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【篤姫と結婚した公務員】水戸藩から始まる幕末逆転録 ~公務員が理と仕組みで日本を救う~  作者: 一条信輝


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391話:(1891年・4月下旬)ドイツ訪問③ 技術協定と鉄の参謀

ベルリンの空は薄い雲に覆われ、春の陽が霞んでいた。

 石畳の上を馬車が静かに進む。

 左右には灰色の官庁建築が並び、壁面には鷲の紋章が刻まれている。

 ドイツ帝国の中心――その秩序と冷たさが空気に漂っていた。


 首相官邸の前に馬車が停まる。

 金属の車輪が止まる音に続いて、青木周蔵が声を掛けた。

 「久信殿、準備はよろしいですか。」

 「はい。」

 久信は深呼吸をした。パリでの文化協定、そしてビスマルク邸での会談を経て、

 今日の会談こそが“実利”を結ぶ瞬間だと理解していた。


 玄関の大理石の階段を上り、彼らは重厚な扉をくぐった。

 天井の高いホールに、足音が静かに響く。

 赤い絨毯、金の縁飾りの椅子、壁には鉄道網と産業統計を描いた地図――

 まるで国家の神経がこの建物に集約されているかのようだった。


 執事の案内で応接室に通されると、

 軍服姿の男が静かに立ち上がった。


 「Guten Tag, Herr Fujimura.」

 レオ・フォン・カプリヴィ。五十九歳。

 ビスマルクの後を継いだ新首相にして、帝国陸軍の出身。

 灰色の瞳は鋼のように冷たく、言葉の一つ一つに軍人らしい正確さがあった。


 「ビスマルク侯爵との会談について聞きました。」

 「はい、非常に学ぶところがありました。」

 「侯爵は偉大な人物です。」

 カプリヴィの表情に、一瞬の敬意と同時に微かな影が差した。

 「だが今、ドイツには新しい方向が必要です。」


 その一言に、久信の背筋がわずかに伸びる。

 室内には、商工大臣と外務次官も同席していた。

 彼らの手元には、精密な書類が束ねられ、会談の重要さを物語っている。


 カプリヴィは机上の資料を指先で叩きながら続けた。

 「ビスマルク侯爵は外交の天才だった。だが、内政を軽視した。

  私は異なる。帝国を強くするには、工場と労働者が必要だ。」


 青木がわずかに微笑む。

 久信は頷き、言葉を添えた。

 「首相閣下のご方針、まさに日本の志と同じです。

  日本もいま、富国のために工業を育てようとしています。」


 「そうか。」

 カプリヴィは椅子に深く腰を下ろし、低い声で言った。

 「ドイツは外交の時代から、生産の時代へ進む。

  労働者保護法、社会保険、関税緩和――国内の力を底から強くする。

  海軍を拡充し、鉄鋼・化学・電気の三本柱で世界を築く。」


 その言葉には、軍人らしさと企業家の冷徹な論理が同居していた。

 久信はすぐに立ち上がり、持参した資料を差し出した。

 「閣下、日本からの提案書です。

  日独技術協力協定の草案でございます。」


 会議室の空気が、わずかに張り詰める。

 金子がそっと資料の端を整え、伊東が翻訳を添えた。

 紙の擦れる音だけが響く。


 久信は続けた。

 「日本は造船・化学・機械の三分野において、貴国の協力を求めます。

  技術者をお招きし、留学生を派遣し、互いに学び合いたい。」


 外務次官が低く問いかける。

 「なぜドイツなのですか? 英国にもフランスにも技術はある。」

 久信は微笑を浮かべた。

 「英国は造船で優れ、フランスは文化に秀でています。

  しかし、鉄と化学、そして機械――その三つを極めた国はドイツだけです。

  そして、東アジアにおいて貴国と競合することはありません。」


 「競合しない?」

 カプリヴィの眉がわずかに動く。

 「技術を与えれば、日本は将来、競争相手になるのでは?」


 久信は間を置かずに答えた。

 「いいえ。市場が違います。」

 彼は地図を指さした。

 「ドイツの市場はヨーロッパ、日本の市場は東アジア。

  我々は互いに補完し合えます。

  日本が強くなれば、ロシアの東方拡張を抑えることにもつながる。

  それは、ドイツにとっても利益です。」


 室内の空気が変わった。

 外務次官が視線を交わし、商工大臣がゆっくりと頷く。

 カプリヴィは短く笑った。

 「興味深い論理だ。では――日本は何を提供できる?」


 久信は、金子と目を合わせた。

 「市場を。」

 静かながらも確かな声だった。

 「日本、朝鮮、清国。合わせて四億の人口。

  その市場に、ドイツの製品を届ける道を我々が開きます。」


 「さらに、原料もあります。絹、茶、銅。

  日本は貴国の工業を支える資源を供給できます。」


 カプリヴィの眼差しが変わる。

 灰色の瞳が、一瞬だけ光を帯びた。

 「……市場と原料。」

 彼は深く頷き、ゆっくりと手を差し出した。

 「良い提案だ。協定の方向で進めましょう。」


 久信は、静かにその手を握った。

 ドイツ鉄鋼のように冷たく、だが確かな力のこもった握手だった。


 その瞬間、ビスマルク邸で聞いた言葉が胸に蘇る。

 ――「Balance. 常にBalanceだ。」

 外交も、技術も、力も。

 均衡の上に築かねばならない。


 握手の後、青木がそっと耳打ちした。

 「見事です。これで日本は、ドイツの知を得られます。」

 久信は微笑んだ。

 「いえ、これでようやく――学ぶ扉を叩けたのです。」


 時計の針が正午を指す。

 ベルリンの外では教会の鐘が鳴り、空気を震わせた。

 その音は、技術と外交の新時代の始まりを告げる鐘のように響いていた。

正午を少し過ぎ、ベルリン駅のプラットフォームに蒸気が立ちこめていた。

 列車の黒い車体に、陽が反射して銀色に光る。

 青木が時刻表を確かめながら告げた。

 「これから西へ三時間、エッセンへ向かいます。ドイツ工業の心臓部です。」


 鉄の車輪が軋む音とともに列車が動き出す。

 車窓の外では、麦畑の向こうに煙突の森が見え始めていた。

 煙は灰色でも、そこには“未来”の匂いがあった。

 久信は窓に手を当て、その景色をじっと見つめた。

 「……この国は、産業そのものが呼吸している。」


 やがて午後三時過ぎ、列車がエッセン駅に滑り込む。

 駅の空気は、鉄と煤の匂いに満ちていた。

 遠くで機関車の汽笛が鳴り、工場のサイレンが応える。

 その音が街全体の拍動のように響いていた。


 出迎えたのは、クルップ社の若き経営者、フリードリヒ・アルフレート・クルップ。

 まだ三十七歳の青年だが、背は高く、目の奥には鋭い自信の光が宿っていた。

 「Willkommen, Herr Fujimura.」

 「Es ist mir eine Ehre, Ihr Werk zu sehen.」

 久信の流暢なドイツ語に、クルップは目を細めた。

 「噂通りだ。三十三の言語を操る若き外交官か。」

 握手の手が熱かった。


 馬車で工場地帯へ向かう途中、クルップは静かに語った。

 「この地に最初の高炉を建てたのは、私の祖父です。

  父の代で“兵器”が加わり、私はそれを“産業”に拡げようとしている。」

 彼の声には誇りと、責務の重さが入り混じっていた。

 「父を超えねばならない。それが息子の運命です。」


 久信は短くうなずいた。

 「……私も同じです。**弟の義親は天才です。**私はただ、可能なことを一つずつ積み重ねるだけです。」

 クルップは笑い、久信の肩を叩いた。

 「我々は似ているようだ、Herr Fujimura。」


 門をくぐった瞬間、世界が変わった。

 空気が震えていた。

 高炉の中で赤々と燃える鉄が、地の底の太陽のように輝いている。

 巨大な煙突がいくつも並び、絶え間なく黒煙を吐き出していた。

 床を伝う熱気に、靴底がかすかに焦げる。

 職工たちが半裸で鉄棒を操り、火花が雨のように散っていた。


 「これが我々の高炉です。」

 クルップの声が轟音の中に響く。

 「毎日、五百トンの鋼鉄を生み出します。」

 久信は思わず息をのんだ。

 「五百トン……」

 金子が計算するように呟く。

 「日本全体の年間生産が二万トン。つまり、この工場だけで四十日分です。」

 伊東が苦笑した。

 「桁が違いますね。」


 炎の向こうで、鉄塊がクレーンに吊り上げられ、轟音とともに型枠へ落とされた。

 その音は雷のようで、空気が震えるたび胸の奥まで響いた。

 職工たちは汗を拭くこともなく作業を続けている。

 彼らの動きには、軍隊のような統一感があった。


 次に案内されたのは、大砲製造工場だった。

 壁際には砲身がずらりと並び、一本一本が彫刻のように美しかった。

 「これは二十八センチ砲。射程二十キロ。」

 クルップの声が誇らしげに響く。

 金子が思い出したように口にした。

 「イギリスのアームストロング社の三十・五センチ砲は、射程十八キロでしたね。」

 伊東が補足する。

 「口径はアームストロングが大きいが、射程ではクルップが勝っている。」

 久信は感嘆の息を洩らした。

 「つまり、“技術思想”が違う。力の英国、精度のドイツ。」


 さらに案内された装甲板の工場では、厚さ三十センチの鋼板が並び、

 その上を作業員が鋼靴で歩きながら音を確かめていた。

 隣の建屋には、巨大な旋盤とフライス盤が列をなし、金属が削られる音が響いている。

 油と鉄粉の匂いが混じり合い、息を吸うたびに喉が熱くなった。


 クルップは一台の旋盤を指し示した。

 「これが、我々の工業の心臓です。

  この機械なしに、大砲も鉄道車両も造れません。」

 伊東がうなずく。

 「日本はこれらの工作機械を輸入したいと考えています。」

 クルップは穏やかに微笑んだ。

 「もちろん問題ありません。ただし、これを扱うには人材が必要だ。

  “機械を動かす頭脳”こそが本当の資産です。」


 視察の終わり、工場の外に出ると、夕陽が煙の間から差し込んでいた。

 赤く染まった空の下、無数の煙突が影を伸ばしている。

 クルップが静かに口を開いた。

 「藤村殿、技術は剣です。

  使い方を誤れば、人を殺す。正しく使えば、国を救う。」


 久信はその言葉を胸に刻んだ。

 「……はい。日本の繁栄のために、必ず正しく使います。」

 クルップは満足げに頷き、力強く握手をした。

 「Viel Glück, Japan.」


 その手のひらには、鉄と同じ温度の熱が残っていた。

 遠くでサイレンが鳴り、工場の夜が始まろうとしていた。

 久信は振り返り、煙突群を見上げた。

 そこに見えたのは、産業という“もう一つの戦場”だった。

朝のベルリンはまだ冷たい霧に包まれていた。

 石畳の上を軍靴の音が規則正しく響く。灰色の空の下、王宮の向かいに立つ巨大な建物――それがドイツ参謀本部だった。

 外壁は黒曜石のように冷たく、どこか教会に似た厳粛さを帯びている。


 玄関前で青木が小声で言った。

 「ここが、ヨーロッパ最強の頭脳です。政治ではなく、“戦争”を設計する場所。」

 久信は深く頷き、胸の奥に冷たい緊張を覚えた。


 中へ入ると、空気が一変した。

 整然と並んだ机、地図を覆う透明な定規、方眼紙に引かれた赤と青の線。

 軍服姿の将校たちが低声で議論を交わし、鉛筆の音だけが部屋を満たしている。

 そこには怒号も血の匂いもない。戦争が、数学のように計算されていた。


 やがて扉の奥から、壮年の将官が現れた。

 アルフレート・フォン・ヴァルダーゼー伯爵――現参謀総長。

 銀髪を短く刈り込み、鋭い鷹のような眼をしている。

 「Guten Tag, meine Herren.」

 その声には、戦場の硝煙を知らずとも人を黙らせる力があった。


 ヴァルダーゼーは久信たちを作戦室へ案内した。

 壁一面にヨーロッパの地図が貼られ、無数の小旗が刺さっている。

 「これが我々の戦場です。」

 指先が、ベルギーからパリを経てロシア国境へと滑る。

 「我々は常に二つの敵を想定している。フランスとロシアだ。」


 金子が息を呑んだ。

 「二正面作戦……」

 ヴァルダーゼーは微かに笑った。

 「そう。ドイツは中央にある。だから、常に両側から攻められる宿命にある。」


 机上の模型を動かしながら、彼は語った。

 「フランスは要塞が多い。正面突破は愚策だ。

  ゆえに、我々は北へ――ベルギーを経由してパリを包囲する。」

 伊東が眉をひそめた。

 「ベルギーは中立国では?」

 「そうだ。」伯爵は即答した。「だが、戦争は法より速く進む。六週間でフランスを沈める。」


 久信は思わず唇を噛んだ。

 ――これが、リアルポリティーク。理想よりも結果を優先する思考。

 昨日、クルップが語った「技術は剣」という言葉が、別の形で胸に響く。

 戦略もまた、使い方次第で国を救い、滅ぼす。


 伯爵は次に、動員計画を説明した。

 壁際の電信機がカチカチと鳴り、参謀が紙を差し出す。

 「皇帝が動員令を出せば、二十四時間以内に全土へ伝わる。

  鉄道網を使い、二週間で三百万を前線に送る。」

 久信は思わず尋ねた。

 「三百万……それほどの兵を、どうやって維持するのですか?」

 「兵站です。」伯爵の目が鋭く光る。

 「戦争は兵站で勝つ。食糧、弾薬、鉄道、医療、全てが連動して初めて軍になる。」


 その言葉は、久信の胸に深く刻まれた。

 ――組織とは、力ではなく秩序で動く。

 日本の陸軍にも、この“秩序の科学”が必要だ。


 伯爵はふと声を落とした。

 「メッケル少佐を覚えているか?」

 久信が目を上げる。

 「もちろんです。陸軍大学校で教官を務めた方です。」

 「彼はあなた方を高く評価していた。だが、まだ足りぬと言っていた。

  特に動員計画と兵站、そこが弱い。」

 「……肝に銘じます。」


 部屋の片隅、窓際に置かれた胸像に目が止まる。

 それは創設者ヘルムート・フォン・モルトケの像だった。

 老将の瞳は遠くを見据え、静かに語っているように見えた。

 “戦争とは、冷静な知の結晶である”と。


 視察の終わり、伯爵が久信に近づいた。

 「藤村殿、日本は島国だ。陸だけでなく、海も使え。

  陸海の協同を怠るな。近代の戦は、総力の戦だ。」

 久信は真剣な表情で頷いた。

 「ありがとうございます。日本は必ず、その教えを国の骨格に刻みます。」


 玄関に出ると、外は晴れ上がっていた。

 兵士たちが銃を肩に、規律正しく行進していく。

 その靴音が、まるで国家そのものの鼓動のように響いた。


 久信は帽子を押さえ、風に向かって立ち尽くした。

 産業の炎を見た昨日、そして今日見た軍略の冷気。

 熱と冷、剣と秩序――ドイツという国は、その両極で成り立っている。


 「……日本も、そうならねばならない。」

 呟きは、春の風にかき消された。

1891年4月29日、ベルリン。

 朝の空気は澄み切っていたが、その静けさの底には、何かが動き出す前の張りつめた緊張が漂っていた。

 首相官邸の前庭では、国旗が風にたなびく。赤と黒と白の三色旗と、日の丸が並んで翻る。異なる文明が、今、同じ風に揺れていた。


 正面玄関に到着した久信は、制服姿の衛兵に敬礼を受けながら中へ進んだ。

 磨かれた大理石の床が、足音を澄んだ音で返す。

 長い廊下の壁には、皇帝ヴィルヘルム一世とモルトケ将軍の肖像が並び、歴史の視線が訪問者を見下ろしていた。

 会議室の扉を開けると、ドイツと日本の代表団がすでに整列していた。


 カプリヴィ首相は正装の軍服に身を包み、銀糸の肩章が朝の光を反射していた。

 「おはようございます、藤村殿。」

 「お招きに感謝いたします、首相閣下。」

 ふたりの握手は短く、しかし力強かった。

 その瞬間、室内の空気がわずかに変わる。歴史が新しい頁をめくる気配――それを誰もが感じ取っていた。


 首相は演壇に立ち、ゆっくりと口を開いた。

 「本日、日独技術協力協定の署名に臨めることを光栄に思います。

  これは単なる条約ではない。産業と科学、そして未来を結ぶ“同盟”であります。」

 その声は低く、確信に満ちていた。

 「我々は共通の懸念を持っています。ロシアです。

  日本が東で、我々が西で、それぞれ防壁となる。

  この協力は、文明の均衡を守るための第一歩です。」


 場内が静まり返る。

 久信は一歩前に出て、緩やかに会釈した。

 「日本は、ドイツの技術と精神を深く尊敬しております。

  この協定を通じて、我が国は工業と科学の力を学び、未来の礎とするでしょう。」

 通訳を介さずに流れるドイツ語に、カプリヴィの眉がわずかに上がる。

 若いが堂々とした態度――その姿に、列席した商工大臣や外務次官までもが小さく頷いた。


 机の上に、二つの文書が置かれる。

 一つはドイツ語、一つは日本語。

 金のインク瓶、黒檀のペン立て。

 書類の紙面はわずかに光を反射し、まるでその上に未来が刻まれるのを待っているかのようだった。


 カプリヴィがまずドイツ語版に署名した。

 ペン先が紙を滑る音が、静寂の中で響く。

 「Leo von Caprivi」――整然とした筆跡が残る。

 続いて久信が日本語版に署名した。

 「藤村久信」――その筆の運びには、長い旅路の重みが宿っていた。


 書類が交換される。

 互いの言語で署名を終えると、拍手が静かに広がった。

 報道用のカメラが閃光を放ち、歴史の瞬間を焼き付ける。

 久信は胸の奥で呟いた。

 ――これで、日本はもう“学ぶだけの国”ではない。

 ――世界と並んで歩む国になるのだ。


 式が終わると、首相がそっと近づき、低い声で言った。

 「藤村殿、あなた方は若いが、目が違う。

  野心ではなく“使命”の目をしている。」

 久信は静かに応じた。

 「日本には、まだ何もありません。だからこそ、学ぶことが使命なのです。」

 その返答に、カプリヴィはわずかに口元を緩めた。


 外に出ると、春の光がベルリンの街を包んでいた。

 馬車が石畳を走り、衛兵のラッパが遠くで鳴る。

 久信は青木、金子、伊東とともに官邸をあとにした。

 道すがら、金子が小声で言う。

 「これで、欧州三国との協定が揃いましたね。」

 「フランスとは文化、イギリスとは海運、ドイツとは技術。」

 伊東が続ける。

 「三本の柱が揃いました。」

 久信は微笑んだ。

 「だが、これで終わりではない。次が本番だ。」


 その夜、久信は宿の机に向かい、報告書をしたためた。

 “外交の目的は、友をつくることに非ず。敵を減らすことにあり。”

 ビスマルクの言葉が、ふと脳裏をよぎる。

 ペン先が止まる。窓の外では、夜風に旗がはためいていた。

 ――次はロシア。最も難しい相手。

 彼は目を閉じた。胸の奥に小さな炎が灯る。


 翌朝、ベルリン中央駅。

 プラットフォームには、まだ夜の冷気が残っていた。

 蒸気を吐く機関車の前で、青木が握手を求める。

 「ドイツ訪問は大成功でした。これで、東アジアの均衡が一歩進みます。」

 久信は頷いた。

 「青木公使のご助力のおかげです。」

 汽笛が鳴る。

 列車の窓から見える街並みが、ゆっくりと後方に流れていく。


 煙突の影、工場の灯、石造りの街――それらが遠ざかるたびに、胸の奥に痛みのような寂しさが残った。

 だが、その痛みこそが進化の証だと、久信は感じていた。


 「次は……サンクトペテルブルク。」

 金子が呟いた。

 久信は窓の外に視線を投げる。

 「ああ。ここからが、本当の外交だ。」


 列車は北東へ――凍てつく帝国、ロシアへ向かって走り出した。

 それは新しい時代の夜明けに向けて、ゆっくりと煙を上げながら進んでいった。

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