365話:(1892年・1月)冬の煙、永田町にて
東京・芝。まだ夜が明けきらぬ午前五時。
春を過ぎたとはいえ、朝の空気はひやりと肌を刺す。
静まり返った邸内に、マッチを擦る小さな音が響いた。
火がともる。
銀細工のパイプの先で、赤い火が揺らめく。
大久保利通、副総理。六十一歳。
濃厚な指宿煙草を深く吸い込み、肺の奥まで香りを染み込ませた。
紫煙がふわりと天井に立ち上り、薄明の部屋を霞ませる。
「……この煙でなければ、頭が動かん」
そう呟く声は、ひどく静かだった。
もはや癖というより、生きる律動である。
彼にとって煙草とは、思考の助けであり、記憶の慰めであり、孤独の友でもあった。
寝間着のまま鏡の前に座る。
四角い顔の中に、年齢以上の疲労が滲んでいる。
額の上に手を当て、ため息をつく。
――今日も、隠さねばならぬ。
ポマードの瓶を開け、指で丁寧に髪を撫でつけた。
髪の間からのぞく薄い部分を、丹念に整えていく。
「この禿を隠すのに、毎朝どれほどの時間を使うことか……」
そうぼやきながらも、鏡の中の自分を見つめ、最後にうなずいた。
「よし、まだ大丈夫だ」
洋服を着込み、黒いベストを締める。
胸元に金鎖の懐中時計。
西洋式の洗面器に水を張り、顔を洗う。
ガラス器具の青い縁が朝の光を反射し、薄い虹を映した。
顔を拭くと、再びパイプに火をつける。
吸い込んだ煙の熱が、頭の奥を覚醒させる。
窓の外、庭の梅の葉が風に揺れた。
襖が静かに開く。
妻・満寿子が顔をのぞかせた。
「あなた、また朝から煙草ですか」
「……すまん。これを吸わねば心が落ち着かん」
「お医者さまが言いましたでしょう。一日十本以内に、と」
「十本以内……うむ、なるべくな」
満寿子は、呆れたように小さく笑った。
「せめて、朝食の時くらいは置いてください」
「うむ」
食堂に入ると、木の香りが漂っていた。
机の上には湯気を立てる味噌汁と焼き魚、そして――
五種類の漬物が並んでいる。
大久保はそれを見て、頬を緩めた。
「おお、今日は豪勢だ。昨日は三種だったな」
「はい。あなたが不機嫌になるので、五種類にいたしました」
「うむ、漬物はな、政治と同じで“多様”でなければ味が締まらん」
「言い訳がお上手ですね」
満寿子が微笑み、彼は照れ隠しに湯飲みを取った。
湯気の向こう、ふと息子の顔が浮かぶ。
――利武。今ごろは、イェールの校庭を歩いているか。
石造りの尖塔、白い桜のようなリンデンの並木。
異国の空の下、彼は法学と経済を学んでいる。
「昨夜、電信が届きました」
満寿子が小さな封筒を差し出す。
「アメリカの郵便局から、ボストン経由で」
利通は指先で封を割り、紙を取り出す。
――“父上。ニューヘイブンの春は遅く、学生たちは芝生で議論をしています。
講義のたび、私は日本の行く末を思います。国家とは理屈ではなく信義で立つもの――その言葉を胸に刻みました”
筆跡は几帳面で、しかし力強かった。
「理屈ではなく、信義……か」
大久保は呟き、パイプの火を見つめる。
「お前に教えられる日が来るとはな」
満寿子が静かに笑う。
「利武さんも、お父さまによく似ています」
「似ておらん。あいつは、まだ理想で動ける若者だ」
そう言いながら、眼差しは優しかった。
食後、湯飲みの底に沈んだ茶葉を見つめ、紫煙を吐く。
――戦いの場、永田町へ。
満寿子が外套を差し出す。
「今日も遅くなりますか?」
「閣議のあと、藤村総理と打ち合わせがある」
「無理をなさらぬように」
「心配するな。……まだ倒れんさ」
軽口を叩きながらも、その眼の奥には疲労の影が宿っていた。
門の外で、馬車が待っていた。
御者が帽子を取って深く礼をする。
「副総理閣下、お迎えに上がりました」
「ご苦労」
大久保は一度、背後を振り返る。
満寿子が、静かに立って見送っていた。
「行ってまいります」
「行ってらっしゃいませ」
馬車がゆっくりと走り出す。
朝靄の中、芝の街並みが流れていく。
その車中で、彼は再びパイプに火をつけた。
煙が揺れ、窓越しの光に溶けていく。
――また、一日が始まる。
頭の中でそう呟きながら、大久保利通は窓の外を見つめた。
背に残る家族の温もりが、やがて煙のように消えていくのだった。
午前七時過ぎ。芝から永田町へ向かう馬車の窓を、朝の光が斜めに射し込んでいた。
風はまだ冷たく、靴底に響く蹄の音が、街路樹に溶けて遠ざかる。
大久保利通は背筋を伸ばし、胸の前で懐中時計を開く。
針は七時十五分。閣議の時刻まで、あとわずか十五分。
彼の指先から、煙草の香がわずかに漂っていた。
パイプはすでに十本目。医師の警告など、とっくに意識の外に追いやっている。
「……今日も、戦場のようだな」
独りごちて、窓の外に目を向けた。
霞の向こうに、官邸の白壁が静かに浮かび上がる。
かつて戦火を越え、改革を担い、国を築いたその先に――今度は、制度と数字という新たな戦が待っている。
馬車が停まり、御者が素早く扉を開ける。
「副総理閣下、到着いたしました」
「ご苦労」
外套を翻しながら、利通は石畳を踏みしめて進む。
玄関前で控えていた書記官たちが一斉に頭を下げた。
「総理閣下はお待ちでございます」
「すぐに伺おう」
廊下は磨き上げられ、窓から射す光が床に白く帯を描いている。
利通は無言で歩いた。靴音が、やがて扉の前で止まる。
扉の向こう――この国の頂点。
深く息を整え、静かに扉を開けた。
「失礼いたします」
広間の中央に、一枚の地図が広げられていた。
朝日を受けた墨線が、鉄道網と国境線を浮かび上がらせる。
その前に立つ一人の男。
藤村晴人――総理大臣、徳川一門の重鎮。
白髪混じりの髪をきちりと束ね、和装の上に洋式の外套を羽織っている。
背筋はまっすぐに伸び、まるで剣のように凛としていた。
「大久保か」
低く、しかし明瞭な声。
利通は深く一礼した。
「おはようございます、総理閣下。朝よりお手を煩わせます」
「よい。――座りたまえ」
「はっ」
藤村の指先が地図の一角を指す。
「この線をどう見る。常陸から北へ延びる鉄道案だ」
「はい。陸軍省は兵站路として、海軍は港湾連結を希望しております。双方の意見を取りまとめた草案を、昨日提出いたしました」
「読んだ。……よくまとまっていた。だが、陸奥が難色を示している」
「外債の調達を巡る件でしょうか」
「うむ。欧州筋からの利率が、想定よりも一分高い。財政局も頭を抱えている」
「それでも、進めねばなりません。清国の北洋艦隊が南下すれば、我が国は輸送網で負ける」
「……危機感は共有しているのだな」
「はい。閣下のご判断が早ければ、海陸とも動けます」
藤村はわずかにうなずいた。
「あなたほど実務を理解している者は少ない。だが、私は政治において“力”よりも“秩序”を重んじる」
「心得ております。ゆえに私は、“秩序を支える力”でありたいと存じます」
その答えに、藤村の口もとがかすかに緩む。
「……あなたのそういうところは、昔から変わらんな」
「恐れ入ります」
部屋の奥の棚に、一通の封書が置かれていた。
藤村はそれを手に取り、机の上にそっと置く。
「鹿児島からの書状だ。西郷隆盛殿より」
「……西郷殿から、ですか」
利通は一瞬だけ表情を揺らした。
藤村は封を切り、文面を読み上げる。
――“国家を立つるは剣にあらず。剣を持つ者の誠にあり。
富も学も、誠なきところに腐る。そなたらが築く日本に、その魂を忘れるな。”
読み終えると、部屋に沈黙が満ちた。
風が障子を鳴らし、紙の端を揺らした。
利通はしばらく目を閉じてから、深く頭を垂れた。
「……あの方らしい言葉にございます」
「そうだな。彼は依然としてこの国を案じている」
「我々もまた、その誠を背負っております」
藤村の瞳がわずかに細まる。
「あなたが生きておるのは、あの薩英戦の夜を越えたからだ。
――生き延びた者には、最後まで見届ける義務がある」
「はい。命あるかぎり、閣下のもとで務めを果たす所存です」
その瞬間、机の上の懐中時計が小さく鳴った。
針は七時半。
藤村は椅子から立ち上がる。
「閣議の時刻だ」
「準備は整っております」
二人は並んで扉へ向かった。
廊下の向こう、会議室の扉の前では児玉源太郎と陸奥宗光がすでに控えている。
「副総理、資料は揃いました」
「ご苦労」
利通は受け取った分厚い書類束を両手で支え、藤村の背に続いた。
扉が開く。
中には、各省の長官たちが整列し、机上に並ぶ資料の上で筆が止まった。
空気が張り詰める。
藤村が正面の席に着くと、全員が一斉に起立した。
「――閣議を始める」
その一言が響く。
天井の灯が淡く揺れ、外の光が硝子越しに差し込む。
沈黙の中で、大久保は深く一礼した。
その顔には、煙草の影も、疲れもなかった。
ただ、忠臣としての静かな決意だけがあった。
会議室の扉が静かに閉じられた。
磨かれた長卓の上に、白い紙背が一様に並ぶ。硝子窓の向こうは薄曇り、灯火は日中にもかかわらず淡く灯され、冬の名残を匂わせた。紙の擦れる音が一度だけ走り、ぴたりと止む。
藤村晴人が正面に着座する。わずかな頷きだけで、場の空気が整列した。
「――議せよ」
その一語に、席次の上から順に、書類が静かに開かれてゆく。
大久保利通は半身を正し、右手で配布資料を押さえた。筆致のはっきりした表紙に、三つの題目が黒く躍る――海軍拡張・造艦計画・兵站通信。
「総理閣下。まず、海の件にございます」
「述べよ」
「仮想敵の艦隊は、近年とみに装備を改め、数・排水量とも東亜有数。黄海方面での打撃戦を辞さぬ構えと見ます。これに対し、我が方は“数で追う”のではなく、“速力・砲戦距離・練度”にて先んじ、戦域を我が手で選ぶべきにございます」
西郷従道が一歩、椅子を引いた。
「閣下、海軍として同意いたします。既存の快速巡洋艦に、新鋭の装甲巡洋艦を重ね、さらに魚雷艇を群として用いる。艦隊の骨格はすでに見えつつあり、これを三年で形にいたします」
児玉源太郎が頷く。
「陸は海の選ぶ決戦海域に呼応し、兵站線を短く、強く結びます。鉄道・電信・補給倉庫を一体に起こし、前線三十日、後方六十日、内地九十日の定量備蓄を保ちます」
藤村の指が、卓上の作図を軽く叩いた。
「数字を」
大久保は合図し、書記官が図面を広げる。横須賀・呉・佐世保に赤の楔、舞鶴に薄青の印。
「初年度――造艦・工廠拡張・通信網更改を主に、三百五十万円。第二年度、艦隊骨格を整える段に入り四百五十万円。第三年度、艦隊・兵站・教練すべてを同時に回し、五百万円へ。歳出の山を三段に分け、財政の息を切らせぬ策にございます」
陸奥宗光が紙背を持ち上げ、薄く笑んだ。
「利通殿、懸案の資金は?」
「内、石油・鉱金の収益を転用百五十、輸出入の調整課税にて百五十、残りは内地歳出の繰り回しと、短期の公債にて。一時の借りはいたしますが、返しは油と金で賄えます」
「利率は」
「欧州筋よりの提示、想定より一分高い。しかし三段山の配分なら、初年度の負担は軽い。交渉は継続いたします」
藤村は短く「よい」とだけ答えた。
西郷従道が立ち上がり、別紙を掲げる。
「艦の内訳をご覧くださりませ。――装甲巡洋艦四、快速巡洋艦六、二等巡洋艦四、駆逐艦二十、魚雷艇群二十四。大艦偏重に背を向け、実戦で“先に斬る”刃を揃えます。砲は長射程を主とし、装填・測距の訓練を徹底。信号・電信は新式に改め、単艦の腕ではなく“艦隊の眼と手”で勝ちに参ります」
海図の上、黄海に白い円が幾つも重なる。交戦距離を表す薄墨の輪が、北へ、また南へと呼吸するように息づいて見えた。
児玉が続けた。
「陸は電信・列車・輜重を一本の骨に致します。主要幹線に“軍時刻”を定め、平時の旅客列車とは切り分け、動員の刻に躊躇い無しといたします。連絡将校を各師団に常置し、参謀本部と針の糸で結ぶ所存」
「演習は」
「春・夏・冬の三期。海軍の艦砲射撃日程に合わせ、陸は沿岸上陸・鉄道輸送・野戦築城を連携で回します。戦は剣で始まり、飯で続き、包帯で終わる――順を乱しませぬ」
静謐のうちに、紙端がめくられる音だけが重なる。
やがて、保守派の長老が咳払いをひとつ。
「外の諸国は、これをどう見る」
陸奥が答えた。
「海は数で競わず、陸は兵站で息を切らせぬ。――あちらは、我が国が**“短期に決し、短期に引く”**と悟りましょう。長く抱えず、しかし容易に侮らせぬ。これが肝要」
「引く、とな」
「はい。領土を広く抱けば税は薄まり、兵は散ります。取るのは“戦の果実”であって、“底なしの泥”ではございません」
室内に、短い沈黙が降りた。紙燭の火がかすかに鳴る。
藤村が視線だけで合図した。
大久保は背筋をさらに正し、声を落として言う。
「総理閣下。――我らが選ぶのは、勝ち方でございます。数で勝とうとも、終わらねば敗け。終わらせるための剣と秩序を、三年で整えます」
その“終わらせる”の一語に、数人の胸が微かに鳴った。
西郷従道が海図の一角を指で押さえる。
「沿岸防備につきましても一言。舞鶴・室蘭・下関に固定砲台を増設、磁針盤・測距儀を新調し、各港に機雷哨戒を置きます。港は砦、艦は刃。砦が刃を休ませ、刃が砦から打って出る――この往還を絶やさぬよう、工廠と給炭所を充実させます」
児玉が即応した。
「陸からの給炭・給水列車は、駅構内を軍用線で分離、横付けにて三十分で完了。荷役は民から募った熟練を雇い、軍は“速さの規律”だけを強く命じます」
会議の熱が、しかし騒がしさには変わらない。
各人の声は抑えられ、語尾は整えられ、議論は鋭く、しかし静かに進む。
やがて、財の項に至ると、数本の視線が一斉に大久保へ集まった。
「……副総理」
「承知」
利通は頁を指で弾き、淡々と読み上げる。
「第一年次――造艦三十、工廠・乾ドック拡張四十、電信・測距二十、海陸合同演習十、兵站倉整備二十、――計一二〇。陸の常備拡充二百、教官育成三十、予備二十、――計二五〇。合わせて三百五十。第二年次、艦と兵站の二重回転で四百五十。第三年次、維持と増強を同時に回し五百。以上」
硬い数字が、しかし奇妙に温度を帯びて室内を巡った。
それは、虚勢でも虚構でもない、実務の熱であった。
長老がもう一度、咳をしただけで黙った。
陸奥は短くメモを取り、視線で“行ける”と告げる。
西郷は背を伸ばし、児玉は頷いて筆を置く。
藤村が両掌を静かに卓に置いた。
「――よい。段階を違え、息を切らせぬ。海は刃を、陸は骨を鍛えよ。外は、陸奥に委ねる。算盤は、副総理に任す」
言い切って、わずかに間。
「ただし、軍紀は最初に厳しゅうせよ。民を荒らすこと、断じて許さぬ」
児玉が立って深く頭を垂れた。
「御意。略奪・暴行は即時厳罰。教官任用の段にて、まず“規律の教え”を入れます」
西郷も続く。
「艦の寄港地においても、同じ戒めを。海軍は模範を以て遇します」
紙束が閉じられ、硝子窓の外で雲がほどける。
薄い陽が床に長い帯を引き、その光の端で、朱の印が柔らかく光った。
藤村は席を立たず、静かに締めくくる。
「諸卿。――我らが戦は、国を長らえさせるための戦だ。
刃を掲げる日が来ようとも、刃を納める日を忘れるな」
その時、誰も声を発しなかった。
ただ、椅子の背が一斉に鳴り、深い礼が波のように卓を巡った。
大久保はゆっくりと頭を上げ、視線を正面に据える。
主の言葉を、胸の芯に深く沈めるために。
会議は、形式に従い淡々と次項へ移った。
港湾の防火、弾薬庫の耐火扉、測候所の増設――いずれも戦の前に整えておくべき“静かな武器”である。
筆が走り、朱筆が入り、端正な字で日付が入る。
日の移ろいに応じて灯が一段明るさを増し、紙の白はわずかに温度を帯び、窓外の冬色はほどけていった。
最後の一枚に朱が捺される。
藤村が短く頷き、合図もなく全員が起立する。
「――よい。各位、直ちに取りかかれ」
その一言で、重い石が音もなく転がり出したかのように、国の歯車が回り始める手触りが室内に満ちた。
廊下に出ると、冷たい空気が肺を洗った。
大久保は胸ポケットから小さなパイプを取り出し、指で弄んだだけで火は点けない。
(吸わずとも、まだ頭は冴えている)
そう心中で笑い、すぐに表情を消す。
遠く、官邸の庭で梢が鳴った。
風向きが変わる。
利通は歩を止めず、帳場へと向かった。
――秩序を支える力は、机上の数字を背に、静かに、確かに走り出していた。
会議が終わったあと、永田町には静寂が戻っていた。
空はすでに群青を帯び、東京の冬の風が樹々を鳴らしている。
大久保利通は、一人官邸の玄関を出た。
――昼の熱気が嘘のようだ。
あれほど多くの声が飛び交っていた会議室も、今は灯りを落とし、外の寒気が隙間風のように忍び込むだけ。
彼は外套の襟を立て、夜空を仰いだ。
雲の切れ間に星が一つ瞬いている。
「……冷えるな」
吐く息が白い。
芝の方角から漂う炭の匂いと、遠くの汽笛が混じり合う。
国の中枢にありながら、どこか寂れた音だと思った。
門の外には、待機していた馬車がある。
しかし、利通は乗り込もうとせず、歩を官邸の裏庭へと向けた。
薄い雪が芝を覆い、足跡を残しては静かに埋めていく。
白く凍った池の面に、月光が映っていた。
ポケットから銀のパイプを取り出す。
指宿煙草を詰め、マッチを擦る。
火がともり、赤い光が凍てた空気の中でゆらめいた。
「……生きている、か」
煙を吸い込みながら、彼は自分の胸の奥を確かめるように息を吐いた。
胸に痛みが走る。
医者は言った――肺がもう持たぬ、と。
(だが、今はまだ倒れるわけにはいかん)
藤村閣下の計画は、ようやく動き始めたばかり。
陸も海も、整備は道半ば。
自分の務めは、ただ数字と制度でその背を支えること。
指先で煙管を軽く弾く。
火の粉が雪の上に落ちて、消える。
その小さな火が、自分の命のように見えた。
「……お前たちは、まだ走れる」
藤村、児玉、義信、西郷従道。
名前を胸の内で一つひとつ呼ぶ。
彼らこそ未来を担う世代。
自分はもう、影の支えで十分だ。
そのとき、廊下の奥から足音がした。
「副総理、寒うございますぞ」
声の主は、藤村の側近である中山書記官だった。
「総理閣下が、あなたをお呼びです。まだ官邸にお残りで」
「閣下が……?」
「はい。ご自身の書斎にて」
利通は灰皿代わりに雪を掬い、パイプを押し込んだ。
煙が消える。
「……わかった。すぐに参る」
官邸の二階、総理執務室。
障子越しに暖かな灯りが洩れている。
中へ入ると、藤村晴人が一人、書類を読んでいた。
机上には鉄道の設計図と、軍需支出の表。
その横には、松明の火が揺れている。
「遅かったな、大久保」
「申し訳ございません。外の風に当たっておりました」
「風も悪くない」
藤村は顔を上げた。
その目は、昼の会議よりもずっと穏やかだった。
「……今日の閣議、よく整えてくれたな」
「閣下の方針が明確でございました。私は数字を並べただけです」
「数字で国を動かすのは、容易ではない」
藤村の声には、わずかに疲労が滲んでいた。
しばし、二人の間に沈黙が落ちた。
外では風が強くなり、障子がかすかに鳴る。
やがて藤村が言った。
「大久保。――己の体を、無理に使うな」
「閣下……?」
「医師の報告を聞いた。肺を痛めているそうだな」
利通は一瞬、息を飲んだ。
「……お耳に入りましたか」
「すべて耳に入る。だが責めるつもりはない」
藤村は机から小さな封書を取り出し、利通に差し出した。
「これは、かつての薩英戦で共に戦った者たちの名簿だ。
今は官を辞して農に戻った者も多い。彼らに、手紙を送ってやれ」
「……激励の文を、ということでしょうか」
「いや。感謝だ。あの戦で命を落とさなかった者の責任は、今も続いている。
だがそれを支えるのは、あなたのような人間だ」
利通は言葉を失った。
胸の奥が熱くなる。
藤村は続ける。
「国を立てる者は、声を上げる者ではない。
声を殺して、支える者だ。――あなたは、よくやっている」
静かに頭を下げる。
「ありがたきお言葉……」
「……だが、一つだけ命じておく」
藤村の声がわずかに鋭くなる。
「次に倒れたら、無理に戻るな。
この国は、もはや一人の肩で立ってはおらん」
「……心得ております」
風が止み、障子に月光が映る。
藤村はふと笑みを見せた。
「たまには家族の顔を見に帰れ。
利武殿は、今いずこに?」
「アメリカでございます。イェール大学に留学中です」
「そうか。……あの少年が、もう海を越えるとは」
「ええ。帰る日を楽しみにしております」
「では、その日まで生きておれ。――煙草は減らせ」
「……努力いたします」
二人は、声を立てずに笑った。
藤村が筆を置き、灯を少し絞る。
「今夜は帰れ。永田町の夜は冷える」
「では、失礼いたします」
深く一礼して部屋を辞す。
廊下に出ると、月明かりが硝子越しに差していた。
静かな夜。
利通は足を止め、振り返る。
扉の向こうで、藤村晴人がまだ机に向かっている。
その姿をしばし見つめ、彼は帽子の庇に手を当てて敬礼した。
「……閣下。この国は、必ず立ちます」
外へ出ると、雪がわずかに降り始めていた。
馬車の屋根に白い粒が積もる。
利通は再びパイプを取り出したが、火をつけるのはやめた。
指で軽く回しながら、夜空を見上げる。
(明日はまた、閣議だ)
(そして……この国は歩みを止めない)
馬車が音もなく走り出す。
街の灯が遠ざかり、紫煙の匂いだけが外套に残った。
その夜、永田町の丘を包んだ冷たい風の中に、
一人の政治家の静かな覚悟が、確かに刻まれていた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
面白かったら★評価・ブックマーク・感想をいただけると励みになります。
気になった点の指摘やご要望もぜひ。次回の改善に活かします。




