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35話:天災、民災

朝の空は、まだ雨の気配を見せていなかった。


 けれど、晴人の胸中には、拭えぬ不安があった。


 六月――江戸で暮らしていた頃にも、梅雨時には大雨による水害が相次いでいた記憶がある。そして、ここ水戸でも、近年は異常気象が続き、農民の間でも「空の様子がおかしい」と囁かれていた。


 「……土嚢の再確認と、避難路の標示は済ませたか?」


 晴人が問うと、側に控えていた足軽頭が小さく頷いた。


 「はい。城下町の南北の通り、それに寺子屋の裏道も含めて、避難路の札を新たに設置いたしました」


 「よし。あとは各村に伝達済みの“高台移動”の判断を早めに下せるよう、見回りを強化してくれ」


 「はっ」


 すでに彼の配下には“災害対策班”が組織されていた。土木に明るい藩士を中心に、各地区の庄屋や若衆頭と連携して動く態勢だ。地震への備えとして、建物の柱には金属製の楔を打ち、古い屋敷には筋交いを入れ直していた。


 ──それでも、不安は拭えなかった。


 昼を過ぎた頃、空が急に暗くなった。


 雨の幕が、遠くから降りてくるのが見えた。


 「来たか……」


 ぽつ、ぽつ。


 音もなく、だが確かに濡らしてくる冷たい雨粒。


 間もなく、その雨は唸るような風と共に、怒涛の如く押し寄せてきた。


 道が、溝が、わずか数刻で川と化した。


 民家の瓦が音を立てて吹き飛び、小川は堤を越えて田を呑み込んでいく。


 「高台へ! 荷車は置いてもいい、命を先に!」


 避難の声が飛び交う中、寺子屋では子供たちが教師の引率で整列し、近くの神社の社殿へと誘導されていた。


 「はぐれるな! 手を離すな!」


 叫ぶ声に負けず、先導する教師の足元も泥に沈みながら必死に前進する。


 その頃、晴人は城の物見台から各所の被害状況を見渡していた。


 「二の丸周辺、浸水あり。大工町、家屋五棟倒壊!」


 「山の方で土砂崩れ発生、行方不明者数名!」


 矢継ぎ早に届けられる報に、晴人は唇を噛み締めた。


 「……河上、土方を連れて、現場の救出に当たってくれ」


 「了解!」


 土方歳三はすでに着替えを済ませ、袴の裾をまくり、鉢巻を締めていた。


 「よし、俺が西、河上は東の農村へ!」


 「わかった。子供が三人、家に取り残されているとのことだ」


 「まかせろ!」


 ふたりは泥を跳ね上げながら走り出す。


 風雨の中、倒壊した屋敷に突入した土方は、潰れかけた梁の下から幼子を抱え出す。その肩を泥が染め、瓦礫が頬を裂く。


 「大丈夫だ、怖くない! もうすぐ外だ!」


 子供が小さく頷いた。


 その姿を見て、村人たちは思わず声をあげた。


 「お武家様が……自ら、子供を……」


 河上もまた、農家の裏庭に倒れかけた塀を支えながら、中に取り残された老婆を背負っていた。


 「こんな時こそ、俺たちが動かずしてどうする」


 夜が近づく頃、雨はようやく小康状態となった。


 城内の広場には、避難してきた民が毛布にくるまり、汁物を啜っていた。


 晴人は一人ひとりの顔を見て回り、言葉をかけていく。


 「……ありがとうございます、晴人様。あの備えがなければ、どうなっていたか……」


 涙ぐむ老婦人に、彼は静かに頷いた。


 「自然災害は避けられない。だが備えは、できる」


 その言葉は、雨に打たれた民の心に深く刻まれた。

一夜が明けた。


 水戸の町は、濡れた静寂に包まれていた。


 まだ雲は重く空を覆っていたが、昨夜のような激しい風雨は止み、わずかに陽光が東の空に滲み始めていた。だが、被災した町には、陽の光さえ痛々しいほどの爪痕が残っていた。


 崩れ落ちた土蔵。潰れた屋根の下から覗く破れた畳。泥水が流れ込んだ商家では、帳面や反物がずぶ濡れになり、職人たちは茫然とそれを見つめていた。


 「……これじゃ、店を再開するのも何年先になるかわからねえ……」


 「黙ってるな。生きてるんだ、どうにかなる」


 言い合う老舗の主と若い番頭。そのすぐ脇を、晴人がゆっくりと歩いて通る。


 長靴のように布で脚をぐるぐる巻き、裾を泥だらけにしながら、晴人は家々の間を回っていた。倒壊した家に向かって手を合わせる者たちの横で、彼は一人ひとりに声をかける。


 「家を失った者には、今後、藩の“仮屋制度”を適用する。早急に仮住まいを建て、雨露をしのげる場を用意する」


 「晴人様、俺んちの隣のばあさんが、朝から何も食っとらんようで……」


 「すぐに炊き出しを追加で回すよう伝える。湯も、味噌も足りているか?」


 「はい! 昨日の備蓄がまだ残ってます!」


 新たに整備された非常食倉庫が機能していた。乾燥飯や塩、味噌、炭が数日分は備蓄されていたのだ。昨年、晴人が提案して農政課と土木課が中心となって用意していた“災害時供出制度”が、初めて実践された形だ。


 「……本当に、晴人様が“ああしておけ”“こうしておけ”と普段から言ってくださってなかったら……」


 年配の町人が、ぼろぼろの肩衣を着たまま、じっと地面を見つめてつぶやく。


 「まさか、本当にこうなるとは思ってなかった。でも……それが“備え”ってもんなんだなぁ……」


 町の各所では、避難してきた子供たちの姿もあった。


 寺子屋の広間には、畳の上に毛布を敷いて寝かされた幼児たちが、小さく丸まって眠っていた。昨夜、土方が助け出した子供たちも、その中にいた。


 「……あの子、土方様が自分の羽織で包んで連れてきたんだって」


 「泣きもしなかったって。……すげえな、あのお方も」


 人々の口から自然に語られる言葉に、晴人は何も言わず、ただ静かに耳を傾けていた。


 河上もまた、各所で被災者の手当てにあたっていた。


 「この包帯で、傷はもう止まります。だが、無理はなさらぬように」


 老人に丁寧に膝をつき、声をかける河上の表情には、かつての剣の修羅が浮かぶことはなかった。


 「お前さん、侍なのに、えらく優しい手つきだなあ」


 「昔は剣一本でしたから、今こうして人を助ける機会があるのは、ありがたいことです」


 そう答える彼の背に、いつの間にか子供たちが集まり、物珍しそうに見上げていた。


 「ねえ、あんたが刀で魔物倒すって本当?」


 「魔物じゃなくて、災いから人を守るのが侍の役目ですよ」


 河上が柔らかく笑うと、子供たちはくすぐったそうに顔を見合わせた。


 その午後。


 藩庁前の広場に、町民たちが自主的に集まっていた。


 「皆さん、少しだけ、話を聞いてください!」


 声を張ったのは、中年の農民だった。腰は曲がりかけているが、その眼差しは鋭かった。


 「……わしらは、この藩主様に、感謝を申し上げたいんです!」


 そう言うと、彼は地面にひれ伏した。


 「おかげで……家族が生き延びられた。先に“高台に逃げろ”って言われてなければ、全滅しとった!」


 次々と頭を下げる人々。


 「武家も町人も、農民も、みんな同じように声をかけてくれた!」


 「瓦を拾ってくれた若侍もいた。……もう、“身分の差”なんて、どうでもよくなっちまったよ」


 その言葉に、晴人は胸の奥が熱くなるのを感じた。


 ――変わり始めている。


 かつては一揆寸前だった町が、今、共に助け合い、同じ空の下に立っている。


 「晴人様!」


 駆け寄ってきたのは、弥太郎だった。


 「非常食庫の在庫、全域分を確認いたしました。乾燥飯と味噌、塩、薪の備蓄、まだ五日分は残っております」


 「避難者は三カ所に分けているな? 配分は偏っていないか?」


 「はい。町役人と連携して順次搬送しています。炊き出しも、各所で再開できました」


 「……よくやってくれた。あの倉庫を作って本当によかった」


 ふたりは顔を見合わせ、ほっと安堵の笑みを浮かべた。


 被災はした。だが、壊れただけではなかった。


 そこには確かに、“築かれたもの”があった。


 晴人は、空を見上げた。


 雲の切れ間から、細く差し込む陽が、町の屋根に光を落としていた。

午後も半ばを過ぎ、少しずつ陽が傾き始めると、町の空気に静けさと共に“再生”の匂いが漂い始めた。


 水戸城下の各地では、晴人の命で土木課の役人や大工衆が動き出していた。倒壊家屋の瓦礫を取り除き、仮設の小屋を建てるための基礎が打たれ、橋の点検が進められる。


 「この橋桁、見た目は無事でも下が掘れてる。……急ぎ、補強を!」


 「はいっ! 角材はもう運び込まれてます!」


 応える若い作業頭は、額に汗を滲ませながらも迷いのない声を上げる。道具箱を担いだまま、後ろに控えていた小僧も走り出した。


 一方、女たちは広場の一角に炊き出し所を設け、鍋を火にかけていた。米は混ぜ飯、汁は根菜多めに。すべて、災害時を想定して作られた“献立例”に基づいたものだ。


 「ごめんよ、おかず少ないけど、あったかいから」


 「ありがとう……こんな時でも、しっかり味がするよ」


 木椀を両手で抱えた老女が、目を細めて言った。


 隣では、子供が涙を浮かべながら飯をかき込んでいる。母親らしき女性が、背を撫でながら小さく何かを囁いていた。だが、晴人の耳にはその言葉は届かなかった。ただ、炎のはぜる音と、遠くで土を掘る音が交互に重なり続けていた。


 その場に、土方が姿を見せた。


 羽織の袖は焦げ跡で黒ずみ、膝には包帯が巻かれていた。だが、その目は変わらず前を向いている。隣には、泥まみれの町娘が付き添っていた。


 「お頭様、ここの子ら……昨夜、あんたが助けてくれた子です」


 「名は?」


 「タケです。あとは妹のミヨと……弟のケンタ」


 土方は、傷の残る子供たちの顔を一人ひとり確かめるように見た。そして膝を折り、目線を合わせる。


 「……怖かったな。でも、お前たちは立派だった」


 子供たちは何も言わなかった。ただ、ミヨがそっと手を伸ばし、土方の裾をつまんだ。その細い指が震えていた。


 「この子ら、昨夜は声も出なかったんだ……」


 町娘の目に涙が滲んでいた。土方はそっと、その小さな手を握り返すと、もう一方の手で懐から小さな木製のこけしを取り出した。


 「子供の泣き声を聞くたびに、何かできないかと考えて作ったんだ。……今日からは、これが君の“守り刀”だよ」


 こけしは、どこか不格好で、素朴な筆で笑顔が描かれていた。


 それを見たケンタが、ぽろりと涙をこぼした。


 夕刻、藩庁の一室に戻った晴人は、衣服にこびりついた泥を払いながら、机の上に広げられた地図を見つめていた。


 「次の雨に備える。今度は崖の斜面が崩れるかもしれん。ここ──竜ヶ渓と、梅ヶ丘は特に危ない」


 農政課の役人たちが一斉に頷く。彼らは徹夜明けの顔で、既に次の仕事に向かっていた。


 「晴人様、養鶏場への物資搬送が無事終わりました。卵の収穫は一時中止しておりますが、雛たちは健在です」


 「良かった。……あの卵は、これから病人や幼子の命を支える。無駄にはできない」


 その時、控えの間から河上が入ってきた。上着は脱がれ、刀は脇に置かれている。


 「被災者の聞き取り調査、全て終えました。希望する者には、仮住まいと労働をセットで与える仕組みに」


 「それでいい。人は、“役割”があれば、崩れた心を立て直せる。……役目が、人を救う」


 晴人がそう言った時、扉の外から小さな声が響いた。


 「失礼いたします……」


 静だった。竹刀を抱えたまま、泥のついた袴を揺らし、額にはまだ汗が光っていた。


 「稽古、終えました。……皆が避難しても、変わらず修練を続けられるようにしたくて」


 「……よくやったな」


 晴人は静かに答えた。


 「剣を振るだけが、武ではない。こうして続けることも、またひとつの“強さ”だ」


 静はこくりと頷き、控えめに一礼すると、また歩き出した。


 そして、扉が静かに閉じられた。


 河上がつぶやく。


 「……あの子の背には、侍の血が流れていない。けれど、あの気骨は、侍以上ですな」


 「違うさ。あれは、侍の“先”にある生き方だ。分け隔てなく、誰もが武に生きる時代。その始まりを……あの娘が示してくれている」


 その言葉に、河上は何も返さなかった。ただ、刀にそっと手を置き、静かに頷いた。


 暮れゆく空の向こうで、また一つ、町の屋根に明かりが灯った。

余震は、夜をまたいでなお断続的に続いていた。


 倒壊を免れた寺社や道場が即席の避難所となり、そこに身を寄せた町民たちは、冷たい畳の上で震えながら眠れぬ夜を過ごしていた。幼子がすがるように母の袖を握り、老人たちは静かに目を閉じて、時折うめくような声を漏らした。


 ――ギシッ。


 梁の軋む音に、あちこちで顔が上がる。


 「地震……まだ続くのか……」


 「……もう、やめてくれ……」


 誰かが呟いた。薄暗い室内に、恐怖と疲労が染み込んでいる。


 だが、その静寂を破るように、奥の方から小さな声が響いた。


 「こっちにおにぎりがあるよ。ひとつずつなら、分けられるよ」


 子供の声だった。


 振り返ると、竹籠を抱えた少女が立っていた。寺子屋に通っている静の弟子の一人で、まだ十歳にも満たない。その後ろには、同じく鍛錬仲間の少年たちが並んでいた。


 「……晴人様が、皆に分けるようにって」


 籠の中には、小さな握り飯がいくつも並んでいた。味噌と塩のみの素朴なものだったが、それを見た瞬間、あちこちから嗚咽に似た声が漏れた。


 「ありがとう……」


 「……子供に助けられるとはな」


 町人の一人がつぶやいた。


 その子供たちの中心には、静の姿もあった。彼女は真っ直ぐに前を向きながら、声を張った。


 「今は誰もが不安です。でも、だからこそ、少しずつ支え合っていきましょう!」


 その言葉が、避難所の空気をわずかに変えた。


 一方、藩庁では、晴人が大広間の地図の前に立っていた。


 地図の上には、赤い印がいくつもついていた。地滑りの危険地帯、堤の決壊が疑われる箇所、飲料水の確保が困難な村。


 「……梅ヶ丘、竜ヶ渓、下館の北側。ここは今夜にも雨が戻れば、崖が持たん」


 晴人はつぶやき、手元の筆で新たに印を加えた。


 その背後に、農政課、土木課、衛生課の代表者が控えている。


 「仮設橋は午前中に完成予定です。だが、雨が降れば再び崩れる危険が」


 「食料備蓄はあと三日分。遠方の村には、明日にも馬を使って輸送します」


 「井戸の水質、昨日の地震で濁りが見られました。下痢症状も一部で……」


 報告はどれも深刻なものばかりだった。


 晴人は眉根を寄せたまま、しばし沈黙した。やがて、小さく息を吐く。


 「……今夜から、追加の避難呼びかけを出せ。村ごとの防災担当者と連絡を取って、危険区域の移動を始める」


 「はっ!」


 「井戸の水はすぐに検査を。濁った地域には、炊き出しを通じて“湯冷まし”を配るように」


 役人たちが一斉に動き出す。


 だが、混乱は完全に収まっていたわけではなかった。


 避難所の隅では、一部の者たちが言い争っていた。


 「お前のとこ、呼びかけに応じなかったから死者が出たんだろ!」


 「うるせぇ! うちの爺は動けなかったんだよ!」


 「じゃあ、最初から助けを呼べばよかっただろ!」


 言葉は罵声となり、泣き声も混じる。


 そこに、剣道着姿の静が割って入った。


 「やめてください!」


 凛とした声に、誰もが動きを止めた。


 「誰も好きで命を落としたわけじゃありません。……だから、今をどうするかだけを考えましょう」


 彼女の言葉に、誰かがぽつりと呟いた。


 「……武家の娘か?」


 静は首を横に振った。


 「違います。でも、だからこそ、誰の命も等しく大切にしたいのです」


 それを聞いた町人の老婆が、ふと笑みを浮かべた。


 「……いい時代になったもんだねぇ。武士の娘でも、町の子でも、関係ない」


 日が傾き、避難所の壁に橙の光が射す頃、ようやく争いは収まり、再び皆が黙って炊き出しを受け取るようになっていた。


 晴人がもう一度避難所を訪れた時、幼子に抱かれていたのは、母親の懐からこぼれた小さな風車だった。


 それがゆっくりと回っていた。


 その静かな回転を見つめながら、晴人は心の奥で、そっとひとつの誓いを立てていた。


 ――もう二度と、無防備な町をこのような目に遭わせてはならない。


 自然の猛威は避けられなくとも、備えと助け合いで乗り越えられる。


 それこそが、新しい時代の「武」であり、藩を守る者の責務である。

気に入ってくれた方、評価ぽちっとしてくれると舞い上がります。

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