394話:(1891年・春)ロシア訪問③ 皇帝の沈黙、戦争を越えて
サンクトペテルブルクの空は、まだ春の名残をとどめていた。曇りがちの天蓋の下、ネヴァ川を渡る風は冷たく、湿った空気が日本公使館の石造りの壁を撫でていく。
館内の一室――外交文書で埋め尽くされた書斎では、ランプの炎がわずかに揺れていた。窓辺のカーテンが風に揺れ、机上の電報をかすかに動かす。
西徳二郎公使が封を切ったばかりの電報を読み上げた。
「……『天皇陛下、京都にてニコライ皇太子を直接見舞われた』。」
その言葉に、室内の空気が止まった。
久信は、硬く結んだ拳をゆっくりと開いた。
「天皇陛下が……直々に、ですか。」
「史上初です。」西の声は静かだが、内に熱を孕んでいた。「日本の誠意は、これで十分に示されました。しかし――」
「しかし?」
「ロシア本国の怒りは、まだ鎮まっていません。」
重い沈黙。石の壁がそのまま冷たく響く。
金子堅太郎が眼鏡の奥で目を細め、低く呟いた。
「ここからが本当の外交ですね。」
伊東巳代治はペンを置き、資料を整えながら言った。
「次の謁見が決定的になる。言葉ひとつで、戦争にも、和平にも傾く。」
西が再び電報を手に取る。
「アレクサンドル三世陛下との謁見――日時は五月十五日、午前十時。場所は冬宮殿。出席は私と久信君のみ。」
「我々だけ……?」久信が息を呑む。
「人数が多いと、皇帝の負担になる。彼は一対一を好む。それに、通訳も不要だ。あなたのロシア語は完璧だ。」
「……承知しました。」
返す声はかすかに震えていた。だが、瞳の奥には燃えるような決意があった。
金子が立ち上がり、まっすぐ久信を見た。
「久信殿、あなたなら必ずできる。日本の命運を、頼みます。」
伊東も微笑んだ。「われわれはここで祈ります。」
久信は深く一礼した。「ありがとうございます。命を賭して臨みます。」
静寂の中、西が書類を一枚引き寄せた。
「アレクサンドル三世――改めて、人物を確認しておこう。」
紙の上には、簡潔な経歴と肖像画が載っていた。
「一八四五年生まれ、四十五歳。身長一九三センチ、体重百キロ。筋骨たくましい元軍人。頑固で、保守的で、怒りを抑えない。……父を暗殺された男です。」
その声が淡々としているのに、部屋の空気はさらに重く沈んだ。
「父を殺されたことで、彼は改革を捨て、鉄の秩序を選んだ。ゆえに、“平和の皇帝”と呼ばれながらも、平和を力で保つ。」
西はペンを置き、久信を真っすぐに見た。
「ギルス外務大臣の比ではない。一言でも誤れば――戦争です。」
久信は静かに頷いた。
「……心得ています。」
その夜から、準備が始まった。
机の上には、何十枚もの原稿用紙が積まれ、久信はその一枚一枚に、謝罪の文言を書き、削り、また書き直した。
「陛下、我が国の過ちをお詫び申し上げます」――否、言葉が軽すぎる。
「陛下、皇太子殿下への暴挙は我が国の恥辱であります」――重いが、誠実だ。
言葉の一つひとつに、命を込める。
翌日、西が皇帝役となり、謁見のリハーサルが始まった。
西は椅子に深く座り、低い声で問う。
「津田三蔵は、死刑にならないのか。」
久信は答える。「法の範囲内で、最大限の処罰を――」
西が即座に遮る。「ダメです。曖昧です。もっと明確に。しかし、法を曲げてはならない。その中間を探すのです。」
久信は汗を拭い、再び頭を下げた。
何度も、何度も練習した。言葉の抑揚、間の取り方、姿勢、呼吸。
「陛下」――その二文字を口にするたび、心臓が痛むようだった。
夜。
公使館の外は霧に包まれ、街灯が水滴を纏ってぼんやり光っていた。
久信は書斎で独り、窓辺に立っていた。外では、ネヴァ川の流れがかすかに光る。
「明日、日本の運命が決まるのか。」
呟いた声は小さく、しかし確かに震えていた。
机の上には、万年筆と一枚の白紙。
彼は筆を取り、静かに書き始めた。
「日本は、剣ではなく理で戦う。」
「この一言が、皇帝の心に届けば――戦争は避けられる。」
ペン先が止まる。
指先には細かなインクの染み。
彼はそれを見つめながら、ゆっくりと拳を握った。
「兄上……もしあなたなら、どう話すだろうか。」
藤村義親の穏やかな笑顔が脳裏に浮かぶ。
“恐れるな。言葉の力を信じろ。”――あの声が、遠くで響くようだった。
その夜、久信はほとんど眠れなかった。
窓の外では白夜の空が淡く光り、朝と夜の境目が消えていた。
彼は何度も、言葉を口の中で繰り返した。
「陛下、戦争をお避けください。」
「陛下、我が国は過ちを悔いております。」
「陛下、政治は可能性の芸術であります。」
言葉が祈りのようになった頃、外の空が白んでいった。
明日――いや、もう数時間後には、ロシア皇帝の前に立つ。
冷たい風がカーテンを揺らし、紙の山がわずかに鳴った。
その音を聞きながら、久信は胸の奥で静かに誓った。
「たとえこの命を失っても、日本を戦火に巻き込ませはしない。」
五月十五日の朝。
薄い雲の切れ間から光が差し、サンクトペテルブルクの街が金色に染まり始めた。
日本公使館の門前には、二頭立ての馬車が停まり、御者の吐く白い息がまだ冷たい。車体は黒漆塗り、窓には小さな国旗が掲げられていた。
久信は深呼吸を一つして、外に出た。吐いた息が白く漂い、緊張で胸の奥が固く締まる。
玄関前には金子堅太郎と伊東巳代治が立っていた。
「久信殿、」金子が歩み寄り、深く頭を下げた。「あなたなら、必ずやり遂げられる。」
伊東も微笑みを浮かべ、言葉を添える。「我々は祈っています。どうか、日本を導いてください。」
久信は二人の手を強く握った。
「ありがとうございます。」
その声は震えていたが、目だけはまっすぐ前を見ていた。
馬車の扉が開かれ、西徳二郎公使が中から顔を出す。
「行きましょう。」
短い言葉。しかしそれが、戦場へ向かう合図のように響いた。
馬車の内部は革張りで、冷気を遮断するように厚いカーテンが垂れていた。
久信は窓の外を見つめたまま、黙っていた。
蹄の音、車輪の軋み、遠くで鳴る鐘の音。
そのすべてが、心臓の鼓動と重なって響く。
「久信殿、大丈夫ですか。」
西が静かに尋ねた。
久信は、わずかに息を吸い込み、「……緊張しています」とだけ答えた。
西は微笑を浮かべる。「当然です。ですが、あなたは準備をしてきた。英国、フランス、ドイツ、ロシア……全ての旅は、この瞬間のためでした。」
その言葉に、久信の脳裏に旅路がよみがえる。
ロンドンの霧、パリの大通り、ベルリンの石畳、そしてこの氷の都――。
それぞれの街で出会った人々、学んだ外交の形。
「政治は可能性の芸術だ」と語ったビスマルク侯爵の声が、遠い記憶から蘇る。
(今こそ、その教えを証明するときだ。)
彼は膝の上で手を握りしめ、震える指を押さえた。
馬車はやがて、宮殿広場へと入った。
目の前に広がるのは、巨大な緑白の建築――冬宮殿。
空を切るような尖塔と、無数の金色の装飾。
窓のひとつひとつに朝の光が反射し、まるで大河が流れるように輝いていた。
久信は息を呑む。「……これが、ロシア帝国の心臓。」
石畳の上を馬車が止まると、銃を構えた衛兵たちが整列していた。
衛兵長が短く命令を発し、敬礼する。
彼らの青い軍服のボタンが朝日に光った。
西が馬車から降り、帽子を取って軽く会釈する。
久信も続き、冷たい石畳に靴底を鳴らした。
「ここからが本番です。」
西の声が短く響いた。
久信は頷き、視線を正面に据える。
宮殿の扉をくぐると、冷気と香が入り混じった空気が押し寄せてきた。
高い天井には金の装飾が施され、天井画には神々の戦いが描かれている。
両脇には白大理石の像が並び、足を踏み入れるたびに足音が反響する。
光沢のある床が彼らの姿を鏡のように映した。
侍従が先導し、長い廊下を進む。
廊下の壁にはレンブラントやラファエロの絵画が飾られ、間にはロマノフ家の肖像画が続く。
燭台の炎が静かに揺れ、その明かりが額縁の金を照らす。
久信は歩きながら、胸の鼓動を数えた。
一歩、二歩、三歩――。
歩を進めるたび、背中に重圧が増していく。
「この廊下、二百メートルあるそうです。」
西の小声に、久信はかすかに頷く。
「まるで、決意を試されているかのようですね。」
「ええ。皇帝の前に立つ前に、己と向き合う時間です。」
十分以上歩いた後、ようやく巨大な扉が見えてきた。
扉は金色の装飾で縁取られ、中央には双頭の鷲――ロシア帝国の紋章が刻まれている。
その前に、白髪の侍従長が立っていた。背筋を伸ばし、冷たい灰色の目で二人を見た。
「日本の使節か。」
その声は低く、冷たい。
西が一歩前に出る。「はい。駐露日本公使・西徳二郎、ならびに特命全権副使・藤村久信です。」
侍従長は鼻を鳴らし、静かに言った。
「陛下は、お怒りだ。無礼があれば、即座に退出させる。……そして、戦争だ。」
久信の背筋に冷たい電流が走った。
「……心得ております。」
返す声は低く、だが確かだった。
侍従長は一瞬、久信を見つめた。
その瞳の奥に、ほんのわずかな興味の光がよぎる。
「……入れ。」
重厚な扉がゆっくりと開かれた。
きしむ蝶番の音が宮殿の奥に反響し、空気が動いた。
その向こうに、眩い金と深紅の空間が広がっていた。
冬宮殿・謁見の間。
久信は深く息を吸い、胸に手を当てた。
(ここからが本当の戦場だ。)
彼は一歩、足を踏み入れた。
冷たく光る大理石の床が、足音を鋭く返した。
扉が開いた瞬間、金と深紅の光が目に刺さった。長さ五十メートルはあろう広間の奥、赤いビロードに金糸を織り込んだ玉座が、朝の光を反射して鈍く燃える。天井では神々のフレスコが重く見下ろし、複数のシャンデリアが無数の水滴のような光を垂らしていた。大理石の床に映る影が、歩む者の胸の内を覗きこむかのように揺れる。
左右に並ぶ官吏たちの視線が、針のように肌に刺さる。ギルス外相が一歩前へ出、冷えた銀の声で名を告げた。
「日本の使節、藤村久信。」
胸の奥で鼓動が数を乱す。深く一礼すると、空気がわずかに動いた。
侍従の声が張り裂ける。
「皇帝陛下、ご入室!」
重い足音が近づく。床が、それ自体の重みに耐えかねるようにきしむ。視界の端を巨影が横切り、玉座の前に止まる。やがて、低い衣擦れの音。
「顔を上げよ。」
命じられ、静かに視線を上げる。
鋼のような灰色の双眸。幅広い肩に軍服、胸には勲章が並ぶ。大きな掌が肘掛けを軽く叩くたび、広間の空気が震えた。髭は灰に白を帯び、岩のごとき顎をさらに厳しく見せる。圧が、言葉より先に迫ってくる。
喉が乾く。だが舌は動いた。
「陛下――」ロシア語で、一語ずつ刻む。「日本国を代表し、深い謝罪を申し上げます。大津における皇太子殿下への襲撃は、国家の恥にございます。犯人は直ちに拘束され、我々は最大限の処罰と再発防止を約束いたします。陛下の御子息に傷を負わせたこと、万死に値します。」
深く、長く、頭を垂れる。大理石の光が視界から消え、耳に血の音だけが残る。
沈黙。やがて、低い雷のような声が落ちた。
「謝罪は聞いた。」
単語の一つひとつが、鉛の塊のように胸に沈む。皇帝は立ち、こちらへ歩む。巨大な影が迫る。距離にして一歩分、息がかかるほど近い。
「それは私の息子だ。」
その一言に、背骨の奥で氷が鳴った。
「将来の皇帝だ。警備するべき者が、刃を向けた。お前の国では、それが常か。」
「断じて、違います。」顔を上げる。「前例なき異常。だからこそ、恥辱です。」
皇帝は目を細め、ゆっくり玉座へ戻る。
「では問う。犯人は死刑か。」
鋭い。逃げ道はない。
「陛下、正直に申し上げます。わが国法に外国皇族への規定は未整備です。法を無視することはできません。ゆえに、法の枠組みの中で最大の刑罰を科し、速やかに法の不備を改めます。」
広間に、紙一枚分の冷気が増した。
「法律を説くのか。」
「はい。法は国家の骨にございます。折れば、国は立てません。」
皇帝は顎を引き、ギルスへわずかに目をやる。
「艦隊の用意は。」
「整っております、陛下。命あらば即時出撃。」
全身の毛細血管が、遠雷に打たれたように総立ちになる。
「目標は。」
「長崎、横浜。」
声が喉に張り付く。だが、ここで沈めば流れは戦へ傾く。
「陛下!」一歩踏み出す。靴音が痛いほど広間に響く。「どうか、戦をお避けください。」
灰色の双眸がこちらを射抜く。
「理由は。」
「一人の犯罪に、何千、何万の命が償うべきではありません。ロシアの兵、日本の兵、そして市井の人々。血は復讐を呼び、復讐は次の血を呼ぶ。陛下の御威光は、怒りを越えて大陸を鎮め得ます。」
息を整え、言葉を選ぶ。
「陛下の御子息は寛大であられ、陛下の盟友たる天皇は直ちに見舞い、誠意を尽くしました。ここに『可能性』があります。憎悪ではなく、法と礼で結ぶ可能性です。」
広間の空気が、見えない綱引きに入る。ギルスの視線が刃を帯びる。官吏たちの喉仏が一斉に上下する。皇帝は立ち、窓辺へ歩む。ネヴァ川の銀がゆるく揺れ、遠くから鐘がひとつ落ちてきたように、時間が遅くなる。
沈黙が五分、あるいは永遠にも感じられる長さで続いた。
手のひらの汗が冷える。心臓の鼓動を数えるのをやめ、ただ川面の光を見つめた。やがて皇帝は振り返る。視線の硬度が、わずかに緩む。
「息子は日本を許すと言った。天皇の振る舞いに感銘したと。」
低い息が、胸から漏れそうになるのを飲み込む。
「私は父だ。息子の言葉を退けるつもりはない。」
間を置き、はっきりと言った。
「戦はしない。」
体内で張り詰めていた弦が、音もなくほどけ落ちる。膝が震え、踵に血が戻る。
だが、続く言葉は鋭かった。
「だが、忘れるな。日本は借りを作った。大きな借りだ。いつか返せ、と言うときが来る。拒むな。」
「承知いたしました。」深く礼を取る。床に映る自分の影が、小さく、そしてはっきり見える。
皇帝は片手を軽く振り、終わりを示した。
「下がれ。」
玉座の背後で金糸がわずかに揺れる。広間の扉が音を立て、外の冷気がすうっと差し込む。
最後に一度だけ頭を下げ、踵を返す。歩幅を乱さず、しかし急ぎすぎず、廊下へ向かう。背後で扉が閉じる低音が、胸の奥の震えを吸い込んでいった。
廊下に出た瞬間、膝が勝手に折れ、冷たい石に手をついた。西が駆け寄り、肩を支える。
「……終わった。」
声は掠れていたが、その中に確かなものがあった。戦の匂いが遠のき、石畳の冷たさだけが現実として残る。
遠くで、また鐘が鳴った。今度は、安堵の音色で。
重厚な扉が閉まると同時に、広間の空気が遠のいた。冬宮殿の回廊は静まり返り、遠くの時計の針の音だけが響く。
久信はその場に膝をつき、冷たい大理石に手をついた。肩が震え、呼吸が荒い。
「……終わった。」
声はほとんど囁きに近かった。
西徳二郎がすぐに隣へ駆け寄り、背を支える。
「久信殿、大丈夫か。」
久信はゆっくりと首を振った。
「ええ……。ただ、体の力が抜けただけです。」
息を整えながら立ち上がると、目の奥が熱く滲む。抑えていた感情が、ようやく堰を切ったように溢れ出した。
「戦争を……避けられました。」
その一言を口にした瞬間、胸の奥から涙が零れた。
西は黙って頷き、帽子を胸に当てた。
「あなたは日本を救ったのです。」
久信はかすかに笑い、首を横に振った。
「私は……ただ、怖かったのです。戦争が。」
頬を伝う涙は、恐怖と安堵の入り交じったものだった。
「四千万人の命が、この手の中にあるようで……その重さが、怖くて仕方がなかった。」
廊下の窓からは、午後の光が差し込んでいた。外の空は青く晴れ、ネヴァ川が静かに光を返している。
西は久信の肩を軽く叩いた。
「さあ、帰りましょう。」
「はい。」
宮殿を出ると、風が頬を撫でた。朝よりも柔らかく、冷気の中に初夏の香りが混ざっている。
馬車が待っており、衛兵たちが敬礼をした。
久信と西は黙って乗り込み、扉が閉じる。
車輪がきしみ、石畳を叩く音がゆっくりと遠ざかっていく。
車窓の外、サンクトペテルブルクの街はいつも通りの生活を続けていた。
花売りの少女が通りの角で声を上げ、馬車の列が橋を渡る。
「平和とは……こういう日常のことなのですね。」久信が呟いた。
「ええ。戦争になれば、この穏やかさが消える。人の笑いも、鐘の音も。」
西の言葉に、久信は小さく頷いた。
「皇帝は言いました。『日本は借りを作った』と。」
「……それは覚悟しておきましょう。」
「はい。しかし、今はただ、感謝を。」
窓の外、ネヴァ川の水面が金色に輝き、風がカーテンの隙間から入り込む。
その風に乗って、どこか遠くで鐘の音が再び鳴った。
夕刻、公使館に到着した。
玄関前では金子堅太郎と伊東巳代治が待っていた。
「久信殿!」金子が駆け寄る。「どうでしたか!」
久信は深く息を吐き、微笑を浮かべた。
「……成功です。戦争は回避されました。」
伊東は胸に手を当て、目を閉じた。「……よかった。本当によかった。」
金子は拳を握りしめた。「日本は救われたんですね。」
「ええ。しかし、皇帝の言葉を忘れてはいけません。『借り』を作ったと。」
「借り、ですか。」
「そう。いつか、それを返す時が来る。」
西は机に向かい、すぐに電報の文面を書き始めた。
『一八九一年五月十五日、アレクサンドル三世陛下との謁見成功。皇帝、戦争を回避すると表明。大津事件による危機、終息。』
ペン先の音が部屋に響く。久信はその背を静かに見つめていた。
夜、書斎の灯を一つだけ残して、彼は机に向かった。
日記帳を開くと、インクの匂いが広がる。
「一八九一年五月十五日。人生で最も長い日だった。」
ペンを握る手が、まだ微かに震えていた。
「皇帝は巨大だった。彼の影が床を覆い、呼吸すら奪われそうだった。だが私は言葉で抗った。法を曲げぬ誇りを、平和を信じる心を――それだけを武器に。」
インクがにじみ、文字が滲む。
「五分の沈黙の間、世界が止まったようだった。
そして、彼は言った。『戦争はしない』と。」
書きながら、涙が紙に落ちた。
窓の外、サンクトペテルブルクの街は静かに夜を迎えていた。街灯の明かりが霧に滲み、遠くの鐘がゆっくりと時を刻む。
久信はペンを置き、天井を見上げた。
「この借りを、どう返せばいいのか……。それはまだわからない。だが、今は平和だ。それだけで、十分だ。」
夜が更け、書斎のランプの火が小さく揺れた。
やがてその光が消えると、外ではうっすらと白夜の光が戻っていた。
窓の外のネヴァ川が、銀色の帯のように流れ続けている。
久信はその光を目で追いながら、静かに目を閉じた。
長い戦いの一日が、ようやく終わったのだった。




