第351話:(1892年・春)児玉源太郎の手腕
春の東京は、やわらかな薄霞に包まれていた。若葉をまとった銀杏並木が風にそよぎ、首相官邸の中庭には梅と早咲きの桜が交じって色を添える。
その静けさを破るように、通信室からは電信機のカタカタという律動が途切れず響いている。鉄と紙の匂いが入り混じる執務室で、藤村晴人は分厚い報告書の束に目を落とし、唇を結んだ。
机上には「奉天多民族学校 開校後報告」と墨書きされた表紙。
ページを繰るたび、紙の端が指先にひやりと触れる。末尾には河井継之助の署名と、簡潔に並んだ総括があった。
――入学者百七名、定員三百。
――和製漢語への抵抗強し。
――文化的葛藤、収束の兆しなし。
藤村は小さく息を吐き、窓の外に視線をやった。若葉を渡る風の音が、どこか遠い満州の空気に重なる。
「……やはり、教育だけでは足りないか」
独り言が室内の静けさに吸いこまれる。心を育てる学校だけでは、人は動かない。腹を満たし、暮らしを回す力――経済が要る。
椅子の背にもたれ、万年筆で机面を軽く叩く。乾いた音がひとつ。
広げた満州地図には、奉天・大連・黒龍江の地名と赤い印、そこを結ぶ線路の筋――満鉄が血管のように伸びている。だが地図の余白には、まだ色のない空白が広く残っていた。
「河井はよく戦った。だが、彼は理想家だ」
理念は人を励ますが、日々を動かすのは利である。視線が地図の一点で止まる。奉天から北へ延びる線路の先、ふと一人の名が浮かんだ。
――児玉源太郎。
四十五歳。元陸軍にして実務家。満鉄を立て直し、黒字化させた男。現場へ自ら足を運び、数字と汗で語る性質。
机端の人事記録のページを指先でたどると、近年の業績が静かに並んでいる。
「……児玉なら、できる」
藤村は立ち、窓辺へ歩む。春の光が硝子越しに揺れ、庭の若葉を照らした。変わりゆく東京の輪郭に、文明と野心の匂いが混じる。
呼鈴を一度。控える秘書官がすぐに現れる。
「児玉源太郎を呼べ。至急だ」
「はっ、ただちに」
ふたたび静寂。藤村は机へ戻り、報告書の角を折りながら思考を番号立てに束ねていく。――教育。経済。統治。三つの軸が噛み合わねば、満州は立たない。教育は河井が担った。次は暮らしを起こす番である。
ノックが二度。
「児玉源太郎、参上いたしました」
「入れ」
扉が開くと、春の空気とともに黒い軍装の男が入る。短く整えられた髭、真っ直ぐな眼差し、無駄のない身のこなし。軍人の規律と行政官の理知を併せ持つ姿だった。
藤村は手でソファを示す。
「座れ。……久しいな」
「お呼びとあらば、どこへでも」
報告書を手渡すと、児玉は黙してページを繰り、眉根をひとすじ寄せた。
「……入学者百七名。和製漢語への抵抗。文化的対立」
「教育は、思った以上に根が深い」
「現場では、経済が動かねば人も動きません」
「やはり、そうか」
「学校ができても、腹が減れば通えない。沿線の農も商も滞り、金が回っていないのです」
藤村の瞳にわずかな光が宿る。
「児玉、満州の再建を任せたい」
児玉の背が微かに動く。
「……総督の交代、では?」
「いいや。河井は行政と外交を司る。お前は経済と実務を担え。二人で満州を起こすのだ」
短い沈黙ののち、児玉はゆっくり頷いた。
「考えは違えど、目指すものは同じ。お受けします」
藤村は机の引き出しから、一冊の写本を取り出す。革表紙は使い込まれ、角が擦れている。
「これを渡す。私の知を写したノートだ。満鉄だけを見るな。常陸で試した経済の型を、満州の土に合わせて組み直せ。――それから、流民をどう扱うか考えろ。排除ではなく、活用だ」
児玉が慎重に開く。鉛筆の線で描かれた数字、図表、粗い地質のスケッチ。黒龍江の文字の横に、小さな丸がいくつも付されている。
「……これは?」
「地層図の走り書きだ。黒龍江の一帯には油が眠っている。すぐには見つかるまい。五年、十年かかるかもしれん。だが、見出せば満州は一変する」
「石油……」児玉は言葉を噛みしめる。
藤村は穏やかに続けた。
「経済、流民、資源――この三つを動かせば、人は自ずと動く。理想はその次でよい」
外から春風が入り、地図の端がふっと浮いた。
「北の冬は厳しいが、寒気の底にこそ春の兆しはある」
藤村の声は静かに落ちる。
「お前の役目は、そこに火を灯すことだ」
児玉は立ち上がり、深く一礼した。
「火を絶やしません。沿線を起こし、金を回し、人を雇います。流民は登録し、住まいを与え、働き口へつなぐ。――そして調査隊を北へ」
「よい。まずは着手だ。数字で語れ。数字は人を納得させる」
「承知しました」
そのとき、庭の若木から花びらが一枚、風に乗って窓辺をかすめた。薄桃の影が机上の白紙に落ち、淡い色を添える。
藤村はその花びらを指先でそっと払う。
「――常陸の風を、北へ運べ」
児玉の踵が静かに返る。扉が閉じると、通信室の律動だけがふたたび部屋を満たした。
藤村は地図を畳み、報告書の束の上に置く。春の光が紙面に斜めの筋を描き、未だ白い余白を照らし出す。
そこに、これから書き込むべき線と数字と人の営みを、彼ははっきりと見ていた。
霞のかかった春の東京。
児玉源太郎は、首相官邸を出るとゆっくりと息を吸い込んだ。
花の香りがわずかに混じった風が、革表紙の「満州開発計画」写本を撫でる。
その重みは、命令ではなく「託された意思」そのものだった。
内閣官房に入ると、空気が一変した。
壁には巨大な地図。黒龍江から大連まで、赤線で満鉄の路線が描かれている。
その周囲を囲むように、財務官、鉄道庁技師、農政官、外務省の特使たちが並んでいた。
児玉が入室すると、緊張が一段高まった。
「満州の現状を報告せよ」
短く命じると、現地報告官が立ち上がる。
「奉天を中心に流民が急増しております。昨年は三万規模でしたが、今春はすでに十万を超えました。河北、山東、河南から、日々数千人が北上しております」
「十万……だと?」
ざわめきが走る。
別の官僚が補足した。
「街道の治安が改善し、“安全に稼げる土地”として評判が広まりました。日本の警備と医療の整備が、逆に流民を呼び寄せております」
児玉は腕を組み、目を細めた。
治安の改善が人を呼び、安定が新たな混乱を生む――藤村の政策は、結果として“繁栄ゆえの混乱”を生み出していた。
「奉天郊外の河沿いには、藁葺きの小屋が何千と並んでおります。夜になると炊き出しの煙が街を覆い、日中は仕事を求める列が役所を取り囲みます」
報告官の声には、疲労と諦めが混じっていた。
児玉は地図の上に手を置いた。
「治安は安定した。だが、安定だけでは人は生きられん。……飯が要る。仕事が要る」
彼は筆を取り、素早く紙に四つの項目を書きつける。
〈満州再建・四本柱〉
一、満鉄沿線に市街地と商区を新設
二、農地開放と化学肥料工場の設置
三、流民を登録し、建設労働として雇用
四、黒龍江油田の試掘開始
「河井総督の教育政策は間違っていない。だが、理念は腹を満たさない」
「満州は動き始めております。だが、その歩みは重い」
「ならば、我々が押すだけだ」
児玉の声は低く、しかし鋭く響いた。
彼は窓際へ歩み、霞む東京の空を見上げる。
桜の花びらが風に流れ、街路を淡く染めていた。
「この国は、飢えを越えてここまで来た。……満州もそうなる。人が流れ込むのは、そこに希望があるからだ」
会議の後、彼は官庁街を歩いた。
通りには人力車が行き交い、商人たちが声を張り上げている。
「満鉄株は上がるらしい」「奉天で新しい市場ができるそうだ」――
そんな噂が、春風のように流れていた。
児玉は心の中で静かに言葉を刻む。
“流民を管理するな。雇え。働かせろ。そして、誇りを与えろ。”
翌朝、彼は満鉄本社に現れた。
広い会議室には各地の支部長が集まっている。
壁には最新の鉄道網の図と、奉天の都市計画図が貼られていた。
「奉天は十万の流民を抱えている。だが、彼らは負債ではない。潜在的な労働力だ。農地を拓き、線路を延ばし、市を築け」
沈黙ののち、ひとりの支部長が言う。
「河井総督が教育を重視しています。子どもを学校に通わせる親も増えている。しかし……飯が足りません」
児玉は頷く。「教育が心を育てるなら、経済は身体を動かす。心と身体を別にして国は立たん」
その日の午後、児玉は藤村へ直電を送った。
〈奉天十万の流民、秩序安定す。経済政策の即時展開を要す〉
返信はわずか三行だった。
〈資金を自由に使え。人を選べ。結果で語れ〉
その言葉に、児玉は小さく笑った。
「……あの人らしい」
数日後。
児玉は、北へ向かう列車に乗り込んだ。
東京駅構内は賑わい、蒸気の匂いが漂っている。
護衛と通訳、それに十数名の技師とともに汽車が動き出す。
窓の外、春の光が街並みを包んでいた。
児玉は懐から藤村のノートを取り出し、指先で表紙をなぞる。
その中には“未来の地図”が眠っている。
「黒龍江の地層に石油がある」――その一文が、脳裏で熱を帯びた。
「十万の民を動かすには、まず一つの町を成功させねばならん」
児玉は独りごちた。
「奉天を“北の東京”にする。教育、経済、治安、全てを回せる都市に」
列車が揺れるたびに、心の奥の決意が固まっていく。
春の光が差し込み、ノートの角を照らす。
その影の中に、児玉は確かに見た――
満州の未来を照らす、ひとつの火が。
春まだ浅い奉天。
満州の大地を覆っていた雪はほとんど解け、黒い土が顔を覗かせていた。
列車の蒸気が低くたなびき、乾いた大地の匂いと混ざり合う。
児玉源太郎は、車窓からその景色を見下ろしていた。
視界の彼方まで続く平原――だが、そこには静けさよりもざわめきがあった。
線路沿いに群がる無数の人影。家族連れ、荷車、裸足の子どもたち。
彼らは列車が通るたびに帽子を振り、叫んだ。
「仕事をくれ!」「雇ってくれ!」
その声が、汽笛にかき消されながらも車内に届く。
児玉は眉をひそめた。
「……これが十万の現実か」
護衛官が窓越しに言った。「奉天の郊外だけでこの数です。街に入れば、さらに多いかと」
児玉は短く頷いた。「見てから考えよう」
列車が奉天駅に着くと、熱気が押し寄せてきた。
線路の両側に人の波。布のテントが並び、煙が立ちのぼる。
かすかに焦げた匂い。干し魚と泥の混じる臭気。
どこを見ても人、人、人。
だがその目には、絶望よりも、わずかな期待の光が宿っていた。
駅舎の外で、河井継之助が待っていた。
濃紺の外套に帽子をかぶり、顔は少しやつれている。
それでも、その眼光は衰えていなかった。
「児玉君、よく来てくれた」
「久しぶりだな、河井総督」
二人はがっしりと握手を交わした。
春風が吹き抜け、周囲の旗が翻る。
「まずは見てほしいものがある」
河井はそう言い、児玉を馬車に乗せた。
石畳を抜け、奉天の中心街へ。
かつて土と木でできた家並みは、いまや瓦屋根と白壁の二階建てが連なる。
電柱が立ち、街角には派出所と薬局、そして「奉天多民族学校」の看板が掲げられていた。
馬車が学校前に止まると、子どもたちの声が聞こえてきた。
「せんせい、『経済』って日本語なんですか?」
「違う、漢字だから漢語だ」
「でも日本が作ったんでしょ?」
教師の声が詰まる。
教室の窓から見えるその光景に、児玉は立ち止まった。
河井が小さく息を吐く。
「言葉の壁は、想像以上に高い」
学校の裏庭には、数十人の親たちが集まっていた。
そのほとんどが漢族と満州族。
農作業着のまま、静かに子どもたちを見つめている。
児玉は近づき、一人の男に声をかけた。
「どこから来た?」
「山東です。畑が干上がって、ここに」
「仕事は?」
「ありません。息子だけは学校に通わせてます。……学べば、飯が食えるかと思って」
その言葉に、児玉は胸の奥が痛んだ。
河井が静かに言った。
「この学校は、希望の象徴のつもりだった。だが、現実は違った。子どもたちは学んでも、家に帰れば飯がない。親たちは字を覚える前に明日の仕事を探している」
児玉は頷き、遠くの空を見上げた。
灰色の雲の切れ間から、一条の光が差していた。
「河井、学校は良い。だが、根がない。教えるだけでは立たん」
「それは分かっている。だが、教育をやめたら、我々が掲げた理想はどこへ行く?」
「理想は腹を満たしてからでいい」
「……きみは現実主義者だな」
「そして君は理想家だ」
二人は無言で笑った。
だが、その笑みの奥に、確かな違いがあった。
――教育で国を作る男と、経済で国を動かす男。
その後、二人は奉天庁の執務室へ向かった。
高い天井、白い壁、机の上には山のような書類。
河井が椅子に腰かけ、児玉に報告書を渡す。
「流民登録は進めている。すでに八万人分の台帳を作成した。だが、雇用の受け皿がない」
「満鉄沿線の開発を進めよう。道路と倉庫を整備し、工事に流民を使う。賃金は日払い、食糧は現物支給だ」
「それでは清朝式の救済と同じだ」
「違う。働かせて払う。誇りを保たせる」
河井は沈黙した。
児玉は窓の外を指さした。
「見ろ。あの黒い線は煙じゃない。人間の群れだ。あれが動かぬ限り、奉天は沈む」
「……分かった。君のやり方を見せてくれ」
翌日。
児玉は満鉄奉天支部を訪れた。
線路の先には、工事用の木材が山のように積まれている。
そこに百人単位の労働者――かつての流民たちが並び、鉄槌を振るっていた。
監督官が報告する。「昨日、募集をかけたら一晩で三千人集まりました」
「三千?」
「はい。今日には一万を超えるでしょう」
児玉は目を細めた。「……動いたな」
午後、奉天の空に風が強く吹いた。
広場では河井と児玉が並んで立ち、労働者たちの列を見守っている。
河井がぽつりと言う。
「これが、きみの“経済教育”か」
「そうだ。仕事を通じて教える。秩序、協調、努力――どれも学校で教えるより速い」
河井は少し黙ってから、静かに頷いた。
「……悪くない」
その夜、児玉は執務室で地図を広げていた。
ランプの灯が机上を照らし、影がゆらぐ。
黒龍江の北に、藤村のノートに描かれた印がある。
――油田。
その文字の下に、自ら赤で線を引いた。
「教育が心を作るなら、石油は国を動かす血になる」
ペンの音が、夜の奉天に響く。
窓の外では、まだ寒風が吹いていた。
だが、地平線の向こうにはかすかに春の霞。
児玉はその光を見つめながら、低く呟いた。
「十万の流民を、国に変える――それが俺の戦だ」
奉天の朝は冷たい。
空気は澄み渡っているが、風が土の匂いを運んでくる。
街の外れ――かつて放置されていた原野に、いま無数の人影が動いていた。
杭を打つ音、土を掘り返す音、怒号と笑い声。
その全てが一つのうねりとなって、大地を震わせている。
児玉源太郎は、小高い丘の上からその光景を見下ろしていた。
眼下には、整地が進む新市街の区画。
線路から伸びる道路が碁盤のように刻まれ、木造の仮設住宅が次々に立ち上がる。
煙突から上がる白い煙が、春風に乗って漂った。
「……ようやく、町らしくなってきたな」
隣で河井継之助が呟く。
外套の襟を立て、風に揺れる地図を押さえている。
その顔には疲労がにじんでいたが、目だけは輝いていた。
「一週間でこれだ。恐ろしい速度だな」
「人が多ければ、街は早く育つ。十万の流民がいるということは、それだけの手があるということだ」
児玉は地図に目を落とした。
奉天新市街――住宅区、商区、工場区、行政区。
彼が設計した区割りの線が、現実の地に刻まれ始めている。
河井が少し笑った。
「教育では、十年かけても人は変わらない。だが、町は十日で変わるのだな」
「そうだ。町が動けば、心も動く。理想は、生活の上に築かれるものだ」
「まるで哲学者のようだな、児玉君」
「現場に出れば、誰でも哲学者になるさ」
下の広場では、炊き出しの煙が上がっている。
女たちが鍋をかき回し、子どもたちが器を持って並んでいる。
そのすぐ横で、男たちは杭を打ち、木材を運び、汗を流していた。
誰もが働いていた。
誰もが、昨日より少しだけ希望を持っていた。
「給金は現物支給か?」と河井が尋ねる。
「ああ。米と塩、それに布を渡している。賃金より確実だ」
「清朝の施粥に似ているな」
「違う。彼らは“貰っている”のではなく、“働いて得ている”。同じ飯でも味が違う」
河井は黙って頷いた。
「誇りを保つ、か……君らしい」
昼頃、現場監督が駆け寄ってきた。
「報告いたします! 奉天駅西の新道で、暴動が発生しました!」
児玉と河井は顔を見合わせる。
「原因は?」
「配給の列に横入りした者を巡って、山東出身者と満州人が衝突を……」
「人数は?」
「二百ほどです! すでに警備隊が向かっておりますが――」
児玉はすぐに馬を引かせた。
「行く」
河井が止めようとしたが、児玉は首を振った。
「指揮官は現場で判断するものだ」
新道に着くと、土煙と怒号が渦巻いていた。
石が飛び、棒が振り上げられ、人が押し合う。
「山東人を追い出せ!」「俺たちが先に並んでた!」
怒りと飢えが交錯するその中心に、児玉は馬を止めた。
「やめろ!」
その一喝が、風を裂いた。
騒ぎが一瞬止まる。
児玉は馬を降り、泥に足を踏み入れた。
彼の軍靴がぬかるみに沈み、泥水がはねる。
「ここは日本の地ではない。だが、日本の秩序のもとにある! ――働きたい者は、誰であれ歓迎する!」
怒号の中、数人が武器を下ろした。
「だが、暴れた者は罰を受ける。それが“働く者の誇り”を守るということだ」
河井が部下に指示し、数人の乱暴者が連行された。
群衆の中に残ったのは、疲れた顔と、沈黙だけだった。
児玉はゆっくりと視線を巡らせる。
「いいか。俺たちは敵同士じゃない。飯を食い、生きたいという気持ちは同じだ。――これから、奉天を一緒に作る」
その言葉に、誰かが小さく頷いた。
やがて、人の波が静かに引いていった。
夕刻。
児玉は仮設庁舎に戻り、外套を脱いだ。
河井が茶を差し出す。
「……危なかったな」
「ああ。だが、あれでいい」
「暴力を恐れぬのは軍人の癖だ」
「秩序を守るために必要なら、多少の泥はかぶるさ」
窓の外では、夕陽が街を赤く染めていた。
瓦屋根が光を反射し、煙突の列が金色に縁取られている。
河井が静かに言う。
「児玉君、あの時の言葉……“日本の秩序のもとにある”というのは、つまり日本化を意味するのか?」
「違う」児玉は即座に否定した。
「それは“生きるための規律”だ。文化を奪うものではない。だが、秩序を共有しなければ、共に発展はできない」
「……共に、か」
河井は少し目を細めた。
「私はこの数年、理想ばかり追ってきた。ようやく、現実の力を見た気がする」
児玉は茶を口に含み、微笑んだ。
「理想がなければ、俺も動けんさ。藤村総理がいなければ、俺はただの軍人で終わっていた」
夜、地図室。
蝋燭の炎がゆらめき、壁に影を揺らす。
児玉は机に広げた地図の北端――黒龍江のあたりに指を置いた。
そこには、赤い印がひとつ。
藤村の手書きによる“油田の可能性”の文字。
扉の向こうから、技師の声が響いた。
「地質学者の佐々木博士が到着しました」
児玉は頷き、地図を折りたたんだ。
「黒龍江に調査隊を送る。装備を整えろ。半年かけてもいい。あそこに何かがある」
「石油ですか?」
「そうだ。だが、金ではない。――未来を掘るのだ」
技師が去り、静寂が戻る。
児玉は机の上のノートを開く。
藤村の筆跡が、蝋燭の光に浮かぶ。
〈石油こそ、国を支える血である〉
その一行の下に、児玉は自らの文字で書き加えた。
〈十万の流民を、十万の労働者に変える。経済は心を導く教育なり〉
窓の外では、奉天の新市街に明かりが灯り始めていた。
粗末なランプの光が点々と地平を照らし、まるで夜空の星のように瞬いている。
子どもたちの笑い声が遠くに響き、どこかで笛の音が聞こえた。
児玉はその音に耳を傾けながら、呟いた。
「……街が息をしている」
その夜、藤村宛に一通の電報が送られた。
〈奉天市街、秩序回復。労働十万、統率下に入る。黒龍江調査隊、今月中に発つ予定〉
通信員が出ていくと、児玉は静かに椅子に沈んだ。
炎が揺れ、影が壁を踊る。
彼はその影の中で、確かに見た。
――ここから新しい帝国の呼吸が始まっている。




