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【篤姫と結婚した公務員】水戸藩から始まる幕末逆転録 ~公務員が理と仕組みで日本を救う~  作者: 一条信輝


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360話:(1891年・冬)次の段階へ

風花が、官邸の中庭を斜めに渡っていった。

 凍てついた敷石の目地に白い粒がたまり、枯れた銀杏の葉がその上で薄く凍りつく。

 空は鉛色で、陽は低い。冬は、音を吸い込む。


 首相官邸の執務室。

 火鉢の炭が小さくはぜ、薄い温もりが畳の目に溶けていく。

 藤村晴人は、机に広げた大判の地図の端を、指先でそっと押さえていた。

 紙は幾度も折り畳まれた跡で柔らかく、角は手の油を吸って黒ずんでいる。


 ――常陸。

 墨の点で囲った小さな地名に、視線が止まる。


 「……すべては、ここから始まった。」


 低く洩らした声は、冬の気配に沈んでいった。

 窓の外で、松の枝が風に鳴る。障子の桟がかすかに軋み、煤竹の筆筒の影が机面で細く揺れた。


 常陸で試みた四本柱――教育、経済、芸術、行政。

 寺子屋は学校へ、土間は工場へ、祭礼は記録へ、村役は自治へ。

 地方での手探りが、いつしか国の設計図になった。


 七年計画を掲げ、道を引いた。

 幾つもの冬を越え、今、基盤はほぼ整った。

 だが、最後に残った一本の赤い線が、手帳の余白で孤り強く光っている。


 ――軍制。


 藤村は黒革の手帳を開く。

 煤けた頁に密に並ぶ小さな文字、挟まれた薄葉紙の注記、赤鉛筆の下線。

 「徴兵制の基礎は成る。兵站の骨格も成る。訓練規範、全国へ布告」

 その下に、太い朱で囲まれた語があった。


 「国民皆兵 × 州兵」


 交わらぬ二線。

 理は同じく「国を護る」だが、姿は違う。

 国軍は一本の矢であり、州兵は広げた盾だ。

 一本の矢は鋭い。広げた盾は折れにくい。

 矢と盾、どちらも欠かせぬはずが、同じ手には収まりにくい。


 (民が武を知り、武が民を護る――あの理想を、制度の歯車に落とし込まねばならぬ。)


 冬の外気が障子の隙から入り込み、墨の香をわずかに薄めた。

 藤村は硯に水を落とし、凍える指でゆっくりと磨った。

 墨は静かな夜のように深く、重く、やがて筆先にまとわりつく。


 「十八歳から三年。基礎、専門、実戦。兵役を終えれば州兵へ――」


 筆先が半紙に触れ、簡潔な行が並び始める。

 「平時:治安・災害。戦時:動員・補助。指揮:中央優先、州権調整条項」

 書けば書くほど、空白が浮かび上がる。

 紙面の白は、まだ詰まらぬ現実の余白だ。


 火鉢の炭が、ぱちりと鳴った。

 その一音で、目の奥に過ぎた冬が蘇る。

 雪の常陸で、凍てた田に立つ若き農夫。

 「学びがなければ、明日の背骨が折れる」

 言い切った自分の声が、遠い。

 あの時と同じだ、と藤村は思う。

 骨を入れ、筋を通し、血を巡らせねば、人も国も立たない。


 机の端に置いた封筒に目をやる。

 「沖田」「河上」と墨で記した小さな招状が二通。

 紙は薄いが、重い。

 剣の理と、血の記憶。

 近代の軍は銃で戦う。だが、隊を動かすのは数式ではない。

 身体に染みついた「稽古」と、背骨に刻まれた「覚悟」だ。


 (武の心を、新しい軍の骨格に――)


 思考がそこまで進んだとき、廊下のほうで衣擦れの音がした。

 書記官が膝をつき、障子の外から声をかける。

 「――総理。皆様、お揃いでございます」


 「通せ」


 短く返して筆を置く。

 筆先の墨が、紙の角に小さく黒い滴を作った。

 冬の光は薄い。だが、その滴ははっきりと濃かった。


 襖が音を立てて開く。

 吐く息の白さを背負い、重臣たちが次々に座へ進む。

 大久保は分厚い綴りを抱え、陸奥は練り直した外交素案を懐に忍ばせ、

 新任の大隈は控えめに一礼して、帳簿の角を几帳面に揃えた。

 佐野は古風な外套の襟を正し、老いの刻みを見せぬ背筋で座につく。


 座が整うまでの、ほんのわずかな間に、冬の静けさが室内を満たした。

 炭の赤い芯が呼吸のように明滅し、紙の擦れが、雪の上の足音のように細く連なる。


 「――始める。」


 藤村は膝前の帳を正し、冬の空に負けぬ低さで口を開いた。

 「基盤は整った。次は、骨を通す。」


 重臣たちの目が、一斉に中央へ集まる。

 その視線の重みを受け止めながら、藤村は一呼吸置いた。


 「教育は、常陸の式で国に根を張った。経済は、北と東で血を巡らせている。

  芸術は、言葉と歌を記録に留め、行政は、各地の背骨を立てた。

  残るはただ一つ――軍である。」


 冬の外気が、障子の隙で細く鳴った。

 藤村は続ける。


 「国民皆兵――民が国の盾となり矛となる。その理を掲げたのは、昨日今日ではない。

  だが、州兵の自由と、国軍の統一は、なお擦り合わせを要する。

  治安、災害、戦役。三つの局面で、誰が、いつ、どれほど、どう動くか。

 その“図面”を、この冬のうちに引き切る。」


 静まり返った室内に、紙を捲る音が重なった。

 藤村は手帳の赤線を皆に示す。

 「十八で召し、三年鍛え、民へ戻す。戻った者を州兵の柱に据える。

  指揮は中央、運用は州。矛と盾の手綱を一本にする。」


 大久保が無言で頷く。

 陸奥は眉根を寄せ、国境の氷原と海峡の地図を思い描くように目を細め、

 大隈は素早く算盤の脳を働かせて、歳出と歳入の勘定を無音で弾いた。

 佐野は静かに目を閉じ、若い工夫たちの顔を一人ひとり思い浮かべた。


 「本日は総括ののち、軍制の大枠を定める。

  細部は、剣と指揮を知る者の意見を織り込む」


 招状の二通が、藤村の視界の端で小さく揺れる。

 沖田総司。河上彦斎。

 旧き「武」の最先端を歩いた二人。

 彼らの身に積もった年月の雪は深いが、踏み固めた道は確かだ。

 その足裏の感覚――「動き出す前に感じ取る」術は、銃陣にも応用がきく。


 藤村は、わずかに息を吸い直した。

 冬は、余計な音を削ぐ。

 だからこそ、言葉は骨だけを残さねばならない。


 「――まず、常陸の総括から入る。

  その上で、州兵の役割を三つに定義する。治安。災害。戦役補助。

  そして、国民皆兵の三段訓練を、全国で一にする。」


 火鉢の赤が一段と濃くなる。

 誰かの喉が、ごくりと鳴った気がした。

 冬の朝は長い。だが、決めたことを進めるには、短すぎる。


 藤村は、冬の空の重さをそのまま声に移した。

 「骨を立てる。今だ。」


 障子の外で、風が一段強く唸った。

 白い粒がいっそう斜めに走り、松の葉にひそやかに降り積もる。

 会議は始まった。

 この冬に引く一本の線が、やがて国の背骨になることを、誰もが肌で感じていた。

部屋の中の空気が、わずかに動いた。

 藤村晴人が視線を上げると、障子の外で炭の灰が舞い、細い光がそれを切り取った。

 冬の午前の光は鈍く、まるで世界が凍ったまま呼吸を忘れているようだった。


 「――常陸モデルの総括を始める。」


 藤村の声が、静かに響いた。

 低く、しかし部屋の隅々まで届くような調子だった。

 長机の向こうで、大久保利通が姿勢を正す。

 白髪の混じる髷を結い直し、筆を持ったまま顔を上げた。


 「総理、常陸モデルとは、改めて何を指されますか。」


 問いかけというより、確認だった。

 藤村はわずかに頷く。


 「私がまだ若い頃、常陸で始めた改革だ。

  教育、経済、芸術、行政――この四本柱を基礎に、地方自治の骨格を作った。

  それが、いまや全国に広がっている。」


 語る声は淡々としていたが、その奥に確かな温度があった。

 視線の先には、地図の中央に黒く囲われた常陸の名。

 紙の上の点が、まるで心臓のように脈打って見える。


 「教育では、寺子屋を学校へ改め、師範の制度を整えた。

  朝鮮に十校、蝦夷地に八校、満州に五校を設けて、国境の外にも学びの根を広げた。

  経済では、化学肥料と蒸気機関の導入を進め、樺太では石油三十万トンの採掘を実現した。

  さらに、アラスカ金鉱の事業で国家収入を二割押し上げた。

  芸術面では、アイヌ語の文字化と伝統文化の記録保存――これは国の魂を守る仕事だった。

  行政では、地方自治を確立し、各地に総督を置いた。これが今の地方制度の礎になっている。」


 大久保が目を細めて頷く。

 「……見事にございます。もはや“常陸モデル”は官僚の間でも理想の手本となっております。」


 藤村は小さく微笑んだ。

 「だが、基盤が整っただけだ。あとは骨格を通す。」


 その言葉に、室内の空気がぴんと張り詰めた。

 炭の火がぱち、と音を立てる。

 障子の向こうで、風が雪を運び、遠くの木々を鳴らしている。


 「――次は、軍制改革だ。」


 その一言で、列席する重臣たちの視線が一斉に動いた。

 陸奥宗光が書状の端を指で押さえながら、息をつく。

 大隈重信は腕を組んだまま、瞳の奥で何かを計算していた。


 「徴兵制の基礎は整った。武器の近代化も進み、訓練の標準化も概ね終えている。

  だが――国民皆兵と州兵の兼ね合いが、まだ擦り合っておらぬ。」


 言葉の節々に、疲労と焦りがにじむ。だが、それを隠そうとはしなかった。


 「国民皆兵は、全国民が兵役を負い、国軍として祖国を守る仕組みだ。

  一方で、州兵は各地域の独立組織であり、三つの役割を持つ。」


 藤村は指を三本立てた。


 「第一に、地域の治安維持――警察では対応できぬ大規模暴動への即応。

  第二に、災害への出動――地震、洪水、火災などで民を守る。

  第三に、戦時の後方支援――物資の補給、傷病兵の救護、予備兵力としての動員。」


 陸奥が頷きながら、静かに筆を取った。

 「理屈では、どちらも理想です。ですが、実際に指揮系統を一本化するのは容易ではありません。

  現場で混乱が起きる可能性が高い。」


 「承知している。」藤村は短く返した。

 「だからこそ、この冬のうちに方向を定める。

  統一指揮の条文、訓練内容の共通化、各州兵の規律統一――すべてを含めてだ。」


 外では風が唸り、雪の粒が窓枠を叩いていた。

 その音が議場の沈黙を支配する。


 藤村は、机上の資料を指先で押さえる。

 「時間がない。ロシアとの暫定協定の期限は遠くない。

  国軍制度を完成させねばならぬ。」


 大久保が眉をひそめた。

 「つまり……それまでに国軍制度を確立するおつもりですか。」


 「そうだ。」


 短い答えだった。だが、その重みは冬の静寂よりも重かった。


 藤村はゆっくりと立ち上がる。

 青の羽織が揺れ、光を吸い込む。

 「私は六十七歳だ。もう若くはない。

  だが、この国の形を見届けずに倒れるわけにはいかぬ。」


 その声は、誰に向けたものでもなく、

 ただ冬空へと投げられた祈りのようだった。


 大隈が口を開いた。

 「もしこの制度を全国に敷けば、地方の負担は膨大になります。財政的には危うい。」


 藤村は首を振る。

 「常陸でもそう言われた。だが実際は違った。

  我々は支出を圧縮し、わずか数年で借金を完済した。

  財政を健全化できたのは、浪費を切り詰め、教育と産業に投資したからだ。

  今も同じだ。負担ではない。未来を築くための支出だ。」


 その言葉に、場の空気が変わった。

 冬の光が障子越しに差し込み、炭の赤が揺れた。

 陸奥が静かに筆を置き、深く頭を垂れた。


 「……お言葉、肝に銘じます。」


 藤村は小さく頷く。

 「人は、変わらぬ土地に根を下ろし、そこから国を見上げるべきだ。

  常陸で学んだのは、それだ。」


 外では雪が降りしきっていた。

 その向こうに、常陸の海岸線が霞のように浮かぶ気がした。


 「我々が今すべきはただ一つ――“守る”だけの国を、“動かす”国に変えることだ。」


 室内に、誰の声もなかった。

 ただ、火鉢の炭が小さくはぜる音と、遠い風の唸りだけが残っていた。


 藤村は机の上の封筒を見やる。

 そこには、二つの名が並んでいる。

 ――沖田。

 ――河上。

 剣と信義を知る者たち。

 彼らの生き様こそ、新しい軍の心に通わせねばならぬ血筋だった。

官邸を出ると、風が顔に刺さるように冷たかった。

 白い息が短く弾けては、すぐに冬の光に消えていく。

 午の鐘が遠くで鳴るころ、藤村晴人は馬車を降り、自邸の門前に立っていた。


 雪の上には、昨夜の犬の足跡がいくつも続いている。

 庭の柿の木はすっかり葉を落とし、枝先に小さな雪の花を咲かせていた。

 冬の東京――音が吸い込まれていくような静寂の中に、遠く汽笛だけが響いている。


 玄関の戸を開けると、湯気の匂いがふわりと鼻をくすぐった。

 白い襟巻を外す藤村を、篤姫が迎える。


 「お帰りなさいませ。……お疲れのようですね」


 「少し、考えごとをしていた。」

 藤村はそう言って帽子を脱ぎ、上着の雪を払う。

 室内は炭火の香りが満ち、障子越しに光が柔らかく滲んでいた。


 食卓には、湯気を立てる白粥と、焼き魚、根菜の煮物。

 そして温かな茶碗蒸しがひとつ、丁寧に置かれている。

 質素ながらも、素材の味を生かした篤姫らしい献立だった。


 「今日は、閣議で?」

 篤姫が湯呑を差し出す。

 藤村は受け取りながら、少し微笑を浮かべた。


 「常陸モデルの総括をした。あの地で始めた改革が、ようやく全国に根を張った。」


 篤姫の瞳がわずかに輝く。

 「それは……長い道でしたね。」


 「長いようで、短かった。」

 藤村は茶をひと口飲み、湯気の向こうに視線を落とした。

 「ただ、まだ終わっていない。軍制改革が残っている。」


 「また……軍のことですか。」

 篤姫は小さく息を吐いた。

 それは責めるような声音ではなく、深い心配の滲む溜息だった。


 「あなたは、いつも“最後の仕事”と言いながら、次の課題を見つけてしまうのですね。」


 藤村は苦笑した。

 「そうかもしれん。だが、あれを放っておくわけにはいかぬ。」


 「でも、もう充分にやってこられました。」

 篤姫は箸を置き、穏やかに夫を見つめた。

 「あなたが常陸で始めたことが、いま全国を動かしている。

  それを見届けられただけでも、立派なお務めです。」


 藤村は一瞬、言葉を失う。

 外では、風が木々の枝を鳴らし、氷の粒が軒に落ちる音がした。


 「……分かっている。だが、まだ足りないのだ。」

 彼は箸を置き、指先で額を押さえた。

 「国民皆兵と州兵の擦り合わせが、まだ完成していない。

  このままでは、有事の際に統制が乱れる。」


 篤姫は沈黙した。

 その目には、かつての戦を知る女の静かな光があった。

 「あなたが戦場に出るわけではないのに……まるで自分の命を賭けるような顔をなさる。」


 藤村は少し笑った。

 「命を賭けるのは若い兵たちだ。私は、その命を無駄にしない仕組みを作るだけだ。」


 篤姫はそっと椀を持ち上げた。

 「……それでも、心を削ってしまうお方です。」


 しばし、二人の間に湯気だけが流れた。

 篤姫は話題を変えるように、小鉢の煮物を彼の前へ差し出す。


 「今日は、鯛のそぼろです。冬のものが手に入りました。」


 藤村は小さく頷き、箸を取った。

 口に運ぶと、淡い旨味が広がる。

 「うまいな。……昔、鹿児島で食べた味に似ている。」


 「覚えておいででしたか。」

 篤姫が微笑む。

 「当時は、何を召し上がっても“これは常陸の味に似ておる”と仰っていましたのに。」


 藤村は喉の奥で笑った。

 「その頃は、何を食べても未来の味がした。」


 篤姫の笑みが、ふっとやわらぐ。

 冬の光が障子を透かし、二人の間に薄く差し込んだ。


 「……軍のこと、あまり無理をなさらないでくださいね。」

 篤姫の声は、茶の香のように柔らかく、しかし確かな響きを持っていた。

 「計画は九年に延ばされたのですから、焦らずに。」


 藤村はその言葉に頷く。

 「そうだな。だが、あの制度を完成させるには、人の力がいる。」


 「人、ですか。」


 「沖田総司と河上彦斎。二人を呼ぶつもりだ。」


 篤姫の表情が少し変わる。

 「お二人とも……随分と長く、あなたを支えてこられましたね。」


 「そうだ。」

 藤村は視線を落とした。

 「剣の沖田、影の河上。どちらも時代に取り残されたようで、実は誰よりも時代を動かしてきた。」


 篤姫は頷き、茶を注ぎ直す。

 「あなたのまわりには、いつもそういう方々が集まります。

  己を削り、理想を支える人たち。」


 藤村は静かに笑った。

 「彼らがいなければ、私はとっくに倒れていた。

  だが――人は、守るものがある限り、強くなれる。」


 その言葉に、篤姫は箸を止めた。

 「……では、あなたの“守るもの”は、今も国なのですね。」


 藤村は一瞬、答えをためらい、やがて微笑を返した。

 「国、そして……お前だ。」


 篤姫は顔を伏せ、湯気の向こうで小さく笑った。

 「ずるい方です。」


 藤村も、静かに笑った。

 その笑い声が、冬の家の中にわずかな温もりを灯す。


 やがて、食事を終えた藤村は立ち上がり、障子を開けた。

 外の庭に、薄い雪が積もっている。

 手入れされた松の枝に白が重なり、凛とした空気が張りつめていた。


 「……今年の雪は、常陸の冬に似ているな。」


 篤姫がそっと背後から近づく。

 「常陸の雪は、もう少し優しかったそうですよ。」


 藤村は微笑んで頷いた。

 「優しい雪は、働く人の上に降る。

  今の東京の雪は、まだ冷たい。……だから、温めねばならん。」


 その言葉に、篤姫は静かにうなずいた。

 「では、今夜は少しでも温まるお料理を用意しますね。」


 「頼む。夜には、沖田と河上が来る。」


 篤姫は驚いたように目を上げる。

 「もう、お呼びに?」


 「ああ。」藤村は外の雪を見つめた。

 「彼らと話をせねば、次に進めん。」


 冬の陽がわずかに差し込み、藤村の横顔を照らした。

 その光は、白髪に溶け、まるで雪明かりのようだった。


 篤姫はその姿を見つめながら、心の中で小さく祈った。

 ――この人の冬が、どうか穏やかでありますように。


 炭の香がふわりと立ちのぼり、障子の外で風の音が遠ざかっていった。

雪は、音のない言葉のように降り続いていた。

 藤村家の広大な屋敷は白い帳に包まれ、瓦の稜線に沿って淡い光が積もる。主屋から渡り廊下でつながる書院の間では、炭火の火鉢がひっそりと息づき、障子の向こうに灯籠の影が揺れている。給仕の足音はやわらかく、畳を傷めぬよう深靴の底に布を巻き、息遣いすら控えめだった。


 「お支度、整いました」


 女中頭が静かに膝をつくと、藤村晴人は小さく頷いた。深紺の羽織の襟を整え、硯蓋に重ねてあった書状をひとつ、脇息の上に滑らせる。今夜は私邸での小さな宴だ。客は二人。どちらも、この十数年、風雪の中で家を支え、国を支えた男たちである。


 廊下で衣擦れ。まず、沖田総司が現れた。

 白地に黒の羽織紐。剣士の立ち姿は少しの隙もなく、しかし張り詰めた鋼鉄の冷たさではなく、よく鍛えられた竹のような柔らかさがある。腰の刀は軽く、鞘の塗りは古びても艶を失っていない。


 「総理、遅参いたしました」


 「よう来てくれた。寒かったろう」


 「鍛錬の帰りにて。冷えは血を回す薬にもなります」


 口元に淡い笑み。結核の影など欠片もない、澄んだ声だった。続いて河上彦斎が入る。

 黒羽織の紋は深く、足取りは雪を踏む狐のように静かだ。彼の眼はよく周囲を見て、見たことを胸に沈める。人斬りの気配など、この世界の彼にはない。ただ警護と諜報の統を任じられた忠臣の眼差しがある。


 「殿、屋敷外郭の巡回を増やしました。雪明かりが強うございます。遠目にも人影が立ちやすい」


 「手回しが早いな。ご苦労」


 小間使いが膳を運ぶ。朱塗りの盆に、銀の蓋物。

 饗応は簡素に見えて、隙がない。鯛の酒蒸しに昆布の香、蝦夷鹿のロースを炭火で炙ったものは山わさびを添え、器の底で湯気を立てる。大椀は白味噌仕立てに丸餅。向付は寒鰤の昆布締めと数の子を少量。酒は燗の温度を二度刻みで替え、口当たりと香を合わせる。給仕は三人、間を読み、言葉少なに盃を満たした。


 「まずは、無事にこの夜を迎えられたことに」


 盃が触れ合う音は薄く、雪の庭へ吸い込まれた。

 沖田は一献ののち、ゆっくりと膳の脇へ刀を寄せ、その鍔に指を添えたまま言う。


 「近ごろ、若い者の剣がよく伸びます。型をなぞるだけでなく、間合いを測り、人のこころの揺れに気づく。そういう眼を持ち始めている」


 「師の眼を、師が渡し得たのだ」


 藤村が応じると、沖田は首を横に振る。


 「いえ、場があるのです。稽古場も、食堂も、寝所も。警察の若衆だけでなく、各地から集まってくる志願の書生や士官候補にも、同じ飯、同じ水。武の規律は、畳の目をそろえることから始まりますので」


 河上が盃を置き、襟を正して言葉を継いだ。


 「屋敷の内も、同じでございます。使用人には、表と裏の道を分けました。給仕、炊事、帳場、警護、それぞれの足取りが交わらぬよう、廊の巡りを変えました。どの者も自分の役目を踏み外さぬ道筋です」


 藤村は一瞬だけ目を閉じ、心中で図面をたどる。

 この邸は、国そのものの縮図でなければならぬ。誰の働きも、他の誰かの働きに陰を落とさず、しかも互いを支えるように組まれていなければ。台所で湯気が上がる時刻、書院で灯が入る時刻、門で草履の雪が払われる時刻。それらが一つのはくで回ること。屋敷の秩序を整えるとは、国の拍を整えることと同じだ。


 「二人に頼みがある」


 藤村が座り直すと、給仕は気配を読み、膳の間合いを半歩引いた。

 「剣を、兵の型に閉じ込める気はない。だが、兵の心に剣の筋を通したい。州ごとに育つ気風は活かしながら、国としての拍を合わせる。そのための“礼”を、若い者に渡してほしい」


 沖田は即座に頷いた。


 「礼は刀より先にございます。姿、呼吸、間。一本の抜刀に至るまでの、千の振る舞い。……それを稽古日誌に言葉で残します。誰が読んでも辿れるように」


 「ありがたい」


 河上は少しだけ思案し、静かに口を開く。


 「私は、剣の『抜かぬ道』を教えましょう。警護は、斬らぬための布陣が要です。門番の立つ角度、庭石の位置、夜の灯の高さ。実地の設えを図に起こし、各地の役所や屯所に移せるようにいたします」


 「よい」


 藤村の声に、炭がぱちりと鳴いた。

 雪はさらに深く、庭の砂に模様を描く。渡り廊の向こう、梁の影が長く伸び、松の黒と雪の白が幾何のように交わっている。


 食後、書院の隣の小さな道場へ移った。

 畳は冬の乾きで軽く鳴き、天井の梁には古い香の匂いが染みついている。給仕が袴と木刀を運び、小姓が手早く火鉢を移した。


 「一手だけ、ご覧に入れます」


 沖田は袴を払って正座し、静かに立つ。

 踏み出しは雪を踏む鹿の足裏のように軽い。左手、鞘に添えた指がわずかに呼吸と合う。抜き付けは稲妻の図ではない。迷いのない一条の線だ。木刀が空を切る音は、松の梢の風と紛れ、次の瞬間にはもう納まっている。動きそのものが音を消したのだ。


 「……今の間合いを、記すのですか」


 藤村が半ば冗談めかして問うと、沖田は微笑した。


 「ことばにできるところだけ。できぬところは、できぬと書きます。そこから先は、膝をそろえて座ること、掃除を怠らぬこと、道具を尊ぶこと。身の回りの所作が埋める隙です」


 河上が、道場の四隅を確かめるように歩いた。

 「灯はここでよろしい。影が畳の目と直角に落ちます。影が斜めに走ると、人は迷います。廊下の節目も、敷居の段も、目の流れに添ってそろえれば、夜でも人は迷わない」


 彼は袖口から細い麻紐を取り出し、柱から柱へ張って見せた。影の落ちる向きが揃うと、道場は一つの器官のように呼吸を始める。

 「斬らぬ配置、でございます。もしもの時、抜け道は二つ。逃げの道は一つ。走るときの足音が一番小さくなる床板は、ここ」


 沖田が頷く。

 「剣の道も同じですね。斬らぬための型が先にある」


 道場の障子がふうっと鳴り、女中頭が顔をのぞかせる。

 「甘味を、お運びしてもよろしゅうございますか」


 「頼む」


 戻った書院には、葛湯と、干柿の芯に胡桃を詰めて煎蜜で軽く炊いたもの、砂糖を纏わせた氷餅が少し。甘さは控え、口を洗うように温い茶を添える。使用人たちの所作は一糸乱れず、しかし堅苦しさはない。家が呼吸をするとき、人はその拍を身に帯びる。


 「殿」


 盃を置いた河上が、わずかに声を低めた。


 「屋敷の秩序は、外にも映ります。門前の雪かき一つにも、町人らは目を配っております。朝のうちに片をつければ、道は早く開けます。今夜のような雪は、夜四つに一度、裏門から人を出して筋をつけるのが良いでしょう」


 「承知した。表の目、裏の手、どちらも欠かすまい」


 沖田が盃を手に、ふっと笑む。

 「殿の家は、剣の稽古場のようでございます。畳の目がそろい、廊が通い、炊事の湯気が拍を刻む。どの人も自分の間合いを持つ。……それなら、若い者も迷いません」


 藤村は二人を見た。

 外は冬、内には灯。雪は国の端々まで同じ寒さで降るのに、ここでは人の手が寒さの形を変えている。礼、所作、配置、拍――それらはすべて、刀の柄頭ほどの小さな工夫から立ち上がる。国を治めるとは、大きな声で命じることではない。見えぬ拍を整え、見える所作に宿すことだ。


 「総司、彦斎」


 名を呼ぶ声は柔らかく、底に決意があった。


 「剣は捨てるものではない。だが、剣は抜かずとも在る。……お前たちの手で、その在り方を若い者に渡してくれ。屋敷でできることは、国でもできる」


 沖田は座を改め、深く一礼した。

 「承り候。稽古日誌を起こし、型と礼を言葉に致します。道具の手入れ、呼吸の刻み、廊下の歩み――すべて、書き残しましょう」


 河上もまた、膝を正して頭を垂れる。

「斬らぬ配置図を、各地の屯所に写し配します。門の開閉の時刻、灯の高さ、番人の交代。人が無用に刀へ手を伸ばさずに済むよう、先に道を敷きます」


 障子の外で、若い小者の笑い声がかすかに立って、すぐに消えた。女中頭が目で制し、拍が戻る。家は生きている。生きている家は、客人が帰ったあとも崩れない。必要なときに静かに強く、不要なときにやわらかく、拍を変えて息をする。


 やがて、別れの時刻。

 玄関の式台には、使用人が灯りを寄せ、雪靴の紐を整える。門番が戸を半ば開け、夜の冷気が細い刃のように差し入る。沖田は外套の紐を結び、軽く刀の位置を確かめると、笑みをひとつ。


 「殿。明朝、道場で若者たちに『畳の目』から話を始めます」


 「頼む」


 河上は雪の匂いを吸い込み、目を細めた。


 「外周の見回りは、今夜は倍に。明け方の狐火に惑わされる者が出ませぬよう、灯の間隔を詰めます」


 「委細、任せる」


 二人が門を出ると、雪は細かく、しかし迷いなく降っていた。足跡はすぐ消える。だが消えるからこそ、翌朝の庭は美しい。消えた拍の上に、新しい拍を載せればよい。


 書院へ戻った藤村は、火鉢の上でそっと手を温めた。

 家の奥では、夜番へと役目が移る音がする。炊事場の釜は洗われ、用人は帳簿を閉じ、小姓は明朝の筆と紙を用意する。誰も大声を出さず、しかし誰も休んではいない。


 雪の夜は、国を包む白い巻物だ。

 そこへ何を記すかを決めるのは、剣ではなく、礼である。

 拍を整える者が、国を整える。


 「……よし」


 低く呟く声に、灯の火が小さく応えた。

 明日の稽古の最初の一節――「畳の目をそろえること」――その語を、彼は懐中の手帳に認めた。屋敷の拍と国の拍を、少しずつ重ねるために。

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