3話:名もなき献身
朝霧が竹林の奥を白く染めるなか、藤村晴人は冷たい井戸水で顔を洗っていた。
ぴしゃりと頬を打つ水に、全身がしゃきりと目覚める。寝泊まりしている寺の裏手の小屋は、もとは納屋だったというが、雨風をしのげる屋根と、簡素ながらも四方を囲う板があるだけでも、ありがたかった。
――今日も一日が始まる。
顔を拭い、粗末な袴を整えると、晴人は静かに竹林を抜け、寺の裏門へと向かう。山門から入る身分ではない。だが、炊き出しを手伝うようになってから、裏口からの出入りは黙認されていた。
炊事場に着くと、すでに数人の避難民が煮炊きを始めていた。年端もいかない子どもや、まだ疲れの残る女性たちが、不慣れな手つきで鍋をかき回している。
「おはようございます。今朝は俺がやりますよ」
晴人が声をかけると、彼らは一様にほっとした表情を浮かべた。
「すまないね、藤村さん。どうにも上手くいかなくて……」
「いえ、皆さんの手際も少しずつよくなってますよ」
晴人は優しく答え、煮えかけの鍋を覗き込んだ。米のとぎ汁に浮かぶ野菜は煮崩れ寸前。だが味の組み立てはまだ甘く、何より塩気が足りなかった。
「これ、干し椎茸の戻し汁、少し足しましょう。あとは……味噌と、生姜があれば」
「生姜? そんなもので?」
女性の一人が首を傾げた。
「冷えには効きます。少しだけ、すりおろして入れると香りも良くなりますよ」
晴人は言葉少なに味付けを整え、火加減を調整しながら底から丁寧にかき混ぜた。湯気が立ち上る頃には、先ほどとは打って変わって食欲をそそる香りが漂ってくる。
「……うまそうだな」
「ほんと、匂いだけでお腹が鳴るよ」
人々の笑顔が少しずつ戻っていく。それが何より、晴人の原動力だった。
炊き出しの列ができ始めた頃、小柄な少年が晴人に近寄ってきた。
「ねぇ、あの、昨日の芋の料理……どうやって作ったの?」
晴人は目を細め、しゃがみ込んで少年の目線に合わせた。
「山芋をすりおろして、干しエビと味噌を混ぜて焼いたんだ。あれは“とろろ焼き”っていうんだよ」
「とろろやき……すごいね! うちの母ちゃん、あんなの作れないよ!」
「簡単だから、教えてあげるよ」
少年――新太は目を輝かせて、頷いた。
「でもさ、なんでそんなにいろんな料理知ってるの?」
「昔、少しだけ、遠くの町で人の世話をしていたんだ。そのときに、色々とね」
言葉を濁す晴人に、新太は首を傾げたが、やがて納得したように笑って走り去った。
その後ろ姿を見送りながら、晴人はふと、視線を感じた。
振り返ると、登勢が縁側に座ってこちらを見ていた。痩せた頬にはまだ疲労の色があるが、その目は柔らかく、静かな光を湛えていた。
「具合はいかがですか、登勢さま」
晴人が近づき、丁寧に頭を下げると、登勢はそっと微笑んだ。
「お前さんの作る味噌汁は、どこか懐かしい味がするよ。……昔、あの子が幼いころに、私が作っていた味に似ていてね」
「東湖さまが?」
「違う違う。私が作って、あの子が食べてたのさ。……けれど、もう何十年も昔の話じゃ」
登勢は遠い目をした。
晴人は何も言わず、登勢の側に座り、その時間をともにした。
(この世界に来て、まだ間もない。だが……)
この小さな温もりこそが、自分にとっての出発点になるのだと、彼は確信していた。
炊き出しの準備が始まると、寺の裏庭は自然と人が集まる場所になった。炊煙と湯気が立ち上り、仄かに香る出汁の匂いが、空腹と疲労を抱えた避難民たちの足を引き寄せる。
藤村晴人は、囲炉裏の火加減を調整しながら、煮え立つ鍋の様子をじっと見つめていた。中には、根菜を中心とした素朴な汁物。にんじん、里芋、大根、干し椎茸――どれも特別なものではないが、切り方と煮込み時間を工夫すれば、滋養たっぷりの一品になる。
「……火は強すぎてもいけない。野菜の甘みが逃げてしまうからな」
ひとりごとのように呟きつつ、彼は蓋を少し持ち上げ、香りを確かめた。隣では、年端もいかぬ少年が目を輝かせて鍋を覗いている。
「お兄さん、どうしてそんなに美味しそうに作れるの? この前のおかゆも、ほかのと違ってすごく甘かった!」
「あれはね、米を炊く前に水にしっかり浸したからだよ。それと、ちょっとした工夫もしてるんだ」
晴人は笑いながら、少年の頭を軽く撫でた。
現代の知識――たとえば、出汁の取り方や煮崩れを防ぐ技術、口当たりをよくする調味法――それらを駆使することで、限られた食材でも人を満たす料理が作れる。それを知っているのが、今の彼の唯一の武器だった。
「お前さんの味噌汁は、身体があたたまるなあ」
年配の男が、湯飲みを両手で包み込むように持ちながら呟いた。
「何というか、胃の底から安心するというか……」
「おかわり、ありますか?」
若い娘が声をかけてきた。疲れ切った顔に、ほんの少し笑みが差している。
晴人は黙って頷き、鍋から汁をよそいながら、ふと周囲を見渡した。
火傷を負った子どもに薬草を当てている老婆。泣きじゃくる乳児を背に負って、静かに椀を手に取る母親。炊き出しはただの食事ではない。この場で、彼らは“日常”のかけらを取り戻しているのだ。
そんな日々の中、晴人の存在も少しずつ認知され始めていた。
最初は、寺の裏手にいつの間にか住み着いた不審な男。次は、藤田東湖の母に付き添う「世話役」。そして今では――
「藤村さま、今日もお願いできますか?」
「はい。根菜が多めですが、身体に優しい献立にしてあります」
「ありがたい……。あの、もしよければ、うちの子にも少し……」
身なりの整った婦人が、躊躇いがちに声をかけてきた。晴人は頷き、小さな木の椀に料理を分けて渡す。
そのやり取りを、少し離れた場所から黙って見つめる若者がいた。汚れた裃をまとい、鋭い目をしている。
(あれが……あの“炊き出しの男”か)
若者――立花新太郎は、藩の若手武士のひとりだった。被災者救援の調査を命じられて寺に立ち寄ったが、そこにいた“料理人”に妙な気配を感じていた。
(ただの下級郷士の書生ではない。言葉も所作も……何かが違う)
その違和感は、確かに彼の胸に残った。
晴人が目の前の子どもに煮物を渡していると、背後から声がした。
「……あんた、変わってるな」
振り向くと、先ほどの若者が腕を組んで立っていた。
「料理の腕はたいしたもんだが、あんた、どこで学んだんだ?」
「郷士の家で、です。母が料理好きで、よく台所に立っていたので」
淡々と答える。嘘ではない。母の背を見て学んだのも、事実だ。
新太郎はそれ以上問わず、静かにその場を離れていった。
(……ああいう目は、後々厄介だな)
晴人は息を吐いた。
だが、ここで何もせずに黙っていたら、助けられる命もあるまい。
「さあ、もうひと鍋いくか」
囲炉裏の薪を足し、彼は再び鍋に向き直った。
寺の裏手で、湯気を立てる大鍋の番をしていたときのことだ。
「おい! 誰か来てくれ!」
叫び声がした。振り向くと、瓦礫の間をかき分けて駆け寄ってきた中年男の腕の中に、顔を真っ青にした少年がいた。どうやら足元を崩して転倒し、額を深く切ったらしい。血が目元にまで流れていて、まぶたがうまく開いていない。
「寺の者か! この子を……!」
「こっちだ、寝かせて! そのまましゃがんで!」
咄嗟に声をかけ、作業台の隅に敷いていた晒しを引っつかむと、すぐに傷口を押さえた。周囲がどよめく中、俺は落ち着いて少年の脈を確かめ、呼吸が安定しているのを確認する。
「誰か、きれいな水を! あとは、乾いた布を何枚か!」
寺にいた子どもたちが、駆け足で桶と布を持ってきた。水を使ってまず血と汚れを落とし、傷口のまわりを丁寧に洗い流す。これ以上の出血を防ぐには、圧迫止血しかない。だが、焦って布を押し当てればかえって傷が広がる。そうした知識は、自衛官時代に研修で何度も叩き込まれた。
「……痛いよぉ……」
少年が目を開けて泣き出しそうになるが、俺は布越しに額をそっと押さえながら目を見た。
「大丈夫だ。ちゃんと止まる。おまえは、ちゃんと助かる」
その言葉に、少年は少しだけ頷いた。
しばらくして血が止まり、応急処置を終えた頃には、周囲に十人以上の人が集まっていた。皆、黙って俺の手つきを見ていた。
「……あれは、どこで覚えた手当なんだ?」
誰かがぽつりとつぶやく。だが俺は、答えなかった。ただ、少年の額にもう一度布をかぶせ、しっかりと固定してやった。
「この子は、念のため安静に。できれば人の出入りの少ない部屋を借りてください。傷が化膿しないように、できるだけ清潔を保つこと」
その場にいた僧侶が、静かに頷いた。
「……心得た。僧坊の一室を空けよう」
数人がかりで少年を連れて行ったあと、残された人々はまだ俺の顔を見ていた。まるで、見知らぬものを見るような目つきで。
「――おぬし、只者ではなかろう?」
ひときわ渋い声がして、振り返ると、灰色の法衣をまとった年配の僧がそこに立っていた。身なりに目立つところはないが、背筋が伸びており、ただ者でない風格を纏っている。
「名を聞いても?」
「藤村晴人です。……郷士の書生ということで、ここで働かせてもらってます」
嘘ではないが、真実でもない。だが僧はそれ以上追及せず、ただ頷いた。
「そうか。晴人殿。あの子を救ってくれて、感謝する」
頭を下げられ、少しだけ面食らった。何も特別なことはしていない。現代なら誰でも知っている程度の応急処置だった。
それでも、この時代では――
「まるで、藩医でも太刀打ちできぬ傷を、あっさり抑えたようだったな」
小さく漏れた声が耳に届いた。俺は、息をひとつついた。
そうだ。ここは令和の日本ではない。俺が「当たり前」と思っている知識は、時に奇跡のように映る。それをどう扱うか。どこまで出していいのか。常に、それを測りながらでなければいけない。
「……料理も、手当ても、おまえは何者なのだ?」
あの少年――寺でよく見かける、目つきの鋭い十歳ほどの子が、問いかけてきた。炊き出しを手伝っていたのか、手には薪が数本握られている。
「俺か? ただの書生さ」
「嘘だ。あんな手際、普通じゃない」
笑いながら言い返す俺に、少年は肩をすくめた。
「でも……おまえがいて助かった。俺の弟なんだ、あの子」
そう言って、深く頭を下げた。驚いた。まさか、あの子の兄だったとは。
「ありがとう」
ぽつりとつぶやいた言葉に、俺は小さく頷くしかなかった。
何もできない。ただ、目の前の命をつなぐこと。それが、俺にできる精一杯だった。
夜の寺は静寂に包まれていた。
遠くから、虫の声がささやくように響く。境内の灯篭には仄かな灯が揺らめき、風に吹かれて消えそうになりながらも、消えきれずに小さな光を灯し続けている。
藤村晴人は、登勢が休む座敷の障子をそっと開けた。
「こんばんは、登勢さま。様子を見に来ました」
登勢は布団の上で、細く静かな寝息を立てていた。その額には薄い汗が滲んでいるが、先日までのような熱の上がり下がりは見られない。晴人はそっと手を当てて確認した。
「……熱はないな。よかった」
彼はそっと笑みを浮かべ、用意していた濡れた布を新しいものに替える。竹の桶に差し入れた手拭いを軽く絞り、また額に置いた。
登勢の頬が、わずかに動いた。
「……おまえさんかえ……」
その声に、晴人は顔を近づける。
「はい。藤村です。今日の夕餉は、どうでしたか?」
「……うまかったよ。あの……南瓜と……なにじゃ、あれは……味噌の香りがようしてた」
「味噌炒めですね。今夜は、消化のいいものをと思って」
「……ええ子じゃ、おまえさんは」
登勢は再びまぶたを閉じ、夢の中へ戻っていった。晴人はその姿をしばらく見守り、ふと深く息を吐いた。
夜風が、襖の隙間からひゅうと吹き込んでくる。
外へ出ると、月が雲の切れ間から覗いていた。石畳に淡い影が差し、静かな世界を照らしている。
その時だった。
「おじさん、また来たよ」
背後から声がして、晴人は驚いたように振り返った。そこには、あの少年――昼間、弟を連れてきた兄の姿があった。
「こんな時間に……家には帰らなくていいのか?」
「母ちゃんたちは炊き出しに並んでる。弟が眠ってるうちに、ちょっとだけ……」
少年は恥ずかしそうに笑いながら、手に包みを抱えていた。
「これ、うちの畑でとれた大根と葱。お礼だって、母ちゃんが」
晴人は一瞬言葉を失い、やがてにこりと笑った。
「ありがとう。じゃあ……一緒に夜食でも食べようか」
「え? いいの?」
「お礼の品には、お礼で返さないと」
小屋の前にあるかまどに火を入れ、葱を刻み、大根を薄く切って鍋に放り込む。晴人は鰹節の代わりに干し椎茸で出汁を取り、簡素だが温かな味噌汁を作り始めた。
湯気が立ちのぼり、寺の夜に一筋の香りが溶けていく。
「……うまい!」
少年が味噌汁をすすりながら、目を丸くする。
「なんでこんなにうまいの? 大根って、こんなに甘かったっけ?」
「火加減と順番だよ。少しの工夫で味が変わる」
「ふーん……。おじさんって、すごいんだな」
「俺は……ただの旅の者さ。名前、まだ聞いてなかったな。君は?」
少年は少しだけ間を置いて、照れたように答えた。
「……高島一馬。百姓の家だけど、昔、父ちゃんは下級武士だったって」
「一馬……いい名前だ」
晴人は、味噌汁の鍋をかき回しながら、月を見上げた。
虫の音が鳴き、遠くで梟が鳴いた。夜空の月は冴え冴えと輝いている。
――ここは、幕末の水戸。日本が、大きく変わろうとしている時代。
災害、政治、命の危機……そのすべてが、重たく晴人の肩にのしかかっていた。
だが、それでも。
目の前で味噌汁をすする少年の笑顔に、彼はふと救われたような気がした。
「この時代でも、俺は……誰かの役に立てるのなら――」
藤村晴人は、そっとその言葉を胸に刻んだ。
かつて守れなかった命があった。
今度こそ、違う未来を掴むために。