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【篤姫と結婚した公務員】水戸藩から始まる幕末逆転録 ~公務員が理と仕組みで日本を救う~  作者: 一条信輝


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366話:(1892年1月〜12月)鉄が鳴った日

1892年、東京近郊。

 冬の大地に、銃声が響いた。


 「――撃てっ!」


 号令が飛ぶ。

 白い息を吐きながら、若い兵たちが一斉に引き金を引いた。


 「バン! バン! バン!」


 乾いた音のあとに、黒煙がもくもくと立ち上がる。

 硝煙の臭いが鼻を刺し、風に流れ、霜を纏った地面に溶けていった。

 標的の方角は、霞んで見えない。

 風下の兵が咳き込み、隣の兵に肩を叩かれる。


 「おい、装填だ! 急げ!」

 「は、はいっ!」


 震える手で銃身を持ち上げ、弾を押し込む。

 冷えた金属が、指先の感覚を奪う。

 手袋を外せば痛みが走り、着けたままでは弾がうまく入らない。

 どちらにしても、遅い。


 弾を込め終えるまで、十秒。

 その十秒の間、兵は無防備だった。


 教官の眼が、冷たく光る。

 「……これでは、戦にならん」


 言葉の裏には、焦りがあった。

 欧州列強の兵士たちは、すでに連射式小銃を使っている。

 この国の兵たちは、まだ一発ずつ弾を込めている。

 銃が違えば、戦も違う。

 それを肌で知っている教官は、唇を噛んだ。


 村田銃。

 明治初期に国産化された初の小銃だった。

 だが、その機構は単発式。黒色火薬を使うため発砲ごとに煙が上がり、

 命中精度も距離も、すでに時代遅れだった。


 空に消える硝煙の向こう――

 丘の上で三人の男が、その光景を見下ろしていた。


 一人は、陸軍大臣・児玉源太郎。

 一人は、参謀次官・藤村義信。

 そしてもう一人――この国の総理、藤村晴人である。


 晴人は凍てつく空気の中、帽子のつばを軽く押さえた。

 風が頬を切るように冷たい。

 彼の視線は、煙に包まれた演習場の先を静かに射抜いていた。


 「……これが、我が国の“近代”か」


 呟きは、風に消えた。

 隣で児玉が手帳を開く。

 「射程三百メートル。命中率は、およそ三割」

 「弾込め時間、十秒。連射は不可能――」

 義信が続けた。

 「兵の呼吸と同じように、遅いですね」


 晴人は、うっすらと笑った。

 「火縄が銃に変わっても、仕組みが同じでは意味がない。

  戦は、すでに“機械の速さ”で決まる」


 その声には、わずかな苛立ちがあった。

 文明開化を謳うこの国の軍が、

 いまだ煙にまみれている現実。

 それは晴人にとって、文明と独立の境界を曖昧にする“恥”でもあった。


 丘の下では、次の試射準備が進んでいる。

 今度は砲の試験――旧式アームストロング砲である。


 「発射準備、完了!」

 「……撃て!」


 轟音が大地を揺らした。

 「ドオォン!」

 だが、次の瞬間――

 「ガンッ!」と鋭い音が鳴り、砲身の中で火花が散った。

 煙が異様な速さで吹き出し、

 砲身の側面に亀裂が走る。


 「止めろ! 止めろォッ!」

 兵が駆け寄る。

 砲口から黒い煙が上がり、鉄の匂いが風に溶けた。


 児玉が眉をひそめる。

 「……輸入品の限界か」

 義信が続けた。

 「鉄も、異国の風で冷えたままだ」


 晴人は黙って、砲身の裂け目を見つめた。

 焦げた金属が陽に反射して鈍く光る。

 指先でそれを撫でながら、低く呟く。


 「――この国の鉄を鍛えましょう。砲も、国も」


 その声に、児玉も義信も、息を呑んだ。

 まるで鉄を叩く音が、遠くで鳴ったような気がした。


 晴人は立ち上がり、コートの裾を翻した。

 雪がちらつく。

 「技術を持たぬ国は、武を語る資格すらない。

  ……“借り物の戦力”では、独立など夢のまた夢だ」


 義信は静かに父の横顔を見た。

 冬の光が、白髪を銀のように照らしている。

 父の言葉は冷たいが、その奥に熱があった。


 児玉が口を開いた。

 「陸軍兵器の全面刷新、ということですか?」

 「そうだ。銃も砲も、我らの手で造る」

 「予算は……」

 「問題ではない。金は、国を立てるために使うものだ」


 風が吹き抜ける。

 兵たちのかけ声が遠くから届く。

 晴人はふと空を見上げた。

 灰色の雲の切れ間から、淡い陽が射している。


 「――鉄が鳴る音が聞こえるか?」


 義信が首を傾げる。

 「え?」

 「この国の底が、いま動き出している音だ。

  銃を撃つ音ではない。

  国を鍛える音だよ」


 静寂。

 児玉も義信も、その言葉を噛みしめた。


 丘を下りる途中、義信がふと口を開く。

 「父上。もし新しい銃を造るとしたら――

  どんな銃をお考えですか?」

 晴人は足を止めた。

 「……速く、正確で、誰でも扱える銃だ」

 「誰でも、ですか?」

 「そうだ。力ではなく、技で勝つ時代が来る。

  だからこそ、技を形にしなければならない」


 児玉が頷く。

 「ならば、その技を磨く場を造りましょう。

  国産兵器の研究所を――」

 晴人の視線が、遠く霞む東京の方角へ向いた。

 「よい。陸も海も、鉄を学ぶ時だ」


 その言葉が、すべての始まりだった。


 風が吹き抜け、黒煙を散らす。

 冬の演習場の空は、どこまでも高く、澄んでいた。

数日後。

 冷たい雨が降っていた。

 官邸の瓦屋根を叩く雨音が、まるで時の鼓動のように響く。

 永田町の冬は静かだ。だが、その静けさの奥で、国家の命運を決する会議が始まろうとしていた。


 首相官邸・閣議室。

 重厚な扉の奥、長い楕円形のテーブルの上に、蒸気を立てる湯気と墨の匂いが漂っている。

 席には閣僚たちがずらりと並び、厚手の書類を前に黙している。

 誰もが、藤村晴人の一言を待っていた。


 「――議題を始めます」


 静寂を破る声は、低く、しかし芯があった。

 藤村晴人、六十七歳。

 白髪を後ろへ撫でつけ、軍服ではなく、黒の洋装を纏っている。

 背筋は伸び、瞳の奥には確かな光が宿っていた。


 「本日の案件――“国産兵器開発計画”について」


 その一言に、ざわめきが走る。

 隣の大隈重信が眼鏡を押し上げ、表情を引き締めた。

 「……兵器の、国産化、ですか」

 「そうだ」

 藤村は頷いた。

 「銃も砲も、鉄も――すべてをこの国で造る」


 その瞬間、部屋の温度が下がった気がした。

 数人の閣僚が顔を見合わせる。

 机の上の書類をめくる音だけが、やけに大きく響く。


 「総理……」

 財務卿の大隈が、慎重に口を開いた。

 「つまり、輸入を断ち、すべて国産で賄うと?」

 「そうだ。私たちは長く“模倣”に頼ってきた。

  だが、模倣は追従であり、追従は従属だ。

  いまこそ、鉄を自らの手で鍛える時だ」


 「だが、莫大な費用がかかります」

 「それは承知の上だ」

 「では、どの程度を見込んでおられる?」

 藤村は視線を向けた。

 義信が立ち上がり、手にした書類を広げた。


 「陸海軍両省の統合案を基に、初年度五十万円を計上しております。

  小銃・大砲の設計費、炉の建設費、試験費を含め――」

 「五十万……!」

 ざわ、と空気が動いた。

 その金額が持つ重みは、誰よりも閣僚たちが知っている。

 五十万――州ひとつの歳入に匹敵する。


 「財源は?」

 大隈の問いに、児玉源太郎が応じた。

 「軍備経費からの転用と、余剰金の充当で賄います。

  また、鉄鉱と石炭の収益を基に、次年度から自主運転へ移行できる見通しです」

 「……つまり、民間的な経営発想で、兵器を造ると?」

 「はい」児玉が頷く。

 「兵を鍛える前に、工場を鍛える。それが、この計画の本質です」


 藤村がゆっくり立ち上がる。

 「私は、かつて明治の始めに言った――“文明とは、鉄の使い方で決まる”と。

  銃を輸入する国は、撃たれる国だ。

  造る国こそが、撃つ国になる」


 その一言に、部屋が静まり返った。

 大隈が軽く笑いを漏らす。

 「さすがに、言葉が鋭すぎますな」

 「鋭くなければ、鉄は鍛えられん」

 藤村は即座に返した。

 その声音に、冗談の余地はない。


 「技術とは、国家の心臓です」

 藤村の目が、一人ひとりを見据える。

 「鉄を打てぬ国は、心を打たれる。

  この計画は、ただの軍備拡張ではない。

  技術の独立――“技術主権”を確立するための第一歩です」


 児玉が補足するように口を開いた。

 「小銃は、有坂成章技師を中心に開発いたします。

  口径六・五ミリ、六発装填のボルトアクション式。

  これまでの単発式から一変し、三秒で六発撃てる構造です」

 「三秒で六発……?」

 「はい。装填の手間をなくし、連射性を飛躍的に向上させます」

 「……まるで欧州の新兵器のようだ」


 藤村が微笑を浮かべる。

 「いや、欧州の模倣ではなく、“日本の形”です。

  我が国の体格、腕の長さ、手の大きさ――

  すべてを計測し、最適化した銃です」


 義信が続けた。

 「さらに砲も、鍛鋼製に切り替えます。

  従来の鋳造砲は内部に気泡が多く、破裂の危険がある。

  それを防ぐため、温度管理を徹底し、鉄の純度を高めます」

 「純度を上げる?」

 「はい。鉄の炭素含有率を0.02%下げるだけで、砲身寿命は倍になります」

 「なるほど……」

 誰かが小さく唸った。

 数字だけではなく、理屈が通っている――それが藤村の計画の強さだった。


 その時、机の端から別の声が上がった。

 「だが、もし失敗したら?」

 年長の保守派閣僚・黒田が口を開く。

 「国産兵器など、所詮夢物語。

  我々は列強と違い、炉も職人も足りぬ。

  失敗すれば、金も信用も失うだけだ」


 藤村は黙って彼を見つめた。

 やがて、ゆっくりと口を開く。

 「黒田卿――あなたが言う“信用”とは何か」

 「……他国との、信頼関係です」

 「それは“従属”の別名だ。

  我々が銃を買い、砲を借り、鉄を乞う限り、

  彼らは我らを友ではなく、“客”と見るだろう」


 部屋の空気が再び張りつめた。

 藤村は机に手を置き、声を低めた。

 「私は乞う国ではなく、鍛える国を選ぶ。

  我々は、鉄を叩いて初めて“対等”になれる」


 重い沈黙。

 その言葉には、理屈ではない力があった。

 児玉が深く頭を垂れる。

 義信もまた、静かに頷いた。


 大隈がペンを置いた。

 「……よろしい。初年度五十万円を承認しましょう」

 その一言で、場が動いた。

 藤村は深く礼をした。

 「感謝します。――これが、新しい時代の始まりです」


 会議が終わる頃には、雨が止んでいた。

 外の石畳には雫が光り、冬の陽が差し込み始めている。

 藤村は廊下に出て、静かに息をついた。

 胸の奥で、鼓動が速くなる。


 (鉄を叩く音が、また一つ増えた)


 彼は歩き出した。

 足音が、濡れた廊下に反響する。

 その一歩ごとに、日本という国が、確かに変わり始めていた。

薄曇りの朝。

 陸軍省の奥、兵器設計室。石炭ストーブが赤く脈打ち、凍えた指先をやっと動かせるほどの温を吐いている。壁には定規と分度器、ねじゲージ、硬度計。作業台の上には、油で光る旋盤の小さな部品と、方眼紙にびっしり書き込まれた鉛筆の線。鉄と油と紙と墨――四つの匂いが層になって漂う。


 有坂成章は、袖口を肘までまくり上げ、薄い金縁の眼鏡をつまんだ。まだ若いが、図面に向かう横顔は頑として揺れない。眉間には、昨夜からの思索が刻んだ浅い皺。彼の前に広がるのは、薄青のトレーシングペーパーに描かれたボルトアクション機構――六つの弾が、ひとつの規律で装填され、同じ規律で排莢されるための、齒車に似た幾何学。


 「――ここだな」


 有坂は鉛筆の芯を短く削り、ボルトの前進時に抽筒子エキストラクターが薬莢の縁を噛み続けるための“爪”の角度を一度だけ修正する。四十五度を、四十四度半へ。わずか〇・五度。だが、その半度が、冬の泥濘の中で命を拾うか落とすかを分ける。


 隣の作業台では、若い技手がボルトのラグ(噛み合わせ突起)長をノギスで測っていた。「〇・〇九八……」「〇・一〇一……」読み上げる声に、検査係がうなずく。棚から取り出した“限界ゲージ”が、静かに部品を抱いては、弾く。通るか、通らぬか。人情は介在しない。ゲージは嘘をつかない。


 「各部の許容差は一〇〇分の一、だ」

 義信の低い声が、室内に落ちる。黒の詰襟に、結露した窓の光が薄く反射した。

 「銃床も金具も、螺子一本まで同規格で揃える。戦場では“偶然合う”では間に合わん。どの隊のどの銃でも、部品が嵌る。それが量産だ」


 「承知しました」

 有坂が立ち上がり、一礼する。

 「装填は六連、弾倉は薄鋼板の片側給弾式。泥を噛みにくい形状に。冬期に凍り付く恐れがありますから、隙間には必ず“逃げ”を――」


 「良い」

 義信は、図面の隅に記された異常に細かな注記を眺め、口角をわずかにゆるめた。

 「兵は、手袋を外さずに操作できるように。引き金の護環は小さくしすぎるな。北の風は、指先の自由を奪う」


 「了解しました」


 室の奥で、鋼の小片にヤスリを当てる音が止んだ。年嵩の技師が振り返り、顔の煤を拭う。

 「抽筒爪の焼入れは、何度で?」

 「八百四十で油冷、その後三百度で戻しを」

 有坂が迷いなく答える。

 「靭性を残さねば、爪が脆く欠けます。焼きすぎれば折れ、甘ければ摩耗します。境目は、青い“色”で見極めます」


 「青……」

 技師は目を細め、頷いた。鋼の“焼き色”に宿る微妙な差異は、数字の外側にある職人の言葉だった。温度計は、色を知らぬ。色は、温度計の嘘を見抜く。


 扉が静かに開き、冷気とともに二人の影が差した。藤村と児玉である。厚衣の襟に白い粉雪を乗せ、足元の水滴が床に小さな丸をいくつも描く。


 「進捗を見せてくれ」

 藤村が言うと、部屋の空気がひきしまった。

 有坂は図面を差し出し、説明を始める。

 「口径は六・五ミリ。弾は長く、軽く。薬室内圧は上がりますが、反動は穏やかになります。射手の肩を守るために。

  ボルトラグは二点支持。閉鎖面で圧を受ける角度は十五度。砂泥の混入に耐えるよう、縁に“逃げ”をつけました。

  弾倉は六発。板バネは“S”の字に曲げ、疲労でへたらぬよう、曲率を緩やかに。給弾口は指の太さに合わせて拡げています。

  照準、前は逆三角、後はV字の溝。黒煙の中で輪郭が流れぬよう、上面は砂目にします」


 藤村は、図面の一角――引き金控えの小さな丸穴に指先を置いた。

 「ここの穴、何のためだ」

 「泥を吐かせるための“捨て”です。凍土の戦では、ここに泥氷が溜まって引き金が戻らない例が……いえ、起きる可能性が考えられる。

  余計な穴は、余計でなくなる時がある。想定外を先に“想定”しておく工夫です」


 「よく見ている」

 藤村は短くうなずき、視線を児玉へ移した。

 「工場のほうは」

 「小石川で銃、呉で海軍装具、大阪で砲身を――三本建てで動かします」

 児玉の声は、乾いた靴音のように明確だった。

 「旋盤は独・英からの新規調達に加え、国内工場の改造で間に合わせます。

  “仕事”を削り出せる人材は、すでに指名済み。工程は、検査を挟む“分割”に。

  一人の名人に頼らずとも、無名の百人で同じ品を出せる流れを――」


 「それが量産だ」

 藤村は応じ、壁のゲージ棚に近づいた。分厚い鋼製リングと栓ゲージが、整然と眠っている。

 一本を手に取り、冷たさを掌で感じる。

 「これらは“見えない定規”だ。

  人は疲れ、気分で寸法を変える。ゲージは変わらない。ここから、工業は始まる」


 義信が横から、板に張り出された工程表を指した。

 「組立ラインを“縦”に見ず、“横”に見ます。

  各工程が“前後”ではなく“並列”に流れ、最後に一本の銃に収束する。

  兵站も同じ思想で統べれば、前線の損耗部品を後方の箱から“選ぶだけ”にできる」


 「選ぶだけ、か」

 児玉が笑った。

 「戦場で一番価値がある言葉だ」


 その時、奥の試験台で小さな落下音がした。新試作の抽筒爪が、模擬薬莢の縁で滑ったのだ。

 室内が一瞬凍る。

 有坂は一拍も置かず、爪のアールを研ぎ、再び装填。

 ボルトを前に押し、軽く回す。

 金属どうしが、ほんのわずかに擦れ合い、やがて吸い込まれるように“座る”。

 彼は無言のまま、数十回繰り返した。成功、成功、成功――そして一度の渋り。

 「ここです」

 有坂は、渋った瞬間の“音”を指摘した。乾いた、濁っていない、しかし微妙に遅れた音。

 「ラグの面が“面”で当たり過ぎる。点で始め、面に終わるべきところが、最初から面になっている。

  研ぎは、角ではなく“平面の端”を落とす。紙やすりの番手を一段上げ、最後は油石で“泣かせる”」


 「泣かせる?」

 児玉が目を細める。

 「石で撫で、金属の声を微かに変えるのです。

  耳で聴く。数字の外にある微調整を、“同じ耳”で揃える」

 「耳を規格化できるのか」

 「できます」

 有坂は胸を張った。

 「基準音を作り、教場で繰り返し叩き込みます。

  “この音が、正しい嵌合の音だ”と」


 藤村は、わずかに目を細めた。

 (耳。――そうだ、工業は目だけでは足らない)

 彼の脳裏に、遠い未来の工場が一瞬よぎる。ラインの上を流れる無数の部材、同じ音、同じ振動。人が、音で異常を知る世界。


 扉の向こうがざわめいた。大阪兵工廠から、急報が入ったのだ。砲身素材の試溶解、第一次試験――温度が足りない、という報。

 藤村はすぐに指示した。

 「炉に風を。送風機を倍にしろ。

  温度計だけを信じるな。黄色から白へ、白から“白い青”へ――炎の色で見よ。

  冷却は急がぬ。外から冷え、内に熱が残ると割れる。炉の戸を半ばだけ開け、夜通し置け」

 「了解」

 児玉が電信係を呼び、短打で指令を送らせる。鍵の音が乾いて響き、細い線の向こうへ、熱のことわりが走っていった。


 有坂が、静かに図面を巻いた。

 「総理、ひとつお願いが」

 藤村が顎を向ける。

 「小石川の工場に、子どもたちを招きたいのです。

  銃を触らせるのではなく、銃“になる前”の鉄と木を見せたい。

  未来の工匠を、工場の匂いで育てたい」

 室内の空気が、ふっと和らいだ。

 児玉が頷く。

 「良い考えだ。工場は、戦場の手前にある学び舎だ」

 藤村は一瞬、遠いものを見る目をしてから、静かに言った。

 「やれ。

  この国は、鉄と一緒に人も鍛えねばならん」


 窓の外、雲が薄く裂け、淡い光が机上の鋼を撫でた。

 ヤスリは再び鳴り始め、ゲージはまた沈黙のままに判定を続ける。

 紙の上の線は濃くなり、指先の油は黒くなる。

 音、光、匂い――すべてが少しずつ整い、やがて一挺の小銃という“答え”へと収束していく。


 昼の鐘が遠くで鳴った。

 誰も席を立たない。

 有坂は鉛筆を替え、義信は工程表に赤い印を付け、児玉は通信簿に次の指令を書き足す。

 藤村は、作業台の端に指先を置いた。木の冷たさ、鋼の冷たさ、紙の温かさ。

 「――続けよう」

 その一言が、午後の長い営みを再び動かした。


 この冬の空の下で、鉄はまだ鳴らない。

 だが、鳴る準備は、確実に始まっていた。

冬の空は、鉛のように重たかった。

 東京近郊の試射場。霜を含んだ風が吹き抜け、丘の草を白く揺らしている。

 広い演習地の中央に、銀灰色の新型小銃と、黒光りする鍛鋼砲が並んでいた。

 冷えた空気の中に漂うのは、金属と油の匂い。そして、緊張の匂い。


 藤村晴人は、外套の襟を立てながら無言で銃列を見渡した。

 義信、児玉、有坂、技師たち、記者たち――数百の視線が一点に集中している。

 この日、この瞬間を歴史が記すだろう。

 輸入ではない。模倣でもない。

 “国産”という言葉が、初めて銃身の中で息をする日だ。


 「有坂」

 「はい、総理」

 「頼む。あとは――鉄と火薬に語らせよう」


 有坂成章は深く頷き、構えた。

 彼の肩に載せられた小銃は、まだ試作段階の一挺――だが、その金属の光は確かに“日本の鉄”の色をしていた。

 冷えた空気が張り詰める。

 標的は三百メートル先。白布に黒い円。

 兵士たちが息を飲み、筆記官が秒針を見つめる。


 有坂の指が、引き金にかかった。

 「――発射!」


 乾いた破裂音。

 「パン!」


 煙はほとんど出ない。

 次の瞬間、標的中央に黒い穴が開いた。

 その場に微かなざわめき。

 有坂は、迷わず続ける。

 「パン、パン、パン、パン、パン!」


 六発――わずか三秒。

 金属のボルトが滑らかに往復し、薬莢が空に舞った。

 夕光を受け、金の火花が弧を描く。

 標的に、六つの弾痕が円を描くように並んでいた。


 「……命中!」

 観測員の叫びが冬空に響いた。

 沈黙のあと、一斉に拍手が湧き起こる。

 藤村は微笑を見せず、ただ静かに帽子のつばを押さえた。


 「黒煙がない」

 義信が呟く。

 「無煙火薬です。欧州と同じ調合ですが、成分の配分は有坂式です」

 「なるほど――“同じ”ではなく“自分たちの式”か」

 藤村の声は低く、しかしどこか誇らしかった。


 「次は砲だ」


 丘の奥から、五門の新型砲が並べられる。

 砲身は滑らかで、黒い鏡のように冷たい。

 大阪兵工廠の職工たちが、震える手で弾を運び込む。

 彼らの中には、あの破裂事故を経験した者もいた。

 その瞳に宿るのは、恐れではなく、信念だった。


 児玉源太郎が前へ出た。

 「準備完了!」

 「装填!」

 砲弾が、ゆっくりと砲口へ飲み込まれる。

 「目標、二千メートル先の岩壁!」

 号令が飛ぶ。

 空気が凍る。

 藤村が、軽く顎を引いた。


 「――撃て」


 轟音。

 大地が鳴った。

 「ドオオオオオォン!」

 耳を裂くような音とともに、地面が震える。

 砲弾が飛び、わずか数秒後――

 「ドガァン!」

 遠くの岩壁が爆ぜ、黒煙が空に立った。


 砲身、無事。

 割れも、歪みも、ない。


 職工たちが一瞬の沈黙ののち、膝から崩れ落ち、歓声が上がる。

 誰かが泣き、誰かが笑い、誰かが両手を天に突き上げた。

 「成功だぁ――!」

 その声は、鉄をも震わせた。


 義信が藤村を振り返る。

 「父上――」

 「見事だ」

 短く、それだけ言った。

 声が震えていた。

 藤村晴人、六十七歳。

 明治の風を見届け、近代の扉を叩いた男の眼に、涙が滲んでいた。


 「銃は兵を守り、砲は国を守る。

  ――そして、技術は未来を守る」


 静かな声だったが、誰よりも遠くへ届いた。

 児玉は深く頭を下げ、有坂もまた直立の姿勢で敬礼した。

 「総理。この銃に……私の名を」

 「うむ。『有坂式小銃』として、歴史に刻もう」


 拍手が起こる。

 しかし藤村の表情は、喜びだけではなかった。

 あの事故で倒れた職工の名が、ふと脳裏をよぎった。

 (君たちの痛みが、この成功を支えている)


 藤村は帽子を脱ぎ、雪の降り始めた空を見上げた。

 降り始めた粉雪が、熱を持つ砲身の上で瞬時に溶ける。

 白い蒸気が、薄く、淡く、空へと消えた。

 それはまるで、戦の亡霊を鎮める祈りの煙のようだった。


 「……技術は、人の命の上に立つ。忘れるな」

 その一言に、有坂は黙って頷いた。

 拳を胸に当てる。

 児玉は、わずかに目を伏せた。


 やがて、記者たちが駆け寄る。

 「総理! 新兵器の正式名称を!」

 「報道は?」

 藤村は、静かに言った。

 「“国産小銃および砲、試射成功”。

  だが――見出しは『鉄が鳴った日』と書け」

 記者たちは一瞬戸惑い、すぐに理解したように頭を下げた。


 雪が強くなる。

 空気が静まり返る。

 試射場には、熱気と静寂が同時に満ちていた。


 その夜。


 藤村邸・書斎。

 灯火のもと、藤村は静かに日誌を開いた。

 机の上には、破裂した旧砲身の一片が置かれている。

 黒く焦げた鉄の断面は、今も彼に語りかける。


 「失敗を恐れた者は、鉄を叩けぬ」

 藤村は万年筆を取り、文字を記す。


 『技術主権――それは、国の心臓を自らの手で動かすこと。

  外国に頼らず、己の鉄で立つこと。

  今日、日本は初めて自らの血で鉄を鍛えた。』


 ペン先が止まる。

 窓の外、東京の夜。

 街の灯りがわずかに瞬く。

 遠くから、工場の汽笛が聞こえた。

 鉄を叩く音、炉の爆ぜる音――それらすべてが、国家の鼓動に聞こえる。


 藤村はゆっくりと立ち上がり、炉の残り火に手をかざした。

 「……鉄は、人の意思で鳴る」

 小さく呟く。

 炎が揺れ、光が眼鏡の縁を撫でた。


 ――その夜、雪は静かに積もり、

 翌朝、東京の街は白銀に覆われた。


 門の前で立ち止まり、藤村はひとり空を見上げる。

 遠くで、兵工廠の煙突から上がる白煙が立ちのぼるのが見えた。

 その煙は、もう異国のものではない。

 この国の鉄、この国の火、この国の未来。


 「……次は、量産だ」


 誰に言うでもなく、そう呟いた。

 その声は、雪に吸い込まれ、

 そして静かに、東京湾の風に乗って消えていった。

――そして、この物語はエピソード400話を迎えました。

ここまで読み続けてくださった皆さまに、心から感謝します。


物語は残り200話。

終着点はすでに見えています。

最後の一行まで、藤村たちの時代を描ききります。


次回からも、どうかお付き合いください。

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