「白飯に合う」と笑って買い求めた。
やがて、江戸の一角で小さな変化が起きる。
武家屋敷からの注文に混じって、「料理茶屋」や「旅籠」からの問い合わせが届き始めたのだ。
「おい、この“水戸の味”ってやつ、仕入れられねぇか?」
「梅酢と卵だろ? 真似すりゃできんこともないが……この口当たりはちと難しいな」
「ふっ……じゃあ、“あの水戸”から取り寄せるしかあるめぇよ」
料理屋の板前たちは舌を巻いた。濃すぎず、かといって薄くない。酸味と旨味の加減は絶妙で、“料理を引き立てる”調味料としての評判は、石鹸を凌ぐ勢いを見せはじめる。
一方、水戸では晴人と弥太郎が集計帳を手に、納入瓶の数や注文数を確認していた。
「……これで江戸に週三十本。製造は追いつくか?」
「女衆は増えてるよ。瓶詰めと仕込みに関しては、まだなんとか手作業で回ってる」
「そろそろ“保存の工夫”も考える必要があるな。夏になれば、傷みが早い。酢で持たせているとはいえ……」
晴人は頷きながら、次の工程を図面に描きはじめた。
それは、冷暗所の設置、陶瓶に替わる“蜜蝋封”の実験、そして瓶詰め作業の簡素化。
彼らの工房では、すでに“食の衛生”と“風味の保持”を両立させる試みが始まっていた。
「味を売るだけじゃない。仕組みを売るんです。誰が作っても同じになる、それが水戸の“信用”になる」
晴人の目は、すでに江戸の先――京都、大坂をも見据えていた。
江戸の町では、早朝の仕込みを終えた料理屋の若旦那たちが、路地裏の井戸端で顔を突き合わせていた。
「昨日な、“水戸の梅味”ってやつを出してみたんだ。焼き魚の添えに、ちょいとだけ」
「どうだった?」
「女将が客から褒められたって、珍しく上機嫌でな。“うちの味が洗練された”なんて言われたってさ」
「それは儲け話だな……仕入れ先、教えてくれよ」
そんな声が立て続けに広まり、ほどなくして「水戸梅味調和」は“ひと匙で料理の格が変わる”と噂されるようになる。
物珍しさから始まった評判は、やがて確かな“品質”への評価に変わっていた。
一方その頃、水戸の町でも変化が起きていた。
町はずれの製糸舎と仕込み小屋では、朝から若い娘たちの掛け声が響き、撚糸の音と陶瓶の蓋を閉じる手の音が混ざり合っていた。
「ほら、次の分は江戸行きだよ。丁寧に詰めて、紐も緩まないようにね」
「分かってます! でも、この“水戸の印”って、なんだか誇らしいですよね」
娘が持ち上げた瓶の底には、柔らかな“水戸特産商会”の印。晴人が考案した新たな焼き印だった。
「贈り物に使われるんだもの。見た目だって大事にしないとね」
湯気の立ち上る調味仕込み場では、年配の女房たちが鍋をかき混ぜながら、笑顔で頷く。
「“武家屋敷の台所でも使ってる”なんて話を聞くとさ、ちょいと背筋が伸びる気がしてねぇ」
こうした言葉が、娘たちの労働の励みとなり、町の活気を生み出していく。
その中心には、晴人と弥太郎の姿があった。
「晴人さん、面白い話があるぜ」
「また何か思いつきましたか?」
「江戸の問屋筋から、相談が来てる。“水戸特産商会”として、品目を増やせないかってな」
「石鹸と、味調和だけじゃ物足りないと……?」
「いや、それだけ評判がいいってことだ。特に“水戸”って名前が、物の良さと結びつき始めてる」
弥太郎は、にやりと笑って続けた。
「つまりだ、これまで“遠くの一藩”に過ぎなかった水戸が、江戸で“信頼できる土地”として見られ始めてるってことだ」
晴人は言葉を飲み込んだまま、ゆっくりと帳場の障子の外を見やった。
土壁の向こうには、小さな作業場が並んでいる。そこには、汗をぬぐいながら瓶を拭く女房、配送用の木箱を丁寧に縄で縛る若者、帳簿をつける子供――
“ものをつくり、届ける”という営みが、水戸の町の中で静かに根を張りはじめていた。
「……水戸の名前で売れる。それが広がれば、農の外にもう一つの道ができる」
「女も子供も、町民も武士も、皆が関われる道か」
「そうです。“職”の形は、武ばかりではありません。生活の中から生まれる道がある」
弥太郎は、晴人の言葉に静かに頷いた。
そして、数日後――
水戸藩城下・藩庁の一室。藩政参与の一人が、机に広げた報告書に目を通していた。
「“水戸特産商会”……ふむ。香り付き石鹸に続いて、味付け調味料、か。どちらも江戸での評価は高いとあるな」
「はい。近年では、武家屋敷のみならず、町人にも広く受け入れられております」
横に控えた記録係が答える。
「商品に藩名が記されておるのは……良し悪しあるが、今のところ“良”が勝っているようだな」
「“水戸”の名が流通の中で価値を持ち始めています」
「うむ……“藩”の名を、刀ではなく香と味で広げるとはな。時代が変わったか」
ふと、机の上に一枚の札が置かれているのに気づく。『この香りは、あなたの大切な手に、やさしく寄り添うためのものです』と柔らかな書体で記された札だ。
「これが石鹸の……」
その札を指先で撫でながら、参与はつぶやいた。
「こういう文句を考える者が、水戸に現れたことこそが、何よりの変化かもしれんな」
やがて、この水戸特産商会は藩からの黙認のもと、さらなる品目の開発に着手していくこととなる。味噌、乾物、干菓子……いずれも、“日々の暮らしに寄り添う品”を基軸にした、晴人の提案によるものだった。
町の名を冠した商会が、藩の名に頼らず、“地の価値”で戦っていく――
それは、旧来の商人や武士にとっても、まさに新しい時代の胎動であった。
そして、ある日の夕刻。
晴人は、城下町の高台に立ち、夕陽に照らされる町並みを見渡していた。
釜の煙が立ち上る製糸舎。
商会の倉庫から出入りする荷馬車。
水戸の名が刻まれた札を手に、通りを行き交う人々。
すべてが、静かに、しかし確かに変わってきている。
「……名が広まれば、責任もまた、広がる」
彼はそうつぶやき、ふと風に揺れる梅の枝を見上げた。
まだ蕾は固いが、やがて春が来れば、またあの香りが町に満ちるだろう。
水戸の香り。
水戸の味。
水戸の暮らし。
それらが、遠く江戸の地でさえ、“ひとの手からひとの手へ”と語り継がれてゆく日が、確かに近づいていた。