35話:天災、民災
本話は災害設定を「地震(余震)」に統一し、晴人の葛藤・避難所での対立・物資逼迫などを再構成しました。
制度による“救い”と“限界”をより明確に描く改稿版です。
朝の空は、不釣り合いなほど穏やかだった。竹の葉の先に露が丸く乗り、陽が当たるたびに小さく震える。けれど胸の底では、昨日から続く微かな揺れが、まだ止んでいない。
安政二年六月。大地震から数日。水戸城下は、いま「次」を待つ街になっていた。
藤村晴人――茨城県庁で福祉、災害対策、財政を渡り歩いてきた男は、天守の物見台から城下を見下ろす。屋根の瓦の傾き、道の割れ目、石垣の面外剥落。目は被害を数え、指は地図の朱を増やす。
「土嚢再確認、避難札は南北の海道と寺子屋裏まで。……よし。各村の“高台移動”は、見回りが判断できる範囲で前倒しだ」
控えの若侍が走る。土木に明るい者を束ねた“普請組”、寺社・寺子屋を母体にした“避難所方”、町年寄と連携する“配給方”。名は古く、動きは新しい。呼び方が違うだけで、機能は現代の災害対策本部だ。
「筋交いの入れ直しは?」
「古家は優先で。梁のたわみが出た家には仮柱を入れております」
「石垣の“腹”は鳴っていないか」
「二の丸北面、時おりギシリと」
晴人は短く息を呑む。余震で崩れるのは、叩かれた“次”だ。崖は緩み、堤は痩せ、土蔵の壁土は指で崩れるほどに乾いている。
寺子屋では、静が子らを縁側に整列させ、声を張った。
「地震が来たら、机の下。揺れが止んだら、私の背中につづく。泣くのは歩きながら。いいね」
「はい!」 小さな声が一斉に揺れ、板間を跳ねた。静の結んだ鉢巻は凛として白い。あの子は侍の家ではない。だが、侍よりも背筋が通っている。
晴人は地図に小さく四つの点を打つ。竜ヶ渓、梅ヶ丘、下館北、二の丸北面。どれも地盤が危ない。
「配給方は広場三か所。炊き出しの献立は根菜を多めに、湯冷ましを随伴。井戸は濁りの報告あり、検水を急げ」
「はい!」
数字が晴人の脳裏で走る。避難者見込み三百二十。米の在庫は乾燥飯換算で四日分、味噌と塩は五日分、薪は三日分。持続日数は在庫総量÷(人数×一人当たり配給量)。脳内の算盤が弾き、眉間に皺が寄る。――余震が長引けば、二日で赤に沈む。
廊下の向こうから、ふと笑い声がした。登勢――藤田東湖の母が、薄い湯気の向こうで粥を啜っている。
「やさしい味だねぇ。……揺れていても、腹が落ち着くよ」
晴人は、胸の鈍い石が半分だけ軽くなるのを感じた。こういう時の「食」は、制度であり、慰めでもある。
「登勢様。今日は念のため、寺の建具を縄で固定します。落下を防ぐ工夫です」
「おや、そんな先の先まで……。あんたの心は、揺れぬのだねぇ」
晴人は笑って首を振った。――揺れてばかりだ。だからこそ、仕組みで手を固定する。
空が少し白む。遠くで地鳴りのような低い唸りがした。風ではない。土でもなく、空でもない、腹の底を擦る音。
物見台の柵に手を置いた指が、わずかに震えた。
「……来る」
声に出した瞬間、静かな朝は終わった。
最初の衝撃は、足裏から突き上げる“ドン”だった。次いで横揺れが長く続き、梁が軋み、障子の桟が歯のように鳴いた。瓦が一枚、二枚、白い尾を引いて落ちる。
「子ら、机の下!」 静の声が板間を裂く。小さな身体が一斉に潜り込み、泣き声が机の影で丸く震える。
庭の石灯籠が傾き、土塀の上端が微かに波打った。揺れは途切れず、目の前の柱がわずかに捻れて見える。
「高台へ! 余震は続く。荷車は置け、命を先に!」
晴人の号令で寺子屋の列が動き出す。子の手は子の手と、教師の背は小さな手と。列の先頭に静、殿に若衆頭。足元は砂が流れ、膝まで沈む。路地の敷砂が剝がれ、車輪跡がみるみる溝へ化けていく。
二の丸北面。石垣が低く呻いた。
「腹が切れるぞ、退け!」
普請組が木楔を打ち、丸太の支えを急場に渡す。だが、面の一部が外へ膨らむ。次の余震が追い打ちをかけ、石が一枚、また一枚、鈍い音で弾け落ちた。
「通せんぼだ、回れ!」 伝令が駆け、道を逸らす。
その頃、長屋の一角では梁が落ち、幼子の泣き声が壁の向こうから細く滲んでいた。
「子が三つ、内に取り残された!」
土方歳三は袴を高く結い、鉢巻を締め直す。
「梁の角度は――」
晴人が一瞥で寸法を測る。「ここを支点、こっちをテコ。三人で一気に持ち上げ、残りが引き出す」
土方は頷き、肩に丸太をかけた。筋が縄のように浮き、丸太が軋む。
「今だ、引け!」
泥の中から、小さな手が現れる。土方はその手首を包み、胸で抱いた。
「怖くない。外だ。息を吸え」
子の目に、はじめて空が映る。涙と土で灰色になった頬に、風が触れた。
対岸の農家では、裏手の崖が裂けた。
「土砂が来る!」
河上彦斎が飛び込んだ。背の曲がった老婆が敷居で動けない。河上は刀を抜かない。代わりに鞘を梁に噛ませ、仮の支点にする。腰を落として背負い、踵で床を蹴る。
土砂が縁側を舐め、畳が水を吸って重く沈んだ。
「息を、長く」
「お、おまえさん、侍かい」
「いえ、いまは人夫です」
老婆が笑い、すぐに咳いた。笑いの軽さと、土の重さが、同じ画面の中で揺れる。
広場には避難者が集まり始めた。配給方が釜を据え、湯を沸かす。
「湯冷ましを先に。井戸は濁っている、直接飲むな!」
晴人は声を張りながら、頭の隅で数を弾く。――想定より五十多い。炊き出しは二巡目で尽きる。薪は足りない。
「藩士は屋外で。上着は脱いで子の肩に。……いい、武士は飢えても死なない。先に子だ」
土方が、助け出した子らに自分の羽織を掛けた。濡れた布が重く、肩で息をしながらも、彼は一度も振り向かなかった。
夕刻、余震はやっと小康に向かう。だが、音は止まない。遠くで崖が鳴り、近くで梁が鳴る。
「二の丸北、石垣一部崩落。大工町、家屋五棟倒壊。竜ヶ渓、土砂流出、行方知れず数名!」
伝令の報を噛み砕き、晴人は静かに頷いた。
――今は救う。数は夜に数える。
登勢は寺の一隅で、小さく手を合わせていた。
「やわらかい粥をもう一度。……揺れても、腹に灯りがともるように」
晴人は鍋の蓋を取り、湯気で涙をごまかした。
夜は、揺れよりも静かだった。だからこそ、耳は小さな音を拾い、目は暗闇の輪郭を大きくした。
寺の裏庭。粗末な筵の下に、五つの影。土砂に呑まれた家族だった。
晴人は膝を折り、指先で筵の端をただ撫でた。
「……“呼びかけ”では、足りなかった」
声は自分にだけ届くほど低かった。
隣に立つ土方が、煙の抜けた声で言う。
「晴人。あんたのせいじゃない」
「いや、俺の制度が、届かなかった。強制避難の手続きがあれば――“頑固”も、救えたかもしれない」
拳に爪が食いこみ、血がじわりと滲む。土方は何も言わない。ただ、隣に立つ。それで十分だと、二人とも知っていた。
避難所では、別の地鳴りが起きていた。人の声だ。
「お前んとこ、呼びかけ無視したから死人が出たんだろ!」
「うるせえ! 爺が動けねえって言ってんだ!」
罵声が火花のように散る。
静が間に立つ。
「やめてください!」
声は凛として美しかったが、怒りの刃は鈍らない。
「偉そうに言うな、武家の娘か!」
「違います」
静の返答は短い。だが、怒りは別の矢を番える。
その時、晴人が入ってきた。泥まみれの単衣、立ち尽くす目。
「……その通りだ」
晴人は膝をつき、頭を下げた。
「俺には、あなたの痛みはわからない。だから、教えてくれ。何が足りなかった?」
沈黙ののち、男の喉が鳴る。
「無理やりでも、連れ出してほしかった。爺さんは“まだ大丈夫だ”って……誰かが叱って引っ張ってくれたら」
言葉が崩れ、肩が震えた。
晴人は深く、深く頭を垂れた。
「……すまなかった。次は、強制避難の手続きを作る。権限、手順、罰則、救助代行――四点を草案にする」
見渡す目が、誰一人として見下ろさない高さで止まる。
老婆がぽつりと呟いた。
「いい時代になったねぇ。頭を下げてくれる役人なんて、見たことないよ」
静が、小さく息を吐いた。目尻に溜まった光は、涙か、焚き火の橙か。
外に出ると、風が冷たい。晴人は行灯の淡い灯を頼りに、帳場へ戻る。
地図の上に小石を置き、危険区域へ糸を伸ばす。
(届かなかった制度は、恥じればいい。恥じたまま、作り直せばいい)
茨城県庁で叩き込まれたものは、勇ましい言葉ではない。手続き、文言、判。地味な線と押印の連続が、命をつないだ現場をいくつも知っている。
「剣ではなく、理で。血ではなく、仕組みで」
呟いた声は紙に吸い込まれ、静かな夜を薄く震わせた。
一夜が明けた。余震は止み、音は戻らない。代わりに、残骸の輪郭がくっきりと姿を現した。
割れた道、傾いた戸、抜けた貫。二の丸北の石垣は、片頬だけを腫らしている。
町の空気は、静かで、重たい。だが、動いている。人は、静かでも動く。
「晴人様!」
弥太郎が駆け込む。帳場の前で息を飲み、短く頭を下げた。
「非常食庫の在庫、全域確認――残り、二日分です」
墨の先がわずかに震え、紙に小さな黒い星が生まれた。
「二日……避難者は?」
「三百六十に膨らみました。遠村からの流入が続いています」
(計算が甘かった。想定外を、想定していない)
晴人は短く息を吐き、決断の順番を並べた。
「配給量を半分に。湯冷ましは維持。味噌は薄めるが、根菜で嵩を出す。武士の配給は本日から停止、全量を子と病人へ」
「し、しかし――」
「武士は飢えても死なん。子は死ぬ。――行け」
弥太郎は躊躇を呑み込み、深く頭を下げた。
「承知!」 足音が遠ざかる。
次の手を打つ。
「他藩からの借り入れは難しい。では、買い上げだ。城下の米商、乾物屋、寺社の備蓄を“等価交換”で。藩札でなく“米札”を臨時に切る。利息は月一分、引き上げ期日は収穫明け」
財政の墨守は、非常時にこそ柔らかく曲がるべきだ。数字に血が通う瞬間がある。
「労役は“仮屋”の建て方と交換。働けば早く屋根が返る」
人に役割を戻すこと。それが心の骨を立てる。
帳場の隅で、河上が黙って頷いた。
「俺は北の斜面を見てくる。……強制避難の草案、手伝おう」
「助かる。立入権は“郷宿の承認”を条件に、搬送は“救助代行状”で。罰則は軽く、記録は重く」
「記録が血を止める、か。変な理屈だが、嫌いじゃない」
河上は鞘を腰に差し直し、背を向けた。――刀は抜かない。今日は、抜くべきものが違う。
広場では、配給の列が静かに進む。
土方が釜を支え、静が子の手に木椀を渡す。
「大きく息をして。飲む前に匂いを嗅いで。……そう、あったかいでしょう」
ミヨが木椀を抱いて微笑む。頬の泥がひび割れて、白い肌がのぞく。
土方は懐から不格好な木の人形を取り出した。
「守り刀だ。代わりに、これを握ってろ」
子は強く握りしめ、泣かなかった。泣かないことが偉いわけじゃない。でも、泣かないことが彼の勇気なら、それでいい。
広場の端で、老人が晴人に近づく。
「お武家様。……うちの爺を、叱って連れ出してくれりゃ良かったんだ」
晴人は深く頭を下げる。
「次は、叱ります。手続きとして、叱ります」
老人は目を丸くし、やがて笑った。
「手続きで叱られるのは、はじめてだねぇ」
夕刻、登勢が縁側で粥を啜る。
「冷めても、やさしい味だよ」
「冷めても効く制度に、似ています」
「なんだい、それは」
「温度が下がっても、人を守る仕組みです」
登勢は小さく頷き、障子越しの光を見つめた。竹林を渡る風が、薄く鳴る。
帳場に戻る。紙の上に、新しい行が増える。
――強制避難手続(仮)
第一 対象区域の指定
第二 郷宿・名主の承認
第三 救助代行状の発行
第四 搬送と記録
第五 軽過料(拒否時)
付記 障害・高齢・孤立者優先
文字はまだ震えている。完璧ではない。だが、昨日より強い。
晴人は筆を置き、ゆっくりと背を伸ばした。
(剣ではなく、理で。血ではなく、仕組みで)
(今日、五つの影が増えた。だが、三百六十が生きた)
(次は、もっと救う。そのために、制度を磨く)
外は藍色に沈み、東の空に細い光が生まれはじめている。
揺れは止んだ。だが、手は止めない。
明日、強制避難の草案を東湖の書院に持ち込む。
歴史の歯車は音を立てない。けれど、確かに回る。
晴人は半歩、前へ出た。――それだけで、風の向きがわずかに変わった気がした。
気に入ってくれた方、評価ぽちっとしてくれると舞い上がります。
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