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【篤姫と結婚した公務員】水戸藩から始まる幕末逆転録 ~公務員が理と仕組みで日本を救う~  作者: 一条信輝


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358話:(1891年・冬)雪解けを待つ灯

冷たい風が、首相官邸の屋根をなでるように吹き抜けていった。

 雪こそ降らぬものの、空気はすでに冬の重さを帯び、石畳の上には薄い霜が降りている。

 朝の光が障子を透かし、執務室の中を白く満たしていた。


 火鉢の中で炭がぱちりと弾ける。

 その音に混じって、紙をめくる乾いた音が静かに響く。


 藤村晴人は、机の上に積まれた報告書の束を見つめていた。

 分厚い封筒の宛名には、「朝鮮」「満州」「蝦夷」「樺太」「アラスカ」と朱筆が走り、

 各地の印章が押されている。

 その重みが、この国の広がりを静かに語っていた。


 「……七年計画も、あと四年か」


 藤村は独り言のように呟いた。

 あの冬の閣議で掲げた、教育・経済・芸術・行政の四本柱――。

 それは壮大で、誰もが現実離れしていると笑った。

 だが、七年目を迎えた今、その笑いはもうどこにもない。


 書類の束をめくる。

 「朝鮮教育局年次報告」と記された表紙が目に入った。

 藤村は指先で紙を押さえ、行を追った。


 > 京城第一学校において、日本語弁論大会を開催。

 > 優勝者は朝鮮人少年・金永洙。弁題『共に学び、共に歩む未来』。

 > 教師・生徒ともに拍手のうちに閉会。


 藤村の唇がわずかに動いた。

 「……いい報告だ」


 火鉢の炭が赤く燃え、彼の横顔を柔らかく照らす。

 国と国、人と人をつなぐものは、いつだって教育であり、言葉だった。

 それを理解している少年が、もう隣国に生まれている。

 ――その事実だけで、十分だった。


 彼は筆を取り、余白に小さく「順調」と記す。


 次の封筒を開くと、そこには見慣れた筆跡があった。

 財務大臣・小栗忠順の名。


 > 総理。長年の職務にて体調を損ね、医師から休養を勧められました。

 > 後任をお考えくださいますよう、お願い申し上げます。


 藤村は手紙をしばらく見つめ、静かに息を吐いた。

 灰色の光が机の上に落ち、火鉢の熱と混ざり合う。


 「……そうか。とうとう来たか」


 小栗は、財政を一手に担ってきた。

 戦後の混乱を立て直し、各地の開発を支え、国庫を黒字に変えた。

 藤村にとって、最も信頼する仲間の一人だった。

 その功績を思えば、ただ「お疲れさま」と言うしかなかった。


 椅子から立ち上がり、窓辺に歩み寄る。

 外の庭では、松の枝に霜が降り、冬の光を反射している。

 凛とした空気の中で、庭の池も薄く凍りつき、鳥の影が静かに水面を横切った。


 藤村は、遠い空を見上げた。

 そこにはもう、亡き松平春嶽の面影があった。

 かつて幕末の動乱を共に生きた師。

 この国を立て直すと誓ったのも、あの人の言葉があったからだった。


 「春嶽様……あなたの教えが、まだこの国を導いています」


 声には出さず、心の中で呟いた。

 それは祈りに近いものだった。


 机に戻ると、今度は「樺太総督府・産業報告」に目を通した。

 見慣れた筆跡――黒田清隆の署名がある。


 > 石炭五十万トン、石油三十万トンを突破。

 > 天然ガス供給安定、主要都市で無煙都市実現。

 > 産業は順調に拡大。


 藤村は小さく頷いた。

 「黒田もよくやってくれた……」


 だが、その胸に去来するものは決して安堵だけではない。

 黒田も六十を越え、佐野も老い、小栗は病を得た。

 春嶽は危篤――。


 彼はふと、火鉢の火を見つめた。

 炭が沈み、赤から黒へと変わっていく。

 まるで、時代の灯火そのもののようだった。


 「人は、いつまでも燃え続けられるわけではないのだな」


 小さく呟いて、火箸で新しい炭を足す。

 ぱち、と小さな音。

 やがて火が息を吹き返し、薄暗い部屋に暖が広がった。


 午後には閣議がある。

 そこで小栗の引退と、新しい財務大臣の任命を発表する予定だった。

 後任には大隈重信、副に松方正義。

 若き陸奥宗光もすでに外交を支えるほどに成長している。


 彼らが次の世代になる。

 そして、自分の代はゆっくりと幕を下ろす。


 冬の光が障子を透かし、部屋の中を白く染める。

 藤村は目を細め、その光を見つめながら深く息を吐いた。


 「――世代が変わっても、国の歩みは止めない」


 その言葉が、誰に向けたものかはわからなかった。

 ただ、部屋の空気が少しだけ温かく感じられた。

午後。

 首相官邸の大広間には、冬の陽が斜めに差し込んでいた。

 ガラス窓の外では、白く濁った空気が漂い、庭の松の枝に霜が残っている。

 遠くで鐘の音が鳴り、都心のざわめきがかすかに聞こえるだけだった。


 長い楕円形の会議机の中央に、藤村晴人は静かに座っていた。

 その正面には、書類の束と湯気の立つ茶碗。

 閣僚たちが次々と席に着き、椅子の軋む音が静寂を切り裂く。


 大久保利通、副総理としての風格を保ちながらも、

 その表情にはどこか沈んだ色があった。

 陸奥宗光、大隈重信、松方正義、佐野常民――

 いずれもこの国を背負うべく集められた男たちだ。


 重苦しい空気が漂うなか、大久保が立ち上がる。


 「総理……今朝ほど、松平春嶽公が薨去されました。

  病床に伏しておられましたが、昨夜、静かに息を引き取られたとのことです。享年六十四。」


 室内の空気が一瞬止まった。

 冬の光が障子越しに差し込み、大久保の背に長い影を落とす。


 藤村は黙って目を閉じた。

 しばしの沈黙。

 全員が言葉を失っていた。


 「……春嶽様は、私の師でした」


 藤村の声は、炭火のように低く、しかし温かかった。

 「幕末から明治に至るまで、あの方がいなければ、我々はここに立てなかった。

  藤村政権の礎を築かれたのも、春嶽様です。

  その功績に感謝を込め、国葬を以てお見送りしよう。」


 大久保が深く頷く。

 「すでに関係省庁に手配を進めております。」


 「ありがとう、大久保。」

 藤村は目を開け、静かに息を吐いた。

 「……一つの時代が終わったな。」


 その言葉に、誰も反論しなかった。

 炭の燃える音が、遠くでかすかに聞こえた。


 藤村は姿勢を正し、机上の木槌を軽く叩いた。

 「――これより、閣議を始める。」


 紙の束をめくり、議題を確認する。

 一枚目の上には、手書きの一行がある。

 〈人事の件〉。


 その瞬間、小栗忠順がゆっくりと立ち上がった。

 白髪が交じる髷を整え、深く頭を下げる。


 「総理、諸君。

  私からお伝えせねばならぬことがございます。」


 室内の視線が一斉に集まった。

 冬の日差しが、彼の肩口に淡く当たっている。


 「長年、財務を預かってまいりましたが……このたび、体調を崩し、医師より休養を命じられました。

  もはや以前のようには職務を全うできませぬ。

  ここに、辞任をお願い申し上げます。」


 誰もが息を飲んだ。

 小栗の声は穏やかだったが、その背中には決意がにじんでいた。


 藤村は、ゆっくりと立ち上がった。

 机越しに、かつての盟友を見つめる。

 「……小栗。お前は、この国の財政を再建した男だ。

  私がどれほど支えられてきたか、本人にはわからぬだろう。

  感謝している。本当に、ありがとう。」


 小栗は静かに微笑んだ。

 「総理の信念があったからこそ、私も働けました。」


 その言葉に、場の空気がわずかに揺れた。

 松方正義が膝の上で拳を握りしめ、大隈重信がうなずく。


 藤村は続けた。

 「後任には大隈重信を指名する。

  副として松方正義。 二人とも、異議はないな。」


 「お引き受けいたします。」

 大隈の低く通る声が、冬の空気を切り裂いた。

 「小栗様の後を継ぐのは重責ですが、全力を尽くします。」


 松方も続く。

 「私も支えます。国家財政の安定は、我らの使命です。」


 藤村は二人を見て頷いた。

 「頼もしい。お前たちが、この国の次の時代を背負う。」


 机上の火鉢に炭がくすぶる。

 橙の光が、彼らの顔を照らしていた。

 大久保が腕を組み、静かに言う。


 「こうして見ると……我々も皆、歳を取ったものだな。」


 藤村が微笑む。

 「春嶽様が逝かれ、小栗が退く。

  世代が交代する時期なのだろう。」


 沈黙のあと、佐野常民がゆっくりと口を開いた。

 「七年前に始まった計画も、ようやく形を成しました。

  農業、工業、商業――どれも順調です。

  だが、成果を誇るより、次を育てねばなりません。」


 藤村がうなずく。

 「その通りだ、佐野。」


 火鉢の火が静かに揺れた。

 その光の中で、老練な閣僚たちの横顔が、どこか安らかに見えた。

 藤村は胸の奥に、淡い痛みを覚えた。


 ――仲間たちは、少しずつ去っていく。

 だが、この国の歩みは止めてはならない。


 「……これより先の五年、我々がやるべきは“継承”だ。

  経験と理念を若い世代に伝える。

  大隈、松方、陸奥、久信――彼らを育て、任せる。」


 「承知しました。」

 陸奥宗光が答えた。

 彼の瞳は若く、確かな光を宿している。


 冬の光がさらに傾き、部屋の隅が薄闇に沈む。

 誰もが口を閉ざし、ただ炭火の音だけが響いていた。


 やがて藤村が静かに言った。

 「……春嶽様、小栗、そして佐野も、長く共に歩んでくれた。

  だが、次の時代はすぐそこに来ている。

  この国を、託す覚悟を持たねばならぬ。」


 その言葉に、誰もが深くうなずいた。


 窓の外で、風が強く吹いた。

 枯れ葉が一枚、廊下を滑るように通り過ぎていく。

 それは、過ぎゆく時代の象徴のようだった。


 藤村は、机の上に手を置いた。

 「……これで、人事の件は終わりだ。

  続いて、各地の報告を聞こう。」


 その声に応じて、佐野常民が立ち上がった。

 背筋を伸ばし、報告書を抱えている。

 彼の額には年齢の皺が刻まれていたが、その眼差しにはまだ若々しい炎があった。


 「では、まず農商務省より報告いたします。」


 藤村が頷く。

 「頼む、佐野。」


 その瞬間、冬の午後の光が再び障子を抜け、

 会議机の上を静かに照らした。

 淡い光が、報告書の文字を金色に輝かせる。


 ――老いと継承、そして成果の報告。

 藤村は、その光の中で、これから語られる未来を見つめていた。

佐野常民が立ち上がると、室内の空気がぴんと張り詰めた。

 冬の日差しが障子を透かして彼の顔を照らし、年輪を刻んだ頬に淡い陰影を落とす。

 報告書を胸の前で正し、静かに口を開いた。


 「農商務省から、七年計画の進捗をご報告いたします。」


 紙の擦れる音が響く。

 閣僚たちの視線が一斉に彼へと向けられた。


 「まず、農業について。

  化学肥料が全国に普及し、米の収量は七年前の一・三倍に増加しました。

  農民の所得も上昇し、地方の安定が見られます。」


 藤村は頷いた。

 彼の脳裏に、以前訪れた農村の光景がよみがえる。

 雪の降る田に、農夫が肩をすくめながらも笑っていた。

 「化学肥料ってのは、土の命を目覚めさせる薬だ」と語った男の声が、いまも耳に残っている。


 「次に商業です。」

 佐野が一枚の地図を広げる。

 机の上を覆うように、赤と青の線が交錯している。

 「各地の市場が整備され、交通路が改良されました。

  鉄道と港の連携により、物資の流通が三割向上しています。

  国内の商人たちは、以前よりも遥かに活気づいています。」


 陸奥宗光が地図をのぞき込みながら、口元を引き締めた。

 「これで、東北の穀物も西へ滞りなく運べるというわけか。」


 「はい。」

 佐野の声に確信があった。

 「さらに、工業。蒸気機関の導入が全国の工場で進み、

  七年前の倍の数に達しました。

  中でも九州と常陸では、石炭による動力化が進み、

  製糸と造船の両分野で目覚ましい発展を遂げています。」


 藤村の瞳が静かに光る。

 七年前、彼が掲げた構想が、こうして実を結び始めていた。

 「佐野、よくやった。お前の誠実な仕事が、この国の地力を支えている。」


 佐野は深く一礼した。

 「恐縮です、総理。しかし、私はまだ足りぬと思っております。

  地方に技術者が不足しております。

  若者の教育を進めなければ、この成果は長続きしません。」


 「その言葉を待っていた。」

 藤村は頷き、視線を陸奥宗光へと向けた。

 「外務卿、朝鮮の報告を。」


 陸奥が立ち上がる。

 白い息がかすかに漏れる。

 冬の冷気が、障子の隙間から入り込んでいる。


 「朝鮮では、十校の学校が開設されました。

  就学率は二〇%。日本人教師が五十名、朝鮮人教師が三十名。

  初めて“共に教え、共に学ぶ”教育が始まりつつあります。」


 藤村が静かにうなずく。

 「進んでいるようだな。」


 「ええ。」

 陸奥の口元に淡い笑みが浮かぶ。

 「先日、京城の第一学校で弁論大会が開かれました。

  一人の少年が、日本語でこう言ったのです――

  『日本と朝鮮は、共に学び、共に成長する国である』と。」


 その瞬間、室内の空気が少し温かくなったように感じられた。

 佐野が静かに頷き、大隈が目を細める。

 藤村は心の奥で呟いた。

 (この言葉を、春嶽様にも聞かせてやりたかった……)


 陸奥が続ける。

 「文化の交流も進みつつあります。

  音楽、舞踊、絵画――互いの芸を学び合う学校が設立されました。

  芸術が国境を越えようとしています。」


 藤村は微笑んだ。

 「よし、継続しろ。教育と芸術は、この国の未来だ。」


 そのとき、大久保が小さく咳払いをした。

 「次は蝦夷の報告を。」


 佐野が再び立つ。

 「蝦夷では、学校が八校に増え、人口は六十万人を突破。

  農業・漁業・林業が安定し、アイヌ保護区が十箇所に設けられました。

  そして――」

 彼は一枚の紙を取り出した。

 「ついに、アイヌ語の文字化が完成しました。」


 藤村がわずかに目を見開いた。

 「本当か。」


 「はい。

  アイヌの子どもたちが、今、自分たちの言葉で書かれた教科書を読んでいます。

  これが、彼らにとって初めての“母語の文字”です。」


 その場に、静かな感嘆の波が広がった。

 陸奥が低くつぶやく。

 「文明の力は、押しつけではなく、橋であるべきだな。」


 藤村は深く頷いた。

 「まさにその通りだ。よくやった、佐野。」


 彼の脳裏には、春に蝦夷へ渡ったときの情景が浮かぶ。

 雪解けの川のほとりで、アイヌの子どもが日本語と自分たちの言葉を交ぜながら

 拙い歌を口ずさんでいた――。

 それは確かに、文明が生まれる音だった。


 「続いて、満州の報告を。」

 久信が立ち上がる。

 まだ十代の若さだが、その顔は旅の疲れでやややつれていた。

 彼は資料を手にしながら、口を開いた。


 「満州では学校が五校設立されました。

  就学率は一〇%。

  日本人の子どもたちの通学は八割を超えていますが、

  漢族や満州族はまだ少なく、蒙古族はほとんど通っていません。」


 藤村が眉をひそめる。

 「原因は?」


 「遊牧生活が中心で、定住して学ぶ文化がないことが一因です。

  彼ら自身、『草原の知恵を教える学校』を望んでいます。

  しかし、教えられる教師がいない。

  “草原の学校”の構想は進んでいますが、まだ形になっていません。」


 「無理に進める必要はない。」

 藤村の声は穏やかだった。

 「文化には、それぞれの時間がある。

  日本の常識を押しつけてはならん。」


 久信は深く頭を下げた。

 「心得ております。」


 そのやり取りを見守っていた大久保が、分厚い書類を手に取った。

 「蝦夷と満州の次は、樺太だ。」


 彼の声に合わせて、小栗忠順が静かに立ち上がる。

 すでに引退の意向を伝えた彼にとって、これが最後の公式報告だった。


 「樺太の産業は、順調に成長しています。

  石炭の年間採掘量は五十万トン、石油は三十万トンに達しました。

  天然ガスは都市部で供給を開始し、煙のない街が実現しております。」


 彼の声はややかすれていたが、誇りに満ちていた。


 「ロシアとの暫定協定も安定しております。

  石油の一割を販売し、年間三万トンを輸出。

  ロシアは満足しており、辺境の緊張も緩和されました。」


 藤村は深く頷いた。

 「よくやった、小栗。お前の名は、この国の北方史に残る。」


 「ありがとうございます。」

 小栗の口元に、わずかに微笑が浮かぶ。

 「これが、私の最後の報告となりましょう。」


 冬の陽が傾き、障子の影が伸びていく。

 その光の中で、小栗の背中が一層細く見えた。


 閣僚たちは、誰も言葉を発しなかった。

 ただ、彼の声の一つ一つを胸に刻むように聞いていた。


 藤村が静かに言う。

 「人は去っても、志は残る。

  お前の仕事は、次の世代が引き継ぐ。」


 小栗は深く頭を下げた。

 「……この冬の日本は、確かに豊かになりました。

  それを見届けられただけで、十分です。」


 火鉢の炭が、ぱちりと鳴った。

 その音が、まるで別れの鐘のように響いた。

外は、もう夕暮れだった。

 障子の隙間から射し込む光が橙に染まり、畳の上に長い影を落としている。

 火鉢の炭は小さく赤く、息を吹きかけるたびにぱち、と音を立てた。

 会議室の空気には、煤と紙の匂いが混じり、冬の冷たさを忘れさせるほどの熱を孕んでいた。


 「……さて」

 藤村がゆっくりと腰を上げた。

 その動きに、部屋の空気が再び張り詰める。

 「これで七年計画の報告はすべて終わりだな。」


 誰もがうなずく。

 だがその顔には、達成感と同時に、どこか寂しさが漂っていた。

 ――一つの時代が、確かに終わりを迎えようとしている。


 藤村は机の上に手を置き、静かに言葉を紡いだ。

 「七年前、我々は“自立”を掲げた。

  西洋に追いつくのではなく、己の力で立つことを目指した。

  そして今日、ようやく……その第一歩を確かに踏み出せた。」


 その声には、長い年月を歩んできた男の重みがあった。

 佐野が深くうなずき、老眼鏡を外して目頭を押さえる。

 大隈は腕を組んだまま、炎の揺らめきに視線を落とし、

 陸奥は指先で茶碗を転がしながら、何かを考え込んでいた。


 「だが――」

 藤村の声が、わずかに低くなる。

 「この国の歩みは、まだ始まったばかりだ。

  文明を築くのは容易いが、魂を育てるのは難しい。

  我々の子や孫が、誇りを持ってこの地を守れるようにせねばならん。」


 その言葉に、若い久信の肩がわずかに震えた。

 十代にしてこの会議に列することを許された少年は、

 紙の端を握りしめたまま、目を伏せている。


 藤村はその姿を見つめ、穏やかに微笑んだ。

 「久信。」

 「は、はい!」

 声が裏返り、周囲に小さな笑いが起きる。

 しかし藤村はそれを制し、まっすぐに告げた。


 「お前が次の時代を担う。

  我々のように、戦や革命ではなく、“知”と“信”で国を導け。

  それが、この七年で私たちが学んだことだ。」


 久信は唇を噛み、深々と頭を下げた。

 その頬を、夕陽が染めている。

 若者の頬に射す光は、まるで次代への灯火のようだった。


 外では、雪が降り始めていた。

 最初は静かに、やがて音もなく地面を覆っていく。

 白い粒が障子の隙間から覗き、淡い冷気を運んできた。


 「……冬か。」

 大隈が呟いた。

 「だが、この雪もいつか解ける。」


 藤村は頷いた。

 「そうだ。冬は終わる。

  だが、その先に何を咲かせるかは、我々次第だ。」


 そのとき、廊下を歩く足音がした。

 書記官が慌ただしく入ってくる。

 「総理、欧州から電報が届きました。」


 藤村が受け取り、封を切る。

 火鉢の炎が揺れ、薄紙に影を映した。

 「……ロンドンの商社より。日本製の機械織物、初めて本格輸出との報。」


 部屋にざわめきが広がる。

 大隈が目を見開き、陸奥が笑みをこぼした。

 「ついに、か……!」


 藤村はゆっくりと電報を置き、静かに言った。

 「七年でここまで来た。

  この国は、ようやく“売る国”となった。」


 その瞬間、誰もが胸の奥で小さく拳を握った。

 外の雪はやまない。

 だがその白さは、まるで新しい頁のようだった。


 ――明治という時代が、書き進められていく。


 「諸君。」

 藤村の声が、再び重く響く。

 「この報告会をもって、第一期“再建七年”を終える。

  次に始まるのは、“開花十年”だ。

  文明の花を咲かせるには、根を深くせねばならぬ。」


 彼はゆっくりと視線を巡らせた。

 佐野、大隈、陸奥、久信、小栗――

 それぞれの顔に、年月の刻んだ皺と決意が交錯していた。


 「この冬を越えた先に、また春が来る。

  だが、その春を迎えるのは我々ではない。

  次の世代だ。」


 火鉢の炭が最後の火を吐き、ぱち、と弾けた。

 その小さな音が、まるで新たな誓いの鐘のように響く。


 会議は静かに終わった。

 閣僚たちは一人、また一人と退出し、廊下に足音だけが残った。

 外の雪はもう深く、庭の石灯籠に白く積もっている。


 藤村はひとり残り、障子を少し開いた。

 冷たい風が頬を撫で、白い雪片が袖口に落ちた。

 その一粒が溶ける前に、彼はそっと呟いた。


 「……この国は、まだ変われる。」


 静かな声だった。

 だがその一言には、未来を信じる確かな意志が宿っていた。


 雪の夜。

 会議室の明かりが消え、月光だけが残る。

 誰もいない廊下を、藤村の足音が遠ざかっていく。

 それは、ひとつの時代が幕を閉じ、

 次の時代が静かに息づき始めた音でもあった。

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