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36話:火を灯す者

――その朝、水戸城に緊張が走った。


 政務棟の奥、晴人の私室では、薄明の空のもと、布団に横たわる若き指導者が静かに息をしていた。顔色は悪く、額には玉のような汗が浮かぶ。熱は高く、意識は戻らない。


 「晴人様……」


 畳の上に膝をつき、顔を伏せたままの弥太郎が、絞るような声を漏らす。晴人の手を取れば、指先は焼けるように熱く、喉の奥で小さくうめく声が漏れていた。


 「水を少し飲まれたのが、昨夜が最後です。それ以外は、何も……」


 付き添いの下女がそう告げると、背後で控えていた武市半平太が舌打ちをした。


 「……無茶が過ぎる。あれだけ動かれて、寝る時間も取っていなかった。誰かが止めるべきだった」


 その隣で近藤勇がうつむき、拳を握りしめる。


 「俺たちの声なんか、聞く耳持たれねえよ。『まだやれる』って言って、笑って先頭に立つんだから……」


 晴人は、この十日間ほとんど寝ずに働いていた。地震と大雨による被災状況の調査、避難先の整備、倒壊家屋の点検と補助、学問所や食料庫の視察、城下巡察……何一つとして他人に任せようとはしなかった。


 「政の中心に立つ者が、倒れてどうするんですか……」


 弥太郎の悔しさが滲む声に、誰も答えることはできなかった。


 そこへ、障子がすっと開き、藤田東湖が入ってきた。津田真道、佐野常民、村田新八らも後ろに続く。藤田は黙って晴人に近づき、額に手を当て、脈を取る。やがて眉をひそめ、重く口を開いた。


 「高熱と脱水、それに極度の疲労が重なっている。無理が続けば、命に関わった。……今は安静にし、熱が下がるのを待つしかない」


 「…………」


 部屋の空気が一段と重くなる。


 「弥太郎」


 津田が口を開く。


 「政務記録はどこにある?」


 「こちらに。晴人様が毎晩つけておられたものです」


 差し出された分厚い帳面を受け取った津田は、ざっと目を通し、驚きに目を細める。


 「これは……一人でここまで把握しておられたのか」


 「俺たちも何度か忠告しましたが、晴人様は聞かれませんでした。『民のため』の一点張りで……」


 武市が肩を落とす。


 「だからこそだ」


 佐野常民がまっすぐに言った。


 「今こそ、我々がその志をつなぐときだ。――誰か一人のための藩政ではない。“皆で担う水戸”を、晴人様が見せようとしていた」


 その言葉に、弥太郎がはっと顔を上げた。


 「……わかりました。私が政務の取りまとめを。武市と近藤には巡察を頼みたい。城下で動揺が起きないよう、顔を見せて回ってください」


 「おう。町人たちは案外、こっちの顔色を見て動く。大丈夫だ、任せろ」


 「俺も行く。河上も連れてく。あいつがいると、子どもが安心する」


 「津田様、佐野様。こちらは復旧支援の配分と、学問所の安全確認をお願いします」


 「承知しました。まずは空き家を使って、体調を崩した避難者を休ませる場を確保します」


 「薪と水の確保も必要ですな。火の用心にも人を回しておきます」


 それぞれが役割を担い、動き出した。


 ――その日、晴人不在のまま、水戸藩は静かに“自律”を始めた。


 城下では、復旧作業の手を止めずに槌の音が響き続けていた。


 「晴人様が倒れたって?」


 大工の棟梁が、角材を抱えたまま呟いた。


 「どうすんだよ、それ……」


 若い衆が不安げに言うと、棟梁はにやりと笑った。


 「どうするって決まってんだろ。手を止めずに働くんだよ」


 「……でも、晴人様がいなきゃ……」


 「違ぇよ」


 棟梁はトンカチを構えたまま、ぴたりと足を止めた。


 「晴人様が“いない”んじゃねえ。“いた”んだよ。俺たちに、自分の頭で考えて、手を動かすって火をつけてくれた」


 別の職人が、頷きながら言った。


 「それを消すなって話だ。灯った火は、誰のもんでもねえ。みんなで持つもんなんだ」


 その声が、町のあちこちで静かに繰り返されていった。


 「晴人様が灯した火は、もう消えねえよ」


 夕暮れ時、城の寝所。


 まだ昏睡の中にある晴人の眉間が、わずかに動いた。


 まるで遠くの声を聞いたかのように、唇がかすかに動いた。


 「……ありがとう……」


 それが夢か現実か、誰にもわからなかった。


 だが、外では、確かに多くの火が灯り始めていた。晴人が掲げた未来に、人々が自らの足で向かいはじめていた。

翌朝――。


 水戸城の政務庁には、いつものように日が差し込んでいた。だが、その中心に座るべき男の姿は、そこにはなかった。


 それでも、政務机の前では弥太郎が筆を執り、淡々と記録を取り続けていた。報告書、帳簿、往復文書……すべてに目を通し、対応すべき案件に付箋をつけ、必要な者へと回していく。


 机の脇には、晴人の使っていた手帳が広げられていた。行ごとに細かく並んだ指示文と記号、日付と対応担当――まるで、その文字自体が生きているかのように、政の方針を静かに語っていた。


 「ここは、村田に回そう。緊急度は低いが、返答は早めに。……この件は、城下南の巡察路と重なってる。近藤殿に口頭で伝える方が早いな」


 弥太郎が呟くように指示を飛ばすと、すぐに控えていた小役人が走っていく。


 「……晴人様が残したこの記録、まるで何手先までも読んでいたようですね」


 横で控えていた津田真道が、感嘆の声を漏らした。


 「いや、違う。あの方は“皆が動くこと”を信じて、あえて仕組みを残したんだ」


 弥太郎は、手帳をそっと閉じた。


 「自分がいなくなっても町が回るように――。それを見越して、この分業を作っていたんです」


 同じころ、城下の北寄り。

 昨夜から仮設された療養小屋では、佐野常民が町医者や年寄りたちと寝具の確認をしていた。


 「薪の残りはあと一束。井戸水の濾過も急がねばならない。食事は昼に粥を出そう。……熱のある者には、分けて与えてください」


 佐野が穏やかに指示を飛ばすと、年寄りの一人が頭を下げた。


 「……晴人様が病を得られたと聞いて、みな不安でしたが……こうして誰かが動いてくださるなら、私らも安心して寝ていられます」


 佐野は軽く微笑んで、首を横に振った。


 「私が動いているのではありません。あの方が“灯していったもの”が、こうして動かしているだけですよ」


 「灯した……火、でございますか」


 「ええ。目に見えずとも、誰かの心の中に灯った火。それを一人ずつ繋いでいくのです。私たちが――いや、“水戸”という町が」


 その言葉に、年寄りたちはしばし黙し、静かに手を合わせた。


 城下南では、武市と近藤が連れ立って巡察していた。

 町人たちの顔色は、思った以上に落ち着いている。


 「思ったより、不安は広がっていませんな」


 「いや、みんな怖がってるさ。けど……それ以上に、やることがあるって分かってるんだろ」


 近藤は手拭いで汗をぬぐいながら、頭上を見上げた。


 屋根の上では職人たちが黙々と作業を続けていた。柱を立て直す者、瓦を張る者、道端では子どもたちが泥団子を作って笑っている。


 ふと、通りすがりの若い魚屋が二人の顔を見て声を上げた。


 「おっ、武市さんと近藤さんだ。……晴人様、大丈夫なんですか?」


 「寝込んでるが、命に別状はねぇ。近いうちに起き上がるさ」


 「そっか……。あの方がいなきゃ、うちの店も今ごろ、流されちまってた」


 「じゃあ、今ある命と商売、大事にしてやってくれ」


 そう言った武市に、魚屋はぶっきらぼうに笑って頷いた。


 「へい。あの人が守ってくれたなら、今度は俺らが守る番ですから」


 武市がふと目を伏せる。


 「――“守る番”か……」


 「火を渡されたってことだろ。……あいつはもう、ただの改革者じゃねぇ。“象徴”になっちまったな」


 近藤の呟きに、武市は何も言わず、空を見上げる。夏の光が、城下町に広がっていた。


 夕刻。再び政務庁。


 弥太郎はその日最後の報告書に署名し、机の上を整えた。ふと、窓の外を見ると、少しずつ空が朱に染まり始めていた。


 「……どうか、もう少し、眠っていてください」


 静かに呟いたその声は、城の寝所へと届いたような気がした。


 そのころ、晴人はまだ深い眠りの中にあった。

 けれど、わずかに眉が動き、唇が小さく動いた。


 「……みんな……頼むよ……」


 誰に届いたわけでもない言葉。だが、その響きは確かに町中に宿っていた。


 人々は動いていた。自らの意思で。

 かつて誰かに「やれ」と命じられて動く町ではなく、今や「誰かの背中に学び、自ら進む町」に変わり始めていた。


 ――晴人が灯した火は、確かに生きていた。

城の寝所は静かだった。蝉の声すら届かない厚い障子と、微かに流れる夏風が、わずかに布の端を揺らしている。


 その中心で、晴人は眠っていた。


 蒼白かった顔には、ようやく赤みが戻り始めている。額に置かれた濡れ手拭いは幾度も取り替えられ、看病の手が絶え間なく注がれていた。女中が静かに部屋へ入り、息をひそめて体温を確かめる。


 「……少し、下がってきました」


 小声でつぶやくと、弥太郎が軽く頷いた。


 「ありがとう。君たちがいなければ、俺一人では到底看病できなかった」


 弥太郎の声には、どこか張り詰めた糸がほぐれたような安堵が滲んでいた。


 「晴人様……あともう少しで、皆様の声が届くはずです」


 静かに部屋を後にする女中を見送りながら、弥太郎は布団に近づき、座り込む。


 「……この三日、いろんなことがありました」


 彼は晴人の耳元に、まるで語りかけるように呟き始めた。


 「津田様や佐野様が、それぞれ町の動きを見事に整えてくれました。武市と近藤は、昼も夜も歩き回って、町の空気をつないでくれています。皆、自分の役目をよく分かってる。あなたがそういう風に育ててきたからです」


 晴人のまぶたは閉じたままだった。だが、さっきよりも呼吸が深く、ゆったりとしているように感じられた。


 「正直に言えば、最初は怖かったんです。あなたがいなければ、この町はどうなるんだろうって」


 弥太郎は、手元の帳簿を見下ろした。それは晴人が書き溜めてきた日々の記録。だが、今は彼自身の手で新たな記述が継ぎ足されている。


 「でも今は……信じられる。町は、動く。人が、人を見て動き始めたんです」


 その言葉に、まるで応えるかのように、晴人のまぶたがわずかに震えた。


 夕刻。


 城下のあちこちでは、火が灯り始めていた。


 まだ仮設の提灯がほとんどだが、そのひとつひとつに、誰かの手が加えられていた。

 町の少女が、壊れた提灯に和紙を貼り直している。母親が火種の準備を手伝い、近所の老人が「昔のやり方じゃダメだ」と笑って口を出す。


 ――誰もが、何かの一端を担っていた。


 大工の現場では、柱に「晴」という墨文字が書かれた。


 「何だ、これ?」


 見上げた若い衆に、棟梁がにやりと笑った。


 「願掛けよ。あの人が元気になったら、この家の主に書いてもらうんだ」


 「……ずるいな、棟梁。俺んとこにも書いてくれよ」


 「なら頑張って建てろ。書くにふさわしい柱、作ってみろ」


 笑い声があがる。


 そこに不安はなかった。代わりに根を張るように広がっていたのは、「自分たちで守る」という小さな誇りだった。


 夜。政庁では、佐野常民が日誌を読み返していた。横では津田が新しい帳簿の設計をしている。


 「不思議だな。晴人君が寝ているだけなのに、みんなが動いている」


 佐野が言うと、津田は眼鏡を押し上げながら静かに言葉を返した。


 「“彼がそこにいた”ことが、我々にとって、どれほどの意味だったか……ようやく分かった気がします」


 「“在る”ことが“為す”ことになる。……君の言う通りだ」


 障子の外から、虫の音が心地よく響く。


 かつて“上の言うことを聞くだけ”だった町が、今では“考えて行動する人”で満ちていた。そこに指導者はいない。それでも、道は確かに前に延びている。


 その中心で眠り続ける晴人は、やがて夢の中で何かの声を聞いた。


 ――ありがとう。

 ――もう大丈夫です。

 ――あんたが灯した火は、俺たちが守る。


 微かに口元がほころび、まぶたがかすかに動いた。


 「……よかった……」


 弥太郎が、晴人の掌に手を重ねた。


 「もう、何も一人で背負わなくていい。皆で……一緒に、やっていきましょう」


 その言葉は、部屋の中の空気に、確かな温度を灯していた。

夜が明け、また新しい一日が始まった。


 早朝の水戸城――まだ薄暗い空の下で、政庁の裏庭に設けられた仮の炊き出し場では、湯気が立ち上る。武市半平太が薪をくべ、近藤勇が米をとぎ、河上彦斎が手際よく味噌を溶かしていた。


 「……まさか、俺たちが炊き出しする羽目になるとはな」


 近藤が苦笑しながら、桶をかき混ぜる。


 「戦場だと思えば、なんてことないさ。町の腹が満ちれば、混乱は起きねえ」


 武市は黙って頷き、火加減を見つめ続ける。


 炊き出しの香りは、城の外にも届き、避難者の小屋から子どもたちの足音が聞こえ始めた。空腹の笑い声。母親に甘える泣き声。すべてが、町が生きている証だった。


 同じ頃、水戸城の書院北隅に設けられた晴人の仮住まいにも、朝の光が差し込み始めていた。


 もともとは文書係の控え室だったというその部屋は、畳敷きの六畳間に文机と箪笥だけが置かれた簡素な空間。だが今では、晴人の政務を支える仮の拠点となっている。


 その中心で、晴人がゆっくりとまぶたを開けた。


 弥太郎は、徹夜明けのまま枕元に座っていた。頬はやつれていたが、目には確かな希望の光が宿っていた。


 「……やっと、起きられましたか」


 声は低く、震えていたが、弥太郎は微笑んだ。


 晴人の瞳は、焦点を探すように天井をさまよい、やがて隣に座る弥太郎の顔を捉える。


 「……ここは……」


 「水戸城、書院の一角です。晴人様、三日間、お休みになっておられました」


 「……皆は……」


 「皆、無事です。町も――動いています」


 弥太郎の声には、誇らしさと安心が混ざっていた。


 「佐野様が療養の場を整え、津田様が帳簿を作り直しました。武市と近藤は巡察と炊き出しを。河上も毎日、町の隅々を歩いています。……誰も、止まってなどいません」


 「……そう、か……」


 晴人の目が細められた。声はかすれていたが、確かに安堵が滲んでいた。


 「……ありがとう。……皆に、伝えてくれ」


 「はい」


 そのとき、障子の外から音がした。


 「失礼します」


 佐野常民と津田真道が、そっと入ってきた。彼らの目に、晴人の開かれた瞳が映る。


 「……起きられましたか。お加減は?」


 「……何とか。まだ……体は重いけれど」


 晴人が小さく笑うと、佐野も頷いた。


 「ならば、しばらくは“寝たまま藩政”といきましょう。我々が報告を持ってきますので、目を通すだけで結構です」


 「……すみません」


 「謝ることなどありません。むしろ、我々の側が――ようやく、あのときの言葉の意味を理解した気がします」


 津田が静かに言った。


 「“皆が考え、動ける藩にしたい”――晴人様が言っていたこと。それが、今、ようやく芽吹きました」


 「……ありがとう。……本当に、ありがとう」


 晴人の頬に、微かに涙が伝った。それは苦しみの涙ではなかった。すべてを背負いきれなかった自分への悔いでも、無力さでもない。

 人が、信じたものに応えてくれた。その事実が、何よりも胸に染みた。


 ――そして、昼。


 町では、晴人の快復が静かに伝わっていた。


 「晴人様が……起きられたってよ」


 「そうかい……それはよかった」


 それだけの報せだったのに、町人の顔には自然と笑みが広がった。まるで、自分たちの努力が肯定されたように。


 「今度は、こっちが動く番だな」


 「そうさ。あの人に“町は任せろ”って、胸張って言えるようになんなきゃな」


 口々に語られる言葉に、派手さはなかった。だが、それは確かな熱をもった声だった。


 夕暮れ。晴人は、書院の小窓から外の景色を見ていた。


 まだ座っているのがやっとの体だったが、目ははっきりと遠くを見据えていた。


 町の屋根の上には、新しい瓦が並び始めていた。壊れた蔵は修繕が進み、仮設の小屋にも、人々の生活の明かりが灯っていた。


 ――自分がいない間に、これだけのことが積み重なっていた。


 「……俺がいなくても……町は、動いてるんだな」


 隣で控えていた弥太郎が、そっと答えた。


 「いえ、晴人様がいたから、皆が動けたんです」


 「…………」


 晴人は何も言わなかった。ただ、しばらくその光景を見続けていた。


 静かに、太陽が沈んでいく。


 町に、火が灯る。


 それは誰かの命令でともされたものではなく、誰かの意志でともされた光だった。


 晴人が灯した火は、確かに人々の中で燃え続けている。


 彼の姿は、もはや「命令を下す者」ではない。


 「象徴」として、人々の中に生きていた。

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