37話:帰還、そして決意
夏の朝。水戸城の東を流れる那珂川の川面には、やわらかな陽光が差し込んでいた。
その日、政庁の回廊に、三日ぶりの足音が響いた。
――晴人が、戻ってきた。
まだ足取りは万全とはいえなかった。顔色にも疲労が残り、歩くたびに袴の裾が重く揺れる。それでも、背筋は真っ直ぐに伸びていた。傍らを歩く弥太郎は、何も言わずにその歩みに合わせていた。
「無理はなさらず……必要な文書は、こちらにまとめてあります」
「ありがとう。だが……やはり、自分の目で確かめたい」
晴人は穏やかに笑った。けれど、その瞳には確かな光が宿っていた。
政務庁の襖が静かに開く。
中では、佐野常民が筆を走らせ、津田真道が帳簿を整理していた。報告に目を通していた武市、河上、村田、近藤の姿もあった。
一瞬、時が止まったかのように、全員の動きが止まった。
「……戻られたか」
佐野が立ち上がり、静かに頭を下げる。
「晴人様、回復されたと聞いてはおりましたが、まさかここまで歩いておいでとは」
「まだ本調子ではありませんが……寝ているばかりでは、皆に顔向けできません」
晴人は小さく息を吐き、文机の前に腰を下ろした。
その瞬間、政務庁の空気が、少しだけやわらかくなった。
「……帳簿を見せてください。進捗を確認したい」
「こちらです。配給支援、仮住居の進行、巡察日報、それに……」
津田が手早く書類を差し出し、弥太郎がその順を揃える。
晴人はそれを一枚ずつ丁寧にめくり、時折、眉をひそめ、時折、小さく笑った。
やがて最後の書類を閉じると、しばし沈黙した。
「……正直、驚いています。私が倒れてから、これほどのことが進んでいたとは」
その言葉に、誰も返すことはできなかった。
ただ、近藤がぽつりと呟く。
「驚いたのは……俺たちも、です。あんたが倒れて初めて、自分が何を見ていたのか、分かった気がする」
武市が小さく頷く。
「“頼るのではなく、担う”――そういう空気が、町に広がり始めてる」
「……俺がいなくても、町は動く。……それが、どれだけの救いか……」
晴人は小さく目を伏せ、震える手で頬を押さえた。肩がかすかに揺れていた。
「皆が……皆が、歩いてくれた」
目頭が熱くなるのを隠すように、袖で軽く目を拭う。
「――ありがとう。本当に、ありがとう」
その場にいた誰もが黙って頭を下げた。
その後、晴人は政庁の裏庭に出て、ひとときの静けさを味わった。
蝉の声が遠く響き、やわらかな風が書院の瓦をなでる。
そして――その風の中、書院の向こうから歩いてくるひとりの影があった。
長身、痩躯、鋭い眼光。長州から来た医師にして学者、村田蔵六である。
「ようやく、お目にかかれましたな。晴人殿」
「村田先生。……ご足労をかけてしまいました」
「いやいや、落ち着かん性分でしてな。町の空気が変わったと聞けば、確かめたくもなりましょう」
穏やかに笑う村田に、晴人も腰を上げて向き合う。
しばしの沈黙ののち、晴人は目を細め、ゆっくりと語り出した。
「――私には、ひとつ構想があります」
「ほう」
「水戸の城下、農村、漁村、鉱山、それらを“ひとつの体”として捉える。……人々が、自らの役目を持ち、支え合い、横でつながる共同体として――“常陸州”という名の、自立した運営単位にするんです」
村田が目を細める。
晴人は続けた。
「藩が支配し、庶民が従う時代では、もう動きません。むしろ、“州”が自らを治め、連携し、緩やかに国を構成していく。その方が、外圧にも、内乱にも、柔軟に対応できます」
「“常陸州”か……。つまり、“藩”ではなく、“自治のまとまり”という発想じゃな」
「はい。そしてそれは、水戸だけにとどまらず――いずれ、常陸全域に広げたいと考えています」
「夢のような構想だが……」
村田はにやりと笑った。
「……君が語ると、夢が地に足をつける」
風が吹き抜け、庭の木の葉が揺れた。
水戸の空は、まぶしいほどに青かった。
庭の樫の葉が、夏の風にゆれる。
風の合間に、まだどこかで蝉が鳴いていた。
水戸城・書院の一隅。
晴人と村田蔵六は並んで腰掛け、しばし言葉もなく景色を眺めていた。町のほうからは、木槌の音と子どもの笑い声が混ざり合って届く。
「なるほど、“州”というわけか……」
村田がゆっくりと口を開いた。
「上意下達の封建から抜け出して、自律と連携で成る自治体か。……やはり君は、常陸を“藩”としてではなく、“社会”として見ておる」
「はい。藩や家の名のもとに統制するのではなく、民が主役となって機能するまとまり。それが“州”です」
晴人の声には、静かな確信があった。
「州の中では、教育も、治安も、流通も、医療も、すべてが地域ごとに完結する。だが、それぞれが独立して暴走するのではなく、互いに学び、結びつく。……私はそういう形を作りたい」
「……中央の命令を待たずとも、人が自ら考え、動き、つながる共同体……か」
村田は腕を組んだまま、小さくうなずいた。
「そのために、まずは水戸を州の“雛形”にする。農村と城下を一体として扱い、教育と医療と職人の技術を循環させていく。その準備を――いや、もう動き出しています」
「動き出している、か」
蔵六の眼光が、やや鋭さを増した。
「だが、君は知っているはずだ。こういった“州構想”は、既得権益と真っ向からぶつかるぞ」
「承知しています。武家の序列、役職の特権、城下と郷村の断絶。……どれも、長年の慣習に根差している」
晴人はふと、ゆるやかに目を細めた。
「でも、それを黙って守っていても、もう生き残れません。日本全体が“問い直されている”んです」
村田は何も言わなかった。ただ、風に髪を揺らしながら、じっと晴人の顔を見ていた。
「――構想が素晴らしいのは分かる。だが、民はついてこれるか?」
「逆です」
晴人はすぐに答えた。
「民は、もうすでに動き始めています。災害の復興を通じて、上からの命令を待つのではなく、自ら考え、助け合い、支え合う姿が芽生えた。私はそれを“州の兆し”と呼んでいます」
「“兆し”……」
村田が口元をわずかに綻ばせた。
「水戸においては、“上下”の距離がまだ近い。だからこそ、こうした構想が育つ素地がある」
「そうです。そして、この常陸という地の特性もまた、構想の鍵になります」
「常陸の特性、とは?」
晴人は立ち上がり、庭を見渡すように片手を広げた。
「広い平野、那珂川の水運、沿岸の漁港、鉱山、そして水戸学に育まれた思考の土壌――。ここは、“封建”と“改革”のせめぎ合いを内包している。つまり、変革の火種に最適な地なんです」
「なるほど……たしかにこの地は、徳川斉昭のころから“異端”の香りを放っておった」
村田が苦笑するように言った。
「だが、仮にこの“常陸州”が成立したとして……それを周囲はどう見る?」
「きっと、敵視するでしょう」
晴人の答えは、迷いがなかった。
「“上に従う者の中で、自ら考えて動く者は浮く”。でも、浮いた者がいなければ、誰も先を切り拓けない」
「では、君は自ら“浮く”つもりか?」
「はい。……私は、旗になります。誰かが“変わる方法”を示さなければ、誰も動けない。ならば、私が動いて見せます」
沈黙が流れた。
その静寂のなか、どこからか、町の子どもたちの笑い声が届いてきた。木槌の音、馬の足音、遠くの風鈴の音。
それはどれも、町が“自分の足で歩き出している”ことの証だった。
やがて、村田がそっと立ち上がる。
「晴人殿。――わしはこの構想を、ただの空論とは思わぬ。むしろ、これからの時代にこそ必要な“先触れ”だと感じている」
「ありがとうございます」
「だが、気をつけなされ。旗を立てた者は、最初に風に叩かれる」
「ええ。風が痛いのも、倒れたからこそ分かりました」
晴人は、少しだけ笑った。
その笑みに、村田もまた微かに口元を緩めた。
「……ならば、せいぜい旗を折らぬよう、体を大事にすることですな。わしも医者の端くれ、倒れたら容赦なく叱りますぞ」
「それは怖いですね」
ふたりは笑いあった。
陽が高くなっていた。城の上空には、ゆっくりと雲が流れていた。
晴人の視線は、その雲の先を見据えていた。
その夜、水戸城の政庁書院では、ろうそくの火が静かに揺れていた。
晴人は、ふたたび政務室の文机に座っていた。数時間前に村田蔵六と交わした対話は、まだ胸の奥で熱を保ち続けていた。
――“常陸を一つにする”。
それは単なる地理的な統合ではなく、「民が共に考え、支え合う社会の形」を目指すものである。
そしてそれを実現するためには、“志を同じくする仲間”との合意が不可欠だった。
障子の向こうから、静かに足音が近づく。
「入ってくれ」
声に応じて襖が開くと、弥太郎、津田真道、佐野常民、そして武市半平太と河上彦斎が顔を見せた。全員、簡素な羽織に着替え、昼間よりも表情は引き締まっている。
「お呼びとのことでしたが」
佐野が口火を切ると、晴人は頷いた。
「来てくれてありがとう。……実は、君たちに伝えておきたい“構想”がある」
その一言に、部屋の空気が少し変わる。
晴人は膝の上で手を組み、言葉を選ぶように語り始めた。
「この三日間、私が床に伏している間に、町は動き、民は考え、誰かの指示がなくとも、自らの手で事を進めていた」
「……はい。民も、役人も、皆が“繋がる”ことに迷いがなくなってきているように思います」
津田が小さく頷く。
「その様子を見て、私は確信した。……いまこの常陸には、“藩”という枠組みでは捉えきれない新しい社会の萌芽がある」
晴人はすっと視線を上げた。
「私はそれを、“常陸州”と呼びたい。藩政の上下関係ではなく、各村・町・産業・知識が、相互に連携し補い合う、新たな“まとまり”としての州だ」
静まり返る空間。
武市が、ゆっくりと眉をひそめる。
「……つまり、水戸藩という幕府の一部から、自律した共同体へ――ということですか?」
「そうだ。表向きは藩に従いながらも、実際には“州”として機能し、動いていく。決定権も、流通も、教育も、地に足のついた場所でこそ生まれるべきだ」
晴人の声は抑えめだったが、内に火を宿していた。
「その第一歩として、私は“常陸州整備構想”を、藩政の中に組み込みたい」
「……“構想”?」
今度は佐野が首をかしげた。
晴人はすっと立ち上がり、文机の脇から一枚の紙を取り出す。
そこには、手描きの簡素な図があった。常陸の地図。そこに、点と点を結ぶ線が引かれ、農村、町、港、学問所、鉱山、工房、巡察路――すべてが、網の目のように結ばれていた。
「これは……」
佐野が目を見開く。
「この図は、従来の“村請制”でも、“藩の直轄地”でもない。分散した資源と人材を、ひとつの州としてまとめ上げる図です。つまり“常陸州モデル”」
「中央に寄らずとも、各機関が連携すれば自走できる……まるで、一つの身体のように」
津田が呟いた。
「教育は学問所に任せる。医療は佐野殿と若い医者たちに。産業は大工や職人、農村のリーダーが担う。そして町役人たちは、互いに情報を回し合う――“上からの命令”ではなく、横の連携を軸に据える」
「……けれど、それは武家の序列を崩すことにもなりませんか?」
河上が静かに言った。
「表面上は維持する。武士の威厳を守らねば、外部から攻め込まれる隙になる。だが、実態としての運用は、もう“上意下達”に頼らない。見せかけの身分制度ではなく、実務で動く体制に切り替える」
「なるほど……表は“藩”、中身は“州”。二重構造を育てるわけですな」
佐野が小さく笑った。
「だがその育て方を誤れば、ただの“内乱の火種”にもなりかねん」
武市が低く言う。
「その通りです。だから私は、“急ぎすぎない”ことを徹底します」
晴人は、手元の地図を見つめながら言った。
「すべてを一度に変えるのではない。だが確実に、“火”を消さず、“道”を踏み固める。そのために、私たちがいる」
静かに、全員の視線が一点に集まった。
やがて――。
「……面白い」
津田が笑った。
「空論かと思いきや、足場の計算がある。ならば、わたしは帳簿の構造を“州運営”に合わせて再編します」
「私は学問所の再整備を進めよう。町の若者を集め、農村にも出張所を設ける。教育が人を繋ぐ“脊髄”となるように」
佐野もまた、すでに動き出していた。
「近藤や河上には、巡察路の再設計と“町ごとの連絡役”の設置を頼みたい。誰かが困ったとき、誰かがすぐに駆けつける。そんな体制を築くには、現場の動きが不可欠だ」
「任せてくれ。……なんか、やっと面白くなってきたな」
近藤が笑い、河上が小さく頷いた。
武市だけが、少しだけ沈黙していた。だが、やがて低い声で言った。
「……道が間違っていない限り、俺はついていく。ただし、“火種”は消さずに見ておくぞ」
「ありがとう。……君がいてくれるなら、私はきっと、旗を振り続けられる」
その言葉に、ほんの一瞬、誰もが笑った。
ろうそくの炎が、揺れながら静かに灯っている。
その光が、机上の図と、そこに集まる人々の瞳を、温かく照らしていた。
常陸の朝は、蝉の声と共に始まった。
真夏の陽光が、城下町の瓦屋根を赤く照らしながら昇っていく。
水戸城から伸びる通りの先、町役場の一角に、小さな人だかりができていた。
その中心では、若い役人が木札を壁に打ちつけている。
「“町組合伝令所”? なんだいそりゃ」
八百屋の親爺が顎を突き出して尋ねると、隣の魚屋が目を細めた。
「なんでも、町と町をつなぐ“連絡役”を置くらしいぜ。何かあったら、ここに来ればいいってさ」
「連絡役? お上に物申せるってわけか」
「まあ、そうなるな。書き付けてもいいし、直接相談してもいい。代わりに、町の側も、情報を共有する義務が出るらしい」
「ふうん……なんだか面倒だが……」
そこまで言って、八百屋はふと目を伏せた。
思い出されたのは、あの豪雨と地震の夜。避難先も分からず、誰を頼ればいいかも分からなかった、あの心細さ。
もし、あのときこの“伝令所”があったなら――。
「……いや、悪くないかもしれねえ」
ぽつりと漏らしたその声に、魚屋が笑った。
「だろ? 晴人様は“誰も置き去りにしない町”を作るって言ってたからな」
その言葉が、じわじわと周囲の人々にも染み込んでいく。
別の通りでは、大工の棟梁が若い衆を前に地図を広げていた。
「これが“新巡察路”の図面だ。巡回の兄さんらが、昼と夜、交代で見回りに来る。火の元と病人、孤独な年寄りの様子も見てくれるそうだ」
「へえ、なんか“町の身体”って感じだな」
「そうよ。頭だけじゃなく、手足もちゃんと動く町さ」
棟梁が得意げに言うと、若い衆が笑いながら汗を拭った。
学問所の一室では、津田が新しい帳簿様式の講義をしていた。町役人や村の庄屋が並び、慣れぬ筆に苦戦しながらも、必死に話を聞いている。
「“村の財”は村だけのものではありません。“州”として使うとき、誰が、どう記録するか――それが、この帳簿です」
「ですが津田様、“州”というのは、つまり……藩の外、という意味ですか?」
ある中年の庄屋が尋ねた。
津田は眼鏡を押し上げながら静かに答えた。
「表向きは藩の下にあります。しかし、実際に動くのは“人”です。誰がどこにいて、何を見て、何を届けるか。それを記録するこの帳簿こそが、州の“背骨”になるのです」
会場がしん……と静まり返る。
その瞬間、役人も百姓も、同じ“構想の中の歯車”ではなく、“構想の一翼を担う存在”として位置づけられたと感じていた。
その夜、政庁の一室――
晴人はひとり、地図の前に立っていた。
“常陸州構想”と銘打った紙には、手描きの線が少しずつ増え始めている。
町組合伝令所。新巡察路。学問所分室。
構想が、確かに「絵空事」から「動く図」へと変貌を遂げようとしていた。
そこへ、弥太郎が茶を運び入れてきた。
「晴人様、少し休まれては。明日はまた視察が入っております」
「ありがとう。……でも、あと少しだけ」
晴人は目を細めながら、地図に向き直った。
「ここに、もうひとつ“点”を足したい。……港の分室と、農村への医療小屋を結ぶ中継所。物資と情報の交差点だ」
「中継所……ですか」
「“結び目”がなければ、州は網にならない。点ではなく、線を。線ではなく、面を」
ふと、晴人は窓の外を見やった。
夜空に星がひとつ、またひとつ瞬いていた。
「弥太郎。……俺はこの構想が、いずれ“常陸”だけに留まらなくなると感じてる。……下総、上野、会津……この思想は、“国”の骨組みになりうる」
「……それは、やがて“国”を変えるということですか?」
晴人は静かに頷いた。
「いずれ、“藩”という枠組みは終わる。“徳川”の名も、永遠ではない。……その時、人々が寄るべき場所が必要になる。血筋でも刀でもない、“共に支え合う構想”が」
弥太郎は何も言わなかった。
ただ、主人の手元を見つめながら、指先に宿る熱をじっと感じていた。
「――動き出したな、本当に」
晴人の声が、静かに部屋に響いた。
「まだ火種だ。だが……この火は、もう誰にも消せない」
彼の視線は、地図の中に描いた細い線ではなく、
それを支える“人の意志”のほうを見ていた。
そして彼は、筆を取り、地図の余白に小さく書き加えた。
《常陸州計画、第一段階:人の輪と線》
その字は、小さく、だが確かに強く書かれていた。