37.5話:たまごのちから
空が白み始めたころ、水戸城下の北、小高い丘の一角に、ひときわ早く人影が現れた。
風に揺れる草をかき分け、軽やかな足取りで現れたのは晴人だった。白木の杭を数本抱え、腰に縄を巻いている。どこか嬉しそうな顔で、足元の地面を確かめながら歩を進めていた。
「……よし、この辺りなら陽当たりも水も申し分ない」
背後から弥太郎と河上彦斎が追いついてくる。弥太郎はやや息を切らし、河上は早朝からの肉体労働にうんざりした顔で首をかしげた。
「……本当にやるんですか? この場所に“鶏小屋”を……」
「やるとも。本気だよ、河上」
晴人は杭を地面に刺し、手製の縄尺で距離を測りはじめた。
「卵は完全な蛋白源だ。調理の手間も少ない。保存も効くし、何より――子どもたちや妊婦、病人の身体を直接助けてくれる」
「そんなこと言われても……」
河上は、鞘ごと刀を肩に担ぎながら、露で湿った足元を見下ろした。
「俺は剣で人を守ると思ってたが……卵で人を救えるなんて、思いもよらなかった」
「それは同じことさ。剣で守るのは“今”の命、だが卵で守るのは“これから”の命だ」
晴人は杭を打ち終え、空を仰いだ。朝日が東の山の稜線から差し始めていた。
「人を殺さないために剣を握るなら、人を病ませないために卵を使うのも、立派な戦い方だよ」
河上は、その言葉に目を伏せ、ゆっくりと頷いた。
「……卵で、戦うか。なるほど」
「晴人様」
弥太郎が近づき、手にした図面を差し出す。そこには、簡素だが実用的な養鶏小屋の設計図が描かれていた。二間四方の建屋に、囲いと止まり木、わら床と給水桶。すべて現地調達可能な材料で組まれている。
「地元の農家が“手間がかからない”ように考えました。小屋一つにつき鶏五十羽。三日で三十個以上の卵が取れる見込みです」
「よくやった。これなら農家にも無理がない」
晴人は目を通し、満足げに頷く。
「まずは三軒の農家に声をかけて、各々が鶏小屋を持つ。そして、得られた卵の一部を学校と養生所へ納めてもらう」
「……対価は?」
「もちろん渡す。現物支給で構わない。“卵で命をつなぐ”仕組みを、こちらがつくる」
それを聞いた河上が眉をひそめる。
「だが、藩の予算は……」
「使わないよ」
晴人は微笑む。
「この試みは、“州”の中の小さな仕組みだ。上からの命令ではなく、横のつながりで回す。町役人が集金や配達の手配をし、学問所が飼育記録を管理する。鶏が病気になれば、養生所の医者が見に行く。……すべて、連携と信頼で成り立たせる」
弥太郎が思わず漏らす。
「……まるで、“州の循環”そのものですね」
「うん。これは“州”の原型だ。どんな改革も、大げさに始める必要はない。たった一羽の鶏からでもいい」
その頃――
城下の南、川沿いの畑の一角では、ひとりの農夫が、古くなった物置小屋を解体していた。
「こんなもんで、卵が本当に取れるのかいな……」
農夫の妻が心配そうに覗き込む。だが、男はニヤリと笑って答える。
「でもよ、晴人様が言ってたろ。“卵は刀より強い”って。だったら一丁、やってみるさ」
「まったく……妙な世の中になったもんだねえ」
「でも悪くないぜ。……たまごで人を救うなんざ、粋じゃねえか」
こうして、水戸藩内の三箇所に、小さな養鶏小屋が次々と立ち始めた。
鶏は、郡内の行商人から手配され、初めは十羽ずつの小規模な飼育から始められた。
餌は米ぬかと野菜屑、時折手に入る小魚の干し身。
世話は子どもたちや農家の年寄りが担い、卵は一日おきに町役所を経由して運ばれる。
最初に卵が届いたのは、水戸町学問所だった。
木箱に詰められた卵が、教師の手で配られ、子どもたちは手のひらで割れないように大切に抱えた。
「これが……本物の卵?」
「食べていいの?」
「うん、今日は特別に“卵のおじや”を出すって!」
その笑顔は、空腹を満たす喜び以上に、“誰かに思われている”という温もりを語っていた。
同じ頃、養生所では熱を出した妊婦に、卵入りの重湯が運ばれた。
「……ありがとう、ございます……」
弱々しい声で礼を述べた女の顔に、ほのかな血色が戻る。
その場にいた佐野常民が呟いた。
「晴人様の剣は、もはや鋼ではない。……民に届く、たった一滴の栄養、それが剣に勝る力となる日が来るとはな」
その声に、河上彦斎が隣で頷いた。
「……これは、剣ではなく、民を救う“一滴の力”」
彼の眼差しは、遠く鶏の鳴く小屋の方を向いていた。
それから一週間――。
水戸の町に、小さな変化が広がっていた。
まず最初に気づいたのは、城下町の学問所に通う子どもたちだった。
これまで空腹を抱えたまま教室に座っていた子どもたちが、朝から明るい声を上げるようになったのだ。
「先生! 昨日も卵、食べたよ!」
「今日はね、家で“ゆでたまご”作ってもらったの!」
教師たちもまた驚いた。わずかな栄養の違いが、これほどまでに子どもたちの表情を変えるとは思いもしなかった。
「卵だけで……こんなに元気になるのか」
ある女教師が呟くと、隣にいた年配の教頭が頷いた。
「いや、違うな。ただの栄養じゃない。“自分たちは大事にされてる”という感覚が、心の芯を支えているんだ」
その言葉は、まさに晴人の改革の本質を突いていた。
一方、町役所では、卵の集配を担う若手の役人たちが奔走していた。
「今日は北の農家から十六個、南から二十二個届きました!」
「学問所へ三十個、養生所へ二十個……よし、間に合うな!」
まるで戦場の伝令のように、彼らは馬も使わず、徒歩で軽やかに町を駆け抜ける。
卵は高価な贅沢品とされていた時代。
だが今、その卵が“人の命を支える贈り物”として機能し始めていた。
「……これ、うちの鶏が産んだやつです」
ある農家の少年が、配達を終えた役人に頭を下げて言った。
「ぼく、鶏の世話が好きになりました。……みんなが喜んでくれるから」
その素朴な言葉に、役人は心を打たれ、笑顔で背を叩いた。
「お前の卵が、誰かの力になってる。……立派な仕事だぞ」
養生所では、卵を使った重湯や“たまご粥”が常食として採り入れられた。
特に栄養の足りない妊婦や、働き盛りの町人たちが病に倒れた際の回復に効果があり、評判は瞬く間に広がった。
「おい、あの卵はどこでもらえるんだ?」
「うちは西町の農家と提携してるらしい。町役所に名前を登録しておくと、順番に配ってくれるそうだ」
こうして、農民・役人・医者・教師――異なる立場の者たちが、“たまご”という一点でつながっていった。
そして晴人は、この動きをさらに制度化するため、ある提案を弥太郎とともにまとめていた。
「“たまご協定”とでも名付けようか」
「また洒落た名前を……しかし、内容は実に実務的ですな」
晴人が用意した協定の骨子はこうだ。
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【たまご協定:草案抜粋】
1.養鶏農家は、収穫卵のうち三割を町へ納め、残り七割は自家消費または売買自由。
2.卵の配布先は、学問所・養生所・乳幼児のいる家庭を優先とする。
3.小屋の設置や修繕は町役所が補助。病気の鶏には養生所が診療協力。
4.子どもたちに鶏の世話を通じて“命の教育”を行う場を提供する。
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「これは……まるで一つの“小さな国”の仕組みですな」
弥太郎が目を丸くしながら感嘆すると、晴人は微笑んで頷いた。
「州の原型を、こうやって増やしていくんだよ。一つひとつの“命の流れ”を意識して」
弥太郎が目を細めて、静かに呟く。
「卵一つで、ここまで見据えておられるとは……」
「たかが卵。されど卵、だよ」
その日の午後、晴人は再び町を歩いていた。
路地裏の石畳の上に座る老婆に声をかけ、商店の前で遊ぶ子らに手を振り、小さな養鶏小屋を見回っては笑顔を浮かべた。
町のあちこちに、“コッコッ”という鶏の鳴き声が響いていた。
それは警戒でも怒りでもなく、まるで――
「……ここに生きてますよ」
そう語るような、優しい生命のリズムだった。
やがて“たまご協定”は、水戸の町だけでなく周辺の村々にも波及し始めた。
きっかけは、町の診療所に訪れた山村の妊婦だった。
「……こっちの卵は、薬みたいに身体に効くって、聞いたもんで」
痩せた頬、浮腫んだ足取り。産月が近いにもかかわらず、栄養不足は明らかだった。
養生所の女医が静かに頷くと、奥から柔らかに炊かれた“卵粥”が運ばれてきた。
その場にいた誰もが気づいた。彼女の目に、涙が浮かんでいたことに。
「……こんなに、優しい味は、久しぶりだ……」
その一言は、偶然居合わせた町の記録係の筆により、“たまご帳”に記されることになる。
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【たまご帳:第三項】
「命は、薬ではなく、手渡された“やさしさ”で立ち上がる」
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この出来事がきっかけとなり、晴人は方針を一部見直すことになる。
「周辺村からも受け入れを開始しよう。支援が集中しても、今の水戸には“与える力”がある」
だが、それは同時に、制度のほころびも生み始めていた。
ある夜、晴人の元に一通の訴状が届いた。
差出人は、水戸南部の古くからの農家。
《なぜ卵が隣の村にまで渡るのか。うちの子らには届いていない。まず城下を満たすべきではないか》
晴人は黙って読み、机に手を置いたまま、しばし沈黙した。
やがて静かに口を開く。
「……正論だ。ただ、それでは“火”が広がらない」
河上が、横でそっと告げる。
「ご自分の理想が、民の不満に変わる瞬間が、最も厄介です」
晴人は頷いた。
「だからこそ、今は“分け合いの仕組み”が必要だ」
そして翌朝には早速、再配分の仕組みが町役所で告示された。
・優先順位の明示(妊婦、乳幼児、高齢者)
・配達の透明性(記録簿の整備と閲覧)
・農家による直納申告制
これらにより、卵がどこに、いくつ届いているかが見える化され、民の不安は徐々に和らいでいった。
だが、それだけではなかった。
“たまごの価値”が社会に浸透するにつれ、思わぬ連鎖が生まれていたのだ。
まず最初に動いたのは、菓子屋だった。
「卵を使った“ふんわり焼き”を出すよ。名付けて『福玉焼』!」
これが思いのほか町娘に好評を博し、“たまごスイーツ”は一種の流行となった。
続いては寺子屋。
「たまごの絵を描いてごらん。これが、みんなの命を守っているんだよ」
絵師を志す子どもたちがこぞって描いた“卵と鶏”の絵は、やがて町役所の掲示板に飾られることになった。
ある男は、そんな絵の前で立ち止まり、しばらく目を細めていた。
「剣ではない力で、町が動いてる……そういうことか」
その背中を見た通行人が囁いた。
「聞いたか? あれ、元浪士だってよ。今は鶏の世話してるらしいぜ」
そしてその噂は、やがて晴人の耳にも届いた。
河上が報告書を閉じて言った。
「浪士上がりの者が、三人。元武家が、五人。農家と共に鶏を飼い、町の納卵に参加しています」
晴人は小さく笑い、呟いた。
「剣を置いて、卵を運ぶか……。悪くないな」
その言葉に、傍らの弥太郎がふと問いかけた。
「殿、いや、晴人様。これも“州構想”の一端と?」
晴人はわずかに首を振り、静かに答えた。
「構想の外だよ。だが、構想を育てる“土”にはなる」
やがてその日の夕刻、養生所に一通の手紙が届いた。
《卵を届けてくれてありがとう。わたしは今日、赤ちゃんを産みました》
添えられていたのは、小さな手形と、親指の印。
それを見た女医は、涙ぐみながら、それを“たまご帳”の最後の頁に挟んだ。
「命が、命を繋いだのね」
たまごのちからは、すでに町の隅々に根を張っていた。
朝露が残る水戸の町。石畳に鶏の足跡が並ぶ。
いつものように、養鶏場の小屋からは「コッ、コッ」という柔らかな鳴き声が響いていた。鶏たちは、日ごとにこの町の風景に馴染んでいるようだった。
その日、晴人は久しぶりに農民たちとの懇談会に姿を見せた。
場所は、町はずれの納屋を改装した集会所。木の匂いがまだ残るその建物の中で、男たちが直に藁座布団を敷いて並んでいた。
「そちらの農場では、もう一日あたり何個くらい採れますか?」
晴人の問いかけに、若い農夫が胸を張って答える。
「二十羽で、一日十五から十八個ほどです。最近は餌も工夫して、砕いた貝殻を混ぜてます」
「ほう……殻の質を高める工夫ですね。素晴らしい」
隣にいた年配の農夫が、すこし遠慮がちに口を挟んだ。
「ただ……どうにも、配達の手間が大きくてのう。人手が……」
その言葉に、周囲の数人が頷いた。
「水戸の町まで行くだけで、半日かかります」
「農閑期ならともかく、田植えと重なる時期は厳しいです」
晴人は頷き、用意していた巻物を広げた。そこには、町と村を結ぶ“卵の道”が記されていた。
「現在、各農家の負担が偏っている。そこで、“鶏舎維持協会”と“配達支援隊”の設立を提案したい」
配布された簡易な印刷物には、以下のような構想が書かれていた。
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【鶏舎維持協会】
・各農家が年一回納入する“卵基金”で共同購入する飼料、修繕材料を確保
・傷病鶏の診察は養生所が出張対応
・繁殖指導や新規農家支援も含む
【配達支援隊】
・町から支給された“軽籠車”と馬により、村々を順に巡回
・卵を集配し、町の各所に届ける
・人手不足の村には“卵徴用制度”で若者が一定期間補助に入る
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農民たちは最初こそ眉をひそめていたが、説明が進むにつれ、表情が和らいでいった。
そして一人が、ぽつりと呟く。
「……まるで、大名の物流みてえだな」
その言葉に晴人が笑い、返す。
「武士が刀で守る国があるなら、鶏で支える町があってもいいだろう?」
その場に、笑いが広がった。
その夜、晴人は河上とともに水戸城の一室で地図を広げていた。地図には、町を中心とした半径十里の村々が赤い印で囲まれていた。
「ここまで養鶏が広がれば、栄養の網は十分に張れます。ただ――」
河上は、一本の筆で地図の端をなぞる。
「県西部、山間地の寒村は、まだ難しいかと」
晴人は頷くと、奥の棚から一枚の資料を取り出した。
「山間部には、“移動鶏舎”を導入する」
「……動く鶏小屋、ですか?」
「そうだ。風車を使って簡易な温室を作り、一定期間滞在させる。住民が世話をすれば、やがて地元に残すこともできる」
河上が小さく息を呑んだ。
「その発想は、まるで……“漂う民の生命線”」
晴人は筆を置き、静かに言った。
「命の流れを止めない。そのためなら、制度も、道も、形も変えていい」
その数日後、“たまご支援所”という木札が新たに掲げられた。
そこでは町民が卵の追加寄贈を行い、必要とされる村へ届ける橋渡しの役割を担う。
特筆すべきは、その場所で働くのが町の孤児たちだったことだ。
「これ……全部、ぼくらが持ってくの?」
「おぅ。だけど割らねぇように気をつけろよ」
子どもたちは竹の天秤棒に籠を括りつけ、ふたり一組でバランスを取りながら卵を運んでいく。
その姿に、通りの老婆が手を合わせる。
「ありがとねえ……」
養鶏――それは、命を育てるだけでなく、誰かの役に立つ実感を、年齢や身分を問わず与えていた。
そして、その流れの最先端に立つ者が、町の礎を築こうとしていた。
「命の仕組みを回すのは、武力じゃない。知恵と、分け合いの心だ」
晴人はそう語りながら、養鶏場の片隅に佇む一羽の老鶏を見下ろした。
その鶏は産卵を終え、静かに羽を休めている。
「この子が産んだ卵が、町の子を救った。……それだけで、十分だ」
その言葉は、風に乗って遠くまで届くようだった。
晴人が灯したのは、剣ではない。火でもない。
“命をつなぐ仕組み”――その象徴だった。
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