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【篤姫と結婚した公務員】水戸藩から始まる幕末逆転録 ~公務員が理と仕組みで日本を救う~  作者: 一条信輝


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364話:(1892年・一月)新宿に灯る統帥の光

1892年1月、冬の東京。

 雪こそ降らねど、冷え込んだ空気は喉を裂くように鋭く、首相官邸の庭木には白い霜がびっしりと貼りついていた。

 門衛の号令が響くたび、凍った石畳の上に軍靴の音が乾いた反響を残して消える。


 藤村晴人は、暖炉の火が静かに燃える執務室で、一枚の報告書を手にしていた。

 革表紙に押された印章は「陸軍省」。差出人は陸軍大臣・児玉源太郎。

 その題名にはただ一行――

 「陸軍改革計画、実行段階へ」


 眼鏡を外し、藤村は深く息を吐いた。

 書斎の窓越しに見える庭には、氷のような朝の光が差している。

 この光景を、彼は何度も夢で見た。

 ――この国が、自らの足で立ち上がる瞬間を。


(児玉が動いたか……)


 思索の声が胸の奥に響く。

 あの少年のような快活な軍人が、今や日本陸軍を担う存在となった。

 藤村の脳裏には、十数年前、まだ中佐だった児玉と酒を酌み交わした夜の記憶がよぎる。

 その頃から彼は、すでに「戦う前に勝つ」ための仕組みを語っていた。

 青年の瞳の鋭さを、藤村は今も忘れていない。


 暖炉の火がパチリと音を立てる。

 藤村は背筋を伸ばし、執務机のベルを押した。

 すぐに秘書官が入ってくる。


「陸軍大臣を呼んでくれ。――児玉源太郎だ。」


 短い言葉に、空気が緊張した。

 部屋を出る秘書官の背に、藤村はひとり呟く。


「……これで、ようやく時代が動く。」


 数十分後。

 分厚い軍服の襟を正し、児玉源太郎が官邸の扉をくぐった。

 凍てつく外気を連れ込むように、冷たい風が室内に流れ込む。

 軍帽を脱ぎ、姿勢を正した彼の顔には、長旅の疲れよりも、計画の手応えが刻まれていた。


「総理。陸軍改革、開始いたします。」


 報告書を机上に置くと、彼は短く息を整えた。

 藤村はその言葉にわずかに頷き、静かに椅子を勧める。


「詳しく聞こう、児玉。」


「はい。常備軍を現行の六万人から十万人へ増強いたします。新規徴募は四万人。

 加えて、プロイセン式を基本とした近代的訓練制度を導入いたします。」


 藤村は指先で机を叩きながら、数字を頭の中で組み立てていく。

 六万から十万――それは単なる数の増加ではない。

 兵の質を変え、組織を再構築するという、国家そのものの刷新であった。


「……予算はどうだ?」


「前回、閣議で承認いただいた初年度三百五十万円で賄えます。

 兵員の増加、訓練施設、教官育成まで、すべて算入済みです。」


「よし。進めろ。」

 藤村の声は静かだった。だが、その奥に潜む熱は、暖炉の火よりも熱かった。

 指先が自然と書類の端を握りしめる。


「情勢は待たぬ。」

 短い一言に、児玉はうなずいた。

 具体的な年限は告げない――だが、急ぐべきことは、互いに分かっている。


「承知しております。既に準備は整っています。

 第一段階、十万人体制――必ず成功させます。」


「よく言った。」

 藤村は微笑を浮かべ、机上の報告書を閉じた。

 その瞬間、窓の外で風が唸り、雪混じりの細かい氷片が硝子を叩いた。

 まるで、新時代の扉を叩く音のようだった。


 会談が終わり、児玉が官邸を後にするとき、廊下の灯はすでに夕闇に沈みつつあった。

 官邸の外、馬車の前で兵が敬礼する。

 児玉は一瞬だけ振り返り、官邸の窓に浮かぶ藤村の影を見た。

 あの男がいなければ、自分はここまで来られなかった――胸の奥に熱いものがこみ上げる。


(必ずや、この国を守ってみせる。)


 馬車が雪混じりの街を走り出す。

 街灯の光が、まだ舗装の進まぬ道に反射してきらめく。

 遠くには上野の森、その向こうに東京湾の光。

 児玉はその夜景を見つめながら、手帳に小さく書き記した。

 「常備十万、近代訓練、予定通り。」


 一方その頃、官邸の執務室では――。


 藤村は一人、地図を広げていた。

 日本列島の上に、赤い線が無数に引かれている。

 東京から大阪、広島、博多、そして朝鮮半島へと伸びる補給線の想定図。

 机上には“動員計画”と記された書類が重ねられていた。


「陸軍十万、海軍五万……。

 児玉、西郷、義信――三者の連携が形になれば、この国は勝てる。」


 彼の目に、未来の地図が浮かぶ。

 疲弊の影なき、堂々と世界に立つ日本の姿。

 暖炉の火がふっと揺れ、木の香りが立ち上る。

 藤村はゆっくりと目を閉じ、低く呟いた。


「……始まったな。

 三つの矢が束ねられたとき、帝国は立つ。」


 その夜。

 新宿・藤村邸の屋上庭園では、氷をまとった枝に月の光が淡く落ちていた。

 屋敷全体が発電灯の白光に包まれ、まるで未来都市のように静謐だ。

 書斎に戻った藤村は、机上のノートを開き、万年筆を取る。

 “陸軍改革開始。常備十万への第一歩。近代訓練導入。

 目的:戦を長引かせず、国を疲弊させない。”


 筆先が止まり、暖炉の火が再び音を立てた。

 炎は明治日本そのものの胎動のように、ゆらゆらと揺れている。

冬の光は薄く、陸軍省の会議室には白い息がかすかに漂っていた。

 重ねられた地図の紙縁が乾き、墨の匂いが静かに満ちる。壁の時計が刻む音だけが、磨き上げられた床板の冷たさを思い出させた。


 児玉源太郎は、襟を正して一歩進み出た。

 「本日の議、まずは常備兵の編成と訓練の骨格から申し上げます」


 卓上に広げられた編成図は、歩兵・砲兵・騎兵・工兵・衛生に至るまで寸分の無駄なく配置されている。各連隊がどの演習地へいつ移動し、誰が輸送を指揮し、途中の停車場で何分の給水・給炭を要するか——細目は尋常でない密度で記されていた。


 扉が静かに開く。

 文官・武官の列が自然と割れ、その奥に義信の姿が現れた。深緑の軍衣は簡素だが、肩章の金糸は冬の陽に淡く光り、足音には揺るがぬ律がある。入室の合図も要らぬほどに、場の温度がひと呼吸分だけ改まった。


 児玉は膝を折るように一礼した。

 「御前にて申し上げます。常備兵の実数は段階的に増強いたします。ただし、増やすこと自体を目的とせず、即応の質で積み上げます」


 義信は卓の端に置かれた測図器を手に取り、山地記号と河川を結ぶ赤い線の一本を、親指で軽く押さえた。

 「輸送は鉄路を骨に、街道を筋として息を通すことが肝要です。兵は歩み、鉄は運び、電は命ずる。三つの歩調が揃わねば、数は力に成り得ません」


 その声は張らぬのに遠くまで届く。

 年若い参謀が息を飲み、老練の砲兵中佐が思わず筆を置いた。


 児玉が続けた。

 「中央に指令の核を設け、各師団には“連絡将校”を置きます。電信線は軍用と官用を別建てに。戦時の切替は一刻で完了できる仕組みを——」


 義信はゆるやかにうなずき、短く言葉を添えた。

 「線そのものより、切替の権限を明文化することが先です。誰が、何を根拠に、いつ切り替えるか。文言を曖昧にすると、最前線ほど迷います」


 「はっ。命令書式は本日中に案を整えます」

 児玉の返答に、会議室の空気がかすかに緩む。張りつめた弦が、ちょうど正音を得たときの緩み方だった。


 義信は測図器を置き、別の図面を引き寄せた。

 「訓練は、銃の命中より“隊の呼吸”を先に。小隊—中隊—大隊、どの単位でも、合図から初動までの秒差を揃えること。射は六割でよい、脚と合図が八割ならば勝ちます」


 砲兵科の将校が手を挙げる。

 「殿下、砲列の間隔は従来の七十間でよろしゅうございますか」


 「地形が許せば六十。代わりに観測の目を増やす。後装の速射性を活かすには、砲と目の“会話”を短くするのが早道です」

 たん、と義信は鉛筆の尻で地図を軽く叩き、観測点と電信所の候補地に小さな印を落とした。


 児玉は、わずかに息を継いだ。

 「——御父君のご構想を、実地の枠に落とし込む道筋が見えます」


 「父の策は、紙の上で完成してはならぬ」

 義信は穏やかに言う。

 「人が運び、人が撃ち、人が倒れる。現場で崩れぬ線だけが、国を支えます」


 沈黙。

 冬の光が窓辺を白く撫で、障子紙の繊維が細やかに透けて見えた。


 児玉は資料の束をめくり、訓練の年次計画を示す。

 「基礎六か月、専門六か月の統一課程を施行。各連隊から上位一割を教官候補に選抜し、中央教官学校(市ヶ谷)にて六か月の集約教育。演習地は大宮原に中央を置き、北関東・東北に衛星演習地を順次設けます」


 義信は指先で日付欄を追った。

 「教官の“声”を揃えよ。同じ命令語で、同じ手振りを。部隊が土地を越えて混成されても、迷わぬように」


 「承りました」


 列席の若い参謀が恐る恐る口を開く。

 「殿下、増員に伴う宿営・糧秣が難題にございます。倉庁の収受は滞りませぬか」


 義信は卓上の別紙を一枚引き抜き、若者の前へ滑らせた。

 「倉の口はひとつに見えて、実は三つある。穀、塩、火(炭)。動かす順を間違えると、人馬は動けぬ。列車は穀を先、輸送馬には塩を先、砲は火を先。——道理が立てば、足りぬものは見える」


 若者の頬が赤くなり、深く一礼した。

 室内に微かな笑いが生まれ、すぐに鎮まる。その波紋が残したものは、和みではなく、決意の温度であった。


 児玉は最後の図面を開いた。

 「衛生線であります。野戦病院を師団ごとに一、衛生列車を各軍軍に一。包帯・消毒・担架の三点は、軍需列車の先頭二両に割り付け、到着後十五分で展開可能に整えます」


 義信の眼差しは、そこで初めて柔らいだ。

 「よい。剣は飯で続き、包帯で終わる。その終い方が整ってこそ、次の開戦を短くできる」


 児玉は胸中に湧き上がるものを抑え、言葉を選ぶ。

 「恐れながら——殿下の御言に従えば、我らが備うるべきは“勝ち方”ではなく“終わらせ方”であると」


 義信は視線を窓の向こうへ投げた。

 冬空は低く、細い光が市ヶ谷の瓦を冷たく撫でる。

 「勝ちは音が高い。終わりは音が低い。国に必要なのは、低い和音の方だ」


 会議の後段は、旅団単位の動員実験へと移った。

 地図上の列車時刻は、試算の線から現実の時刻表へ。各駅の停車時間、転車台の向き、給水塔の容量、退避線の長さ。紙と鉄の境界にある“僅差”が、一つひとつ埋められていく。


 「軍時刻の布令案、草稿を回覧いたします」

 書記官の声に合わせて、薄手の法文紙が配られる。

 義信は冒頭の一条だけを確かめ、末尾へ視線を滑らせた。発令権者・発令条件・復旧手続——肝心の三点に曖昧がないことを認め、無言で首肯する。


 児玉が、深く一礼した。

 「殿下の御助言、骨身に沁みます。御父君のご信任に背かぬよう、必ず形にいたします」


 「形は日々に崩れる。ゆえに、日々に直せ」

 義信は短く告げ、卓上の鉛筆を置いた。

 「——今日より始めよ」


 その言葉が終わるより早く、会議室の外で合図の太鼓が鳴った。

 窓の向こう、大宮原へ向かう最初の輸送列車が、黒い煙を低く曳きながらゆっくりと動き出す。冬の乾いた空気の中、汽笛が一度だけ短く鳴り、刃のような音が都心の屋根を渡って消えた。


 義信は立ち上がり、出入り口のそばで一瞬だけ足を止めた。

 「児玉」


 呼ばれて、児玉が姿勢を正す。

 「はっ」


 「人は紙に従わぬ。人は人に従う。教官を選べ。声の低い者、怒鳴らず歩く者、背で示す者を」


 「御意」


 義信はそれ以上言わず、会釈だけを残して去った。

 廊下に靴音が一本の線を引き、角で消える。会議室に残った将校たちの背筋が、言葉少なに伸びる。


 やがて児玉が、静かに口を開いた。

 「——諸君。今の一言が、我らの軍の礎だ。紙を仕上げ、声を揃え、脚を合わせる。今日から全員、教官をつくれ。兵を増やすは、その後だ」


 「了解!」

 応ずる声は揃い、短く、重かった。

 椅子が引かれ、筆が走り、伝令が駆ける。冬の午後はすでに傾き始めていたが、窓外の冷たい光は、どこかしら温度を帯びて見えた。


 この日、机上の線は、初めて軌条の上を走り出した。

 兵の呼吸を揃える最初の稽古が始まり、倉の口が順に開く。人と紙と鉄とが結ばれ、東京の空の低い和音が、確かに一段深くなった。

春の息がわずかに混じり始めた東京の朝。

 陸軍中央訓練所――まだ土の匂いが濃い大宮原の一角に、仮設の旗竿が立っていた。

 旗の赤が霜の光に濡れ、風が鳴るたび、遠くの松林がざわめく。


 児玉源太郎は、厚手の外套の襟をただしながら、報告書を閉じた。

 背後には新任の教官たちが二列に並び、右手には藤村義信の姿があった。

 義信はまだ若いが、その眼光は凍てつく風よりも冷たく澄み、兵たちはその視線が届くだけで背筋を伸ばした。


 「総員、整列――っ!」

 号令の声が大地に響く。靴音が一斉に鳴り、霜を踏む音が重なる。

 児玉は小さく頷き、義信の方へ視線を送る。

 「閣下、これより初の統一訓練を開始いたします」

 義信は頷きもせず、ただ言葉を低く置いた。

 「兵は我が民だ。叱咤ではなく、呼吸で動かせ。耳より先に、胸で号令を聞かせろ」


 教官たちは一斉に頭を垂れ、整然と散っていった。

 やがて平地に数千の兵が広がり、銃の機構を確認する金属音が一斉に鳴り始めた。

 風が、湿り気を帯びた春の匂いを運ぶ。


 田中太郎――農家の次男である新兵は、初めて手にする小銃の冷たさに指を震わせていた。

 「肩に密着、銃床を浮かせるな!」

 教官の声が飛ぶ。

 「はいっ!」と叫んだものの、頬が銃身に触れるとその金属の冷たさが刺のように伝わり、息を詰めた。

 次の瞬間、隣の列から乾いた一発が響いた。銃声が平原を裂き、響きが山の方へ抜けていく。


 児玉は後方の観測台からその光景を眺めていた。

 「これが十万の礎……民の体を国の筋に変える初日か」

 彼の傍らで義信が、無言で双眼鏡を掲げた。

 「閣下、訓練の進度はいかがで」

 「言葉は要らぬ」

 義信は低く言い、視線を双眼鏡から離した。

 「あの少年を見ろ。息を止めて撃とうとしている。――それでは心臓も止まる」

 「……」

 「命は連続の力だ。呼吸を切れば、弾も死ぬ」

 義信の声は風よりも静かだったが、確かに児玉の胸に響いた。


 号令が響く。

 「撃て――っ!」

 千の銃声が同時に放たれ、煙が風に巻かれる。

 その白い霞の向こうで、義信は僅かに目を細めた。

 「射の音が合ってきた。人の息と、鉄の息がひとつになる音だ」

 「御慧眼、さすがでございます」児玉は頭を垂れた。

 「御父君……いえ、総理閣下も、きっとこの光景をお喜びになるでしょう」

 義信は短く首を振った。

 「父は戦を喜ばん。国が立つ姿を望んでいる」

 その口調に、児玉は言葉を継げなかった。


 やがて午前の訓練が終わり、兵たちは木製の食堂舎で昼餉を取った。

 湯気の立つ麦飯と味噌汁、わずかな干物。

 だが、そのどれもが規律の下で等しく分配され、兵の誰もが黙々と食べている。

 義信はその光景を遠くから見つめ、ふと児玉に言った。

 「人は飢えよりも不平で乱れる。飯が少なくとも、理が通っていれば腹は立たぬ」

 「心得ております。糧秣の割り当ては地方別に再計算いたします」

 「それでよい。……だが、数ではなく秩序を見よ」


 午後、訓練は行軍に移った。

 大宮原から北へ三里――湿った地面を踏みしめながらの進軍だ。

 泥を跳ね上げ、息を荒げ、それでも隊列は乱れない。

 義信は騎馬に跨り、その横を児玉が並んで歩いた。

 「殿下、兵たちはまだ脚が弱うございます」

 「脚よりも、視線が揃わん。――前を見ず、横を見ている」

 「……心得ます」


 前方で、ひとりの兵が転倒した。

 教官が駆け寄り、叱責の声を上げる。

 だが、義信は手を上げてそれを制した。

 「立て。……倒れるのは恥ではない。立たぬのが恥だ」

 その一言で、兵は無言で立ち上がり、再び列に戻った。


 夕刻、太陽が傾き、演習は終わった。

 兵たちは整列し、義信が前に立つ。

 風が冷たく、頬を刺す。

 「本日より、この地を“国の心臓”とする」

 義信の声が響いた。

 「銃を握る手は、民の手である。――この国の力は、征くためのものではない。守るためのものだ」


 その言葉に、兵たちが一斉に敬礼した。

 長く伸びる影が地に交差し、夕陽が金色の光を落とした。


 義信はふと空を見上げた。

 淡い雲が西へ流れていく。

 「父上も、あの雲の向こうで見ておられるだろうか」

 児玉は小さく息を吐いた。

 「殿下、藤村公の先見は、まさしく時を超えています。

  この軍は、令和の知をもって築かれた未来そのもの。

  我ら臣は、その志を地に写すのみでございます」

 「未来を知ることは、責めを背負うことでもある」義信は静かに答えた。

 「父上が私に残されたのは、知識ではない。——選択の重さだ」


 児玉は黙って頷き、右手を胸に当てた。

 「殿下、御父君の血と我らの汗が、この国をひとつにするでしょう」

 「……ならば、止まるな。軍が止まれば、国も止まる」

 義信の声は淡々としていたが、その響きは確かに胸を打つものだった。


 日が沈み、夜の帳がゆっくりと降りていく。

 訓練所の灯りがひとつ、またひとつとともり、

 遠くから聞こえる兵舎の歌声が、まるで春を迎える前触れのように夜風に乗って流れていった。


 その夜、児玉は日報をまとめ、藤村晴人の邸宅――新宿の大屋敷へ報告を送った。

 封を閉じ、蝋を垂らす手がわずかに震える。

 彼は筆を置き、静かに独白した。

 「藤村公、御子息は確かに、貴方の志を継いでおられます。

  この陸軍は、もう紙上の夢ではない。明日の現実です」


 外では雪解けの水が細く流れ、遠い汽笛が夜を裂いた。

 その音はまるで、時代が動き出した合図のように、静かな東京の空に響いていた。

その夜、東京・新宿。

 藤村晴人の屋敷には、灯が幾重にも連なっていた。

 石畳の小道を照らす行灯が風に揺れ、庭の梅がほのかに香る。

 この屋敷は三万坪、長州征伐の恩賞として徳川慶喜から下賜されたものである。

 屋根は銅板葺き、柱は欅、壁には欧風の装飾が施され、廊下の奥には蒸気暖房が静かに唸っている。

 日本と西洋が交わった、その空間こそ、明治国家の心臓であった。


 執務室の中央に、重厚な書机が据えられている。

 その机の上には、児玉源太郎からの封書と、義信の手になる地図が並んでいた。

 藤村は椅子に腰を下ろし、封を切る。

 中から現れたのは、整った筆致で書かれた報告書――「陸軍改革第一期・訓練開始ノ件」。


 彼は静かに読み始めた。

 目を走らせるごとに、その表情は次第に穏やかになっていく。

 “常備軍十万、教官百名養成、中央訓練所開設。兵の呼吸、揃い始ム。”

 墨跡が新しい。

 彼は手紙を置き、火鉢の炭を突いた。

 「……よくやった、児玉。義信の息が、軍に通い始めたか」


 襖が静かに開き、篤姫が入ってきた。

 年齢を重ねても、その気品は変わらない。

 「今宵もお仕事ですか」

 「はい。……児玉からの報せです。軍の改革が、ようやく形になりました」

 「そう。あの方は、実直な方ですものね」

 「実直にして、勇断の士です。義信もよく支えてくれています」

 藤村は報告書を手渡す。篤姫はそれを受け取り、微笑んだ。

 「文字がまるで軍律のように整っていますね」

 「ええ。彼の性格がそのまま出ています」


 そのとき、侍従が膝をつき、静かに告げた。

 「閣下、徳川公がお見えです」

 藤村は立ち上がり、背筋を伸ばした。

 「お通ししろ」


 襖が開くと、そこに徳川慶喜の姿があった。

 白髪を後ろで結い、紺の羽織を纏うその姿には、老いてなお威厳があった。

 「遅い時間にすまぬ、晴人」

 「とんでもございません。おいでを賜り光栄に存じます」

 藤村は深く一礼した。


 慶喜は火鉢の前に座り、湯呑を受け取る。

 「児玉が動いたと聞いた」

 「はい。常備軍十万体制を確立し、訓練が始まりました。教官は百名、うちプロイセンから三名を招聘しております」

 「義信は?」

 「参謀本部の整備に専念しております。現場と電信を結び、師団を一つの指で動かす仕組みを……」

 慶喜の目が細められる。

 「参謀本部、か。……わしの時代には、夢のような話だ」

 藤村は軽く笑った。

 「殿下の政治があったればこそ、今の基礎がございます」

 「いや、余が為したのは“退く”ことだけだ。進めたのは、お前だ、晴人」


 沈黙が訪れる。

 障子の向こうで、風が竹を揺らす音がした。

 慶喜は湯を啜りながら、低く言った。

 「晴人、この国は変わった。だが、変え過ぎてもならぬ。血筋も、心も、残さねばならぬものがある」

 「承知しております。私は、徳川の臣です。陛下の治める国においても、その誇りは変わりません」

 「ならば、よい」

 慶喜は立ち上がり、肩に手を置いた。

 「義信を頼む。あの子は、父の影を背負いながらも、光を見ておる。支えてやれ」

 「……御意にございます」


 慶喜が去ったあと、藤村は長い吐息を漏らした。

 「征夷大将軍にして、この国の賢者か……。やはり、時代が変わっても、人の重みは消えぬ」


 夜半、書斎の扉が再び叩かれた。

 今度は、西郷従道である。

 軍服のまま、背筋を伸ばし、礼をとる。

 「総理閣下、夜分に失礼いたします」

「構わぬ。海の方は進んでおるか」

 「はい。黄海を決戦海域と定め、艦艇建造を開始いたしました。

  千代田・松島・厳島の三艦はほぼ完成。さらに十隻を順次起工いたします」

 藤村の目が鋭く光る。

 「北洋艦隊を凌駕できるか?」

 「二年で。……確実に」

 その言葉に、藤村はゆっくりと立ち上がった。

 「よかろう。陸の児玉、海の西郷――両輪が揃った。あとは、国家の意志だ」


 西郷は静かに頷く。

 「義信殿も申しておりました。“軍は手足、政治は心臓”と」

 藤村は微かに笑った。

 「あの子は、私の血を引きながら、もはや私の先を行っている」


 時計が十二の鐘を打つ。

 屋敷の外では、雪が舞い始めていた。

 藤村は窓を開け、白く煙る都を見下ろす。

 新宿の街灯が並び、遠くには皇居の灯が霞んでいる。

 「この灯を絶やすな。たとえ私が倒れても」


 篤姫が背後に立ち、そっと羽織を掛けた。

 「貴方はいつも、寒いところに立っておられますね」

 「熱い場所に立つと、人は周りを見失う」

 藤村は微笑んだ。

 「だが、見ておけ。

  ――この国は、もう誰の属国にもならぬ」


 その声には、静かな炎があった。

 風が障子を揺らし、火鉢の炭がぱちりと弾けた。

 藤村は机に戻り、義信宛の手紙を書き始める。


 『義信へ。

  お前が見ている未来は、すでに始まっている。

  軍は動いた。だが、民はまだ眠っている。

  この国の強さとは、剣でも金でもない。

  民が信じる力だ。

  それを忘れるな。

  父・晴人』


 筆を置き、封を閉じる。

 その封書を侍従に託し、静かに立ち上がった。


 廊下を抜けると、庭の池には薄氷が張っていた。

 その上に雪が降り積もり、月が反射している。

 藤村はその光を見つめながら、呟いた。

 「この静けさの中で、歴史は息をしている」


 彼の背後にそびえる屋敷は、近代化の象徴でありながら、

 どこか武家の威厳を残していた。

 明治という時代の流れの中で、藤村晴人の存在は、

 過去と未来を結ぶ一本の橋であった。


 夜は更けてゆく。

 庭の雪が音もなく降り積もり、

 遠くで汽笛が二度鳴った。

 藤村は振り返りもせず、ただ空を仰いだ。

 「――行け、義信。

  この国の未来を、描き続けろ」


 白い息が風に溶けて消えた。

 その瞬間、藤村晴人の屋敷にともる灯が、

 まるで新たな夜明けの前触れのように、静かに輝きを増していった。

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