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【篤姫と結婚した公務員】水戸藩から始まる幕末逆転録 ~公務員が理と仕組みで日本を救う~  作者: 一条信輝


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362話:(1891年・冬)未来を刻む政

秋雨が降り止んだ東京の空に、わずかな夕日がにじんでいた。

 首相官邸の屋根を濡らした雨粒が、瓦の隙間を伝って滴り落ちる。

 その音はまるで、遠い戦の太鼓を小さく模したかのように、一定の間隔で響いていた。


 藤村晴人は、書斎の奥で立ったまま地図を見つめていた。

 机の上に広げられたのは、朝鮮半島、遼東半島、そして黄海を中心に描かれた最新の軍用地図。

 線の上には、赤い鉛筆で細かく書き込まれた矢印が幾筋も走っている。


 その傍らには、灯油ランプの小さな炎が、老いた総理の横顔を照らしていた。

 皺の刻まれた額に、柔らかな光が映り、瞳の奥には、まだ消えぬ光が宿っている。


 ――私は未来を知っている。


 その言葉が、心の奥に沈むように響いた。

 令和という遠い時代で得た記憶が、頭の奥底で静かに再生されていく。


 1894年から始まる日清戦争。

 日本は勝利した。だが、想定外の苦戦だった。

 清国軍の抵抗、補給線の混乱、そして戦費の膨張。

 勝ったとはいえ、国は疲弊した。


 さらにその半世紀後、1937年――。

 日中戦争は泥沼だった。

 広大な中国大陸に深入りし、支配不能な土地を抱え、無限に湧く抵抗勢力に苦しんだ。

 兵を送れば送るほど、底の見えぬ沼に沈んでいくようだった。


 ――数が多いと、制圧に苦労する。

 ――統治が、国を滅ぼす。


 その苦い記憶が、藤村の胸を冷たく締めつけた。

 だが同時に、未来を知る者にしかできぬ決断がある。


 「圧勝するが、深入りしない」

 小さく呟いたその声は、書斎の壁に反射してかすかに響く。


 限定的な戦略目標――それが、次の戦の鍵だ。


 朝鮮半島から清国の影響を完全に排除する。

 遼東半島を一時的に占領し、講和の条件とする。

 そして、莫大な賠償金を得る。


 ――それだけでよい。

 ――深入りは、国を滅ぼす。


 椅子に腰を下ろすと、背後の書棚に目をやる。

 そこには、一冊の革張りのノートが置かれていた。


 それは、藤村自身が若き日に――

 まだ令和の記憶を鮮明に保っていたころに書き写した写本だった。


 『令和覚書』。

 軍制、外交、経済、医療、そして戦史。

 あらゆる未来の知識を、自らの手で封じ込めた唯一の記録。


 義信は、その写本を読み、研究している。

 だからこそ、彼も同じ結論に至るはずだ――そう確信していた。


 藤村は唇の端をわずかに上げた。

 「息子の時代には、私のような後悔を味わわせてはならない」


 その瞬間、扉を叩く音がした。

 「総理、陸奥外務卿からの報告が届いております」

 若い秘書官の声がした。


 「入れ」

 藤村が短く答える。


 秘書官が差し出した封筒には、ロンドン公使館からの電報写が添えられていた。

 “英米両国、満州方面における清国軍備の増強を警戒す”――。


 その一文を読んだ瞬間、藤村は静かに目を閉じた。


 ――やはり、時間はない。


 未来を知る者としての焦燥。

 この国を守るには、先んじて道を拓くしかない。

 たとえ誰に理解されずとも。


 立ち上がり、机の上の呼び鈴を鳴らす。

 「閣議を招集せよ。軍制改革の続きだ」


 秘書官が慌ただしく頭を下げ、廊下に消える。


 残された藤村は、再び地図に視線を戻した。

 黄海の中央、赤い線が朝鮮半島から北へ伸びている。

 その線の先端には、手書きで一言――「旅順」。


 「ここまでは取る」

 藤村は低く呟いた。

 「だが、ここから先には入らない」


 ランプの炎が小さく揺れた。

 まるで、彼の決意に頷くように。


 廊下の外では、官邸の庭師が木々の剪定を終えていた。

 銀杏の葉が風に舞い、白砂の上に落ちる。

 その音を聞きながら、藤村は自らの心に言葉を刻んだ。


 ――この国は、勝つために戦うのではない。

 ――生き延びるために、戦うのだ。


 彼は再び椅子に腰を下ろし、ペンを取り上げた。

 紙の上に、次の会議の議題を静かに記す。


 《議題:常備軍および予備役の編成について》

 《提案者:藤村義信》

 《目的:職業軍制度の確立と限定的戦略目標の決定》


 ――義信が、どんな答えを出すか。


 藤村はゆっくりと息を吐いた。

 「彼なら、未来を見据えた策を立てるはずだ」


 その瞬間、官邸の外で汽笛が鳴った。

 遠く、東京湾の方向から響く重い汽笛音。

 秋の風がカーテンを揺らし、書類の端をさらっていった。


 藤村は微笑んだ。

 「……時代が、動き出している」


 老いた政治家の指先が、赤鉛筆を握り直す。

 地図の上に、短く、だが決定的な線が引かれた。


 ――それは、「勝利の線」ではなく、「撤退の線」だった。


 未来を知る者だけが引ける、最も冷静で、最も勇気ある一線。

 藤村晴人は静かにペンを置き、心の中で呟いた。


 「この国を、次の百年へ繋ぐ」


 外では、雨上がりの空に一筋の光が射していた。

 それはまるで、未来へと続く細い道のようだった。

雪混じりの風が、官邸の屋根をかすめた。

 灰色の雲の下、日が暮れるのは早い。東京の冬は、決断を急かすように静まり返っていた。


 閣議が散じた後の執務室に、藤村晴人と義信、陸奥宗光の三人が残っていた。

 暖炉の火が低く燃え、外の寒気を押し留めている。

 机上には、先ほどまで使われていた地図と書簡の束が積み上がっていた。


 「……ようやく、形になってきましたな」

 陸奥が湯気の立つ茶碗を手に取る。

 「参謀本部の設置、兵の再編、財源の明示。どれも前代未聞ですが、論理は通っています」


 義信は静かに頷いた。

 「机上の策では終わらせません。来春には法案を公布し、三か年計画として実施に移します」


 藤村は椅子にもたれ、じっと息子の横顔を見つめていた。

 その目の奥には、懐かしさと、わずかな寂しさが混じっている。

 ――もはや、導く立場ではない。

 この若者は、自らの意志で国家を動かし始めている。


 「常備二十万、予備五十万……七十万の動員を三十日で。法の骨格は決まった」

 藤村の声は静かだった。

 「だが、法を生かすのは現場の血だ。徴募から訓練、そして復員まで――すべてを一線で繋ぐ。そこが肝要だ」


 「承知しています」

 義信は答え、紙束の端を整える。

 「徴兵検査は従来の地方官任せを改め、中央直轄の“徴募局”を設置します。

  統計課と通信課を併設し、各地の人員状況と輸送力を即時に把握できるようにします」


 「……通信を、か」

 陸奥が興味深げに眉を上げた。


 「はい。電信線を軍用回線として一部専用化し、鉄道信号所と連携させます。

  徴募・訓練・動員の流れを、紙ではなく電信で繋ぐ。遅滞は最も高い損失ですから」


 藤村は微かに笑った。

 「未来の兵は、紙では動かぬか」


 「ええ。線で動きます」

 義信の答えは短く、迷いがなかった。

 その言葉に、令和の記憶を持つ藤村の胸が淡く疼いた。

 ――そうだ。かつて未来でも、戦は通信で動いた。だが、情報は同時に毒にもなった。


 「報告と命令の線を一本化するのは危うい。だが、遅れれば国が死ぬ」

 藤村はつぶやき、窓の外へ目をやった。

 街灯がともり始め、雪が細く舞い降りている。


 「だからこそ、参謀本部の設計を急ぎます」

 義信は一歩進み、地図を指でなぞった。

 「陸と海、州兵を一つの戦略図に載せる。その中心に、情報と兵站を束ねる“中枢局”を置く。

  書類ではなく、人の思考を流れる血脈のように繋ぐ――それが理想です」


 「理想は、時に国を焼く」

 藤村の声は低い。

 「お前の理想は、火か、それとも光か」


 義信は父の瞳を真っすぐに見た。

 「光にします。そのために、火を管理します」


 短い間があった。

 陸奥が茶を口にしながら、静かに笑った。

 「良い言葉だ。外務卿としては、その“火”が国外に漏れぬよう囲いを作らねばなりませんな」


 「陸奥卿、交渉の場ではお任せします。

  我々が剣を見せるなら、卿は鞘を見せてください。相手は剣よりも、鞘の硬さを測ります」


 「心得ております」

 陸奥が軽く頭を下げ、懐から小さな紙包みを出した。

 それは、ロンドンから届いた新型装甲艦の仕様書だった。

 「これが、世界が次に使う“海の剣”です。速力二十ノット、射程八千。

  日本が黄海で主導を取るには、これを手に入れるか、凌ぐものを造らねばならぬ」


 藤村が受け取り、紙を光に透かした。

 「……鉄と蒸気の獣、か」


 「ええ。だが、獣を飼うより、制御できる方が上です」

 義信の声に、再び父の口元が和らいだ。


 外では雪が強まり、遠くで汽笛が鳴った。

 灯油ランプの炎がゆらりと揺れ、三人の影が壁に伸びる。


 藤村は静かに立ち上がり、義信の肩に手を置いた。

 「……お前の策は、まだ半ばだ。法を刻むまでは、言葉は風に過ぎぬ。

  だが、その風が嵐になるなら――私が背で受けよう」


 義信は深く頭を下げた。

 「父上、ありがとうございます。ですが、嵐は前に立つ者が受けねばなりません」


 藤村は目を細めた。

 「強くなったな」


 「未来を見た人に育てられましたから」


 暖炉の火がぱちりと弾け、室内に温もりが戻る。

 陸奥は黙ってそのやり取りを見つめ、やがて立ち上がった。

 「では、私は外務省へ戻ります。明朝には各国大使への通達草案を仕上げます」


 「頼む」

 藤村の声に、陸奥が深く頭を下げて退室する。


 扉が閉じられ、静寂が戻った。

 藤村はしばらく暖炉を見つめていた。

 赤い炎の奥に、過去と未来が同時に揺れているように見えた。


 「――義信」

 「はい」

 「この国の百年を、お前の手で描け」


 義信は目を閉じ、短く答えた。

 「必ず」


 外では、雪が音もなく降り積もっていった。

 白い静寂の中に、新しい時代の鼓動が、かすかに響いていた。

官邸を出た義信は、雪を踏みしめながら霞が関へ向かった。

 午後の陽は雲に隠れ、街は淡い灰色の光に包まれている。

 石畳の上で馬車の車輪が鈍く音を立て、吐く息が白くほどけた。


 陸軍省の門をくぐると、衛兵が敬礼をした。

 「お疲れさまです、少将殿」

 「急がせてすまぬ。参謀室で待つよう伝えてくれ」

 短く答え、義信は階段を上がった。


 廊下の突き当たり、古い扉の前に二人の若い士官が立っていた。

 机の上には図面、計算尺、そして電信符号の表。

 そこが、彼が“参謀本部”と呼ぶ予定の最初の部屋だった。


 「――これが、国の頭脳になる」

 義信は小さく呟き、地図の端を押さえた。

 広げられたのは日本列島と大陸沿岸を一枚に収めた新地図。

 測量局がこの冬に仕上げた最新の縮尺で、鉄道線と電信線が赤で示されていた。


 「佐野卿は?」

 「もうじきお着きになります」

 答えたのは、兵站局から派遣された中佐で、線路計画の専門家だった。

 義信は頷くと、窓の外に目をやった。

 雪が細く降り続き、街路樹の枝に静かに積もっている。


 やがて、佐野常民が分厚いコートを翻しながら入ってきた。

 「寒いな……まるで戦場の前触れだ」

 「卿にはお手数を。炉の温まりが遅くて」

 義信が立ち上がり、一礼する。


 「さて、早速見せてくれ」

 佐野は手袋を外し、机上の地図に目を落とした。

 「これが“中央参謀本部”の配置案か」

 「はい。ここ霞が関に本部を置き、隣接地に作戦・兵站・通信の三課を。

  鉄道省と電信局を横に並べ、情報の流れを遮らぬ構造にします」


 「電信を軸に据えるとは、時代が変わったものだ」

 「時代に追いつくだけでは遅れます」

 義信の口調は静かだが、語尾に確信があった。

 「我々は、時代の先を作らねばなりません」


 佐野が微かに笑った。

 「君の父上に似てきたな」


 「恐れながら、私は父を越えねばならぬ立場です」

 その答えに、室内の空気がぴんと張った。

 若さに似つかわしくない重みを、その言葉は持っていた。


 義信は資料の束を差し出した。

 「これが、兵の再編計画の詳細です。常備二十万を十六師団に分け、各師団に通信・衛生・工兵の独立小隊を付与。

  州兵は七方面に再編し、各州に“州参謀室”を置いて参謀本部と直結します」


 佐野は黙って頁をめくる。

 「……通信の独立とは、大胆だな。前線と後方を直接結ぶのか」

 「はい。伝令に頼らず、線で命令を通す。

  電信線を軍の神経と見立てれば、伝令馬の時代は終わります」


 「電信が断たれたら?」

 「即座に迂回線を開通させます。鉄道信号所に中継を置き、最短一時間で復旧できるよう設計します」


 佐野が頷いた。

 「まるで工場の設計図だな。国家を機械として組み立てる気か?」

 「ええ。感情ではなく、構造で勝つ国にします」


 窓の外で、風が鳴った。

 その音が、未来の汽笛のように聞こえた。


 義信は机上のランプを灯し、続けた。

 「さらに、徴募制度の再設計です。地方ごとに徴募局を置き、中央が電信で統計を集約。

  “徴募・訓練・動員・復員”の四工程を一法で統一します。

  徴兵は苦役ではなく“職業”として認め、給金・年金・再就職を法で保証します」


 「兵士に再就職……」

 佐野がつぶやく。

 「戦の後をも考えるか。藤村家は、どうしていつも“終わり”を見据えるのだろうな」


 「父上の背を見て学びました」

 義信は微笑んだ。

 「勝つことよりも、続くことが国の証です」


 そのとき、扉が叩かれた。

 若い通信技術士が顔を出す。

 「少将、陸奥外務卿からの電報です。ロンドン公使館より、軍備視察の受け入れ要請が」


 義信は紙を受け取り、目を走らせた。

 「……なるほど。彼らも動き始めましたか」


 佐野が覗き込む。

 「何と?」

 「イギリスとドイツが互いに造艦競争を始めたとの報。

  陸奥卿は、我が国が新技術を吸収する好機だと見ています」


 「だが、視察を受け入れれば、こちらの手の内も見せることになる」

 「構いません。見せることで信用を買うのです」

 義信は電報を折り畳み、懐にしまった。

 「鞘を見せて恐れさせる――陸奥卿の言葉を実行に移します」


 佐野がふっと笑う。

 「君の代で、この国の呼吸が変わるな」

 「呼吸を整えなければ、走れませんから」


 暖炉の炎がぱちりと鳴り、部屋を明るく照らした。

 その光に照らされ、義信の横顔が一瞬、父に似た。


 机の端には、先ほど彼が描いたばかりの見取り図が置かれていた。

 参謀本部を中心に、鉄道省、電信局、気象観測所、兵站倉庫が円環状に配置されている。

 それはまるで、未来都市の構想図のようだった。


 「この形ができれば、我々は“地図の上で勝つ”ことができます」

 義信は静かに言った。

 「戦場は、血を流す前に終わらせる。それが本当の勝利です」


 佐野は目を細めた。

 「――未来を知る父の子が、ついに未来を造るか」


 義信は応えず、地図に視線を落とした。

 赤い線の先に、まだ描かれていない空白が広がっている。

 彼は鉛筆を取り、そこに細く一本の線を引いた。


 それはまだ誰も知らぬ“次の時代”への道だった。

夜、官邸の書斎にはまだ灯が残っていた。

 風は雪を巻き上げ、屋根を打つ音が絶え間なく続いている。

 窓辺の硝子には白い霞が降り、外の闇を映さぬほどに曇っていた。


 藤村晴人は、暖炉の前に立っていた。

 背筋は伸び、指先には一枚の書状がある。

 義信が昼に提出した“参謀本部設立要綱”――その正式な上申文であった。


 火の明かりに透かせば、墨の筆跡が生きている。

 細く、正確で、まるで戦図を描くような文字だった。

 老いた総理は、長い時間をかけてその一枚を読み返していた。


 やがて、扉が二度叩かれた。

 「――入れ」

 静かな声に応じて、義信が姿を現した。

 分厚い外套の肩には雪が残り、頬は冷えた夜気に赤く染まっている。


 「お呼びでしょうか、父上」

 「これを見ろ」

 藤村は書状を差し出した。

 「よく書けている。法文にも耐える。だが――これは、政を動かす刃だ」


 義信は受け取り、頭を下げた。

 「覚悟の上です」


 「参謀本部、通信局、徴募法、兵站規則。すべてを一年で施行するつもりか」

 「はい。遅れれば、清国も欧州も先に動きます。

  我々が“次”を掴むには、ためらいは許されません」


 藤村は微かに笑った。

 「若いな……だが、それでいい。

  私は未来を知ったが、未来を動かすことはできなかった。

  お前は、知らずして動かす者だ」


 義信は息を呑み、静かに目を伏せた。

 火の粉が弾け、二人の影を壁に揺らした。


 「明朝、将軍家へ上奏する。

  慶喜公の御裁可を得てから、帝に勅裁を願い出る。

  ……その場に、お前も同行せよ」


 「御意」

 義信の声は凛としていた。


 ――翌朝、雪はさらに深く積もっていた。

 城下の松の枝が白く沈み、霞ヶ関から駿府邸へ続く道は、馬蹄の音を吸い込んで静まり返っていた。


 黒塗りの馬車の中で、義信は窓を見つめていた。

 外の雪景色が、まるで時代の幕を覆う白布のように広がっている。

 隣に座る父は無言だった。

 ただ、指先で膝の上の封筒をなぞっている。

 その封筒には、筆で一言――「参謀本部設立之件」と書かれていた。


 駿府邸に着くと、広間には既に慶喜が座していた。

 五十四歳の将軍は、なお威厳に満ちていた。

 白髪を交えた髷が、薄明かりの中で銀色に光る。


 「久しいな、藤村」

 「はっ。恐れながら、本日は一件、国の骨格に関わる上申にて参りました」

 藤村は深く頭を下げ、義信もそれに倣う。


 慶喜は扇を手に取り、静かに広げた。

 「義信……若いが、噂は聞いておる。

  父に似て、理を通すことを恐れぬと」


 「身に余るお言葉にございます」

 「よい。――申してみよ」


 義信は一歩進み、巻紙を捧げた。

 「参謀本部設立にございます。

  陸と海、州兵を一図に束ね、戦略・兵站・通信を一元化する中枢を設けます。

  加えて、徴募制度の改革により、七十万の兵を三十日で動員できる体制を整えます」


 広間の空気が、ぴんと張った。

 慶喜の目が細くなる。


 「七十万、か」

 「はい。あくまで防衛と抑止のために。

  戦を起こすためではなく、終わらせるためにございます」


 「……言葉だけなら、誰でも申す」

 慶喜の声には冷たさがあった。

 「その七十万を、誰が統べる」


 「私です」

 即答だった。


 藤村がわずかに目を見張る。

 だが義信は一歩も退かぬ。


 「私は戦を望みません。しかし、避けられぬ時にこそ、決められる者が必要です。

  父上は未来を知り、私は現在を見ています。

  ならば、その狭間を繋ぐのは私の務めにございます」


 慶喜はしばし黙し、やがて扇を閉じた。

 「……面白い。父を越える気か」

 「父上を敬いながら、越える所存です」


 沈黙ののち、慶喜は扇の先で机を叩いた。

 「よかろう。参謀本部設立を許す。

  帝への奏上は、我が名で取り次ごう」


 その瞬間、義信は深く頭を垂れた。

 藤村もまた、静かに膝を折った。


 「感謝申し上げます」


 「礼は要らぬ。責を果たせ」

 慶喜の声は厳しく、それでいて温かかった。

 「この国は、もはや私の時代ではない。

  お前たちの代で、新しい“戦わぬ強国”を示してみよ」


 ――その夜。


 官邸に戻った藤村は、長椅子に腰を下ろした。

 暖炉の火はもう尽きかけ、橙の光が薄く壁を照らしている。

 義信は隣に座り、黙って父を見ていた。


 「お前は……恐ろしいな」

 藤村は微笑んだ。

 「父の未来を超え、己の現在で国を動かす。

  もう、私の出番は終わったようだ」


 「いいえ」

 義信は静かに首を振った。

 「父上が未来を遺したからこそ、私は今を変えられるのです」


 藤村は目を閉じた。

 遠い令和の記憶――戦火、鉄の列車、黒煙、そして沈む都市。

 その全てが、今日の息子の言葉で救われる気がした。


 「……ならば、もう言うことはない」

 「はい」

 「だが、一つだけ教えよう」


 藤村はゆっくりと立ち上がり、窓の外を見た。

 雪が夜風に舞い、街灯に照らされてきらめいている。


 「未来とは、知るものではない。

  描くものだ――お前のようにな」


 義信は深く頭を下げた。

 その姿に、藤村は確信した。

 ――この国は、託せる。


 外の雪は静かに降り続き、

 東京の街を白く包んでいった。


 そして、官邸の屋根の上に灯る一筋の光だけが、

 新しい時代の夜明けを、静かに告げていた。

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