396話:(1891年・初夏)米国訪問① 新大陸の光と約束
六月二日。
ウラジオストクの港を離れた船は、濃い霧の帳をくぐり抜け、ゆっくりと太平洋へと出ていった。
黒い煙を上げる煙突、甲板に打ち付ける潮風。船体の木が軋み、波の響きが腹の底を伝ってくる。
久信は手すりに片手を置き、前方の水平線を見つめていた。
そこにはただ、果てのない海だけがあった。
風は冷たく、しかしどこか透明な匂いがした。
「……これが太平洋か。」
呟きは潮騒に吸い込まれ、誰の耳にも届かない。
甲板に立つのは、久信と金子堅太郎、伊東巳代治。
いずれも疲労を隠しきれぬ顔つきだが、その目には確かな光があった。
ヨーロッパを巡り、ロシア皇帝アレクサンドル三世との謁見を終え、
いま三人は太平洋を渡って新世界へと向かう。
金子が懐中時計を見て言った。
「ここからサンフランシスコまで、約八千キロ。順調に行けば二週間ほどですね。」
「世界最大の海か……」
久信は空を仰いだ。雲が切れ、淡い陽光が波の線を白く縁取る。
その広さには、どこか人を無力にする静けさがあった。
やがて金子が、船室から地図と書類を持って現れた。
「太平洋は、一億六千六百万平方キロ。地球の三分の一を覆っています。」
伊東が頷き、指で地図の西端をなぞった。
「ここが我々の国、日本。そして、こちらがアメリカ。太平洋は、二つの国を繋ぐ海です。」
久信はその線を目で追いながら、小さく息を吐いた。
「海が隔てているようで、実は繋いでいるのか。」
「ええ。海は障壁であり、同時に道でもあります。」金子が言った。
「ロシアは陸で攻めてくる国。だがアメリカとは、海で結ばれる国です。」
風が吹き抜け、三人の外套の裾をはためかせた。
船の進む方角には、まだ何も見えない。だが、その先には希望がある。
――翌日、六月三日。
執事が電信を持ってきた。
「藤村殿、東京からの急信でございます。」
久信は受け取り、紙を開いた。
そこには、短く打たれた報が並んでいた。
> 「津田三蔵、大審院判決。無期徒刑。死刑に非ず。
> ロシア側不満を表明するも、戦争回避。
> 大津事件、完全決着。」
久信はしばし紙を見つめ、それから小さく息を吐いた。
「……無期徒刑か。死刑ではない。」
金子が口を開いた。
「日本は、法治国家としての原則を守りました。感情ではなく、理で裁いた。」
伊東も頷く。
「これで戦争は避けられた。あの謁見の努力が、無駄ではなかった。」
船がゆっくりと波を切る。
陽が傾き、空が薄紅に染まり始めていた。
久信は手すりに寄りかかり、低く呟いた。
「……これで、日本は一つの山を越えたな。」
――六月五日。
海はどこまでも青く、陸地の影は見えなかった。
360度、果てまで広がる海原。
空と海の境が曖昧になり、世界が一つの蒼に溶けていく。
「陸地が見えぬとは、こうも不安なものか。」
久信は帽子を押さえ、強い風の中で目を細めた。
金子が穏やかに笑う。
「これが太平洋の本当の姿です。
平和の名を冠していますが、実際には荒ぶる海でもある。」
その言葉通り、三日後の夜、嵐が船を襲った。
――六月八日。
雨が横殴りに吹きつけ、波が船腹を叩いた。
甲板を行き交う船員の叫び、軋む帆柱、砕け散る泡。
窓の外では稲妻が裂け、一瞬だけ白く海を照らした。
久信は船室に籠もりながら、窓の外を睨んだ。
「これが“Pacific(平和)”と呼ばれる海か。」
皮肉な言葉が漏れた。だが、その声は静かだった。
嵐の音の中に、不思議な安堵が混じっていた。
生きている――そう実感できる荒々しさが、そこにあった。
――六月十二日。
嵐は去り、海は再び静まり返った。
朝日が水平線を染め、黄金の筋が波間を伸びてゆく。
甲板に立つ久信の頬を、やわらかな風が撫でた。
金子が隣に立ち、指を前方へ向けた。
「もうすぐです。あと三日で、サンフランシスコですよ。」
「……長かったな。」
「ええ。しかし、これで半分です。ここからが、アメリカという“実験国家”の真価を見る旅になります。」
久信は頷き、遠くの水平線を見据えた。
「世界は広い。だが、志を持てば、距離も国境も越えられる。」
六月十五日。
霧の向こうに、陸地の影が現れた。
サンフランシスコ湾――それは新しい世界の門だった。
六月十五日、午後。
水平線の向こうに、陸地の影がかすかに見えた。
それは霧の中からゆっくりと姿を現し、やがて確かな輪郭となった。
「……サンフランシスコだ。」
金子が呟く。久信は胸の奥が微かに熱を帯びるのを感じた。
太平洋を越えた先にある“新しい世界”。
風が変わった。潮の匂いの奥に、鉄と木と、人の暮らしの匂いが混ざっている。
船が桟橋へ近づくにつれ、港のざわめきが耳に届いた。
汽笛、怒号、笑い声、そして多言語の喧騒。
英語、中国語、スペイン語、ドイツ語――どれもが互いを押しのけるように空を満たしていた。
蒸気船の黒い煙が空を覆い、帆船の白がそれを切り裂く。
港には貨物が山と積まれ、荷役たちの腕が絶え間なく動いている。
久信は甲板に立ち、帽子の縁を押さえながら息をのんだ。
「……多様だ。」
その一言に、すべてが詰まっていた。
桟橋に降り立つと、港の空気はさらに濃く、熱を帯びていた。
木造の倉庫からは材木の匂いが漂い、通りでは馬車とトロリーバスが行き交う。
背の高い建物、ガス灯の並ぶ街路。
ヨーロッパの重厚な石造りとは違い、軽やかで即物的な構造。
この国は“過去”より“明日”を信じて造られている。
「Welcome to San Francisco!」
響く声に振り向くと、黒い山高帽をかぶった中年の男が手を振っていた。
駐米公使・建野郷三。整った口髭に、日焼けした頬。
その目には外交官特有の鋭さと温かさが同居していた。
「藤村殿、ようこそアメリカへ。」
「建野公使、遠路お出迎え痛み入ります。」
握手の瞬間、建野の掌の熱が、久信の旅の疲れを少し和らげた。
「英仏独露を巡られたと聞いております。特に、ロシア皇帝陛下との謁見――見事でした。」
「恐れ入ります。」
「さあ、馬車を用意しております。どうぞ。」
馬車が石畳を進み始めると、街の喧騒が流れ込んできた。
レンガ造りの建物が立ち並び、ガラス窓には英語と中国語の看板。
坂道の上をケーブルカーがゆっくり登っていく。車輪が鉄を削るような音を立て、日差しにきらめく。
「これが、サンフランシスコの名物“ケーブルカー”です。」
建野が笑う。
「坂の多いこの街では、馬車では登れませんから。」
「面白い。技術で街を登っているようだ。」
馬車が緩やかに右へ曲がると、通りの色が一変した。
赤い提灯、金色の漢字の看板、香辛料の匂い。
「ここはチャイナタウンです。」
建野の声が低くなる。
「三万人の中国人が暮らしています。ゴールドラッシュの時代に押し寄せ、今も労働の要です。」
路地の奥では、太鼓の音が響いていた。
子どもたちが竹竿を持って遊び、女たちは洗濯物を干す。
その光景は、異国でありながらどこか懐かしい。
「日本人もおります。」
「どのくらい?」
「五千人ほど。主に広島、山口、熊本の出身です。
漁業、農業、そして小商い。勤勉で評判ですが……差別もあります。」
久信は小さく頷いた。
「彼らにも、国の未来が懸かっている。」
馬車が再び大通りへ出る。
銀行、ホテル、劇場――建物が次々に現れる。
窓には“Pacific Trade Company”“Western Telegraph”の文字。
風の中に、蒸気と金属の匂いが混じっていた。
「ヨーロッパと違う。」
久信はつぶやいた。
「ここには歴史の重みではなく、行動の速さがある。」
建野は笑い、手綱を引いた。
「そうです。アメリカは“築く国”です。
彼らにとって昨日は古く、明日はすぐに来る。」
やがて馬車は坂を登り切り、丘の上の宿舎へと着いた。
木造二階建ての建物。ポーチには国旗が翻っている。
玄関前で、職員が一礼した。
「公使館附属宿舎でございます。旅の疲れをお癒やしください。」
建野が帽子を取り、静かに言った。
「明朝、列車で東へ向かいます。ワシントンD.C.まで約一週間。大陸を横断する旅になります。」
「……四千八百キロ、か。」
久信は思わず笑った。
「日本列島を十往復しても足りませんね。」
「それがこの国の広さです。見るものすべてが新しいでしょう。」
外では夕陽が傾き、街の屋根が金色に染まっていた。
港からは遠く汽笛が聞こえる。
久信は窓辺に立ち、ゆっくりと帽子を脱いだ。
「ここが……新しい時代の入り口か。」
彼の視線の先で、太平洋の夕焼けが静かに沈んでいった。
六月十六日、まだ冷えの残る朝の駅構内に、真鍮の笛が鋭く鳴りわたった。
ガラス屋根の下、列車の黒い側板が油でしっとり光り、連結器が小さくきしんでいる。荷台では新聞売りの少年が「モーニング・コール!」と叫び、紙束の端が風にぱらぱらとめくれた。
客車に乗り込むと、厚手のモケットの座席にほのかな石鹸の匂いが残っていた。窓枠の木目は新しく、磨かれた真鍮のハンドルに外の光が跳ね返る。発車の衝撃が足の裏から脛へ伝わり、車輪はすぐ規則正しい拍動に落ち着いた。タタン、タタン、タタン――線路が鼓動を持ち始める。
都市の背骨が後ろへ流れ、倉庫街が遠ざかると、葡萄畑と果樹園がひろがった。白い塗りの農家、一本立ちの糸杉、灌漑の水路。畑の列が窓辺に均等な縞模様を描き、やがて地平線の青さに溶ける。空は高く、雲が軽い。
昼前、列車は山地へかかった。最初の峠に近づくと勾配が増し、機関車は深い胸の底から息を吐くように黒煙を押し出した。トンネルに入る。闇。灯りの反射が窓にたゆたい、対座の金子の顔を一瞬ごとに切り取っていく。壁際のリベットが連続する閃光となり、世界は鉄と火の喉元へ縮む。抜けると陽光が爆ぜ、雪渓が目を刺した。遠くの尾根に古い雪、谷底には青い影。
峻険な崖の中腹に線路は縫い付けられている。橋を渡るたび、下を流れる川の銀がめくれ、足もとがほどけそうになる。車掌が通路をすべり、打刻具で切符に小さな歯形を穿った。「ここから先はロッキーです、先生」。英語の語尾が細い笛のように震え、列車はさらにスピードを落とす。
食堂車では白いクロスの上、銀器が震えた。スープから立つ湯気がゆっくりちぎれ、パンを裂くと柔らかな白がのぞいた。給仕がコーヒーを注ぎ足しながら「この線路は、支那人が多く働いた」と囁く。窓外、斜面に黒ずんだ祠のような穴――かつての作業小屋の残骸が点々と過ぎる。冬の雪崩、岩盤の爆破、縄で吊られた人影。見えない記憶が、山の匂いに混じって立ち上った。
夕刻、尾根を越えると風が変わった。乾いた草の匂い、日差しは斜めになり、空の青が深くなる。寝台車のポーターが手際よく座席を畳み、薄いカーテンをほどいて個々の小部屋をこしらえる。頭上の網棚に鞄を押し込むと、金属の弾む音が一瞬だけ夜を刺した。横になると、枕の下で鉄路の律動が体温と重なり、意識は徐々にほぐれていく。
夜半、激しい稲光で目が覚めた。窓の外、草原の奥で白が弾け、つづけざまの雷鳴が遅れて追いかけてくる。遠くの電信柱が一本一本、瞬間だけ光を宿して消える。縄のように張られた線が闇を切り裂き、文明の血潮が音もなく大陸を走っているように見えた。
翌朝、山影は消え、世界はただ平らになっていた。草の海。空が近く、風の形まで見える。ところどころ、黒い牛の群れが移動する影を落とし、風向きが変わると甘い牧草の匂いが流れ込んだ。たまに孤独な家が現れ、白い洗濯物が翻る。「グレートプレーンズ。」伊東が地図を広げる。線路脇には、撃ち尽くされた過去の気配だけが漂う。かつて数えきれなかった野牛と、追いやられた人々。風はいっさいを語らず、ただ広さだけを残した。
小駅に停まる。プラットフォームに背の高い北欧系の女が立ち、赤ん坊を抱いてこちらを見た。唇の端に小さな笑み。樽の横ではイタリア訛りの男たちが身ぶりで賭け事をし、売店の少年は「オマハでコールミートが安い!」と叫ぶ。車内に戻ると、向かいの席の男が帽子を胸に当てて会釈した。「新しい国ですから」と、男は言った。「昨日より今日が動くのです」。
昼過ぎ、大河を渡る。水面は濃い緑で、光を粒に砕きながら流れていく。鉄橋の上、車輪の響きが骨に届き、欄干の影が規則正しく床を走った。対岸には煉瓦の倉庫と穀物サイロ。穀倉の息遣いが風に混じり、粉塵が陽を淡くする。
夕闇、街の灯の密度が急に高まる。広いヤード、交差するポイント、鉄の迷路。転車台の上で蒸気機関車がゆっくり向きを変え、煙突から黒い肺を空へ吐き出す。ここで乗り換えだ、と建野が言う。雑踏の中に楽団のブラスが鳴り、新聞が売れ、酒場の扉が開いて笑いが零れる。都市は自分自身を信じている――そんな音がした。
再び列車。窓外の光景は、森と湖の国へと滑らかに移ろう。濃い緑の海へ白いカモメが散り、岸辺には木材が筏のまま積まれている。軒の低い町並み、教会の尖塔。線路沿いの工場から立ちのぼる白煙は、空に穴をあけるように真っ直ぐだった。
長い移動の合間、通路の端で地図を広げる。複数の時刻表が折り重なり、各鉄道会社の紋章が並ぶ。国家の時間は一本ではない――鉄道がそれぞれの時間を運び、街ごとに時計は数分ずれていた。やがて標準時が必要になる、と建野は言う。「ばらばらの時間では、未来は同時に到着できません。」
最後の夜、寝台のカーテンを少し開けて眠った。走りながら見える町は、家々の窓が魚群のように一斉にきらめき、すぐ闇に沈んだ。見知らぬ暮らしが線路の両側に無数にあり、その一つ一つに名前のない希望と小さな不幸が同時に燃えている。列車はそれらすべてを置き去りにし、ただ前へ進む。
朝、東の空が白く熔け、やがて薄金に変わる。窓いっぱいに白い建物のドームが浮かんだ。中央に聳える曲線、左右に広がる翼。石の白が朝の光を甘く受けとめ、街全体が静かに整列して見える。広い並木道、直線の通り、低い天蓋のような空。
「首都です。」建野の声はいつもより静かだった。
列車が減速し、最後のブレーキが床を震わせる。鋼の歌が終わり、世界は別の拍動を受け取る。扉が開く。湿り気を含んだ大気が頬に触れ、遠くで旗が翻る音が微かに聞こえた。
久信は足を踏み出した。
長い線路の先で、政治の都が待っている。
大陸を貫く鉄の意志は、ここで言葉の意志に姿を変える。
旅は続く――だが、今はただ、この静謐な秩序の中に身を据え、次の呼吸を整えた。
六月二十二日、夕刻。
列車が最後の汽笛を鳴らし、ワシントンD.C.駅のプラットフォームに滑り込んだ。
蒸気の白が天井を染め、油と鉄の匂いが肌を包む。足を踏み出した瞬間、久信は空気の違いを感じた。海の匂いではない。政治と歴史の匂い――乾いた羊皮紙と、磨かれた靴の革の匂いだ。
構内のアーチを抜けると、通りは静かに整っていた。街路樹が並び、建物の高さが揃っている。遠くには白いドームが浮かぶ。
「……整然としている。」
「計画都市です。」と建野郷三が応じた。「南北戦争のあとも、ここだけは意地のように秩序を守りました。」
夕陽が長く舗道を照らし、煉瓦の壁を淡く染める。馬車が音を立てて通り過ぎ、婦人たちの帽子の羽根が風に揺れた。空の青が深く、どこか宗教画めいている。
国会議事堂――キャピトル。その巨大な白い円蓋が、近づくにつれ圧を増していった。
中央のドームの高さは八十八メートル、翼のように広がる左右の棟が議会を抱いている。
「ここで法律が生まれます。」と建野。「上院が北翼、下院が南翼。彼らの議論が国を動かす。」
久信は石段を見上げ、ふと息を整えた。
「日本の議事堂が、いつかこれほどの重みを持つ日が来るだろうか。」
「必ず来ますよ。」建野の声には、確信があった。
馬車は緑の並木を抜け、やがて白い館の前で止まった。
ホワイトハウス。白い外壁が夕陽を受けて薄金に輝き、芝生の上に長い影を落としている。鉄柵の向こうに警備兵が立ち、背筋を伸ばしたまま微動だにしない。
翌二十三日、午前十時。
ホワイトハウスの玄関前に馬車が止まり、久信は帽子を取り、軽く息を吐いた。
石段を上がると、磨き上げられた大理石の床が足音を吸い込む。廊下の壁には歴代大統領の肖像画が並び、ジョージ・ワシントン、ジェファーソン、リンカーン――それぞれの瞳が来訪者を見据えていた。
リンカーンの肖像の前で、久信は立ち止まった。
「この男が、奴隷を解放した。」
その声は誰にも聞こえないほど低かった。自由という言葉が、単なる理想ではなく“国家の血”で書かれたものだと感じる。
案内役の秘書官が扉を開けた。
「ベンジャミン・ハリソン大統領が、お待ちです。」
執務室は広く、天井からシャンデリアが柔らかな光を落としていた。
壁の時計がゆっくりと時を刻む音だけが響く。
デスクの向こうに、白髭をたくわえた小柄な男が立っていた。
「Welcome to the United States.」
その声は静かだが、芯があった。
久信は一歩前に出て、英語で応えた。
「Thank you, Mr. President. It’s a great honor to meet you.」
「I hear you speak many languages.」
「Thirty-three, sir.」
ハリソンは驚きと共に微笑んだ。
「Impressive. Then we can speak without translation today.」
握手の瞬間、掌に感じたのは政治家ではなく軍人の手の堅さだった。
椅子に腰を下ろすと、金子と伊東、建野が後方に控えた。
テーブルの上には厚い書類の束が置かれている。封蝋には「ALASKA AGREEMENT」の文字。
ハリソンが資料を手に取り、ゆっくりと口を開いた。
「昨年締結されたアラスカ共同開発協定――大成功だ。
漁業は二倍の成果を上げ、金鉱も新たに発見された。
アメリカは日本の勤勉さを高く評価している。」
久信は深く頭を下げた。
「我が国の労働者たちも、誇りを持って働いております。」
ハリソンは続けた。
「この協定を延長したい。二十年から四十年へ。
そして利益配分も見直す。日本を三十から四十へ。」
部屋の空気が一瞬、静止した。
金子が目を見開き、伊東が小さく息を呑む。
久信は沈黙ののち、ゆっくりと答えた。
「……そのご提案、深く感謝いたします。」
「理由は二つある。」ハリソンは椅子に背を預けた。
「第一に、日本人労働者の優秀さ。
彼らは誠実で、責任感がある。アメリカの鉱山は彼らなしでは成り立たぬ。
第二に、太平洋の未来だ。
我々はこの大洋を共有している。敵ではなく、同志であるべきだ。」
久信はその言葉を胸の底で反芻した。
ロシアの豪壮な宮殿で感じた圧とは違う。
ここには、利害と理性の均衡がある。
「日本は、誠実な友としてこの協定を続けます。」
「Good.」ハリソンは頷いた。「そして明日、さらに三つの議題を話し合いたい。」
机の上の指が、紙を叩く。
「一、太平洋の安定――ロシアの南下をどう防ぐか。
二、ハワイ王国の未来――日米がどう支えるか。
三、中国と朝鮮――清国の勢力均衡と独立の維持。」
「明日、正式な会談で協議しよう。」
久信は深く頷いた。
「日本は、太平洋の安定を何よりも望んでおります。」
「私も同じだ。」ハリソンは手を差し出した。
「Let the Pacific be the ocean of peace.」
「願わくば――そうなりますように。」
握手。
その手の温度は鉄のように堅く、しかし温かかった。
窓の外では国旗が風に揺れ、陽光を反射していた。
会談が終わり、廊下を歩くと、再びリンカーンの肖像が視界に入った。
久信は立ち止まり、帽子を軽く取って一礼した。
「理想を語り、血を流し、それでも国を立てた男……」
彼の胸に、ゆるやかな熱が広がった。
ホワイトハウスの門を出ると、青空が広がっていた。
芝生の上で子どもたちが凧を揚げ、兵士たちが微笑ましくそれを見ている。
戦ではなく、平和の中にある軍靴の音。
「成功です。」建野が言った。「利益配分の改善、期間の延長。これほどの譲歩は前例がありません。」
「アメリカは利を見て動く国だ。」久信は答えた。
「だが、その利を“共有”と呼べる国でもある。」
視線の先にキャピトルの白いドームが光っていた。
久信は小さく息を吐く。
「ロシアとは競う。だが、アメリカとは組む。」
「それが日本の未来、ですか。」
「いや……太平洋の理だ。」
遠くで鐘が鳴る。
その音は、自由と秩序がせめぎ合う都の脈動のように、空の奥まで澄み渡っていった。




