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38話:江戸商戦、香る水戸石鹸

江戸は、いつものようにせわしなかった。


 往来を行き交う人々の衣擦れの音、魚屋の威勢のいい掛け声、駕籠屋の叫びに、寺から聞こえる鐘の音。どれを取っても、長らく変わらぬ大都市の風景だった。


 だが、そんな中に――新しい“香り”が、静かに混じりはじめていた。


 「おい、これ見ろよ。なんでも水戸から来た新製品だってよ」


 商家の軒先に並ぶ白い塊。大きさは手のひらほど。薄く梅色のそれを、ひとりの町娘が指差した。


 「ほんとだ……あ、こっちは椿の香りって書いてある!」


 「おらぁ桜が好きだなぁ。春を思い出すような、ふんわりした香りでさ」


 女たちはくすくすと笑いながら、手に取って鼻を近づける。ふわりと、かすかな甘さと清涼感が鼻腔をくすぐった。


 品名は――『水戸特製・香草石鹸』。


 裏には小さく「水戸特産商会」の名と、「水戸藩公認・町民商会」の印が記されていた。


 「へぇ、町人たちが自分たちで作ってるんだってさ。香りを練り込むってのも洒落てるじゃねぇか」


 「しかも、手にやさしいのよこれ。湯屋の女将が言ってた。荒れが治ったって」


 小さな発明は、いつの間にか江戸の町の片隅に根を張り始めていた。


 ――時を少し戻そう。


 場所は水戸、藩庁の一角。石鹸を手にした男たちが、円陣を組んで座っていた。


 中心にいたのは、若き商業指導官・岩崎弥太郎。晴人が早い段階でその才に目を留め、水戸に引き入れた男だ。長崎行きに先んじて、現代の商業理論や簿記、信用制度といった“未来の知”を、晴人自身が噛み砕いて教え込んだ。


 その知識を土台に、今、彼は水戸の“流通改革”の要として動いている。


 「……この香草石鹸、試作品だが――江戸で売れる。いや、売らせる」


 弥太郎が木机の上に置いたのは、三種の石鹸。淡い色に整えられた塊には、椿、梅、桜の文字が刻まれている。


 「これらはすべて、水戸で採れるものだ。香りを抽出し、灰汁を取り除き、鹸化けんかさせた。荒れた手にも使える――女性にも、商人にも向いている」


 「だが、売るだけでは意味がない」


 弥太郎の声が、部屋の空気を引き締めた。


 「武士と町人が手を取り合ってこそ、これは“水戸の力”になる。だから俺はここに提案する――」


 弥太郎は巻物を広げ、皆に見せた。


 そこには、「水戸特産商会」の設立案が詳細に記されていた。



【水戸特産商会・設立案】


・町民有志による特産流通会議

・藩の指導役として、武士階級から監督を配置

・資材・労力・販売益を三分割する新会計制度

・江戸・水戸間の“小荷物流通便(仮称:水戸便)”を試験運用



 「これより、“水戸藩公認・町民商会”として、正式に活動を始める。名を――水戸特産商会とする!」


 部屋が静まり返る中、まず拍手を送ったのは、郷士の武市だった。


 「……よくぞここまで、民の声をすくい上げたな。弥太郎、見直したぜ」


 それに続いたのは、近藤と村田。


 「江戸で動く人脈は、俺がまとめよう。武州の流通は心得がある」


 「物は作れても、売れなければ無意味ですからな。町人の動きを可視化すれば、彼らは“連携”を学ぶ」


 弥太郎は深く頷くと、静かに視線を晴人へ向けた。


 「すべては、あんたが――武士も町人も、ひとつの“民”だと教えてくれたからだ」


 その言葉に、晴人はにこりと微笑む。


 「私は何もしていない。ただ……誰かが立たねば、始まらなかっただけさ」



 その数日後――。


 江戸・神田の問屋通りに、異変が起きた。


 「こっちの石鹸、えらく売れてますぜ。なんでも水戸の商会が出してるらしくて」


 「おっかさんに持って帰ったら、えらく喜んでたんだよ。香りが違うって」


 「武家屋敷にも回るって話ですよ。奥方さま方が評判を聞きつけてる」


 女たちの手には、小ぶりで美しい木箱が抱えられている。梅の枝が刷られた薄紙の中に、香る石鹸が三種。


 それはもはや、単なる“清潔”の道具ではなかった。


 ――贈り物。

 ――美しさの象徴。

 ――“水戸”という名前を江戸に伝える、やさしい香りの使者。


 そして、商品に添えられた小さな札にはこう記されていた。


「この香りは、あなたの大切な手に、やさしく寄り添うためのものです」

――水戸特産商会・謹製

水戸城下――藩庁の一角にある小会議室。


 畳敷きの床に藁座布団を円形に並べ、その中央には漆塗りの小卓が置かれていた。机の上には、梅色、白椿色、桜色の三種の石鹸が並んでおり、どれも手のひら大に整形されていた。光に照らされ、わずかに艶を帯びたその塊からは、微かな芳香が漂っていた。


 石鹸に鼻を近づけた年配の武士が、わずかに目を細めた。


 「……香りが違うな。草木の香りというより、これはまるで――」


 「香水、のようだろう?」


 そう応じたのは、円陣の中心に座る若き商業指導官――岩崎弥太郎だった。


 「香りは、すべて水戸産だ。梅、椿、桜。これはただの“洗い石”ではない。使う者の気分を整え、心を潤す“香草石鹸”だ」


 弥太郎の言葉に、町人たちがざわついた。彼らは晴人の信頼のもと、地元の商業改革に携わる職人や流通人たちである。元は小さな町の染め物屋、油屋、桶職人。だが今や“水戸の商人”として新たな挑戦に乗り出していた。


 「香料はどこから?」


 そう尋ねたのは、村田。以前は米の等級制度に取り組んでいた男だ。


 「すべて、農民と協力して抽出した。梅の花からは蒸留法で。椿は種から油を取って香りを引き出し、桜は塩漬けを乾燥させて砕き、灰とともに煮て香気を移した」


 弥太郎の説明に、一人が首を傾げる。


 「香りを練り込む技術なんて、どこで?」


 「――晴人様だよ」


 町人の一人がぽつりと答える。


 「西洋での石鹸製法を、かみ砕いて教えてくださった。火加減、灰の分量、混ぜる順序まで。俺たちじゃ到底思いつかねぇようなやり方だったよ」


 晴人は、弥太郎の隣で静かに頷く。


 「最初は失敗ばかりだった。匂いが飛んだり、固まらなかったり、手が荒れたり。だが、それでも試してくれたのは、皆さんだ」


 会議室に、しんとした空気が流れる。


 弥太郎は机に手を置いた。


 「今までは個々に作って、個々に売っていた。だが、それでは規模に限界がある。売り手と作り手が離れていれば、声も届かぬ。だから俺は考えた」


 弥太郎は、巻物をくるくると広げ、皆に見せた。


 墨で描かれたのは、新たな商会の設計図だった。



【水戸特産商会 設立構想】


・町民有志による特産流通会議を毎月開催

・商家・職人・農家を横断して利益分配を明示

・藩より任命された監督役(武士)による監査体制

・収益の一部を“共同資材購入”と“販路拡大基金”へ

・江戸向け配送には、“小荷物便(水戸便)”を試験運用

・各商品に「水戸藩公認・町民商会」の印を付与



 「名を、“水戸特産商会”とする」


 その言葉が発せられた瞬間、部屋の空気がわずかに変わった。


 しばし沈黙の後、初めて口を開いたのは、商人頭の一人である坂井という男だった。


 「弥太郎さん……つまり、我々が“藩の名前を背負う”ということですな?」


 「そうだ」


 「……簡単なことではありません。だが、名が付けば、名折れもある」


 その言葉に、他の町人たちがざわつく。責任と誇り――どちらも伴う重い決断だった。


 しかし、弥太郎は顔色一つ変えず、まっすぐ答えた。


 「名折れせぬために、皆の力がいる。力を合わせ、正直な商いを貫く。嘘のない物をつくり、届ける。……それができれば、“水戸”の名前は輝くはずだ」


 すると、会議室の隅で腕を組んでいた近藤が、不意に口を開いた。


 「俺は江戸の流通網をまとめよう。問屋とも話をつける。そちらで商会をまとめてくれ」


 村田もそれに続いた。


 「この商会は、町人が育てるだけでなく、武士も支える。……この国が変わる前に、せめて“町”を変えてみようではありませんか」


 その瞬間、畳の上でぽつりと一つ、拍手が鳴った。


 振り向けば、それは武市だった。


 「……俺はただの郷士だ。けれどな、こうして“町を動かす者”たちを目の当たりにして、信じたくなった」


 ぽつり、ぽつりと拍手が増えていく。


 やがてそれは、会議室を包み込むような大きな音へと変わっていった。


 弥太郎はひとつ、深く息を吸い――晴人に向き直る。


 「晴人様。名を預かります。――必ず、水戸を“香る国”にしてみせましょう」


 晴人は、ゆっくりと頷いた。

水戸城下――。


 晴人は、城内の小部屋で一枚の薄紙に目を通していた。そこには、江戸から届いた報告書の写しが記されていた。


 《神田にて、水戸香草石鹸、連日完売》


 《小間物問屋より追加注文、三十箱超》


 《香りの調合に関し、武家屋敷から質問いくつか》


 「……広がっているな」


 声に出すと同時に、隣にいた近藤が頷いた。


 「江戸の女たちは“香り”に敏い。弥太郎の読みが当たったな」


 「いや、彼一人の力じゃない。町人たちが声をあげたからこそ、ここまで来た」


 晴人はそう言いながら、傍らに置かれた石鹸の試作品に指を添えた。


 桜色の淡い塊は、掌に収まるほどの小ささで、手に取るとふわりと柔らかな香りが立った。


 ――水戸という土地の気配を、香りに変えて届ける。


 それは、ただの商いではない。誇りであり、願いでもあった。


 そのころ、城下の町にある“町民商会”――通称「水戸特産商会」では、石鹸の出荷準備が急ピッチで進められていた。


 薄紅の和紙、藍染の包み紐、そして細かな説明書きが添えられた木箱たちが、並べられていく。


 若い娘たちが手際よく包みを整え、町人の男たちが箱を積み重ねる。


 「よし、次は椿だ。香りは変わってないか、もう一度確認!」


 「梅のほうは、箱に入れる前にひと息空気に晒した方が香りが引き立つぞ!」


 誰かがそう叫ぶと、すぐに対応班が動いた。


 この数日間で、商会の中には見違えるような活気が宿っていた。


 弥太郎は、そんな光景を小さなバルコニーから見下ろしていた。


 風が吹き、遠くからは鶏の鳴き声が届いてくる。


 「……ここが、あの何もなかった小屋か」


 思わずつぶやいたその声に、背後から声がかかった。


 「発案はあんたの手柄さ。自慢していい」


 振り返ると、そこにいたのは村田だった。


 細身の男は、相変わらず淡々とした表情を崩さない。


 「けれどな、弥太郎。人は“いい品”だから買うとは限らない。そこに“物語”が要る。たとえば――この石鹸を使った誰かが、手荒れを治したとか、嫁入り前の娘が自信を持てるようになったとか」


 弥太郎は静かに頷いた。


 「……なるほど。“香り”の裏に“声”を添えろというわけか」


 「そうだ。人が人を動かす。商品じゃない、“共感”を売るんだ」


 その言葉は、まるで詩のように弥太郎の胸に響いた。


 「ならば、次の便には――使った者の手紙を添えよう。江戸で喜ばれた声を、包みに混ぜて」


 村田が微かに笑った。


 「やっと商売人らしい顔になったな、弥太郎」


 「……学んでる最中だよ。晴人さまや、お前らに追いつくためにな」


 そのやり取りを背に、町の一角では、荷車に積み込まれた石鹸が江戸へと向かう準備を整えていた。


 先頭に立つのは、まだ若い町人の青年だった。


 彼は、父が使っていた風呂焚き道具を手にしながら、笑みを浮かべていた。


 「香りを届けるってのも、悪くねぇ仕事だな」


 馬が鼻を鳴らし、車輪がごろごろと石畳を転がり始める。


 その背には、ただの荷物ではなく、“水戸の風”が詰まっていた。


 ――その夜。


 水戸藩邸、江戸詰の屋敷にて。


 香草石鹸の木箱を手にした家老が、しげしげと中身を眺めていた。


 「……まさか、このような“匂い”で水戸の名が立つとはな」


 隣にいた中間ちゅうげんが頷いた。


 「奥方様方にも人気とか。“香る石鹸”が、今や町で話題でございます」


 家老はため息交じりに言う。


 「戦もせず、血も流さず。民が香りで人心を掴むとは……時代は、変わったのかもしれんな」


 障子の向こうには、夜の江戸の明かりがちらちらと揺れていた。


 静かに、そして確かに、“香り”という小さな風が、時代を動かし始めていた。

その夜、水戸城下では弥太郎たちの商会設立の報が早くも話題になっていた。


 「なんでも、“香りのする石鹸”が江戸で飛ぶように売れているそうだ」

 「へぇ……あの商会のだろ? 女房が、町で見かけたって言ってたよ」


 町の湯屋や商家では、石鹸の試供品がすでに回っており、特に女性たちの間で話題となっていた。

 香りがするだけではない。椿油の効果で手がすべすべになる、という口コミが町の端々まで届いていたのだ。


 「女たちが湯屋から戻ってくるたびに、“あの香りがいい”って口を揃えて言うんだ」

 「たしかに。うちのも、『梅の香りが春みたい』って嬉しそうだったよ」


 そして江戸――。


 水戸藩邸・本郷屋敷に、一通の報告書が届いた。


 藩主・徳川斉昭は、手にした文を読みながらふっと笑みを漏らす。


 「……面白い。香りを武器にするとはな」


 報告書の末尾には、晴人の筆による文言が添えられていた。


 > 『この石鹸は、単なる清潔の道具ではありません。“香り”という感性を通じて、水戸という地の名が、江戸の日常に寄り添う。そのような未来を見据えております』


 斉昭は報告を閉じ、そば仕えに呟く。


 「たかが石鹸、されど石鹸。民の心に届く術とは、こういうことか……」


 しばしの沈黙のあと、ぽつりと言葉を落とした。


 「まるで、香りを通じて水戸という名が江戸を包んでいるようだな」


 その翌日――。


 弥太郎は再び商会の面々を集め、次の一手に向けて動き出していた。


 「“香草石鹸”は、あくまで始まりだ。ここからは、“物産”としての拡張を仕掛ける」


 弥太郎が見せたのは、石鹸の他に加えるべき新商品の構想だった。


 「香草茶、香油、そして香袋。いずれも水戸で調達可能な素材だ」


 「つまり、香りの“水戸ブランド”を確立するわけですな」


 村田の言葉に、弥太郎は頷いた。


 「武士が守る“公”だけでなく、町人が築く“私”の強さ。それを両輪にしていく。香りは“共感”を呼ぶ。水戸という町が、暮らしをやさしくする場所として知られていくなら、それが最大の誇りだ」


 そして、その週末――。


 神田の問屋街では、ついに「水戸物産見本市」が開催された。


 「ようこそ、水戸特産商会へ!」


 木製の屋台にずらりと並んだ石鹸、茶葉、香油の瓶、そして色鮮やかな布袋入りの香袋。すべてに、“水戸”の文字が刻まれている。


 「おぉ、これが……」

 「香草茶? 匂いを嗅いでるだけで落ち着くな」


 香りに誘われた江戸の町娘や商人たちが列を成し、水戸出身の女中が懐かしそうに香袋を撫でる姿もあった。


 「この匂い……おっかあの庭に咲いてた、あの梅だ……」


 来場者の中には武家の奥方も混じっており、現地での評価は予想を超えるものとなった。


 そして、物産に添えられていた札には、いつものように一文が記されていた。


 > 「香りは、記憶に残ります。どうか、あなたの暮らしの中に水戸が寄り添えますように」

 > ――水戸特産商会・謹製


 こうして“香りの商戦”は、単なるヒット商品ではなく、水戸の名を広める静かな革命として刻まれていった。


 弥太郎は市の終了後、静かに空を見上げた。


 「香りで勝つ。まさかこんな日が来るとはな……」


 その瞳に映るのは、決して金や物の利を超えた、ひとつの理念だった。


 ――武士も町人も、香りの中で同じ夢を見る。


 その“調和の空気”こそが、水戸という町の新しい風だった。

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