表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【篤姫と結婚した公務員】水戸藩から始まる幕末逆転録 ~公務員が理と仕組みで日本を救う~  作者: 一条信輝


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

429/470

394話:(1891年・春)ロシア訪問③ 皇帝の沈黙、戦争を越えて

サンクトペテルブルクの空は、まだ春の名残をとどめていた。曇りがちの天蓋の下、ネヴァ川を渡る風は冷たく、湿った空気が日本公使館の石造りの壁を撫でていく。

 館内の一室――外交文書で埋め尽くされた書斎では、ランプの炎がわずかに揺れていた。窓辺のカーテンが風に揺れ、机上の電報をかすかに動かす。


 西徳二郎公使が封を切ったばかりの電報を読み上げた。

 「……『天皇陛下、京都にてニコライ皇太子を直接見舞われた』。」

 その言葉に、室内の空気が止まった。

 久信は、硬く結んだ拳をゆっくりと開いた。

 「天皇陛下が……直々に、ですか。」

 「史上初です。」西の声は静かだが、内に熱を孕んでいた。「日本の誠意は、これで十分に示されました。しかし――」

 「しかし?」

 「ロシア本国の怒りは、まだ鎮まっていません。」

 重い沈黙。石の壁がそのまま冷たく響く。


 金子堅太郎が眼鏡の奥で目を細め、低く呟いた。

 「ここからが本当の外交ですね。」

 伊東巳代治はペンを置き、資料を整えながら言った。

 「次の謁見が決定的になる。言葉ひとつで、戦争にも、和平にも傾く。」


 西が再び電報を手に取る。

 「アレクサンドル三世陛下との謁見――日時は五月十五日、午前十時。場所は冬宮殿。出席は私と久信君のみ。」

 「我々だけ……?」久信が息を呑む。

 「人数が多いと、皇帝の負担になる。彼は一対一を好む。それに、通訳も不要だ。あなたのロシア語は完璧だ。」

 「……承知しました。」

 返す声はかすかに震えていた。だが、瞳の奥には燃えるような決意があった。


 金子が立ち上がり、まっすぐ久信を見た。

 「久信殿、あなたなら必ずできる。日本の命運を、頼みます。」

 伊東も微笑んだ。「われわれはここで祈ります。」

 久信は深く一礼した。「ありがとうございます。命を賭して臨みます。」


 静寂の中、西が書類を一枚引き寄せた。

 「アレクサンドル三世――改めて、人物を確認しておこう。」

 紙の上には、簡潔な経歴と肖像画が載っていた。

 「一八四五年生まれ、四十五歳。身長一九三センチ、体重百キロ。筋骨たくましい元軍人。頑固で、保守的で、怒りを抑えない。……父を暗殺された男です。」

 その声が淡々としているのに、部屋の空気はさらに重く沈んだ。

 「父を殺されたことで、彼は改革を捨て、鉄の秩序を選んだ。ゆえに、“平和の皇帝”と呼ばれながらも、平和を力で保つ。」

 西はペンを置き、久信を真っすぐに見た。

 「ギルス外務大臣の比ではない。一言でも誤れば――戦争です。」


 久信は静かに頷いた。

 「……心得ています。」


 その夜から、準備が始まった。

 机の上には、何十枚もの原稿用紙が積まれ、久信はその一枚一枚に、謝罪の文言を書き、削り、また書き直した。

 「陛下、我が国の過ちをお詫び申し上げます」――否、言葉が軽すぎる。

 「陛下、皇太子殿下への暴挙は我が国の恥辱であります」――重いが、誠実だ。

 言葉の一つひとつに、命を込める。


 翌日、西が皇帝役となり、謁見のリハーサルが始まった。

 西は椅子に深く座り、低い声で問う。

 「津田三蔵は、死刑にならないのか。」

 久信は答える。「法の範囲内で、最大限の処罰を――」

 西が即座に遮る。「ダメです。曖昧です。もっと明確に。しかし、法を曲げてはならない。その中間を探すのです。」

 久信は汗を拭い、再び頭を下げた。

 何度も、何度も練習した。言葉の抑揚、間の取り方、姿勢、呼吸。

 「陛下」――その二文字を口にするたび、心臓が痛むようだった。


 夜。

 公使館の外は霧に包まれ、街灯が水滴を纏ってぼんやり光っていた。

 久信は書斎で独り、窓辺に立っていた。外では、ネヴァ川の流れがかすかに光る。

 「明日、日本の運命が決まるのか。」

 呟いた声は小さく、しかし確かに震えていた。


 机の上には、万年筆と一枚の白紙。

 彼は筆を取り、静かに書き始めた。

 「日本は、剣ではなく理で戦う。」

 「この一言が、皇帝の心に届けば――戦争は避けられる。」


 ペン先が止まる。

 指先には細かなインクの染み。

 彼はそれを見つめながら、ゆっくりと拳を握った。

 「兄上……もしあなたなら、どう話すだろうか。」

 藤村義親の穏やかな笑顔が脳裏に浮かぶ。

 “恐れるな。言葉の力を信じろ。”――あの声が、遠くで響くようだった。


 その夜、久信はほとんど眠れなかった。

 窓の外では白夜の空が淡く光り、朝と夜の境目が消えていた。

 彼は何度も、言葉を口の中で繰り返した。

 「陛下、戦争をお避けください。」

 「陛下、我が国は過ちを悔いております。」

 「陛下、政治は可能性の芸術であります。」


 言葉が祈りのようになった頃、外の空が白んでいった。

 明日――いや、もう数時間後には、ロシア皇帝の前に立つ。

 冷たい風がカーテンを揺らし、紙の山がわずかに鳴った。

 その音を聞きながら、久信は胸の奥で静かに誓った。


 「たとえこの命を失っても、日本を戦火に巻き込ませはしない。」

五月十五日の朝。

 薄い雲の切れ間から光が差し、サンクトペテルブルクの街が金色に染まり始めた。

 日本公使館の門前には、二頭立ての馬車が停まり、御者の吐く白い息がまだ冷たい。車体は黒漆塗り、窓には小さな国旗が掲げられていた。

 久信は深呼吸を一つして、外に出た。吐いた息が白く漂い、緊張で胸の奥が固く締まる。


 玄関前には金子堅太郎と伊東巳代治が立っていた。

 「久信殿、」金子が歩み寄り、深く頭を下げた。「あなたなら、必ずやり遂げられる。」

 伊東も微笑みを浮かべ、言葉を添える。「我々は祈っています。どうか、日本を導いてください。」

 久信は二人の手を強く握った。

 「ありがとうございます。」

 その声は震えていたが、目だけはまっすぐ前を見ていた。


 馬車の扉が開かれ、西徳二郎公使が中から顔を出す。

 「行きましょう。」

 短い言葉。しかしそれが、戦場へ向かう合図のように響いた。


 馬車の内部は革張りで、冷気を遮断するように厚いカーテンが垂れていた。

 久信は窓の外を見つめたまま、黙っていた。

 蹄の音、車輪の軋み、遠くで鳴る鐘の音。

 そのすべてが、心臓の鼓動と重なって響く。


 「久信殿、大丈夫ですか。」

 西が静かに尋ねた。

 久信は、わずかに息を吸い込み、「……緊張しています」とだけ答えた。

 西は微笑を浮かべる。「当然です。ですが、あなたは準備をしてきた。英国、フランス、ドイツ、ロシア……全ての旅は、この瞬間のためでした。」


 その言葉に、久信の脳裏に旅路がよみがえる。

 ロンドンの霧、パリの大通り、ベルリンの石畳、そしてこの氷の都――。

 それぞれの街で出会った人々、学んだ外交の形。

 「政治は可能性の芸術だ」と語ったビスマルク侯爵の声が、遠い記憶から蘇る。

 (今こそ、その教えを証明するときだ。)

 彼は膝の上で手を握りしめ、震える指を押さえた。


 馬車はやがて、宮殿広場へと入った。

 目の前に広がるのは、巨大な緑白の建築――冬宮殿。

 空を切るような尖塔と、無数の金色の装飾。

 窓のひとつひとつに朝の光が反射し、まるで大河が流れるように輝いていた。

 久信は息を呑む。「……これが、ロシア帝国の心臓。」


 石畳の上を馬車が止まると、銃を構えた衛兵たちが整列していた。

 衛兵長が短く命令を発し、敬礼する。

 彼らの青い軍服のボタンが朝日に光った。

 西が馬車から降り、帽子を取って軽く会釈する。

 久信も続き、冷たい石畳に靴底を鳴らした。


 「ここからが本番です。」

 西の声が短く響いた。

 久信は頷き、視線を正面に据える。


 宮殿の扉をくぐると、冷気と香が入り混じった空気が押し寄せてきた。

 高い天井には金の装飾が施され、天井画には神々の戦いが描かれている。

 両脇には白大理石の像が並び、足を踏み入れるたびに足音が反響する。

 光沢のある床が彼らの姿を鏡のように映した。


 侍従が先導し、長い廊下を進む。

 廊下の壁にはレンブラントやラファエロの絵画が飾られ、間にはロマノフ家の肖像画が続く。

 燭台の炎が静かに揺れ、その明かりが額縁の金を照らす。

 久信は歩きながら、胸の鼓動を数えた。

 一歩、二歩、三歩――。

 歩を進めるたび、背中に重圧が増していく。


 「この廊下、二百メートルあるそうです。」

 西の小声に、久信はかすかに頷く。

 「まるで、決意を試されているかのようですね。」

 「ええ。皇帝の前に立つ前に、己と向き合う時間です。」


 十分以上歩いた後、ようやく巨大な扉が見えてきた。

 扉は金色の装飾で縁取られ、中央には双頭の鷲――ロシア帝国の紋章が刻まれている。

 その前に、白髪の侍従長が立っていた。背筋を伸ばし、冷たい灰色の目で二人を見た。


 「日本の使節か。」

 その声は低く、冷たい。

 西が一歩前に出る。「はい。駐露日本公使・西徳二郎、ならびに特命全権副使・藤村久信です。」

 侍従長は鼻を鳴らし、静かに言った。

 「陛下は、お怒りだ。無礼があれば、即座に退出させる。……そして、戦争だ。」

 久信の背筋に冷たい電流が走った。

 「……心得ております。」

 返す声は低く、だが確かだった。


 侍従長は一瞬、久信を見つめた。

 その瞳の奥に、ほんのわずかな興味の光がよぎる。

 「……入れ。」

 重厚な扉がゆっくりと開かれた。


 きしむ蝶番の音が宮殿の奥に反響し、空気が動いた。

 その向こうに、眩い金と深紅の空間が広がっていた。

 冬宮殿・謁見の間。

 久信は深く息を吸い、胸に手を当てた。


 (ここからが本当の戦場だ。)


 彼は一歩、足を踏み入れた。

 冷たく光る大理石の床が、足音を鋭く返した。

扉が開いた瞬間、金と深紅の光が目に刺さった。長さ五十メートルはあろう広間の奥、赤いビロードに金糸を織り込んだ玉座が、朝の光を反射して鈍く燃える。天井では神々のフレスコが重く見下ろし、複数のシャンデリアが無数の水滴のような光を垂らしていた。大理石の床に映る影が、歩む者の胸の内を覗きこむかのように揺れる。


 左右に並ぶ官吏たちの視線が、針のように肌に刺さる。ギルス外相が一歩前へ出、冷えた銀の声で名を告げた。

 「日本の使節、藤村久信。」

 胸の奥で鼓動が数を乱す。深く一礼すると、空気がわずかに動いた。


 侍従の声が張り裂ける。

 「皇帝陛下、ご入室!」

 重い足音が近づく。床が、それ自体の重みに耐えかねるようにきしむ。視界の端を巨影が横切り、玉座の前に止まる。やがて、低い衣擦れの音。

 「顔を上げよ。」

 命じられ、静かに視線を上げる。


 鋼のような灰色の双眸。幅広い肩に軍服、胸には勲章が並ぶ。大きな掌が肘掛けを軽く叩くたび、広間の空気が震えた。髭は灰に白を帯び、岩のごとき顎をさらに厳しく見せる。圧が、言葉より先に迫ってくる。


 喉が乾く。だが舌は動いた。

 「陛下――」ロシア語で、一語ずつ刻む。「日本国を代表し、深い謝罪を申し上げます。大津における皇太子殿下への襲撃は、国家の恥にございます。犯人は直ちに拘束され、我々は最大限の処罰と再発防止を約束いたします。陛下の御子息に傷を負わせたこと、万死に値します。」

 深く、長く、頭を垂れる。大理石の光が視界から消え、耳に血の音だけが残る。


 沈黙。やがて、低い雷のような声が落ちた。

 「謝罪は聞いた。」

 単語の一つひとつが、鉛の塊のように胸に沈む。皇帝は立ち、こちらへ歩む。巨大な影が迫る。距離にして一歩分、息がかかるほど近い。

 「それは私の息子だ。」

 その一言に、背骨の奥で氷が鳴った。

 「将来の皇帝だ。警備するべき者が、刃を向けた。お前の国では、それが常か。」


 「断じて、違います。」顔を上げる。「前例なき異常。だからこそ、恥辱です。」

 皇帝は目を細め、ゆっくり玉座へ戻る。

 「では問う。犯人は死刑か。」

 鋭い。逃げ道はない。

 「陛下、正直に申し上げます。わが国法に外国皇族への規定は未整備です。法を無視することはできません。ゆえに、法の枠組みの中で最大の刑罰を科し、速やかに法の不備を改めます。」

 広間に、紙一枚分の冷気が増した。

 「法律を説くのか。」

 「はい。法は国家の骨にございます。折れば、国は立てません。」


 皇帝は顎を引き、ギルスへわずかに目をやる。

 「艦隊の用意は。」

 「整っております、陛下。命あらば即時出撃。」

 全身の毛細血管が、遠雷に打たれたように総立ちになる。

 「目標は。」

 「長崎、横浜。」

 声が喉に張り付く。だが、ここで沈めば流れは戦へ傾く。

 「陛下!」一歩踏み出す。靴音が痛いほど広間に響く。「どうか、戦をお避けください。」


 灰色の双眸がこちらを射抜く。

 「理由は。」

 「一人の犯罪に、何千、何万の命が償うべきではありません。ロシアの兵、日本の兵、そして市井の人々。血は復讐を呼び、復讐は次の血を呼ぶ。陛下の御威光は、怒りを越えて大陸を鎮め得ます。」

 息を整え、言葉を選ぶ。

 「陛下の御子息は寛大であられ、陛下の盟友たる天皇は直ちに見舞い、誠意を尽くしました。ここに『可能性』があります。憎悪ではなく、法と礼で結ぶ可能性です。」


 広間の空気が、見えない綱引きに入る。ギルスの視線が刃を帯びる。官吏たちの喉仏が一斉に上下する。皇帝は立ち、窓辺へ歩む。ネヴァ川の銀がゆるく揺れ、遠くから鐘がひとつ落ちてきたように、時間が遅くなる。


 沈黙が五分、あるいは永遠にも感じられる長さで続いた。

 手のひらの汗が冷える。心臓の鼓動を数えるのをやめ、ただ川面の光を見つめた。やがて皇帝は振り返る。視線の硬度が、わずかに緩む。

 「息子は日本を許すと言った。天皇の振る舞いに感銘したと。」

 低い息が、胸から漏れそうになるのを飲み込む。

 「私は父だ。息子の言葉を退けるつもりはない。」

 間を置き、はっきりと言った。

 「戦はしない。」


 体内で張り詰めていた弦が、音もなくほどけ落ちる。膝が震え、踵に血が戻る。

 だが、続く言葉は鋭かった。

「だが、忘れるな。日本は借りを作った。大きな借りだ。いつか返せ、と言うときが来る。拒むな。」

 「承知いたしました。」深く礼を取る。床に映る自分の影が、小さく、そしてはっきり見える。


 皇帝は片手を軽く振り、終わりを示した。

 「下がれ。」

 玉座の背後で金糸がわずかに揺れる。広間の扉が音を立て、外の冷気がすうっと差し込む。

 最後に一度だけ頭を下げ、踵を返す。歩幅を乱さず、しかし急ぎすぎず、廊下へ向かう。背後で扉が閉じる低音が、胸の奥の震えを吸い込んでいった。


 廊下に出た瞬間、膝が勝手に折れ、冷たい石に手をついた。西が駆け寄り、肩を支える。

 「……終わった。」

 声は掠れていたが、その中に確かなものがあった。戦の匂いが遠のき、石畳の冷たさだけが現実として残る。

 遠くで、また鐘が鳴った。今度は、安堵の音色で。

重厚な扉が閉まると同時に、広間の空気が遠のいた。冬宮殿の回廊は静まり返り、遠くの時計の針の音だけが響く。

 久信はその場に膝をつき、冷たい大理石に手をついた。肩が震え、呼吸が荒い。

 「……終わった。」

 声はほとんど囁きに近かった。

 西徳二郎がすぐに隣へ駆け寄り、背を支える。

 「久信殿、大丈夫か。」

 久信はゆっくりと首を振った。

 「ええ……。ただ、体の力が抜けただけです。」

 息を整えながら立ち上がると、目の奥が熱く滲む。抑えていた感情が、ようやく堰を切ったように溢れ出した。


 「戦争を……避けられました。」

 その一言を口にした瞬間、胸の奥から涙が零れた。

 西は黙って頷き、帽子を胸に当てた。

 「あなたは日本を救ったのです。」

 久信はかすかに笑い、首を横に振った。

 「私は……ただ、怖かったのです。戦争が。」

 頬を伝う涙は、恐怖と安堵の入り交じったものだった。

 「四千万人の命が、この手の中にあるようで……その重さが、怖くて仕方がなかった。」


 廊下の窓からは、午後の光が差し込んでいた。外の空は青く晴れ、ネヴァ川が静かに光を返している。

 西は久信の肩を軽く叩いた。

 「さあ、帰りましょう。」

 「はい。」


 宮殿を出ると、風が頬を撫でた。朝よりも柔らかく、冷気の中に初夏の香りが混ざっている。

 馬車が待っており、衛兵たちが敬礼をした。

 久信と西は黙って乗り込み、扉が閉じる。

 車輪がきしみ、石畳を叩く音がゆっくりと遠ざかっていく。


 車窓の外、サンクトペテルブルクの街はいつも通りの生活を続けていた。

 花売りの少女が通りの角で声を上げ、馬車の列が橋を渡る。

 「平和とは……こういう日常のことなのですね。」久信が呟いた。

 「ええ。戦争になれば、この穏やかさが消える。人の笑いも、鐘の音も。」

 西の言葉に、久信は小さく頷いた。


 「皇帝は言いました。『日本は借りを作った』と。」

 「……それは覚悟しておきましょう。」

 「はい。しかし、今はただ、感謝を。」

 窓の外、ネヴァ川の水面が金色に輝き、風がカーテンの隙間から入り込む。

 その風に乗って、どこか遠くで鐘の音が再び鳴った。


 夕刻、公使館に到着した。

 玄関前では金子堅太郎と伊東巳代治が待っていた。

 「久信殿!」金子が駆け寄る。「どうでしたか!」

 久信は深く息を吐き、微笑を浮かべた。

 「……成功です。戦争は回避されました。」

 伊東は胸に手を当て、目を閉じた。「……よかった。本当によかった。」

 金子は拳を握りしめた。「日本は救われたんですね。」

 「ええ。しかし、皇帝の言葉を忘れてはいけません。『借り』を作ったと。」

 「借り、ですか。」

 「そう。いつか、それを返す時が来る。」


 西は机に向かい、すぐに電報の文面を書き始めた。

 『一八九一年五月十五日、アレクサンドル三世陛下との謁見成功。皇帝、戦争を回避すると表明。大津事件による危機、終息。』

 ペン先の音が部屋に響く。久信はその背を静かに見つめていた。


 夜、書斎の灯を一つだけ残して、彼は机に向かった。

 日記帳を開くと、インクの匂いが広がる。

 「一八九一年五月十五日。人生で最も長い日だった。」

 ペンを握る手が、まだ微かに震えていた。

 「皇帝は巨大だった。彼の影が床を覆い、呼吸すら奪われそうだった。だが私は言葉で抗った。法を曲げぬ誇りを、平和を信じる心を――それだけを武器に。」

 インクがにじみ、文字が滲む。

 「五分の沈黙の間、世界が止まったようだった。

  そして、彼は言った。『戦争はしない』と。」

 書きながら、涙が紙に落ちた。


 窓の外、サンクトペテルブルクの街は静かに夜を迎えていた。街灯の明かりが霧に滲み、遠くの鐘がゆっくりと時を刻む。

 久信はペンを置き、天井を見上げた。

 「この借りを、どう返せばいいのか……。それはまだわからない。だが、今は平和だ。それだけで、十分だ。」


 夜が更け、書斎のランプの火が小さく揺れた。

 やがてその光が消えると、外ではうっすらと白夜の光が戻っていた。

 窓の外のネヴァ川が、銀色の帯のように流れ続けている。

 久信はその光を目で追いながら、静かに目を閉じた。

 長い戦いの一日が、ようやく終わったのだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ