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【篤姫と結婚した公務員】水戸藩から始まる幕末逆転録 ~公務員が理と仕組みで日本を救う~  作者: 一条信輝


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367話:(1892年・2月)鋼の胎動 ― 海に息づく理念 ―

潮の匂いが、冷たい風に乗って鼻を刺した。

 灰色の海。波打ち際には油の薄膜が浮かび、鈍く光を反射している。

 桟橋の上で、藤村晴人はゆっくりと歩を止めた。

 六十七歳の体はまだ背筋が伸びていたが、その眼差しは長年の政務に磨かれた鋭さと、時折滲む疲労を隠せない。


 眼前には、横須賀軍港の老朽艦が並んでいる。

 船体には赤錆が走り、黒煙を吐く煙突はまるで病んだ肺のようだった。

 蒸気機関がひとつ、ひとつと止まり、海面に静けさが戻る。

 風が抜けると、甲板に積もった塩が白く粉を吹いた。


 藤村(内心):

 「この海の匂いは、遅れの匂いだ……」


 わずか数か月前、陸の演習場では鉄の轟音が鳴り響いていた。

 有坂式小銃と新型砲。日本は初めて“自分の鉄”で武器を作り上げた。

 だが、海は違う。

 この海は、まだ他国の影に沈んでいる。


 桟橋の先に立つ背の高い男が、帽子を取って深く頭を下げた。

 西郷従道、海軍大臣。四十八歳。

 冬の海風に吹かれても、その立ち姿には薩摩武士の頑丈さがあった。


 「総理、我が海軍の現状をお見せしました。」

 「……見事に錆びているな。」

 藤村はわずかに苦笑した。


 西郷は肩をすくめ、懐から書類を取り出す。

 「現有艦艇三十隻のうち、二十四隻が輸入品です。イギリス製が十二、フランス製が七、ドイツ製が五。残る六隻は国内修繕のみ。」

 「艦種の統一は?」

 「なっておりません。艦ごとに燃料も違い、部品も異なります。補給も訓練も非効率。維持費だけで年間百万円。」


 藤村は眉をひそめ、遠くの造船ドックを見つめた。

 そこでは、外国人技師の指示で日本人職工が作業をしている。

 かれらの背中には「技術者」でなく「労働者」の影があった。


 「新造艦の計画は?」

 「ございません。一隻造るのに二百万円。予算が追いつきません。」


 藤村は帽子を軽く押さえた。

 風が髪をなでる。

 「三年前に承認した海軍予算――初年度五十万、三年目で百万円。だが、それでは一隻も造れぬわけか。」

 西郷は頷いた。

 「まことに申し訳ありません。しかし――」


 彼は桟橋の下の海を見つめる。

 「――この海を、放っておくわけにはいかんのです。」


 藤村の瞳が鋭く光った。

 「わかっている。陸が鉄を得た今、次は海の番だ。」

 波が桟橋の柱を打ち、鉄骨が軋む。

 その音が、沈黙の中に小さな鐘のように響いた。


 西郷は顔を上げ、毅然とした声で言った。

 「では、海軍改革の方針を――」

 「まだ早い。」藤村が遮った。

 「まず、“海軍とは何か”を定めねばならん。鉄を作る前に、理念を作るのだ。」


 西郷は息をのんだ。

 藤村の言葉には、かつて国家財政を立て直した男の確信があった。

 「理念、でございますか。」

 「そうだ。銃や砲の前に、人の心がいる。海の思想をつくらねば、どれほど艦を並べても漂うだけだ。」


 西郷は深く一礼した。

 「承知しました。……総理、軍議の場を設けましょう。」

 「うむ。次の議題として、正式に“海軍改革”を上程する。」

 藤村は踵を返し、艦の影を離れた。


 その背後で、海面に光がわずかに揺れた。

 それはまるで、錆びついた鉄が再び陽に照らされ、光を取り戻そうとしているようだった。


 ――数日後。


 海軍省の門をくぐったのは、義信である。

 まだ二十六歳の若さでありながら、陸軍の参謀として確固たる地位を築きつつあった。

 玄関で出迎えたのは海軍次官・樺山資紀。

 「お噂はかねがね。陸の俊才が海を訪れるとは。」

 義信は微笑を返す。

 「陸と海は、同じ国を守る二つの壁です。父上――いや、総理がそう申されました。」


 樺山は笑みを深めた。

 「ならば歓迎いたしましょう。いまの海軍は、助けを求めております。」


 二人は応接室に入り、分厚い図面を机に広げた。

 紙には、外国艦の設計図が無秩序に積まれている。

 「これが現状です。」

 義信は指先でその線をなぞる。

 「まるで寄せ木細工のようだ。」

 「ええ、どの艦も構造が違います。エンジンも、通信機も。まるで外国の見本市です。」


 窓の外から汽笛が響いた。

 義信は、ふと海を見つめる。

 陸で聞く轟音とは違う、どこか孤独な音。

 「……これが、父上の言う“遅れの匂い”ですか。」

 樺山が頷いた。

 「ええ。だが、それを嗅ぎ分けられる者がようやく現れた。」


 義信は顔を上げた。

 「改革を行いましょう。陸軍の近代化は終わりました。次は、海です。」

 「どうやって?」

 「参謀本部を陸海統合とし、海軍の計画も中央で統括します。」

 「なるほど……それは、政治の統一を意味しますな。」

 「はい。技術も戦略も、一本の線で繋ぐのです。」


 その時、扉が静かに開いた。

 西郷従道が入ってくる。

 「おお、義信殿も来ておったか。」

 「はい。父上の命で、状況を見に。」

 西郷は笑みを浮かべた。

 「ならば話が早い。三日後、軍議を開く。陸も海も、同じ卓につくのだ。」


 その日、海軍省の廊下を出た義信は、港の方角を振り返った。

 まだ陽は傾き、光が波の上で冷たく跳ねている。

 遠く、錆びた艦の横で少年たちが水兵帽を被り、訓練をしていた。

 その小さな背中を見つめ、義信は思った。

 ――この子たちが乗る船を、俺たちが造るのだ。


 潮風が頬を打ち、冷たさが胸に沁みる。

 けれどその冷たさの奥に、微かな熱があった。

 それはまだ形を持たない“海の理念”という名の炎だった。

春の雨が、窓硝子をやわらかく叩いていた。

 四月の海軍省は、湿り気と油と鉄の匂いに満ちている。廊下を進む革靴の音が床板に低く響き、重い扉の前で衛兵が直立した。


 「総理、軍議の準備が整っております。」


 藤村晴人は一礼し、扉を押し開けた。室内には六人の男。海軍大臣・西郷従道、次官・樺山資紀、技官の山本権兵衛と東郷平八郎。陸軍参謀として義信も父の隣に控える。卓上には横須賀軍港の精巧な模型が置かれ、係船桟橋やドック、各艦の配置まで糸のような線で再現されていた。


 西郷が立ち上がる。「軍議を始めます。海でこの国を守る、その路筋を本日定めたい。」


 藤村はうなずき、席につくや静かに問いを投げた。「まず、根本から始めよう――海軍とは何か。」


 雨音が一拍、部屋を満たした。


 山本が口を開く。「軍事力であります。海戦における国家の矛。」


 藤村は緩やかに首を振る。「それだけではない。海軍とは、この国を世界に結ぶ“線”を守る力だ。貿易も外交も文化も、海を通って往き来する。その線を途切れさせぬための意思と仕組み――それが海軍だ。」


 言葉と同時に、窓の外で遠雷がくぐもった音を立てる。義信が立った。


 「陸軍が“守りの技術”なら、海軍は“抑止の技術”です。海に出られる力そのものが、戦を遠ざける。」


 東郷の瞳が細く光った。「戦うためではなく、戦わせないための力……。」


 藤村は一歩進み、模型上の艦を指でなぞった。「理念なき力は暴であり、力なき理念は夢想だ。我らが作るべきは“思想としての艦隊”である。」


 西郷が資料束を開く。樺山が続ける。「現有艦隊は英仏独製が入り乱れ、整備も補給も非効率。艦種の統一が急務です。」


 藤村は模型の艦を三種に置き換えていく。「主力は三本柱に絞る。第一に戦艦――重装甲・主砲・決戦用。第二に巡洋艦――中型・高速・偵察と通商破壊。第三に水雷艇――小型・高速・沿岸防衛。各々は同型艦を複数保有し、訓練・補給・部品を共通化する。」


 山本が頷く。「役割を明確にし、艦型を揃えることで艦隊の“癖”を統一する、ということですな。」


 「まだある。」藤村は模型の背後に小さな補給艦と信号所の旗を置いた。「艦隊を“システム”として設計する。構造、動力、通信、補給――これらが噛み合って初めて艦隊は呼吸する。海は陸より広い。ゆえに一隻の俊足より、全体の呼吸を揃えることが勝敗を分ける。」


 東郷が低く呟く。「艦隊を、一つの生き物として扱う……。」


 「その通りだ。」藤村は窓の向こうの鉛色の空に目をやった。「電信を急げ。艦と艦が海上で同じ言葉を即時に共有できれば、艦隊は一つの思考体になる。」


 樺山がページを繰る。「弾薬は依然として輸入頼み。火薬の国産化が要となります。」


 藤村が名を挙げた。「下瀬雅允という化学者がいる。感性と胆力がある。招聘し、国産火薬の開発を委ねたい。」


 西郷は即答した。「手配いたします。」


 「加えて、造船所だ。」藤村は模型の端に三つの小旗を立てる。「呉、横須賀、長崎――三柱体制で拡張する。ドックは耐火・耐爆で更新、クレーンは二百トン級、鍛冶工場は鍛接から鍛造へ。機関工を養成し、図面の規格を統一する。」


 山本が合槌を打つ。「艦そのものより、艦を生み続ける“工場”を作る、と。」


 「理念があり、仕組みがあり、技術と人が育つ。その順だ。」藤村は短く言い切った。


 雨脚が弱まる。会議室の明かりが模型の海面に反射し、艦影をきらりと揺らした。


 義信が手帳にすばやく記す。「艦隊再編、通信網整備、火薬の国産化、造船所拡張――これらを一本の計画として束ね、陸の参謀機能と直結させます。各鎮守府に連絡将校を常駐させ、作戦図を統一します。」


 東郷が顔を上げる。「訓練はどう組みますか。」


 藤村は即答した。「海図読み、電信、隊形転換、夜戦、燃費管理、損傷制御――“沈まない術”を骨に据える。決戦だけが海戦ではない。無事に帰り着く能力が抑止力になる。」


 西郷が静かに笑った。「海は形を持たぬ。だから思想で束ねる――本日の要諦ですな。」


 藤村は席に戻り、要点を箇条で示した。


 ――海軍改革骨子

 ・主力艦種の三本柱化と同型艦の系列建造

・艦隊を“システム”として設計(構造/動力/通信/補給)

・電信・信号の統一、即時共有体制

・火薬の国産化(下瀬雅允を中心に)

・造船所三柱体制(呉・横須賀・長崎)の拡張・標準化

・訓練教範の近代化(夜戦・損傷制御・燃費)

・参謀節点の常駐化(陸海の作戦図統合)


 山本と東郷は互いに視線を交わし、微かにうなずいた。彼らの眼差しには、これまでの“艦を買う海軍”から“海を設計する海軍”へと踏み出す決意が宿っている。


 雨雲が裂け、薄い光が差し込んだ。模型の海に落ちた光は一本の筋を作り、港口の外へと伸びている。藤村はその筋を見つめ、静かに言った。


 「海を照らすのは、鋼の艦影ではない。正しい理念だ。」


 誰も、しばらく言葉を足さなかった。やがて西郷が背筋を伸ばす。


 「本日の結論、しかと承りました。技術・人・仕組み――すべてを動かします。」


 会議室の扉が開き、廊下の冷気が流れ込む。外の雨は止み、遠くで汽笛が短く鳴った。新しい潮の気配が、静かに室内へ忍び込んでくる。


 藤村は手帳を閉じ、視線で義信に合図した。

 陸と海、その思考を一本に束ねる作業が、今まさに始まったのである。

春の午後、霞が関の空は薄い雲に覆われていた。

 重厚な石造りの官邸。その奥、閣議室では、十数名の閣僚が整然と席につき、空気は紙一枚を通す余地もないほど張りつめていた。

 分厚い扉が閉まる音が、まるで法廷の鐘のように響いた。


 藤村晴人は、静かに口を開いた。

 「本日の議題は海軍改革の方針だ。陸の整備は整った。次は海だ。」


 机上には分厚い報告書。表紙には金文字で《明治海軍技術独立計画案》と記されている。

 海軍大臣・西郷従道が立ち上がり、低く通る声で続けた。

 「現行の海軍は、各国の艦を継ぎ接ぎした“寄せ船”であります。火薬は輸入、艦も輸入。これを改め、艦種の統一と国産火薬の開発、造船所の拡張を行いたい。」


 彼の声は重く落ち着いていたが、その裏には確かな焦燥がにじむ。

 「費用は、年間百五十万円を見込みます。」


 その瞬間、室内の空気がわずかに動いた。

 大蔵卿・大隈重信が眼鏡を持ち上げ、沈黙を破る。

 「百五十万、ですか……。」

 彼は書類をめくりながら、ため息をついた。

 「陸軍にはすでに三百五十万。さらに兵器改良で二十万を追加。歳出の六分の一が軍事で占められます。これ以上は、民が持ちませぬ。」


 声には諫めと現実の両方があった。

 藤村は、机の上で指を組む。

 「承知している。」

 「だが、海を軽んじれば国は沈む。」


 言葉とともに、窓の外から微かな風が流れ込んだ。

 硝子の外には春の光。だが、誰もその明るさを見ていなかった。


 大隈が口を開いた。

 「慎重に運用されるならば、異議はありません。ただ、予算執行は厳しく監査させていただきます。」

 藤村は静かに頷いた。

 「もちろんだ。金は国の血だ。浪費はせぬ。」


 その時だった。

 内務省から来ている保守派官僚・加藤弘之が、机を叩くように立ち上がった。

 「私は反対です!」

 声が鋭く、閣議室の壁を跳ね返る。

 「日本は陸の国です。歴史を見ればわかる。元寇の時も、我らは海でなく陸で敵を退けた!」

 「海軍など、虚飾の軍です! 金食い虫に過ぎません!」


 場内がざわめいた。

 西郷従道は眉を吊り上げたが、藤村は手で制した。

 「落ち着きたまえ、加藤殿。あなたの言い分も理解はする。」

 「だが、時代は変わった。蒸気船と電信の世に、鎌倉の記憶を持ち出すのは誤りだ。」


 加藤の顔が紅潮する。

 「だが、なぜそこまで海軍を重視するのです? 陸軍があれば十分ではないか!」


 藤村は、背筋を伸ばして答えた。

 「清国との戦が近い。彼らの陸軍は大きい。しかし――」

 ゆっくりと右手を上げ、海図を指さす。

 「――その補給線は海にある。海を制すれば、陸の兵は動けぬ。」


 沈黙。

 地図の上の青い線だけが、まるで脈のように息づいて見えた。


 加藤が口を開こうとしたとき、義信が立ち上がった。

 若い声が、場の空気を変える。

 「総理の言葉に補足いたします。」

 「陸軍は国家の“第一の脚”です。だが――一本の脚では、国は立てません。」

 視線が一斉に彼に集まる。

 「もう一つの脚、それが海軍です。陸が国を支え、海が国を進ませる。両方あってこそ、この国は歩けるのです。」


 藤村は微かに笑みを浮かべた。

 「……よく言ったな。」


 松方正義が頷く。

 「義信殿の言葉、まことに的を射ております。海と陸、どちらも必要です。」


 大久保利通は、煙管を取り出し、ゆっくりと火をつけた。

 紫煙がたちのぼり、彼は小さく呟いた。

 「海を失えば、貿易を失う。貿易を失えば、富を失う。……富なくして、陸の兵も養えぬ。」

 その声は低く、しかし全員に届く響きを持っていた。


 藤村は立ち上がり、手帳を閉じた。

 「意見は出尽くしたな。では採決に移ろう。」


 木槌が鳴る。

 「本件に賛成の者、挙手を。」


 西郷、大久保、松方、大隈――多くの手が一斉に上がる。

 加藤のみ、腕を組んで顔を背けた。


 藤村は全体を見渡し、静かに告げた。

 「過半数の賛成をもって、海軍改革方針を可決とする。」

 「本計画は、正式に“明治海軍技術独立計画”と命名する。」


 議場に重い拍手が広がった。

 義信が深く息を吐く。

 その横で西郷従道が、肩を軽く叩いた。

 「若い参謀殿、よい演説でした。」

 「……恐縮です。」


 会議が散会となると、藤村は窓辺に立ち、曇り空を見上げた。

 「この空の向こうには、海がある。」

 独り言のように呟く。

 「陸の鉄が形を得た。次は、海の理念が形を持つ番だ。」


 その言葉に、大隈が軽く微笑む。

 「総理、理想を語る人は多い。だが、理想を予算に落とし込む人は少ない。」

 藤村はわずかに肩をすくめた。

 「理想とは、金に耐える思想のことだ。」


 大隈が笑い、室内の緊張がわずかに和らぐ。

 その隙に、外では風が強まり、窓の桟が小さく鳴った。

 春の嵐の前触れのような風――

 それはまるで、これから始まる「技術の戦い」の合図であった。


 西郷従道が帽子を手に、出口で振り返る。

 「総理、海を変える戦が始まりますな。」

 藤村はうなずき、低く答えた。

 「戦とは、銃や砲でなく――知で行うものだ。」


 廊下に出た西郷の背を見送りながら、藤村は思った。

 この男に、そしてこの時代に、海の未来を託せる。

 陸を鍛えた鉄が、人の思想を変えたように。

 ――海もまた、理念によって鍛えられるのだと。


 机の上には、署名を終えたばかりの一枚の紙。

 《明治海軍技術独立計画》――その文字が、夕陽に淡く光っていた。

潮風が、鉄と油の匂いを運んでくる。

 夕陽の斜光が横須賀のドックを黄金色に染めていた。港のクレーンは長い腕を伸ばし、蒸気機関の唸りが遠くから響く。

 港湾の上を、カモメの影がゆるやかに横切った。


 藤村晴人が馬車から降り立つと、桟橋の上で待っていた工部技監・山本権兵衛が敬礼した。

 「総理、お足元にお気をつけください。昨日の雨で板が滑ります。」

 「ありがとう。――これが、国を支える現場の匂いだな。」


 藤村の視線の先では、作業員たちが鋲打ちの音を響かせていた。

 金槌の一打ごとに、薄暮の空気が震える。

 「海軍省の机上で描いた図面が、ここで息をしている。」

 呟くような声に、山本が頷いた。

 「紙の上では静かな線でも、現場では血が通います。これが“造る”ということです。」


 ドックの縁には、建造中の鋼鉄艦――仮称「蒼龍丸」。

 鋼板の表面にはまだ錆が残り、ところどころにチョークの指示線が引かれている。

 蒸気の白が上がり、夕陽に照らされて金色の煙のように揺れた。

 その光景に、藤村は目を細める。

 「……美しいな。」


 「鉄の塊が、ここまで形を成すのは初めてです。」

 山本は誇らしげに言った。

 「この艦には、新式のボイラーを載せます。煙突は三本、速度は十四ノット。これまでの艦とは根本から違う。」


 「よくやった。」藤村は肩に手を置いた。「お前たちは、国の鼓動を作っている。」


 そこへ、ひとりの男が現れた。

 煤で黒く汚れた作業服、手には巻き上げた設計図。

 その瞳には異様な光――理論と狂気の境に立つ者だけが持つ、燃えるような情熱。

 「初めまして、藤村総理。」

 「……君が、下瀬雅允だな。」


 「はい。」

 深く一礼し、彼は紙束を差し出した。

 「この火薬――外国の模倣ではありません。完全な国産配合です。」

 藤村が受け取り、図面に目を通す。

 化学式の羅列と、手書きの英語。ところどころに『安定燃焼』『瞬発性抑制』と記された注釈。

 「見事だ。これが完成すれば、我が国の艦砲は、ようやく自らの血で撃てる。」


 下瀬は短く笑った。

 「ですが、まだ危険です。失敗すれば、ドックごと吹き飛びます。」

 「危険こそ、開拓の証だ。」藤村の声が低く響く。「安全な道しか選ばぬ者に、未来は拓けぬ。」


 沈黙。

 やがて下瀬が、まっすぐに藤村を見た。

 「総理、私はこの火薬に命を懸けます。どうか、製造工場の設立を――」

 「認めよう。」藤村は即答した。「ただし条件がある。研究員の命を守る体制を整えろ。犠牲を前提とした技術は、国家を滅ぼす。」


 下瀬の目が揺れ、やがて静かに笑った。

 「了解いたしました。……あなたのような政治家は、初めてです。」


 その時、義信が姿を見せた。

 「父上、視察が終わりました。」

 背筋を伸ばしたその姿に、山本が軽く会釈する。

 「参謀閣下、現場をご覧いただきありがとうございます。」


 「現場は見ておかねばなりません。」

 義信は無骨な艦体に触れた。冷たい鉄の感触。

 「陸軍の兵が命を懸けるとき、この艦の砲が彼らを支える。その重みを知らねば、戦を語れぬ。」


 藤村は微笑みながら言った。

 「義信、この艦を見ろ。ここに国の未来が詰まっている。人の知恵と汗が、鉄を呼吸させている。」


 その時、汽笛が鳴った。

 ドックの外、入港する輸送船が黒煙を上げながら姿を現す。甲板に積まれた木箱には「YOKOHAMA—LONDON」の文字。

 山本が小声で言った。

 「最後の輸入弾薬です。これが届くのも、もうすぐ終わりでしょう。」


 「そうでなければならん。」藤村は目を細めた。「この国は、輸入で動く歯車から、創造で動く機関へ変わらねばならない。」


 桟橋を歩く三人。

 西の空には、橙色の光が波間を染め、鋼の船体がその光を受けてきらりと光った。

 山本が立ち止まり、海に向かって一礼する。

 「この国の海は、もう“守られるもの”ではありません。造り、動かすものです。」


 藤村は帽子を取り、潮風を受けた。

 「海に学べ。海は動いていながら、形を保っている。国家もまた、そうあるべきだ。」


 遠く、汽笛がもう一度鳴った。

 その響きが、港の鉄骨を震わせる。

 作業員たちが次々と帽子を取り、夕陽の方を向いた。

 それは祈りのようでもあり、宣誓のようでもあった。


 「西郷大臣が言っていたな。」義信が呟く。「“海は形を持たぬゆえに、思想で束ねる”と。」

 「そうだ。」藤村の声が穏やかに響いた。「我らの思想が、いずれこの国の海図になる。」


 その背後で、下瀬が紙束を胸に抱いた。

 「この火薬が完成すれば、日本の艦砲は世界の水準を超えます。」

 藤村は振り返り、短く答えた。

 「超えるのではない。――“作る”のだ。世界を。」


 港の空に、夜が降り始める。

 蒸気の白と夕闇の黒が混ざり合い、街灯の光が水面に揺れる。

 藤村は一歩、海へ近づき、低く呟いた。

 「この国の海が、いつか星を照らす夜になるように。」


 風が吹き抜け、外套の裾が翻った。

 波が桟橋に打ち寄せ、やがて静かに引いていく。

 港のすべてが、一瞬だけ静止したように見えた。

 その静寂の中で――新しい日本の鼓動が、確かに始まっていた。

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