388話:(1891年・春)フランス訪問③ 文化の契約、光の握手
パリの朝は、紙の匂いがする。
日本公使館の執務室に差し込む光は、薄い牛乳のように白く、机に積まれた便箋と羊皮紙を均しく照らしていた。窓の外で、パン屋の荷馬車が石畳をこすり、鈴の音が二度、軽く跳ねる。火を落とした暖炉からは昨夜の煤の名残がほのかに香り、インク壺の蓋が開くたび、乾いた鉄の匂いが立った。
長机の上には、青い紐で綴じた協定草案が四部、左右対称に置かれている。
野村靖が懐中時計を閉じ、「始めましょう」と短く言った。声は柔らかいが、語尾に自然な張りがある。新任の重さと今日の緊張が、ちょうどよく混ざっていた。
久信は手袋を外し、紙の縁に指腹を載せる。紙は冷たく、しかし乾いている。英国で触れた契約書の蝋の硬さとは違い、こちらは光も手触りも軽い。文化の協定は、空気まで違う――そんな錯覚があった。
金子堅太郎が椅子を引き、草案の冒頭を読み上げる。
「第一条、芸術家の相互派遣——双方五名、期間二年、費用は派遣元負担」
声は速すぎず遅すぎず、紙のリズムに合わせて進む。
伊東巳代治が筆記具を構え、細い字で欄外に注意点を添えた。「“派遣元負担”は仏文で ambiguïté が出やすい。『自国が自国分を負担』と明記しませんと」
久信は頷き、仏文側の文言を一つひとつ音にして確かめた。鼻母音は柔らかく、母音の並びが文をまろやかにする。「自国負担(à la charge de la partie d’envoi)」……口に出すほど、紙の上の抽象が体に沈む。
「第二条、展覧会の開催」
金子が指で行を辿る。「一八九二年、パリで日本美術展——会場はグラン・パレ(協議中)、出品およそ二百点。翌九三年、東京・上野でフランス美術展——百五十点規模」
「運搬と保険が肝心です」と伊東。「輸送の危険負担(risque)と、破損時の評価額をどう定めるか。文化は“壊れやすい制度”でもある」
野村が頷く。「仏側の文化担当官は実務に明るい。今日の午前の会談で、“保険会社の指定”まで踏み込みましょう」
「第三条、語学・文化教育」
「フランス語教師二名を日本へ——東京帝国大学と陸軍士官学校。日本語教師二名をフランスへ——ソルボンヌと国立東洋語学校」
久信は、エッフェル塔の最上部で受け取った風の記憶を胸の奥で回す。遠目に価値が分かり、近づくほど知が増える——昨日、野村と確かめた“装置の条件”が、条文の行間にうっすらと浮かんでいた。
「第四条、年一回の定期協議――文化交流委員会の設置」
「第五条、雑則(保険、税関、検閲、滞在許可)」
読了の合図のように、窓辺の枝に小鳥が一度だけ鳴き、静かになった。
野村が視線だけで合図し、次の束へ。
「派遣芸術家の候補は?」
伊東が封筒を開く。和紙に墨書きの名前がならぶ。
「橋本雅邦——四十四、日本画。富岡鉄斎——四十九、文人画。陶芸と漆工は選定を継続。狩野芳崖——回顧枠」
その一語に、室内の空気が少しだけ沈む。
「芳崖先生は一八八八年に……」金子が言いよどむ。
久信は静かに頷いた。「だからこそ、作品が行く。亡くなった者の筆が、海を渡って新しいまなざしを得る。それも文化の仕事だ」
野村が目を細める。「回顧展は“系譜”を見せる。現役の往来だけでは、国の時間が伝わらぬ」
机の端で、蝋封の赤が朝の光に小さくきらめく。
金子が指先で別の紙束を示す。「想定問答を整えましょう」
伊東が項目を読み上げる。
「一、なぜ文化交流か——『政治と経済は変わるが、文化は残る。残るものから結ぶ。』
二、費用負担は——『各国が自国分を負担。文化は相互の投資であり、施与ではない。』
三、清国との緊張下で持続するのか——『文化は戦の外側に置く。動乱の時ほど橋を外さない。』」
久信は、短く息を吸い込む。昨夜、塔の灯の下で書き留めた文言が脳裏で光る。“La beauté lie les nations / 美は国を結ぶ”。詩を法へ、法を実務へ。言葉は梯子だ。上で掴んだものを、地上へ降ろすための。
執務室の扉が二度、軽く叩かれた。
書記官が入ってきて、仏外務省からの短い電文を差し出す。
「本日、首相兼外相フレシネが応接可、午前十時。場所はケ・ドルセー。同行はビレット次官および文化局」
野村が目で礼を言い、紙を置く。「良い時間です。午前の光は、判断をまっすぐにする」
「……塔の頂での風も、背に残っています」久信は小さく笑う。
「ならば、その風を紙に通そう」野村が軽く肩を叩いた。「開会の第一声、君が仏語で。決意ではなく、招きの調子で始めてください」
机上の羽根ペンを取ると、先端の毛がわずかに震えた。
久信は書き出す。
> Monsieur le Président du Conseil,
> Le Japon désire apprendre et offrir — par l’art, par l’étude, par l’amitié.
> Nous vous proposons un pont de lumière que ni la politique ni la guerre ne sauraient rompre.
(日本は学び、与えたい——芸術と学びと友情によって。政治や戦でも断てぬ光の橋を、私たちは提案します)
文を置くと、胸の中で小さな歯車が噛み合う音がした。理念が、文に変わった手応え。
金子が覗き込み、「招きの調子……いいですね。相手のプライドの置き場を先につくっている」
伊東が端正に頷く。「“光の橋”——橋はフレシネの専門語だ。元技術者に届く」
準備は細部へ移る。
「展覧会二百点のリストアップは?」
「仏側が関心を示した浮世絵は、広重・北斎を核に、派生の工芸を繋ぎます」
「会場の動線は」「入口で“線と余白”を見せ、奥へ進むほど“材と手”を増やす。遠目と近目の二段構えです」
「輸送は横浜積み・ル・アーヴル揚げ」「保険は仏側指定会社で包括、評価額は日側査定を添付」「税関手続きに“文化品の簡易通関”の但し書きを」
記憶の中の造船所の喧噪が、今は紙の上で静かに組み上がっていく。**英国で学んだ“理の骨組み”**が、**フランスで掴んだ“美の皮膚”**を受け止める。骨と皮膚の間に、今日は血を通わせる日だ。
「日本側の選考委は?」
「文部省に根回し済み。橋本雅邦は快諾の見込み、鉄斎は書簡にて前向き。芳崖は回顧枠で作品貸与を依頼——師の線が彼らの背後に立つことは、仏側にも通じるはず」
「工芸は?」
「陶は真葛・美濃筋から人選、漆は金胎・螺鈿系で幅を持たせます。『日本は紙の国ではない、材の国でもある』と示したい」
野村が満足げに頷いた。「手が見える展示だ。フランス人は“手”を尊ぶ」
ふと、窓外の鈴が遠のき、静寂が一瞬、紙の上に降りた。
その静けさの中で、久信は手帳をめくり、塔上で書いた走り書きを読み返す。
——“多くの細橋で渡る。大橋は落ちることがあるが、細橋はいくつか残る。”
——“文化の装置は、無害・遠目・近目。”
条文の文字列が、そのまま橋脚の列に見える。川の流れは時代、橋脚は条項、欄干はレセプションと記事、行き交う人は芸術家と学生。今日は一本目の橋に、最後のボルトを締める日なのだ。
やがて、書記官が湯気の立つコーヒーを運んできた。香りは深く、少し焦げの苦味が鼻へ昇る。
カップに映る窓の光が揺れ、紙の白さが僅かに暖かく見えた。
「時間です」野村が懐中時計を閉じる。「出ましょう。——言葉の順番を忘れずに。数字は後、理念を先に」
「承知しました」
金子が資料鞄の錠を確かめ、伊東がインク壺の蓋を締める。細い金具が“かちり”と鳴り、音が室内の空気を一度だけ緊張させた。
廊下に出ると、靴音が赤絨毯に吸い込まれ、壁の古時計が低く二度鳴った。
玄関の扉を開けると、パリの光が一気に流れ込む。街はもう動き始めている。
石畳を踏み出す前に、久信は一瞬だけ振り返り、机の上の紙束を見た。
紙は軽い。だが、その軽さが国を動かすことがある。
昨日の風が胸の奥でまた吹き、背中を押した。
馬車の戸が閉まる。革の匂い、木の香り、遠くの花の甘さ。
車輪が回り始め、街路樹の影が車内を横切るたび、紙に刻んだ言葉がひとつずつ確かな重さを得ていく気がした。
ケ・ドルセーへ向けて、朝のパリがまっすぐに伸びる。
今日、文化は橋になる。そして、その橋を最初に渡るのは、言葉だ。
セーヌ川の水面が、朝の光を銀色に返していた。
馬車がケ・ドルセーの前で止まる。大理石の階段の上、白い石の外壁が光を受けて柔らかく輝く。門番の礼兵がサーベルを構え、磨かれた刃が陽に瞬く。
石造りの建物の奥には、ヨーロッパの時間が積み重なっているようだった。
――理で築かれた美。それがフランスの姿だ、と久信は思った。
玄関を入ると、足元に敷かれた深紅の絨毯が、まるで心臓の鼓動のように館全体に血を巡らせている。
壁にはナポレオン三世時代の肖像画、天井からは重厚なシャンデリアが吊るされ、朝の日差しがガラスに屈折して七色の光を床に落としていた。
その中を、案内官の靴音だけが一定のリズムで響く。
久信、野村、金子、伊東――四人は一列になって歩いた。
扉が開く。
部屋の中央、楕円形のテーブル。その向こうに、初老の紳士が静かに立っていた。
フレシネ首相。六十三歳。灰色の髪を後ろへ撫でつけ、白い口髭を整えている。
背筋は真っすぐ、だが軍人のそれではなく、技師の線だ。無駄のない姿勢。
彼の背後には大きな窓があり、セーヌ川が光の帯のように見えていた。
「Bienvenue, Monsieur Fujimura.」
声は低く、だが響きがある。
久信が一歩進み、軽く会釈した。
「Merci, monsieur le Premier ministre. C’est un honneur.」
フレシネの口元に小さな笑みが浮かぶ。「J’ai entendu parler de votre visite à la Tour Eiffel.」
エッフェル塔の話題である。
「Oui, monsieur. C’était magnifique. La France est un pays de beauté et de courage.」
(ええ、素晴らしかったです。フランスは美と勇気の国ですね。)
フレシネの目が一瞬、柔らかくなった。
「Je suis ingénieur de formation.」
――私はもともと技術者でしてね。
「J’apprécie la culture et la technologie. Les deux sont les piliers d’un État moderne.」
(文化と技術は、近代国家の二つの柱です。)
「Je partage la même conviction, monsieur.」
久信が即座に応じる。「J’ai étudié la technologie navale en Angleterre, et maintenant la culture en France.」
――英国で技術を、フランスで文化を学んでおります。
フレシネが深く頷いた。「Excellent! Voilà une éducation complète.」
空気がやわらぐ。
野村がタイミングを見て、協定書を差し出した。
テーブルの上に置かれた紙の白が、重厚な木の色に映えて美しい。
「Monsieur le Premier ministre, voici notre proposition.」
久信が手で示す。「Un accord d’échange culturel entre le Japon et la France.」
フレシネは眉をわずかに上げ、「L’échange culturel?」と繰り返す。
紙を手に取り、目を通す。
指先が静かに動くたび、袖口のレースがわずかに揺れた。
「Pourquoi l’échange culturel?」
(なぜ文化交流なのか?)
フレシネの声は穏やかだが、探るように低く響いた。
「Le Japon coopère déjà avec l’Angleterre sur le plan militaire. Que cherchez-vous ici?」
――すでに英国と軍事協力している日本が、なぜフランスと?
室内の空気が少し張りつめる。
金子が視線で「理念から」と促す。
久信は深く息を吸い、目を真っすぐに向けた。
「La culture est la base, monsieur.」
(文化は基礎です。)
「La politique et l’économie changent, mais la culture reste.」
(政治も経済も移ろいますが、文化は残ります。)
「L’échange culturel crée une amitié qui ne dépend pas des intérêts.」
(文化交流は、利害に左右されない友情を育てます。)
言葉を発した瞬間、部屋の光がわずかに変わった。
雲が流れ、窓からの陽光がフレシネの横顔を照らす。
彼はゆっくりと頷いた。「…Intéressant. Très intéressant.」
「Mais,」と首相は少し声を落とした。
「Le Japon et la Chine sont en tension. Si la guerre éclate, cet accord survivra-t-il?」
――日本と清国の関係は緊張している。もし戦争が起きたら、この協定はどうなる?
室内の空気が重くなった。
外交官の質問ではなく、現実家の問いだ。
久信は短く息を整える。金子が小声で、「文化は政治を超える」と囁いた。
その助言が糸のように頭の中で伸びる。
「Cet accord est culturel, pas politique.」
(この協定は文化のものであり、政治のものではありません。)
「La culture transcende la politique et la guerre.」
(文化は政治と戦争を超越します。)
「Même en cas de conflit, nous continuerons cet échange.」
(たとえ戦争が起きても、この交流は続けます。)
久信の声は低く、しかし揺れなかった。
その静けさに、フレシネの瞳が少し和らぐ。
「Je vous crois.」
(信じましょう。)
その一言に、野村がわずかに息を吐いた。
「Quels artistes le Japon enverra-t-il?」
文化担当官が質問する。
久信が準備していた名簿を差し出す。
「Hashimoto Gahō, maître de la peinture japonaise. Tomioka Tessai, peintre et calligraphe. Et d’autres artistes d’art décoratif — céramique, laque.」
(橋本雅邦、富岡鉄斎、そして陶芸・漆工の大家たちです。)
「Et même les œuvres de Kanō Hōgai, décédé, seront exposées à titre commémoratif.」
(故・狩野芳崖の作品も、回顧として展示します。)
文化担当官が感嘆の声を漏らす。「Très bien. Les maîtres de l’école japonaise.」
フレシネが指を組み、しばし黙した。
その沈黙は、反対ではなく、考えの深さだった。
窓の外では、セーヌ川の光が壁に反射し、天井に波の模様を描いている。
「Votre proposition est excellente, monsieur Fujimura.」
(あなたの提案は素晴らしい。)
「La France valorise la culture, et le Japon montre un esprit moderne.」
(フランスは文化を重んじ、日本は近代的精神を示している。)
「Nous allons préparer l’accord officiel.」
(正式な協定を準備しましょう。)
「Nous le signerons dans une semaine.」
(1週間後に署名します。)
その言葉に、久信の胸の奥で何かが弾けた。
「Merci beaucoup, monsieur le Premier ministre!」
立ち上がって深く礼をする。
首相も椅子から立ち、手を差し出した。
握手。
指の間に、冷たく乾いた皮膚の感触が伝わる。
同時に、紙の上ではなく、人と人との間に契約が刻まれる瞬間だった。
「Je vous souhaite le succès, monsieur Fujimura.」
(あなたの成功を祈ります。)
「Et moi, le succès de l’amitié franco-japonaise.」
(そして私も、日仏の友情の成功を。)
フレシネが笑う。「Vous avez l’esprit français.」
(あなたにはフランスの精神がありますね。)
久信も微笑んだ。「Alors, nous sommes déjà alliés.」
(ならば、すでに同盟ですね。)
笑い声が広間に静かに響いた。
その音は短かったが、柔らかく残響した。
窓の外、セーヌの水がゆるやかに流れ、白い鳥が一羽、光の中を横切った。
野村がそっと筆記を止め、眼鏡の奥で微笑む。
「久信殿、よくやりました。」
金子が口元を引き締める。「理念で始まり、実務で結ぶ。完璧です。」
伊東がノートを閉じ、「一週間後、署名式ですね」と言った。
その声には、静かな高揚があった。
応接室を出ると、回廊に淡い陽光が満ちていた。
磨かれた床に、四人の影が伸びる。
野村が足を止め、振り返る。
「フレシネ殿のような人は、技術から文化を理解する。珍しい。」
「ええ。彼の言葉には、構造の音がありました」
「構造?」
「はい。理屈ではなく、形の中に秩序を見ている。まるで橋を設計するように、文化を計算しているのです」
野村が笑った。「それは君も同じだよ。塔の上で理と美をつないだじゃないか」
久信は小さく頷いた。「今日、その橋が地上につながりました」
外へ出ると、春の風が頬を撫でた。
セーヌ川沿いの並木がざわめき、馬車の車輪が石畳を叩く。
世界は確かに動いている。
その中心で、一枚の協定書が静かに新しい国の形を描き始めていた。
パリの朝は雨で始まった。
細かな雨粒が石畳を叩き、通りの街路樹が薄い緑の膜をかけている。
昨日の陽光が嘘のように、空は低く沈み、霧がセーヌ川を覆っていた。
――だが、不思議と心は晴れていた。
フレシネ首相の「署名する」という一言は、鋼のような重みを持っていた。
久信はその夜、一睡もできなかった。
机に灯を置き、条文の仏文を何度も読み返した。
「文化は政治を超える」と言い切った自分の声が、まだ耳の奥で響いていた。
翌朝、公使館の廊下は早くも足音で満ちていた。
野村靖が公用車から戻り、濡れた外套を脱ぐと、静かに言った。
「フランス側、文化局の同意を得た。細部調整に入る」
金子が頷き、眼鏡を押し上げる。「では、条文の最終確認に入りましょう」
机の上に新しい紙束が並べられる。
窓の外では、雨のしずくが絶え間なくガラスを滑っていた。
――この音が、フランスのインクに似ている。久信はふとそう思った。
乾くのが遅く、だが一度乾けば、簡単には消えない。
「第一条、芸術家の相互派遣。五名ずつ、期間二年。」
伊東巳代治が読み上げ、筆先で細部を修正していく。
「費用負担は派遣元が行う。ただし特別な事情がある場合、相互に援助できる旨を加えるべきです。」
金子が「良い案ですね」と頷く。
「第二条、展覧会。仏側はグラン・パレを候補に、我が方は上野博物館。作品点数は二百対百五十で確定。」
「第三条、語学教育。」
野村が一文を指でなぞる。「“フランス語教師を日本に二名”の派遣先を確定させたい。」
「帝国大学と陸軍士官学校でよろしいでしょう」
「うむ。軍人にも語学は必要だ」
「日本語教師はソルボンヌ大学と東洋語学校。文化の交換だけでなく、言葉の相互理解を根に置く。」
久信は書き加える。「文化は橋だが、言葉はその礎石です。」
金子が少し笑う。「詩的ですが、正確ですな。」
「第四条、文化交流委員会――年一回、東京またはパリにて交互開催。」
「第五条、雑則。」
「通関、税関、検閲、滞在許可に関する特例規定。芸術家と教育者の通行を妨げない条項。」
静かなペンの音が部屋に続く。
紙の上に生まれる線が、まるで新しい川筋を描くようだった。
午前十時を過ぎたころ、雨脚が弱まり、光が差し始めた。
厚い雲の切れ間から、薄金色の光が机の端を照らす。
伊東がその光を避けるように紙を動かし、囁いた。「昨日より温かい。春が戻りました。」
野村が小さく笑った。「フランスの天気は政治のようだ。すぐに変わる。」
その言葉に、一同が穏やかに笑った。
だが笑いの下では、全員が同じことを考えていた。
――この協定を形にせねば、全てが幻になる。
午後、報告書の草稿が完成した。
金子が立ち上がり、原稿を読み上げる。
「報告:一八九一年四月十日、フランス共和国政府と会談。文化交流協定に合意。署名式は十七日を予定。第一条から第五条の骨子は別紙の通り。」
伊東が書簡袋を閉じる。
「この報告は一橋総理に直接送ります。電報は簡略に。“文化協定成ル”で十分でしょう。」
野村が「よろしい」と頷いた。
「この一文が歴史に残る。」
久信は静かに筆を置いた。
心の中で、塔の上から見た夜景を思い出していた。
あの灯の一つ一つが、人の意思であり、文化だった。
その光が今、条文として地上に降りようとしている。
翌日から、外務省との文書調整が続いた。
仏文と邦文を並べ、句読点の位置まで確認する。
“amitié”――友情。
“échange”――交流。
どちらも美しい音を持つが、翻訳すれば平板になる。
久信は慎重に言葉を選び、仏語と日本語が“互いに照らし合う”よう調整した。
「単語一つで印象が変わる。」金子が呟く。「文化とは、言葉の選び方そのものですな。」
伊東が頷いた。「外交文書に詩心を持つのは危険ですが、今回は例外かもしれません。」
野村がペンを置き、ゆっくり言った。
「理だけでは、国は続かん。理の上に情があるからこそ、制度が息をする。」
その言葉が部屋に深く沈み、誰も返さなかった。
ただインクの匂いと、紙の擦れる音だけが続いた。
数日後。
協定書の仏文・邦文両方が整い、装丁業者が届けられた二冊の赤革装丁本が机に置かれた。
革の表紙には金の文字が刻まれている。
《Accord d’échange culturel franco-japonais》
指先で触れると、金粉の粒がわずかに光を返す。
「美しい…」と伊東が呟く。
「文書でここまで美を出せるのは、さすがフランスですな」金子が言う。
野村が笑った。「ならば我々は、内容で勝とう。」
久信はその赤革を見つめながら、思った。
これは剣でも、条約でもない。文化という見えぬ武器だ。
相手を倒すためでなく、理解させるための力。
日本が今、初めて「美」で世界と交渉しようとしている。
午後、仏外務省からの伝達が届く。
「フレシネ首相、署名式を四月十七日午前十時に設定。」
短い文書に、確かな熱があった。
野村が読み上げた後、静かに言った。
「久信殿。これで準備は整いましたな。」
「はい。」
「よくやった。英国では機械を、フランスでは心を掴んだ。」
久信は微笑み、「両方あって初めて未来ですね」と答えた。
その夜、公使館の庭に出る。
雨は上がり、湿った空気に桜のような香りが漂っていた。
庭の隅には、日本から運ばれた石灯籠がある。
小さな火が灯り、風に揺れている。
――遠く離れた異国の地で、それでも日本の光が消えずにいる。
久信は立ち止まり、息を整えた。
明日からは記者への説明、当日の座席配置、記録用の撮影準備。
やるべきことは山ほどある。
だがそのどれもが、心を奮い立たせた。
「藤村殿」
背後から野村の声がした。
「文化とはな、書き換えられぬ文章のことだ。」
「……はい。」
「一度書かれた文化は、百年後でも読まれる。今日の協定は、その一行目になる。」
野村はそう言って、帽子を被り直し、ゆっくりと建物の中に戻っていった。
夜風が冷たい。
久信は空を見上げた。
雲が薄く裂け、エッフェル塔の灯が遠くに見えた。
その光は、昨日よりも柔らかい。
まるで塔自身が彼の努力を見守っているようだった。
「あと一週間だ」
彼は小さく呟き、胸ポケットの手帳を開いた。
そこには、あの日塔の上で書いた言葉がある。
> “La beauté lie les nations.”
> (美は国を結ぶ。)
インクは少し褪せていたが、意味は鮮やかだった。
翌朝。
報告書は東京へ電送された。
短く、簡潔に。
――「文化協定、成ル。」
その文が打たれた瞬間、電信室に小さな拍手が起きた。
長い沈黙を破った音だった。
久信はその拍手を聞きながら、机に肘をついた。
遠く離れた祖国にも、同じ瞬間に電鍵の音が響いている。
その想像が、彼の胸を温めた。
そして、春風が窓を揺らした。
紙の端がめくれ、机の上でふわりと舞い上がる。
その一枚が、光を受けて一瞬だけ白く輝いた。
――条文ではなく、未来の地図のように。
四月十七日の朝、パリは抜けるような青空だった。
前夜の雨で街路樹の葉は洗われ、太陽を映して翡翠のように光る。
馬車の車輪が濡れた石畳をゆっくりと鳴らし、日本公使館の馬丁が「ケ・ドルセーまで」と短く告げた。
空気は冷たく澄み、街の鐘が遠くで鳴った。
――今日が、その日だ。
外務省の前庭には、各国の旗が並んでいた。
トリコロールが朝風に揺れ、その隣には日の丸が掲げられている。
白と紅、青と白と赤――まるで対話するように風に翻る。
階段の下には記者たちが群れ、閃光を放つフラッシュが走った。
「これは歴史的な日です」と誰かが囁く。
久信は深く息を吸い、軽く一礼して階段を上った。
靴底が石を踏むたび、音が重なり、心臓の鼓動と同じリズムを刻んでいた。
扉の向こうには、広い大会議室が待っていた。
壁は金と白の装飾で覆われ、天井のフレスコ画には天使が舞う。
中央の楕円形のテーブルには、日仏両国の国旗が交互に並び、二冊の協定書が置かれている。
赤革の表紙、金の箔押し。
光を受けて、文字がわずかに輝いた。
《Accord d’échange culturel franco-japonais》――日仏文化交流協定。
周囲の席には、フランスの官僚たち、文化局の代表、各国の公使が並んでいた。
黒い燕尾服の列の中に、金色の軍服も見える。
香のような香水の匂いと、紙のインクの匂いが混ざり、空気が静かに重くなっていた。
十時。
扉が開き、フレシネ首相が入室した。
全員が立ち上がる。
「Monsieur le Premier ministre!」
呼びかけとともに拍手が起こる。
フレシネはゆっくりと歩み寄り、席につくと、穏やかな笑みを浮かべた。
「Aujourd’hui, nous signons un accord historique.」
(本日、我々は歴史的な協定に署名する。)
声は落ち着いているが、明確に響いた。
「La culture n’a pas de frontières. Elle relie les peuples au-delà des mers.」
(文化に国境はない。海を越えて人々を結ぶものだ。)
その言葉に、場内が静まり返る。
次の瞬間、再び拍手が湧き起こった。
久信は立ち上がり、フランス語で応えた。
「Le Japon valorise la culture française. Et à travers cet accord, nous offrons notre art, notre esprit.」
(日本はフランス文化を敬愛しています。そしてこの協定を通して、我々の芸術と精神をお届けします。)
声は震えていなかった。
しかし、胸の奥では何かが燃えるように熱かった。
署名の儀が始まる。
まず、フレシネがペンを取った。
羽根のような軽い音で、赤革の本が開かれる。
銀のペン先が紙を滑り、インクが走る。
「Charles de Freycinet」――流れるような筆致。
インクがまだ乾かぬうちに、紙が金の光を受けて青く光った。
続いて、久信が日本語版の協定書を開いた。
筆を持つ指先がわずかに震える。
――ここまで、長かった。
塔の上で誓った理想が、いま、紙の上で形になる。
「藤村久信」
筆先から黒い線が伸び、名前の終わりで小さく跳ねた。
その瞬間、カメラのフラッシュが連続して光る。
閃光がまるで雷のように室内を走った。
拍手。
だが久信の耳には、遠くの鐘の音のようにしか聞こえなかった。
その音の奥で、静かな声が聞こえる気がした。
――「文化は剣ではない。けれど、国を守る。」
師・藤村晴人の言葉だった。
フレシネが立ち上がり、久信に手を差し出す。
「C’est un moment historique, monsieur Fujimura.」
(これは歴史的な瞬間です。)
「Oui, monsieur le Premier ministre. Merci pour votre confiance.」
(はい、首相閣下。信頼に感謝いたします。)
両者が手を握り、笑みを交わす。
その光景を、各国の公使たちが静かに見つめていた。
カメラの閃光がまたひとつ、室内を白く染めた。
式の後、レセプションが開かれた。
隣室には軽食とシャンパンが並び、金の皿に果実が盛られている。
グラスの中で泡が立ち、音もなく弾けては消える。
久信はテラスに出た。
外の風がやわらかく、花の香りが漂う。
セーヌ川の向こうには、遠くエッフェル塔の先端が見えた。
空に溶けるように白く輝いている。
あの塔の上で誓った夢が、今、現実になった。
胸の奥に重く、しかし温かいものが沈んでいく。
「Félicitations, monsieur Fujimura.」
振り向くと、ドイツ公使が立っていた。
金髪に整えた髭、灰色の軍服。
「Glückwunsch, Herr Fujimura.」
(おめでとう、藤村殿。)
久信は軽く頭を下げ、「Danke schön. Ich spreche dreiunddreißig Sprachen.」
(ありがとうございます。私は三十三の言語を話します。)
ドイツ公使が驚いたように笑う。「Unglaublich! Sie müssen Berlin besuchen!」
――信じられない!ベルリンにも来てくれ!
「Ja, ich werde nächste Woche kommen.」
(はい、来週に伺います。)
「Wunderbar!」
握手のあと、公使は楽しげに去っていった。
風が吹き、桜色の花弁がひとひらテラスに舞い込む。
久信はその花を拾い、指先で軽く撫でた。
「次は、ドイツか……」
その言葉を口にした瞬間、胸の中で新しい頁が開かれる音がした。
夕刻。
外務省の鐘が鳴り、空が金色から藍色へと変わる。
パリの街灯が一つずつ点り、ガス灯の光がぼんやりと霞んでいく。
レセプションを終え、公使館に戻った久信は、誰もいない書斎の椅子に腰を下ろした。
窓の外では、セーヌの水面が光を映して揺れている。
遠くで楽団の練習音が聞こえる――トランペットとヴァイオリン。
どこか懐かしい旋律。
久信は静かに呟いた。
「……これで、ようやく“文化外交”が始まる。」
机の上には、今日の署名式の写真が置かれていた。
フレシネと握手する自分の姿。
その背後には、日の丸とトリコロールが並んでいる。
――剣ではなく、筆で結ばれた国と国。
心の中でそう繰り返す。
インクの染みのように、その思いがじわりと広がっていく。
夜。
窓を開けると、エッフェル塔が夜空に浮かんでいた。
無数の灯が縦に連なり、天へ伸びる光の柱。
風がそよぎ、書類の端がわずかに揺れる。
その光を見上げながら、久信はふと目を閉じた。
――あの塔の上で見た夢。
“文化をもって国を立てる”という誓い。
今日、その夢がひとつ形になった。
けれど、これは終わりではない。
橋は架けた。だが、その上を人々が渡らねば、橋はただの構造物だ。
芸術家たちがパリに来て、フランス人と語り、作品を交わす――
その日こそが、本当の完成だ。
野村がノックもなく部屋に入ってきた。
「久信殿、ドイツ行きの準備を。」
「はい。」
「次はベルリンだ。カプリヴィ首相、そして参謀本部を訪れる。」
「文化の次は、理と組織の国ですね。」
「そうだ。……しかし、今日の成功は大きい。日本の名がパリで尊敬を得た。」
「文化は剣より強い――証明できました。」
野村が微笑んだ。「その言葉、父上に報告しておこう。」
「お願いします。」
野村が去り、部屋に静けさが戻る。
窓の外では風が吹き、灯がわずかに揺れる。
久信はペンを取り、日記を開いた。
> 四月十七日、日仏文化交流協定、署名。
> フランスは文化を尊び、日本もそれに応じた。
> 文化は政治の下ではなく、上にある。
> 今日、橋を架けた。
> あとは人が渡るのみ。
書き終えると、ペン先から落ちた一滴のインクが紙に滲んだ。
その黒い染みが、まるで小さな花のように見えた。
久信は立ち上がり、窓辺に立つ。
エッフェル塔の光が、夜空にまっすぐ伸びている。
彼はゆっくりと呟いた。
「日本とフランス――二つの光が、ひとつになった。」
その瞬間、風が吹き込み、机の上の紙が舞った。
その一枚が、塔の灯を受けて淡く光る。
――文化とは、燃えぬ火である。
久信は微笑んだ。
「次はドイツだ。理の国へ、心を運ぼう。」
外の鐘がまた鳴り、音が夜のパリに溶けていった。




