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【篤姫と結婚した公務員】水戸藩から始まる幕末逆転録 ~公務員が理と仕組みで日本を救う~  作者: 一条信輝


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356話:(1891年・秋)金脈の盟約

秋雨が上がったあとの東京は、澄んだ風のなかに張り詰めた静けさを孕んでいた。

 首相官邸の庭では、銀杏の葉が濡れた砂利の上に散り、雨水を吸い込んで黄金色を深めている。

 風が吹くたび、灯籠の影が白砂に揺れ、まるで国の行く末を占うかのように形を変えた。


 執務室の奥。

 大机いっぱいに広げられた北太平洋の地図が、油灯の明かりに照らされて微かに波打つ。

 藤村晴人は老眼鏡越しに、北海道、樺太、そして遥かなアラスカを順に辿った。

 隣り合うアメリカ西海岸――サンフランシスコ、シアトル、ポートランドの名に赤鉛筆で印がついている。

 点は線となり、線はひとつの弧となって、海原の上に現れた。


 「……太平洋の弧か」


 独りごちは、紙とインクの匂いに吸い込まれて消えた。

 樺太の資源は動きだした。

 次に北の海の向こうで金が動けば、富も人も航路も一気に集中する。

 だが、アラスカはアメリカの隣だ。静穏のままでは済むまい――そう思うと、藤村の指先は地図の端で止まった。


 机の脇に積まれた革装の写本を一冊取り出す。

 頁を繰ると、アラスカ内陸の河川と支流が緻密に描かれ、余白に赤鉛筆で小さな印が打たれている。

 「クロンダイク」「ノーム」「フェアバンクス」。

 その横に、細い字で“境界”の走り書き。


 「境界か……」


 窓の外で雨垂れが一滴、軒先から落ちて硝子を叩いた。

 藤村は鼻先で短く息を吐くと、呼鈴を鳴らした。


 「外務卿を」


 秘書官が一礼して去る。

 しばらくして、廊下の奥から革靴の音が一定の間隔で近づき、扉が静かに開いた。


 「失礼します」


 陸奥宗光が入る。深紅の襟章が黒い燕尾に映え、顔色は冴えている。

 藤村は椅子から身を起こし、地図の上に片手を置いた。


 「アラスカの件だ」

 「――アメリカが動きました」


 短い応酬で、双方の見ている景色が重なる。

 陸奥は机に近づき、北方の海をまたぐ航路に視線を這わせた。


 「駐日大使より非公式の打診。金鉱開発に“関心あり”とのことです」

 「情報はどこから漏れた」

 「予算審議です。寒地投資の妥当性を問う質疑があり、新聞が短く拾いました。

  大使館は耳が早い。すぐに反応したのでしょう」


 油灯がぱちりと鳴る。

 藤村は無言でペン先を弄び、やがて低く言った。


 「彼らはあの土地を買わなかった。だが、隣に資源の影が動けば、黙ってはいない」

 「はい。隣接、資源、航路――どれも敏感な領域です」

 「関係は切れない。北にはロシア、太平洋の向こうにアメリカ。どちらも敵に回せぬ」

 「同感です。かといって、主導権は手放せません」


 窓の雲間から陽が一条差し、地図の上で太平洋を斜めに横切った。

 その光は、サンフランシスコから千島の列をかすめ、函館へ落ちて消える。


 「争いを避ける道はひとつ」

 藤村は光の筋を目で追い、静かに結んだ。

 「こちらが主導し、相手を中へ招き入れる。利を分ける代わりに、平穏を買う」

 陸奥の眼差しが細くなる。

 「共同で、ということですね」

 「そうだ。出資と航路と技術を“取り決め”にしておく。

  日本が七、相手が三――それで均衡はとれる」


 陸奥は一歩退き、短く頷いた。

 「すぐに雛形を起こします。交渉役は?」

 「久信だ。相手は顔を覚えている」

 「ロシアとの折衝から間がありません」

 「休ませる時間は必ず作る。今は動く時だ」


 筆記机の引き出しから赤い封蝋の封筒を取り出し、藤村は封じを押した。

 宛名の上に一瞬だけ視線を落とし、静かに差し出す。


 「これを」

 「拝命します」


 陸奥が下がると、部屋にまた静けさが戻った。

 庭の銀杏は陽を受け、雨上がりの葉脈が透けて見える。

 藤村は椅子に深く腰を下ろし、赤鉛筆で太平洋上に一本の線を引き足した。


 サンフランシスコ――シアトル――アラスカ――横浜。

 細い線が四つの点を結び、薄い弧を描く。


 「この線が国をつなぎ、戦を遠ざける」


 誰にともなく呟き、彼はゆっくりペンを置いた。

 震えはない。躊躇もない。

 ただ、長い冬を前に薪を積むような、確かな手の感触だけが残った。

翌朝の首相官邸には、澄んだ秋の光が差し込んでいた。

 夜の雨が洗い流した庭は瑞々しく、白砂の上を渡る風が銀杏の葉を転がしていく。

 その静けさの中で、政の中心がひそやかに息づいていた。


 執務室の扉がノックされ、陸奥宗光が姿を見せた。

 その後ろには、細身の男が一歩控えている。

 四十歳ほど、整った背筋、やや疲れた眼差し――外務省の交渉官、久信である。

 この数年、彼の名は外交の裏舞台で頻繁に聞かれるようになっていた。


 藤村晴人は椅子に座ったまま、静かに頷いた。

 「来てくれたか」


 久信は一礼し、深く息を整える。

 「お呼びと伺いました。外務卿より詳細は少しだけ聞いております」

 「アラスカの件だ」

 藤村は地図を示し、北太平洋の弧を指でなぞった。

 「この海を挟んで、我々の隣にいるのはアメリカだ。

  彼らが沈黙している間に開発を進めるのは、賢明ではない」


 久信は短く頷き、地図を見つめた。

 彼の視線は海の上を滑るように動き、やがてアラスカの沿岸で止まる。

 「確かに、ここは彼らの目と鼻の先です。

  下手をすれば、外交問題に発展します」

 「そうだ。だからこそ、お前に任せたい」


 藤村の声音がわずかに低くなった。

 「アメリカとの共同開発――これを形にする。

  だが、主導権は我々が握る。

  アメリカには“協力”を認めるが、“支配”はさせない」


 久信は口を引き結んだまま、沈黙した。

 数秒後、低く息を吐く。

 「……また私ですか」

 その言葉には、冗談とも本音ともつかぬ響きがあった。

 「前回のロシア交渉が終わったばかりです。

  ようやく眠れるようになったところで」


 藤村は笑みを浮かべた。

 「疲れはわかっている。だが、お前以上の適任はいない。

  アメリカの要人たちは、すでにお前の名を知っている。

  信頼というのは、一度築けば千の書簡より重い」


 久信は小さく肩を落とし、そして微かに笑った。

 「……なるほど。信頼の“利子”を支払う時というわけですね」

 「そう受け取ってくれて構わん」


 陸奥が脇から補足した。

 「大使館経由で非公式の要請がありました。

  アラスカ開発への“参加”を希望しています。

  彼らも、ただの見物では済ませないつもりでしょう」


 藤村は静かに頷くと、机の上から一枚の紙を取り上げた。

 それは、昨夜まとめたばかりの提案書草案だった。

 「これが、こちらの条件だ」


 久信が紙を受け取り、目を通す。

 緻密な筆跡で、三つの柱が記されていた。


 ――第一条 出資比率:日本七割、アメリカ三割

 ――第二条 太平洋航路の共同運営

 ――第三条 技術協力(鉱山・精錬・寒冷地建設)


 「七対三、ですか」

 「そうだ。主導権は渡さない。

  だが、協力の枠を与えれば、彼らはむしろ安心する」


 久信は紙を持つ手を少し上げ、光に透かして見た。

 その目には慎重さと職業的な計算が混じっていた。

 「……これなら、向こうも交渉の余地を見いだすでしょう。

  三割なら“排除”とは受け取られません」

 「まさにそれだ」

 藤村の声は満足げだった。

 「この三割は、友好の代価だ。

  だが、十年後には再交渉する。

  その頃には、日本の技術も追いつくだろう」


 「再交渉の条項、加えておきます」

 久信が静かに答えると、陸奥が続けた。

 「ワシントンの国務長官ブレインとの会談が鍵になります。

  前回の交渉で顔を合わせているはずです」

 「ええ。彼は話の分かる人物でした。

  だが、油断はできません。向こうは駆け引きの国です」

 「それも承知の上だ」藤村は頷く。

 「礼節を忘れず、しかし譲るな。

  この協定は、“太平洋の秩序”を形づくる一歩になる」


 久信はゆっくりと紙を畳み、胸の内ポケットに収めた。

 「……了解しました。すぐに準備にかかります」

 「渡航は十日以内だ」

 「船は?」

 「三菱商会の定期便を使う。岩崎が手配している」


 「承知しました」

 久信が頭を下げたそのとき、藤村の声が柔らかくなった。

 「無理をするな。交渉は、体力がいる」

 「心配ありがとうございます。

  ただ……この仕事を終えたら、しばらく休暇をいただきたい」

 「約束しよう」

 「その言葉、証書にしておきましょうか」

 ふたりの間に、わずかな笑いがこぼれた。


 短いやり取りだったが、長い信頼の積み重ねがその中にあった。

 久信が退室すると、部屋には再び静寂が戻る。

 残された陸奥が小声で言った。

 「……あの男も、よく持ちますね」

 「使命で生きる者は、長くは燃えない」

 藤村はつぶやき、机上の封蝋を見つめた。

 「だが、彼のような炎が国を照らすのだ」


 外では風が吹き、濡れた庭の銀杏がはらはらと舞った。

 灯籠の影が砂利道に揺れ、秋の陽がそれを金のように照らしている。

 藤村は窓際に歩み寄り、深く息を吸い込んだ。

 空は高く澄み、雲は薄い。

 その向こうに、彼が描く未来の海がある。


 「太平洋の向こうに友を得る。

  そのために、まず言葉を交わす者を立たせる。

  ……それが、国を動かすということだ」


 その声は、秋の空気に吸い込まれ、遠く霞んでいった。

ワシントンの秋は、東京よりも乾いていた。

 曇天の下、ポトマック川の流れが白く光り、赤茶けた落葉が歩道を覆っている。

 石造りの建物群の間を馬車が行き交い、車輪が濡れた石畳を軋ませた。

 その音の中に、外交の都らしい張り詰めた空気が混じっていた。


 久信は、コートの襟を立てたままホテルの窓辺に立ち、遠くの国務省庁舎を見つめていた。

 灰色の空の下、白い尖塔がどこまでも無機質にそびえている。

 「……今日が勝負か」

 自らに言い聞かせるように呟き、彼は手元の書類を閉じた。


 手帳の隅には、藤村晴人の筆跡が残っている。

 “利を分けて平和を買え。ただし、主導権は譲るな。”

 その短い一文が、紙よりも重く胸に響いていた。


 午前十時、黒塗りの馬車が国務省の正門に到着した。

 冬の名残を感じさせる冷たい風が吹き、星条旗が大きくはためく。

 久信が外に出ると、玄関前でひとりの男が待っていた。

 背の高い、白髪混じりの男。整えられた口髭。灰色の瞳。


 「お会いできて光栄です、ミスター・ヒサノブ」

 男は流暢な英語でそう言い、握手の手を差し出した。

 アメリカ国務長官、ジェームズ・ブレインである。


 久信も静かに手を差し出し、丁寧に握り返した。

 「お招きいただき、感謝いたします」


 互いに微笑みを交わすが、その笑みの奥に、すでに探り合いの気配があった。

 案内された会議室は広く、長い楕円形のテーブルの上に星条旗と日の丸が並んで立てられていた。

 ブレインは席に着き、傍らの秘書官に軽く頷く。

 銀のポットから湯気の立つ紅茶が注がれた。


 「さて、日本の皆さんがアラスカをどう扱うか――

  我々は非常に興味を持っています」

 開口一番、ブレインがそう言った。

 声は柔らかいが、言葉の一つひとつに鋼のような響きがあった。


 久信は紅茶に手を伸ばし、わずかに口をつけてから応じた。

 「アラスカは我が国の領土として、すでに行政権を確立しています。

  そのうえで、開発を段階的に進めていく計画です」


 ブレインは眉を上げた。

 「なるほど。しかし我々としては、少し心配なのです。

  アラスカはカナダと接しており、我々にとっても戦略的な地ですから」


 「その点については理解しております」

 久信は穏やかに微笑んだ。

 「だからこそ、我々は協力の道を選びたいと考えています」


 「協力?」

 「ええ。日本は単独での開発を望んでおりません。

  むしろ、アメリカと共に発展を目指したい」


 久信は鞄から封筒を取り出し、テーブルの上に置いた。

 藤村の封蝋が施された書簡である。

 「こちらが、我が国の提案です」


 ブレインが秘書に合図し、書簡が開かれる。

 秘書が内容を読み上げる間、久信は静かに紅茶を口に運んだ。

 声が一通り終わると、部屋には一瞬の沈黙が訪れた。


 「……七対三、ですか」

 ブレインがようやく口を開いた。

 「アラスカの開発における出資比率。日本七割、アメリカ三割。

  我々としては、半々が望ましいのですが」


 久信は顔を上げ、静かに言った。

 「三つ、理由があります」


 ブレインの灰色の瞳がわずかに細くなる。


 「第一に、アラスカは日本の領土です。主権の所在を明確にせねばなりません。

  第二に、開発計画の立案と資金負担はすべて日本が担っています。

  そして第三に――」


 久信は一拍置き、穏やかな声で続けた。

 「我々は、アメリカの協力を真に望んでいます。

  敵ではなく、隣人として。

  しかしその協力は、対等であるべきです。

  三割という数字は、友好と尊重の均衡です」


 ブレインはしばらく沈黙した。

 机の上の書簡を指でたたきながら、ゆっくりと窓の外を見やる。

 外の並木道を、落ち葉が風に舞っている。

 「……なるほど」


 やがて彼は、苦笑とも満足ともつかぬ表情を浮かべた。

 「あなた方は、いつも数字の裏に哲学を隠す」

 「それが日本式の交渉術です」

 久信が答えると、ブレインの口元がわずかに緩んだ。


 「三割というのは、我々にとって悪くない条件です。

  だが、我々にも条件をつけさせてください」

 「伺いましょう」

 「十年後に見直しを。

  もし開発が成功した場合、その時点で比率を再協議する」

 「……合理的な提案です」


 ふたりの間に、ようやく穏やかな空気が流れた。

 秘書官が新しい茶を注ぎ足し、窓の外では陽光が雲の隙間から射し込む。

 ブレインは書簡に再び目を落とし、指先で封蝋をなぞった。

 「我々は、あなた方を信じてみようと思います」

 「感謝します。これが、両国の新しい一歩となることを願います」


 「しかし――」

 ブレインは声の調子を少し落とした。

 「あなた方の背後には、ロシアがありますね。

  北で彼らと協定を結び、南で我々と手を組む。

  それは、したたかな外交戦略だ」

 久信は微笑んだ。

 「我が国は小国です。

  したたかでなければ、生き残れません」


 ブレインは笑い声を立てた。

 「その通りだ。だからこそ、あなた方とは組む価値がある」


 その言葉のあと、ふたりは再び握手を交わした。

 握手は短く、しかし力強かった。

 油灯の光が二人の間で反射し、金色の線を描く。


 会談を終えて建物を出ると、午後の風が一層冷たく感じられた。

 久信は帽子を押さえ、白い息を吐きながら空を見上げた。

 灰色の雲の切れ間に、淡い陽光が覗いている。


 「……これで、糸はつながった」


 ポトマック川の向こうに見える街並みが、薄く霞んでいた。

 その奥には、太平洋の向こうの祖国がある。

 彼は胸の内で藤村の言葉を繰り返した。


 ――利を分けて、平和を買え。

  ただし、主導権は譲るな。


 久信は歩き出した。

 風がコートの裾を揺らし、落ち葉が足元を走る。

 その一歩ごとに、彼の背に積もる緊張が少しずつ解けていった。

 しかし、心の奥には、まだ炎のような熱が残っていた。


 その夜、ホテルの部屋に戻ると、机の上の書簡に新しい印章が押されていた。

 “合意見込み”――アメリカ側の印である。

 久信は椅子に腰を下ろし、ゆっくりと瞼を閉じた。


 「これで……道は開けた」


 窓の外では、風が止み、遠くの街灯が揺らめいている。

 秋のワシントンの夜は静かで、どこまでも深かった。

太平洋を渡る帰りの船は、風が穏やかであった。

 甲板の上に立つ久信の髪を、潮風が静かに撫でていく。

 東の地平線には、かすかに雲を割る光が見えた。

 祖国の方角――あの光の先に、報告すべき人々が待っている。


 船が横浜に入港したのは、夕暮れ前だった。

 港には秋の光が漂い、帆船や蒸気船の煙が橙に染まっている。

 岸辺に立つ港湾警備の帽章がきらりと光り、汽笛が低く鳴った。


 久信は帽子を取り、深く息を吸った。

 海の匂いとともに、緊張が少しずつ解けていく。

 手にした書類鞄には、厚く綴じられた協定文書が収められていた。

 それは、太平洋の秩序を変える一枚だった。


 ――日米アラスカ共同開発協定。


 赤い封蝋には、星条旗の紋章と菊花紋章が並んで押されている。

 異国と祖国の印が、ひとつの紙に並ぶ――その意味を思うと、胸の奥がわずかに熱くなった。


 「七対三。十年後に再交渉。」

 呟いた言葉が、波音に溶けて消えた。



 翌朝、霞ヶ関の官邸。

 秋の陽が障子越しに淡く差し込み、藤村晴人の机上を照らしていた。

 銀の懐中時計の針が九時を指す。

 扉が叩かれ、書記官が声をかける。


 「外務交渉官、久信、帰国いたしました」

 藤村はすぐに立ち上がった。

 「通せ」


 久信が入る。

 海の旅を終えたばかりの顔には疲労の色が残るが、眼は澄んでいた。

 「ご無事で何よりだ」

 「ただいま戻りました」

 久信は書類鞄を机の上に置き、そっと封を開けた。


 「これが、合意文書です」

 赤い封蝋が光を受けて輝く。

 藤村はそれを見つめ、深く息をついた。

 「……やったな」


 陸奥宗光が隣で目を細めた。

 「条件は?」

 「出資比率、七対三。十年後に見直し。

  航路はサンフランシスコ—シアトル—アラスカ—横浜の月四回。

  共同で精錬技術、寒冷地建設、鉱山設備の開発に当たります」

 「三割か……悪くない」

 藤村は静かに頷いた。

 「主導権を保ったまま、協力を得た。これで太平洋の均衡は保てる」


 陸奥はにやりと笑う。

 「久信殿、よほどの働きぶりでしたな」

 久信は微笑み、首を横に振った。

 「相手が理性的だっただけです。

  国務長官ブレインは、思慮深い人物でした」


 藤村は机の上の世界地図に視線を落とした。

 赤鉛筆で描かれた弧――東京から樺太、アラスカ、そしてアメリカ西海岸へ。

 そこに今、新しい線が一本引き加えられたように感じた。


 「この線が、戦を遠ざける」



 午後になると、関係者が次々と官邸に集まった。

 渋沢栄一、岩崎弥太郎、坂本龍馬。

 それぞれの顔には、期待と警戒が交錯している。


 「久信、アメリカとはどうなった?」

 岩崎が真っ先に尋ねた。

 「共同開発が正式に合意しました。

  三菱も、航路部門で協力を求められています」

 「ほう……悪くない話だ」

 岩崎は腕を組み、にやりと笑う。

 「月四回の定期便なら、三菱の新造船を活かせる。

  アラスカ航路を握れば、北太平洋全体が商圏になる」


 渋沢が帳簿を手に前へ出た。

 「三割を譲るとは思い切りましたね」

 「必要な譲歩です。アメリカの技術は侮れません。

  特に深部採掘と精錬設備は、我々の鉱山業にとって貴重な学びになります」

 渋沢は頷きながら数字を走らせる。

 「……短期の利益は減りますが、長期では日本の産業全体が強くなる」

 「それでよい」

 藤村の声が落ち着いて響いた。

 「金を掘ることが目的ではない。

  技術を掘り起こし、国を鍛えるのだ」


 坂本龍馬が窓辺で笑った。

 「上手くやりましたな、総理。

  アメリカと組めば、向こうの港も開く。

  交易の幅が一気に広がりますぜ」

 「そのためにお前がいる。北洋商会の出番だ」

 「へい。先住民とも手を結んで、荒れた土地を人の通う道にしてみせます」


 室内に静かな笑いが広がる。

 それは勝利の歓喜ではなく、長い緊張から解き放たれた安堵に近かった。



 夕刻。

 報告会が終わると、藤村は全員を見渡した。

 「この協定で、太平洋の両岸がつながった。

  北ではロシアと協定を結び、南ではアメリカと手を握った。

  これで十年の平和は保証されるだろう」


 「十年……ですか」

 渋沢が呟く。

 藤村は頷いた。

 「十年あれば、国内の産業を三倍にできる。

  軍も育つ。教育も整う。

  その時こそ、真に対等な外交ができる」


 外では夕陽が沈み、空が茜から群青へと変わっていく。

 障子の隙間から、白い光がわずかに漏れた。


 「……久信」

 藤村が静かに呼びかけた。

 「よくやってくれた。少し休め」

 「ありがとうございます」

 久信は深く頭を下げ、鞄を抱えたまま退出した。


 その背を見送りながら、藤村はぽつりと呟いた。

 「人は、平和のためにどれだけの譲歩を積めるか。

  それが、国の器を決めるのかもしれん」



 夜。

 藤村は一人、執務室に残っていた。

 机の上の地図には、昼の報告で使った赤鉛筆の線がそのまま残っている。

 東京、樺太、アラスカ、アメリカ西岸。

 それらをつなぐ弧が、まるでひとつの輪のように見えた。


 窓を開けると、夜風が書類を揺らす。

 遠くで虫の声が聞こえ、官邸の庭の灯が小さく瞬いた。

 彼は筆を取り、机の端のメモに一行を書き加える。


 ――北と南を結び、戦を遠ざける。

  利を分けて、力を育てる。


 墨が紙に染み込み、静かに乾いていく。

 藤村はその文字を見つめながら、微かに笑った。

 「平和とは、取引の果てに残る静けさなのかもしれんな」


 外では、秋風が銀杏の葉を揺らしていた。

 その葉が一枚、開け放たれた窓から吹き込み、机の上の地図に舞い落ちる。

 葉脈が赤い線の上に重なり、太平洋の弧をなぞった。


 藤村はそっと手を伸ばし、葉を指先で押さえた。

 その感触は、柔らかく、温かかった。


 「この静けさを、十年でも守り抜こう」


 その言葉は、灯火の下で小さく揺れ、

 やがて夜の深みに溶けていった。

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