404話:(1894年・春)藤村晴人の決意
夜気の冷たさがまだ部屋に残っていた。障子の桟に沿って薄い光が滲み、新宿・藤村邸の寝間は、明け方の白と木の褐で静かに塗り分けられている。
藤村晴人は、寝具の中で浅く息を吐いた。胸骨の奥がきしみ、耳の奥では遠い潮騒のような血の音が続いている。瞼を上げると、天井の梁が一本、二本と数えられ、そこに積み重なった歳月の埃までもが、今朝だけはやけにくっきりと見えた。
ゆっくりと身を起こそうとして、腰の奥に針の束を差し込まれたような痛みが走る。
「……ぐっ」
声は思ったより掠れていた。掌を敷布に押し当てて体重を分散させ、肩を前に滑らせる。布団が擦れる音、畳の乾いた匂い。身体が縦になるだけのことに、かつてほどの軽さはどこにもない。
床几に立てかけておいた杖に手を伸ばし、慎重に足を降ろす。足裏が畳を確かめるまでの数寸が、今の晴人には小さな断崖だった。足趾が冷えを拾い、ふくらはぎに遅れて血が巡る。
鏡台の前に座すと、鏡面の向こうから白い髪と深い皺がこちらを見返した。三十年前、同じ頬骨の線はもっと鋭かった、と記憶が告げる。今は、線が面に、面が陰影に変わっている。
窓辺の障子を半ばほど開ける。庭の槇に朝露が光り、まだ固い新緑が風にわずかにささやいた。耳を澄ませば、遠く甲州街道の方角で荷車の軋む音、呼び売りの低い節回し。東京はもう動き始めているが、この部屋の時間だけは、まだ布団の温度を名残惜しんでいる。
喉の奥が乾き、舌に金属の味が残る。昨夜は二度、いや三度は目が覚めたはずだ。眠りは浅く、夢は短く、思考だけが粘つく。七十年という長さは、こうして夜の長さをも引き延ばすのだろうか。
「……まだやることがある」
誰に告げるでもなく、小声で言った。声帯が震え、胸がわずかに晴れる。
襖の外で控えめなノックがした。
「晴人様、おはようございます」
篤姫の声は、若い頃よりもさらに柔らかく、しかし芯が通っている。
「入れ」
障子が滑り、淡い小紋の裾が朝の光を連れてくる。頬に歳月の翳はあれど、目の光は曇らない。晴人の顔を見るなり、その眉間に小さな皺が寄った。
「お顔色がすぐれませんね」
「大事はない」
言い終える前に、腰の強張りが答えを裏切る。わずかな仕草の遅れを、篤姫は見逃さない。
湯気の立つ白湯が、膳に置かれた。器の縁に口を寄せると、温かさが喉を下り、胃の底に円い灯りがともる。
「無理をなさらぬよう。――日本は、あなた一人で回ってはおりませぬ」
「だが、私が指を離せば、車輪は別の溝へ落ちるやもしれぬ」
晴人は苦笑の気配を唇の端だけに宿して、肩を落とした。
篤姫はしばし沈黙し、やがて穏やかな声で続ける。
「ならば、握り方を軽くすればよろしい。強く握りしめれば、手の血が止まります」
廊下の先から、軽い足取り。襖がもう一度音を立て、斎藤きちが膳を抱えて現れた。下田の潮を連れてきたような涼やかな眼差しは、幾つもの冬を越え、なお澄んでいる。
「お加減はいかがでございますか」
「きちか。……今日は顔色が良いな」
「晴人様に茶を差し上げられる日は、だいたい良い日でございます」
彼女の冗談に、篤姫の口元がほんのわずか緩む。二人の間に流れる静かな協調に、晴人は救われる思いがした。戦も政も、家の和には敵わぬ。
医師が来ると告げる声が、奥の方から届いた。
「呼んだ覚えはないが」
「私が呼びました」篤姫がきっぱりと言う。「眠りの浅さも、腰の痛みも、見過ごせません」
晴人は観念して背を正した。脈を取り、舌を見る医師の手際は迷いがない。
「疲労が蓄積しております。夜は湯で温め、寝所は冷やさぬように。食は少量でもよろしい、回数を増やしませう」
「戦は待ってはくれん」
「戦は人が行うもの。人が倒れれば戦も倒れます」
医師の言葉は、槍より痛かった。だが正論だ。
診察が終わると、部屋の空気が一段軽くなった。障子の外では、朝の光が完全に庭を占領し、槇の影を葉脈のように畳へ落としている。
晴人は杖に手を置き、静かに立ち上がった。膝が一瞬震え、すぐに落ち着く。
「朝餉を少しだけいただこう」
篤姫が頷き、きちが盆を運ぶ。白粥、梅肉、煮含めた蕪、しらすを少し。
箸をとる指が、昔より少し慎重だ。米の甘みが舌に染み、梅の酸が眠気を払う。二口、三口。そこで箸先が空中で止まった。腹が満ちるというより、身体がこれ以上を拒む。
「……十分だ」
「十分ではございません」きちがやわらかく返す。「けれど、今はそれで」
食を終えると、晴人は寝間の隅に置かれた机へ歩み寄った。紙地図の上に置き去りにされた昨夜の思案――朝鮮半島の稜線、兵站の線、海路の点――が、朝日に晒されて再び輝きを取り戻す。
鉛筆を手にすると、手首にかすかな震え。線が波立つ。深呼吸を一つ。震えは収まらないが、波は細くなる。
「七十という齢は、線を真っ直ぐには引かせぬが、間違った線をすぐ消させる」
ひとり言に、篤姫ときちが目を合わせ、小さく笑った。
庭の方から、若い声が聞こえた。義親の声だ。玄関での挨拶、足袋の音、廊下を渡る風の匂い。
今日も、国は動く。戦は待たない。だが、老いもまた待たない。
晴人は掌を地図から離し、胸の前で一度だけ強く握りしめた。骨と筋の軋む音が、意志の音に聞こえた。
「――行こう」
声は静かに、しかし確かに部屋の空気を押し広げた。篤姫が頷き、きちが一礼する。
新しい一日が、老いた身体にもう一度、鞍を載せる。日本という馬は、まだ止まらない。
朝の光が、食堂の障子越しに淡く広がっていた。
新宿の藤村邸。長い廊下を抜けた先にあるその部屋は、白木の柱と古い欅の卓が時の色を宿している。壁際の掛け時計が八時を告げる音だけが、静寂を刻んでいた。
藤村晴人は、正面の席に腰を下ろしていた。膝の上には毛織の膝掛け。細い指が湯呑の縁をなぞり、立ちのぼる香の湯気をじっと見つめる。
卓の向かいには篤姫、少し離れて斎藤きちが座している。二人のあいだに流れる空気には、かすかな緊張と、長年を経た静かな信頼が共にあった。
「晴人様、朝粥でございます」
きちが膳を運び入れる。銀の匙で白粥をすくい、陶の器にゆっくりと移す動作は無駄がない。下田の浜で鍛えられた腕の筋が、まだしなやかに動いている。
晴人は箸を取り、慎重に口へ運んだ。白米の甘みが広がる。けれど、二口、三口で箸先が止まった。
「もうよい」
そう言って箸を置いた。喉が通らない。味が遠い。
篤姫が眉を寄せ、静かに言葉を継いだ。
「晴人様、それではお身体が持ちません」
「食べねばならぬと分かっていても、腹が応えん」
声はかすれていた。かつて政務の場で威を振るった低音は、今は波打つ風のように細い。
きちが湯呑を手に取り、緑茶を注ぐ。
「お茶をどうぞ。少し口を潤すだけでも違います」
差し出す指の震えは、寒さのせいか、彼女の胸の中のざわめきのせいか。
晴人は湯呑を受け取り、軽く頷いた。
「ありがとう、きち。……お前ももう五十を越えたな」
「はい、五十三でございます。けれど、こうしてお仕えできるうちは、まだ若いつもりでおります」
きちの笑みには、長い年月の影と、それを受け入れた静けさが同居していた。
篤姫がそのやり取りを見つめながら、ふと息をついた。
「人は歳を重ねるほどに、支える者の数が増えていくものですわね」
「それは幸福なことか?」晴人が問う。
「ええ、きっと。あなたを支えようとする者がいるということは、まだこの国も、あなたを必要としているということです」
その言葉に、晴人は小さく目を細めた。
「……だが、必要とされる限り、休むことも許されぬ」
「それでも、少しは休んでください」
篤姫の声は柔らかいが、どこか懇願に近い。
晴人は視線を膳の上に落とした。湯気の向こうで、二人の妻が並んでいる。正妻と側室。表向きには複雑な関係のはずなのに、彼女たちの間には、どこか姉妹のような調和があった。
それはきっと、長い時間をかけて築かれたもの――政治でも、権力でもなく、「生き残るための知恵」だった。
食後、晴人は応接間に移った。篤姫は政務の支度に、きちは茶器の片付けに向かう。
障子を半ば開けたまま、風が通り抜ける。木々の葉がざわめき、外の小径では使用人が竹箒で砂利を掃いていた。
しばらくして、茶の香が戻ってきた。きちが静かに盆を持って現れる。
「晴人様、少しお時間をいただけますか」
「構わぬ。座れ」
彼女は畳の上に膝をつき、静かに目を伏せた。
「……近頃のお顔を拝見していると、胸が締めつけられます。無理をしておられるのではないかと」
「無理など、若い頃からしてきた。今さらだ」
「けれど、今は違います。若い頃は無理をしても回復なさいました。今は……」
言葉が喉の奥で止まる。晴人はその沈黙を受け止めるように、視線を窓の方へ流した。
外の槙の葉が、光を受けて細かく震えている。
「……老いとは、不思議なものだな。身体は衰えても、思考は澄む。むしろ、見える範囲が増えていく」
「それが晴人様の強さです。だからこそ、倒れてはなりません」
きちは湯呑を卓に置き、膝を進めた。
「私は『唐人お吉』と呼ばれておりました。世間から蔑まれ、誰も近づかなかった。けれど、晴人様が拾ってくださった。――それが、私の人生の始まりでした」
晴人は目を細め、静かに頷いた。
「お前は、自ら道を選んだ。誇れ」
「いいえ、私はただ、生きたかっただけです。でも、あなたは生きる意味をくれた」
きちの声は、懺悔のようであり、祈りのようでもあった。
「だからこそ、私はあなたを見失いたくない。どんなに国が動こうと、戦が起ころうと……あなたが倒れたら、すべてが止まってしまう気がするのです」
晴人はその言葉に答えず、湯呑を手に取った。湯気が薄く揺らぎ、硝子越しに映る空がにじむ。
「……戦は避けられぬ。だが、戦を終えることはできる」
「ええ、そう信じています」
きちは立ち上がり、障子を開けた。
外はもう完全に春の色に満ちていた。庭の花が咲き、土の匂いが濃い。風が入り込み、白髪をわずかに揺らす。
「――この国が勝つなら、あなたがそこにいるからです」
その一言に、晴人は深く息を吐いた。
「ありがとう、きち。お前の言葉は、いつも私の心を映す鏡のようだ」
きちは微笑し、一礼して部屋を出ていった。
残された晴人は、椅子の背にもたれ、指先で膝を軽く叩いた。
戦が近づいている。だが、心の奥には静けさがあった。
篤姫も、きちも、そして息子たちも――皆がそれぞれの立場で、この国を支えている。
老いの痛みよりも、責任の重さが心を熱くする。
晴人はゆっくりと立ち上がり、書斎へ向かった。
庭の外で、鳩の羽音が一瞬だけ響いた。
それは、彼の胸の奥で、再び戦う心が息を吹き返す音でもあった。
書斎の障子を通して、柔らかな春の光が畳を淡く照らしていた。
外では庭師が刈る木々の音が微かに響き、藤村邸の静けさは一層際立っている。だが、その静けさの裏で、世界は確実に動き出していた。
藤村晴人は、長年の筆跡が刻まれた執務机に向かい、報告書の束を並べていた。年季の入った眼鏡の奥の瞳は、白髪と同じく静かに燃えている。
やがて、障子が控えめに開いた。
「父上、失礼いたします」
最初に姿を見せたのは、軍服の金ボタンをきっちりと留めた藤村義信――陸軍中佐。
その後ろには外務次官の久信、そして内務省参事官の義親。三兄弟が一堂に会するのは久しぶりだった。
「皆、よく来た。……座れ」
三人が畳に膝をつく。晴人の声は低く、しかし一言一言が重く響いた。
義信が地図を広げる。朝鮮半島から遼東半島、山東、さらに北京まで――筆で描かれた線が、戦の火種を示している。
「父上。東学党の蜂起はほぼ鎮圧されました。西郷総督の命で、第一師団が全羅道を制圧。現在は清国軍が鴨緑江を越え、平壌付近に約二万の兵を展開しております」
「清国の動きは予想通りだな」
晴人の声は静かだったが、瞳の奥には確かな光が宿る。
義信は頷き、続けた。
「陸軍大臣・児玉源太郎閣下が、作戦計画の最終案を承認されました。第一段階は朝鮮防衛、第二段階で遼東半島へ侵攻、第三段階で威海衛を制圧――清国海軍を完全に封じ込める構想です」
晴人の口元がわずかに動く。
「児玉らしいな。兵站を軽んじず、戦を“設計”する男だ」
「はい。現地の西郷総督とも緊密に連絡を取り合っておられます」
義信の言葉に、晴人は深く頷いた。
「西郷と児玉――戦場と本土、その両輪が揃ったか」
久信が報告書を差し出した。
「外務省からの電報です。英国が我が国の出兵を“自衛的措置”として理解するとのこと。児玉陸軍大臣がロンドン公使宛に送った書簡が、非常に好印象を与えたようです」
「ほう、児玉がか」
晴人の表情にわずかな笑みが浮かぶ。
「彼は軍人にして政治家だ。戦略の裏に“国家の絵図”を描ける数少ない人物だ」
義親が静かに口を開いた。
「父上。国内でも児玉大臣の名は広く知られています。“学者将軍”と呼ばれ、国民からも尊敬を集めております」
晴人は目を閉じ、うなずいた。
「……良い兆しだ。軍が力を持つ時ほど、理知が必要だ。力と理が離れた国は、滅びる」
机上の地図に影が落ちた。障子越しの光が、老いた指の皺を照らし出す。
「義信、兵の士気はどうだ?」
「非常に高いです。児玉大臣の訓示が全軍に伝わり、“勝って帰るだけが戦ではない”と。――その言葉に、兵たちが涙したと聞いています」
「……あの男らしい」
晴人は深く息をついた。
「勝利より、生還を重んじる軍。ようやく“人を護る軍”が出来つつあるな」
久信が続ける。
「父上、外交の面でも彼の影響は大きいです。英国は児玉の兵站政策を“文明的戦争”と評価しています。今の日本は、欧米の目から見ても“理のある国”になりつつあります」
晴人の瞳に光が宿る。
「……三十年かかったな。だが、ようやく世界が我々を国として見始めた」
義親が帳面を開く。
「民政も安定しています。ただ、戦費調達のための新税案には一部反発が出ています。ですが、児玉大臣が“軍の無駄を省く”と明言し、民間も納得し始めました」
「なるほど……」
晴人はゆっくり立ち上がり、地図を見下ろした。
「彼が陸軍を担い、藤田が外交を支え、西郷が現地を治める。これ以上の布陣はない」
老いた背が、障子の光に縁取られる。
「義信、久信、義親――お前たちも、それぞれの持ち場で戦え。私はこの戦を見届ける。……だが、勝っても奢るな。負けても学べ」
三兄弟が深く頭を下げる。
「はい、父上!」
その声が重なり、書斎に響いた。
外では、燕が庭をかすめて飛んでいく。
新しい季節、新しい時代。
晴人は静かに筆を取り、覚書の端に一行を書き加えた。
――「児玉、国を導く剣にして盾なり。」
その筆先が止まった時、窓の外で風がそよぎ、藤の花びらが一枚、書斎へと舞い込んだ。
晴人はそれを手のひらに受け、静かに目を閉じた。
「この風が吹くうちは……まだ、私も戦える」
夜のしじまが、庭の砂利に落ちる露の音まで連れてくる。新宿の屋敷は深く息を潜め、母屋の灯だけが紙障子の向こうで淡く揺れていた。
居間の卓には、小さな火鉢と薄茶。篤姫と、きちが左右に控える。晴人は正面、背筋を伸ばして座したが、指先の小さな震えを自らも隠しきれない。
「……今夜は、よく吹くわね」
篤姫が障子に目をやる。風は青葉の香を含み、遠く甲州街道の車輪の響きが、途切れ途切れに届いた。
「お身体、冷やしませぬよう」
きちが膝を進め、膝掛けをそっと晴人の膝へ。絹が触れる音が、火のぱちりという音に溶けた。晴人は礼を言い、湯呑を口に運ぶ。渋みが舌にとどまり、胃の底へ細い糸のように落ちてゆく。
「食が細くなっておいでです」
篤姫の声音は穏やかだが、芯がある。
「明日は少し固めの粥にいたしましょう。塩は控えめに、鯛のほぐしを少し」
「任せる。……まだ、倒れるわけにはいかぬ」
晴人は薄く笑みを作った。
「児玉が軍を、西郷が朝鮮を統べ、藤田小四郎が実務を支えている。――これほどの布陣、もう二度と作れぬ」
篤姫は、短く息を継ぐだけで何も言わなかった。長年、政の荒波を並んで見てきた女の、余計な言葉を持たぬ沈黙。きちは小さく頷き、卓を整え直す。湯の気配が新しくなる。
「晴人様」
きちの瞳が火影を映す。
「戦は避けられぬとき、避けられぬ。けれど、お身体は、あなたにしか守れません」
「承知している」
晴人は掌を合わせ、火鉢にかざした。血の巡りの鈍さが、冬の名残のように関節に巣食っている。だが痛みは、意志の輪郭を確かにしてくれる。
「我らが選んだ道は、理で国を束ね、力で理を護る道だ。いま、その総仕上げにある」
篤姫がふっと微笑む。少女の面影を遠くに残した、凛とした曲線。
「あなたは、いつも前だけをご覧になる。背を支えるのが、私たちの役目です」
「支えられてばかりだ」
晴人が目を伏せると、篤姫は静かに首を振った。
「支え合うのです。政も家も」
きちが席を少し崩し、声を落とす。
「下田の浜で、潮風に消える名を持っていた私が、いまこうして茶を淹れている。……晴人様が与えてくださった居場所です」
晴人はふたりを見渡す。長い歳月が、目尻の皺に、手の甲の節に、確かな文字で刻まれている。
「ふたりとも、よくここまで付き合ってくれた。礼を言う」
「礼なら、勝ってからに」
篤姫があっさりと返す。その軽やかさが、場の緊張を一重ほどほどく。
「勝ちましたら、伊勢へ参りましょう。三人で」
「よいな」
晴人はうなずいた。約束は、先へ先へと人を運ぶ舟だ。舟の先には、まだ見ぬ岸がある。
座敷の隅、鎧櫃にかけた防虫香がほのかに香る。廊下を渡る夜風が、ほとり、と短冊を鳴らした。そこには、義信が少年の頃に書いた拙い書――「信」。久信が戻った夜、二人で笑い合いながら掛け直した。義親が墨を摺り直した。家の呼吸が、そのまま文字になって揺れている。
「義信は北へ出る。久信は西へ駒を置く。義親は内を固める。……それぞれの尺度で、皆、よくやってくれる」
晴人の声に、微かな誇りが滲む。
「父の役は、最後に帳を閉じることだ。だが帳尻は、戦のあとにつく」
「帳は私が整えましょう」
篤姫が茶托を重ねる音が、心地よい節を打つ。
「家の出入り、贈答、書付。あなたはただ、真ん中にお座りください」
「私は、夜更けに灯を守ります」
きちが火箸で炭を寄せる。赤が生まれ、影が深くなる。
「戻られるまで、消さない灯に」
晴人は視線を上げ、二人の顔を順に見た。言葉より早く、胸の奥で何かがほどけ、熱が満ちる。
「……頼む」
風が少し止み、静寂が一段深くなった。遠い寺の鐘が、数を惜しむように短く鳴る。新宿の夜は、かつての江戸の記憶を薄く纏い、いまは帝都の呼吸を刻む。ここから多くの書付が出て、数多の命令が走り、幾筋もの運命が結び直されてきた。
晴人は膝の上で拳をゆっくり握った。
「恐れはある。老いも、敗北も。しかし、恐れは敵ではない。敵は慢心だ。……慢心だけは、我らの家に入れぬ」
篤姫が深く頷く。きちもまた。ふたりの頷きは、言葉より重い誓約書だ。
「今夜は、少し早くお休みを」
篤姫が立ち、裾が畳を撫でる。
「明日の朝餉は粥に。薬湯も。――いいですね」
「逆らう術は持たぬ」
晴人が肩をすくめ、三人の間にやわらかな笑いが生まれた。笑いは、鎧の隙間を塞ぐ綿だ。音もなく、冷えを防ぐ。
立ち上がろうとして、晴人はほんの一瞬、腰に手を当てた。その仕草にふたりは気づくが、何も言わない。代わりに、それぞれ一歩だけ近づいた。支えを求める前に、支えがある――それが家という器の、正しいかたち。
廊下に出る。行燈の灯が、壁を浅く染める。庭の梢が、風に身をゆだね、ゆっくりと元へ戻る。
夜は続く。だが、その底で、確かな朝がかたちを作り始めている。
晴人は歩を止め、振り返らずに言った。
「ありがとう。……必ず、戻る」
「お待ちしております」
篤姫の声。
「灯は、消しません」
きちの声。
戸が静かに閉まる。
新宿の空は澄み、星が遠くで凍っていた。火鉢の赤はゆっくりと呼吸し、家の中心にささやかな太陽を保つ。
戦の前夜、老いた獅子は、群れの温もりに牙の輪郭を確かめる。――外は風、内は灯。どちらも、この国を生かすために必要なものだった。
夜更けの風が、庭の樫の葉を揺らした。
その音は、遠い潮の音にも似ている。
ここ新宿の屋敷に、海はない。それでも晴人の耳には、どこかで波が打ち寄せているように聞こえた。
――あの潮の音を最後に聞いたのは、何年前だったろう。
戦地を視察した折、釜山の港に吹く冷たい風。あれと同じ匂いが、今夜、窓の隙間から忍び込んでくる。
火鉢の赤は細く、長く、まるで呼吸のように明滅していた。
晴人は羽織を肩にかけ、書斎の卓へ向かう。机の上には、積み上げられた報告書。
「朝鮮北部・開城付近に清軍集結」「東学党残党の散発的蜂起」「英公使、連合艦隊派遣に同意」――
一枚一枚の紙が、国家の鼓動を写している。
硯の上の墨は、すでに乾いていた。
晴人は新しい墨を取り、ゆっくりと摺り始める。
その音が静かな夜に溶けるたび、心臓の鼓動と同じリズムで時が刻まれていく。
「……私は、まだ終われぬ」
誰に聞かせるでもなく、唇がかすかに動いた。
「この戦を、見届けねばならぬ」
書架の一番上には、革表紙のノートがある。
それは三十年前――“理の国”を夢見て起草した憲法草案の初稿だった。
あのとき筆を執った己の手は、まだ震えていなかった。
今、同じ手がわずかに震えている。老いとは、静かな侵略だ。だが、それを恐れて筆を止めれば、理は途絶える。
障子の外で、犬が遠く吠えた。
新宿の町は広がった。馬車の車輪が通る石畳、電信の柱、煉瓦の壁。
江戸の影は薄れ、文明の光がこの地を覆いつつある。
――それでも、まだ日本は若い。未熟で、危うい。
だからこそ、誰かが見届けねばならぬのだ。
晴人は地図を広げた。朝鮮半島から遼東へ、さらに北へ。
そこには、見えない矢印が描かれている。
児玉が軍を、西郷が朝鮮を、藤田小四郎が実務を――そして、自らがその中心に立つ。
“力と理”を均衡させる一点。それが崩れれば、国はただの暴力装置になる。
「……三十年かけて、ようやくここまで来た」
筆を取り、日付を書く。
“明治二十七年五月 藤村晴人 記”
その横に、ひとつの文を記した。
――『理ハ剣ノ上ニ存ス』。
それは、若き日の自分が戦場で学んだ言葉だった。
薩英戦争、四国連合艦隊との戦。煙の向こうで、誰もが信じるものを見失っていた。
だから晴人は決めた。力を否定せず、しかし理の鞘に収める。それが“文明”という剣の使い方だと。
火鉢の炭がひとつ、音を立てて崩れた。
その小さな音が、まるで誰かの声のように響いた。
「父上……」――かつての義信の声が、耳の奥に蘇る。
「理で勝つ。それが本当の勝利ですか」
“ああ”と心の中で答える。勝利とは支配ではなく、秩序を築くこと。
その秩序が、次の世代を守る。
机の端に、篤姫の筆跡で書かれた短い紙が置かれていた。
『湯冷めなさいませんように。夜気、肌を刺します。篤』
墨が少し滲んでいる。彼女が書いたのは、先ほど寝室に戻る前だろう。
晴人はその紙を折り、懐にしまった。
――守られている。それを感じるだけで、心のどこかがまだ温かい。
窓を開けると、夜空に星が散っていた。
都の灯が増えた今でも、まだこれほどの星が見える。
その一つ一つが、見えぬ民の願いのように思えた。
農を耕し、塾で学び、港で汗を流す人々――
彼らの安寧を守るために、この国を導いてきたのだ。
「……勝たねばならぬ」
呟きが夜に溶ける。
「いや、勝つだけでは足りぬ。勝ち、そして治めねばならぬ」
火鉢の炎が、最後の赤を放つ。
晴人はその光を見つめ、筆を置いた。
「日本は、理で立つ国だ。――その証を、残してみせよう」
背筋を伸ばしたまま、目を閉じる。
老いた身体は、戦場に赴くことはない。
だが、その心はまだ戦っている。己の弱さと、時間という敵と。
そして、朝に続く夜を、静かに見張っている。
風が障子を揺らした。
微かな光が机の上を横切る。
その瞬間、晴人は確かに感じた――
この夜を越えた先に、新しい日本が待っていると。




