355話:(1891年・秋)北洋の約束―氷の海に灯る黄金
秋の雨が上がった東京の夜は、どこか冷たい光を帯びていた。
首相官邸の庭では、濡れた砂利が月明かりを反射し、灯籠の影が長く伸びている。
風が止むたび、銀杏の葉がぱらりと音を立てて落ち、湿った土に吸い込まれた。
執務室の中では、まだ灯がともっている。
油灯の炎が静かに揺れ、壁にかかる大地図の輪郭を浮かび上がらせていた。
その地図には、北太平洋全域が描かれている。
日本列島から北へ、樺太、千島、そして遥か彼方のアラスカまで。
赤い線で引かれた海路が、まるで一本の血管のように太平洋を貫いていた。
藤村晴人は、その前に立っていた。
六十七歳。
背筋はまだまっすぐで、白髪が灯の光を柔らかく反射している。
その目は老いてなお鋭く、紙の上に刻まれた一つひとつの地名を追っていた。
「……ここだ」
低く呟く声が、静寂の部屋に沈んだ。
藤村は指で地図をなぞり、ペン先で小さな丸印を加えた。
その丸は、夜の海に浮かぶ灯火のようだった。
「樺太で十年を稼いだ。ならば、その十年をどう使うかだ」
誰に向けたでもない独り言が、紙の上に落ちた。
壁際の書棚に目を向ける。
そこには数十冊の分厚い写本が並んでいる。
革の背表紙には金文字で『世界資源地図帳』と刻まれ、
その一冊一冊には、国名と巻数が手書きで記されていた。
「第一巻 樺太」
「第二巻 アラスカ」
「第三巻 満州」――。
藤村はゆっくりと手を伸ばし、第2巻を取り出した。
革の感触はしっとりと手に馴染み、古いインクの匂いが微かに漂う。
何年もの歳月をかけて、自らの手で記し続けた記録。
その厚みには、時間ではなく“執念”が詰まっていた。
机の上に置き、静かにページを開く。
そこには緻密な地形線と緯度経度がびっしりと書き込まれていた。
河川の流れ、鉱脈の分布、地質層の色分け。
どれも十九世紀の地図にはありえないほどの正確さを持っていた。
「これが……すべての始まりだ」
藤村の声は静かだった。
指先が一枚のページで止まった。
そこには「アラスカ資源」と書かれ、脇には細い字でこう記されていた。
――金鉱、クロンダイク・ノーム・フェアバンクス。
――石油、北極海沿岸。
――天然ガス、プルドーベイ周辺。
灯火の揺らぎが、文字の上にかすかな影を落とす。
藤村はそのページに指を滑らせた。
「……金だ。石油はまだ早い。だが、金は人を動かす」
呟きには確信があった。
扉を軽く叩く音が響く。
「総理、失礼いたします」
「入れ」
扉が静かに開き、小栗忠順が現れた。
黒の礼服に身を包み、分厚い帳簿を胸に抱えている。
「樺太の防衛費、ようやく目途が立ちました」
「ご苦労」
「ですが……次の開発計画があると伺いました」
藤村は頷いた。
「アラスカだ」
「……アラスカ、ですか」
小栗の眉がわずかに動く。
「寒冷地でございます。人も少なく、物流も脆弱。
開発には相当な資金が要ります」
「それでもやる。あそこには金が眠っている」
藤村は写本を開き、机の上にそっと置いた。
薄茶色の紙に描かれた地図は、まるで血管のように金脈を示していた。
小栗が覗き込む。
「……これは?」
「私の記録だ。ずいぶん前に調べてまとめたものだ」
「金鉱の位置まで……緯度経度まで記されています」
「偶然ではない。地質の走向を見れば、ある程度の見当はつく」
「しかし、精度が……」
小栗の言葉は途中で止まった。
藤村は視線を上げ、穏やかに笑った。
「――記録というのはな、正確でなければ意味がない」
その一言に、小栗は何も返せなかった。
ただ写本を見つめ、その異様な正確さに、言葉を失った。
灯の光が、革表紙の金文字を淡く照らす。
まるで時間そのものが、そこに封じられているかのようだった。
「この地を動かすのは金だ。
石油はまだだが、金は掘ればすぐに国を潤す。
労働者を派遣し、港を整備する。
……そのために、まず民間の力を借りる」
藤村は立ち上がり、壁の地図に向かった。
赤い線を一本引く。樺太から千島を抜け、アラスカへ。
「太平洋を、日本の内海にする」
小栗は息をのんだ。
その言葉は比喩ではなかった。
樺太、満州、アラスカ――
すべてを結ぶ線が、確かに一つの“帝国”の形を成していた。
「……樺太に続き、今度はアラスカですか」
「そうだ。資源を押さえれば、未来を制する」
藤村は筆を握りしめたまま、小栗に目を向けた。
「渋沢栄一を呼べ。民間の資本が要る」
「承知しました」
小栗は写本をちらりと見た。
その表紙には、年月も署名もない。
ただ、異様なまでの正確さだけが残されている。
「……総理」
「何だ」
「これは、一体どれほど前からお作りになっているのですか」
藤村は微笑した。
「……長く調べてきた結果だ」
それだけを言い、藤村は灯を少し絞った。
部屋がわずかに暗くなる。
小栗は何かを言いかけたが、やがて深く一礼して退室した。
静寂が戻る。
藤村は机に座り、写本を閉じた。
革表紙を撫でながら、小さく呟く。
「まだ、終わっていない……」
窓の外では、月光が再び差し込み、
濡れた庭の砂利を白く照らしていた。
その光が地図の上を滑り、アラスカの位置で止まる。
藤村はその光を見つめながら、
ゆっくりと微笑を浮かべた。
「――ここからが、本当の始まりだ」
油灯の炎が、静かに揺れた。
それは未来へと続く“火”のように、静かに燃えていた。
翌朝の首相官邸には、秋の陽が柔らかく差し込んでいた。
夜の雨が洗い流した庭は瑞々しく、風が銀杏の葉を転がしていく。
その静寂の中に、政の中心があることを誰が想像できるだろう。
執務室では、藤村晴人が一枚の地図を広げていた。
昨日と同じアラスカの地図――だが今朝は、赤鉛筆で新しい線が加えられている。
「ここから始めよう」
その声に、書記官が小走りで応じた。
「渋沢栄一、岩崎弥太郎、坂本龍馬、大久保利通――四名、全員参ります」
藤村は静かに頷いた。
間もなく、廊下の先から革靴の音が近づく。
扉が開くと、秋の光が差し込み、四人の影が室内に落ちた。
それぞれが一国を背負うような顔つきであった。
―――――
最初に進み出たのは、渋沢栄一だった。
姿勢は正しく、手には黒い革の帳簿を抱えている。
「総理、お呼びと伺いました」
「来てくれて助かる。君の出番だ、渋沢」
藤村は地図を示した。
「アラスカ――ここに金がある。大規模な開発を行う」
渋沢は一歩近づき、地図を覗き込む。
緯度と経度が細かく記された写本の写し。
その正確さに、彼の眉がわずかに動いた。
「……金、ですか」
「そうだ。想定埋蔵量は千トンを超える」
「千……」
その数字の重みに、渋沢は息を詰めた。
「日本アラスカ鉱業会社を設立する。民間主導だ。
政府は初期投資を支援するが、主導は君に任せたい」
渋沢は帳簿を開き、計算を始める。
「初年度の資金は百万円規模。
だが、五年で回収は可能です。金の相場が動かぬ限り」
「民間の出資を募れ。三菱、三井、安田――彼らも乗ってくる」
「なるほど。総理が保証するなら、彼らは動くでしょう」
渋沢の目に炎が灯った。
「ならば、私が社長を引き受けましょう」
「頼む。君の手で、日本の金を掘り起こしてくれ」
渋沢は深く一礼し、帳簿を閉じた。
「この計画が実れば、日本の通貨制度は安定します。
紙幣の信用も、金が裏付けになる」
「そうだ。金は血液だ。経済を巡らせる血だ」
―――――
渋沢が下がると、次に岩崎弥太郎が前へ出た。
大柄な体躯に、海風の塩と煙草の匂いをまとっている。
「総理、俺にできることは何で?」
「航路を開いてくれ」
藤村の声は迷いがなかった。
「樺太から千島を経て、アラスカまで。
三菱商会の船で労働者と物資を運ぶ。月二回の定期便だ」
岩崎は地図を眺め、しばし無言で考えた。
「……航路の半分は氷だ。船は鉄張りにせにゃならん」
「造船所を増やす。資金は渋沢が出す」
「ははっ、用意がいいな」
彼は煙草を一本くわえ、笑った。
「輸送は俺に任せろ。人も荷も、金も、全部運んでみせる」
「金も、だ」
「……なるほど、掘れた後の話か」
藤村は頷いた。
「金塊は月に数トン規模になる。安全に日本へ届けねばならん」
「護衛はどうする?」
「軍艦を一隻つける。横須賀から派遣する予定だ」
「なら十分だ」
岩崎は煙を吐き出し、笑った。
「海は荒れるが、俺は荒れた海が好きでね」
「君のような男がいるから、この国は動く」
「いや、動かしてるのはあんたですよ、総理」
短いやり取りに、長い信頼が滲んでいた。
―――――
次に、坂本龍馬が静かに進み出た。
商務顧問として各地を歩き、北洋の実情を知る男だった。
「総理、アラスカとはえらく遠いところを狙いましたな」
「遠いが、未来は近い。お前に任せたいことがある」
「なんですか」
「現地での商社を作れ。名は“北洋商会”とする。
物資の調達、先住民との交易、現地商人との交渉――全部だ」
坂本は頷いた。
「金だけでなく、毛皮や木材もある。
それに、現地の民族と取引するには信頼が要ります」
「敵にするな。雇い、共に働け。
彼らの知恵がなければ、アラスカでは生きられん」
「分かっています。昔、蝦夷地で同じような交渉をしました。
土地の民を味方につければ、道は開けます」
藤村は微笑み、懐から紙束を取り出した。
「これを渡しておく」
坂本が受け取ると、それは写本の一部を写した複製だった。
「……地図ですか?」
「調査隊が使う予定のものだ。お前にも目を通しておけ」
「なるほど。……どこでこんなに詳しい地図を?」
「調べたのさ」
その声は静かだったが、何かを含んでいた。
坂本は苦笑し、紙を丸めて懐に入れた。
「相変わらず、あんたの“調べ方”は尋常じゃないですな」
「知る者は動かす者であれ、だ」
「ええ、その通りです」
―――――
最後に、大久保利通が一歩前へ出た。
静かな威圧感をまとい、藤村と視線を交わす。
「総理、また大きく出ましたな」
「予算を頼む」
「それだけで済む話ではありません。
保守派はすでに樺太開発で悲鳴を上げています」
「だからこそだ」
藤村は机に手を置いた。
「樺太で得た富を、そのまま北へ回す。
日本の金庫を開けずに、未来を買う」
大久保は沈黙し、低く言った。
「……やはり、あんたは一歩先を見ている」
「見ているだけでは意味がない。掴まねば、未来は逃げる」
「分かりました。財務省と議会を動かします。
保守派には“金が国を支える”と説きましょう」
「頼む。君でなければ成し得ない」
「……しかし、総理。
樺太、満州、アラスカ――この国は、どこまで広がるつもりですか」
藤村は窓の外を見た。
秋の陽が庭の白砂に反射して眩しい。
「限界は、まだ見えない」
その答えに、大久保は苦笑した。
「相変わらず、底の知れない方だ」
「底を見た者は、もう上に登れん」
「……なるほど。ならば、もう少し付き合いましょう」
―――――
四人が退出したあと、部屋には静けさが戻った。
藤村は机の上の地図を見つめる。
赤い線が四方から交わり、太平洋の中心にひとつの円を描いていた。
「……動き始めたな」
誰にともなく呟き、ペンを置く。
油灯の炎がゆらりと揺れた。
その光は、帝国という巨大な機構の歯車が
初めて音を立てた瞬間のように、静かに明滅していた。
昼下がりの光が、磨き上げられた机の面で淡く跳ねた。外は雨上がりの青空で、庭の砂利はまだしっとりと濡れている。書記官が静かに入ってきて、封蝋の準備が整ったことを告げた。
藤村晴人はうなずくと、机上の紙束から三通を抜き出した。いずれも極秘の朱を隅に受けた命令書で、一通はアラスカ総督・榎本武揚宛、もう一通は函館の港湾長宛、最後の一通は三菱商会の航路責任者宛である。脇には、写本から転写した小地図が二葉。薄い和紙に鉛筆で描いた河川の蛇行と、緯度目盛りの細い点線が、北の地の無愛想な地形を静かに主張していた。
「電信は使わない。すべて船便で行く」
そう言って、藤村は一枚ずつ文面を見直した。榎本宛には探査隊受け入れと臨時倉庫の設置、越冬物資の先行集積。函館宛には接続航路の調整と、樺太・千島間の臨時寄港許可。三菱宛には氷海航行に耐える船体補強の仕様と、常時二隻待機の指示。どの文面にも、期限と代替案が併記されている。海は予定を軽んじる、というのが彼の長い経験則だった。
「封を」
書記官が真鍮の匙で溶かした赤い蝋を垂らし、菊花の印章を押す。熱が引いて艶が落ち着くのを待つ間、藤村は窓辺に目をやった。雲がほどけるように流れ、遠くの光が微かな筋になって街の屋根を撫でている。あの光の延長線のさらに北、霧と氷と風の帯の向こうへ、紙と人の重みだけを頼みに命令が運ばれていく。
「運搬系統はどう整える」
控えていた大久保が問う。藤村は、机端の航路図に指を置いた。
「第一便は三菱の定期船で函館へ。そこで帆走の小型船に積み替え、樺太・千島をはしごしてから、アリューシャンの中継地に入る。ウナラスカか、天候次第ではシトカの臨時寄港。そこからは総督府の補助艇を使って各拠点へ分配だ」
「時間は」
「最短で三週間、風が悪ければ倍は見よ。だからこそ便を二重にする。第一便と同文の第二便を四日遅れで出す。どちらかが着けばよい」
岩崎弥太郎が、分厚い航海日誌を抱えて入ってきた。
「氷縁の位置、去年より南寄りですぜ。鉄張りの補強はすぐ取りかかりますが、乗組員の選抜にも時間を」
「荒天経験者を優先せよ。退職者を慰労金付きで呼び戻しても構わん」
「承知しました。函館と大泊に臨時の炭庫も置きます。燃料が切れたら何もできませんからな」
渋沢栄一が、渉外の覚書を差し出す。
「函館・小樽の荷役組合とは話がつきました。積み替えにかかる時間短縮のため、臨時の夜間荷役許可も取ります。人夫の増員分は会社負担でよろしいですね」
「よい。夜を走れないときは、港で夜を働け」
坂本龍馬は、薄手の外套を肩に掛けたまま、海図を覗き込んだ。
「アリューシャンの中継地、現地の漁民頭に顔が利く者がおります。手紙を持たせりゃ、冬の間も舟を出してくれますき」
「頼む。先住の案内がなければ、霧の中で迷子になる」
龍馬はうなずき、懐から油紙包みを取り出した。包みの中には、方言の挨拶と物々交換の品目を列挙した手書きのメモ。塩、布、鉄器、刃物、針、酒の代替としての茶葉。争いを避ける細やかな配慮が、紙の上に丁寧に並んでいた。
封書は革筒に収められた。筒ごと防水布で巻かれ、さらに縄で十字に固く縛られる。その上から、泥よけの油紙がもう一重。最後に宛名札を木札でくくり付ける。海は、想像以上に紙を嫌う。だから、紙の周りを幾重にも人の手で守る。
「暗号は必要か」
大久保の問いに、藤村は小さく頷いた。
「一部は換字で処理してある。誰が見てもただの荷役指示と資材発注書にしか読めん。しかし、榎本にだけ分かる目印を入れた。文中の句点の位置だ」
「句点?」
「彼とだけ通じる癖だ。余計な鍵は要らん」
言い終えてから、藤村は自嘲気味に笑った。技術ではなく、習慣に秘密を隠す。古めかしいが、確実だった。
やがて、出発の刻が来た。内庭に用意された荷車に、革筒が静かに載せられる。御者が軽く帽子を掲げ、短い合図を送る。門前には三菱の連絡員が待機し、その先の大通りの突き当たりには、軍の騎馬が二騎。護送は目立たず、しかし切れ目なく。
「行け」
藤村の声に、荷車は鈴の音を小さく残して動き出した。石畳の細かな凹みで車輪が柔らかく跳ねる。門が開くと、街の喧騒が一瞬だけ差し込んで、すぐ閉じた。室内に、静けさが戻る。
「これでよい」
藤村は椅子に腰を下ろし、指先についた蝋の粉を払った。遠回りで、重たく、遅い。だがそれでも、確実に届く道を選んだつもりだった。
その夜、函館の波止場では、黒い船影がひとつ、煤けた煙突から白い息を空に吐き出していた。甲板では麻袋が人の鎖で次々に渡され、蒸気ウインチの唸りが夜気を震わせる。港灯が風に揺れ、濡れた板張りが刃のように冷たい光を返す。艫で指示を飛ばす男が革筒を受け取ると、濡れないよう胸に抱えた。船は潮の鼓動に合わせて微かに身を震わせ、離岸の合図を待っている。
「出港」
短い汽笛。綱が外れ、黒い水面が砕けた。船は北へ。凪いだ湾外には、低い霧が銀の布のように横たわっている。甲板では、見張りが毛皮の帽子を深くかぶり、灯を布で落とした。風は冷たく、しかし、確かに前へ吹いている。
さらに北。大泊では補給の石炭が積まれ、凍てつく朝の空気の中で、黒い塊が音を立ててホッパーへ落ちた。千島の小さな入江では、古びた教会の鐘が意外に澄んだ音を響かせ、村の子らが珍しい荷を見に防波堤に集まった。漁師頭は坂本の手紙を読み、粗い手で十字を切り、それから笑って頷いた。干し魚と引き換えに、小舟が二艘、霧の回廊を先導する約束が交わされた。
海は、時に牙をむく。ある夜半、甲板に叩き付ける波が油灯を何度も吹き消しかけた。羅針盤が震え、船体がきしむ。だが舵はぶれず、機関は唸り続けた。翌朝、霧はほどけ、島影が青い紙片のように並び、その向こうに空の色が広がった。甲板の端で、連絡係が革筒に触れ、無言で胸に当てる。その重みが、航海の意味だった。
頃合いを見て、第二便の船も東京を発った。コースはわずかに違う。ひとつが遅れれば、もうひとつが追い抜く。どちらかが難破すれば、もう一方が港へ入る。冗長性――それが、北の海での唯一の贅沢だった。
東京。書庫の灯が落ちるころ、藤村は机の端に置いた小さな硝子器を手に取った。中には海水が少しだけ入っている。数日前、樺太から戻った若い士官が、縁起物として持ち込んだものだ。「海は、信じた者には道を開くそうです」と言って笑った顔を思い出す。藤村は器を窓辺に置き、月明かりに透かした。どこまでも無色で、どこまでも冷たく、そして、どこまでも自由だった。
机上の控えには、到着予定日が二本、細い鉛筆で記されている。ひとつは三週間後、もうひとつは二十四日後。そこからさらに、アリューシャン、シトカ、そして総督府。記された線は長い。だが線の先には、人と計画と希望が束ねられている。
「届く」
藤村は小さく言った。言葉はすぐに空気にほどけたが、胸の内には、確かな手応えとして残った。電信が届かぬなら、人が走る。人が走れぬなら、風と潮に託す。どの時代にも、国を動かすのは結局その組み合わせなのだ。
翌朝早く、港務局から届いた短い書札が、机上に置かれた。「第一便、順風ニテ北上」。墨痕がまだ湿っている。藤村は頷き、次の書付けに筆を入れた。函館の倉庫許可、樺太の炭庫増設、千島の臨時診療所――紙の上で一つひとつ段取りを固める。遠い海の上で、革筒は今も微かに揺れている。その揺れが、やがてこの国の針路を少しだけ北へ押し上げる。そう確信できるだけの準備を、彼はすでに積み上げていた。
霧の薄い朝だった。
アラスカの海岸線に、ようやく春の陽が届きはじめていた。氷の割れ目から黒い波が顔を覗かせ、海鳥たちが騒がしく空を舞う。
その湾の奥――木造の桟橋の上に、榎本武揚の姿があった。
長い外套の裾を風がはためかせ、眼前には到着したばかりの日本船〈高千穂丸〉が碇を下ろしている。船首には凍りついた潮が鈍く光り、甲板では麻袋を抱えた船員たちが荷を下ろしていた。
「……本当に、よく来たものだ」
榎本は吐く息を見つめながら、呟いた。
函館からの航路は順調ではなかった。氷に阻まれ、霧に迷い、航海日数は三十日を越えている。
それでも革筒は無事に届いた。封蝋はわずかに擦れているが、菊の印章は形をとどめている。
榎本は手袋を外し、封を割った。
紙の匂いが、潮風の中で微かに立ち上る。そこには藤村晴人の筆跡が並んでいた。
――金鉱探査、直ちに開始せよ。
――大島高任隊を補佐し、現地の案内を確保せよ。
――先住民との交渉は慎重に。敵を作るな。
榎本は、短い文の奥にある藤村の声を聴いた気がした。
あの男は遠く東京で、いまも地図を広げているに違いない。
「総理……見えているのは、どこまでですかね」
つぶやきは、凍える風に溶けて消えた。
港の先では、大島高任が探査隊の準備を進めていた。
六十五歳の老地質学者――だがその背筋は驚くほど真っすぐだった。
「榎本殿、測量機の調整は済んだ。北の丘陵地帯を今日中に踏査する」
「足元に気をつけてくれ。ここは一歩が命取りになる」
「承知だ。だが、あの写しの地図が正しければ……この先に、金脈が眠っている」
榎本は微かに笑った。
「まったく、あの男の写本は呪いのようだ。樺太も、満州も、そしてここも。すべて書かれていた通りになる」
大島は、まぶしげに北を見やった。
白と青しかない風景の向こう、かすかに山脈が霞んでいる。
「人の一生で掘り尽くせる量ではないな。だが、始めることに意味がある」
榎本は頷き、命じた。
「探査班、出発!」
号令が響き、十数名の隊員が雪靴を鳴らして進み出る。肩には測量器具、背には乾パンと水筒、腰には護身用の銃。彼らの後を、小柄な先住民の案内人たちが静かに続いた。
丘陵を越えた先、凍土が崩れかけた崖の縁で、最初の金の粒が見つかるのは、三日後のことになる。
⸻
同じ頃、サンクトペテルブルクでは重厚な宮廷の扉が閉ざされていた。
厚い絨毯を踏みしめる音の中、ロシア皇帝アレクサンドル三世が椅子に座り、報告書に目を落としている。
その紙には、「日本、アラスカ金鉱開発開始」とあった。
「アラスカ……あれも、我々が捨てた土地だ」
皇帝の低い声が響く。
「捨てたはずの地で、金が掘り出されていると?」
外務大臣ギールスが答えた。
「はい。日本の榎本武揚総督の指揮の下で探査が始まっています。
藤村晴人の命令だとか。彼は、すでに樺太と満州でも同じことを成し遂げました」
「……あの男。条約で我々の鼻をかき、今度は我々の影を越えるつもりか」
皇帝は拳を握りしめた。
「しかし、アラスカは我が国が売却した。干渉の口実はない」
「承知しております。ですが、国内では不満の声が出ています」
「黙らせろ。いま戦うつもりはない」
皇帝は立ち上がり、窓辺へ歩いた。
外は雪。陽光の反射が白く宮殿を染める。
「だが、覚えておけ。十年後、彼らがさらに北へ進めば……我らも剣を抜く」
窓の外で鐘が鳴った。
その音は、遠く凍てつく海を渡り、いつしか日本の首都へも届くように思えた。
⸻
東京。首相官邸の夜。
外では風が低く唸り、障子がわずかに震えている。
藤村晴人は机の前で、静かに封書を広げた。
そこには、榎本の筆跡で短くこう書かれていた。
〈命令、受領。探査開始。現地協力良好〉
そのわずかな文字に、藤村は深い安堵を覚えた。
海を越え、氷を越え、人の手で運ばれた報せ――
電信線のない時代の、最も確かな通信だった。
彼は硯に墨を落とし、新しい命令書の余白に静かに書き添える。
〈金の発見あらば、記録を即時二重写しとし、写本庫へ送付〉
〈報せは急がず、確かに〉
筆を置き、硝子窓の外を見た。
夜空は澄み、月が庭石の上で白く光っている。
その光を見つめながら、藤村は呟いた。
「……樺太、満州、そしてアラスカ。
この三つの灯が揃えば、国は夜を越えられる」
静寂の中、油灯が小さく弾けた。
墨の香りが漂い、時代がまた一歩、進んだ気がした。
彼は机上の地図を手に取り、三つの地点を指で結んだ。
樺太から満州へ、満州からアラスカへ――その線は、まるで未来を描く航路のようだった。
「次は……海の下だ」
小さく漏らした言葉を、自分自身でも聞き返す。
「いつか、この北の海に電線を通す。
声が届く世界を作る。人が海を渡らずに、心を渡せる時代を」
彼の視線は灯の炎を越え、まだ見ぬ未来を捉えていた。
写本の隅には、薄く鉛筆で書かれた文字がある。
〈北太平洋海底通信線構想〉
それは、誰にも見せたことのない夢の断片だった。
風が障子を震わせた。
藤村は立ち上がり、背筋を伸ばした。
「届いたな」
誰にともなく呟く。
遠く離れた地で、氷の下から掘り出される黄金の輝き――それが、この国の未来を照らす光になると信じていた。
机の上の写本が、ふと風にめくられた。
次の頁には、まだ白紙の地図が広がっている。
藤村は静かに筆を取り、最初の線を描いた。
その線は、北の海を渡り、遥か未来の大陸へと向かって伸びていった。
夜は深く、灯は穏やかに燃え続けた。
その光の中で、ひとつの時代がまた静かに動き出していた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
面白かったら★評価・ブックマーク・感想をいただけると励みになります。
気になった点の指摘やご要望もぜひ。次回の改善に活かします。




