345話:(1891年・春)風は冷たいが、夢は温かい
春の風が、霞が関の並木を渡っていた。
街路の柳が新しい芽を揺らし、石畳の上を歩く人々の影が柔らかく伸びる。
東京の朝は穏やかで、しかしどこか張りつめた気配を帯びていた。
それは、国が次の段階へ進もうとする兆しだった。
首相官邸の二階。
藤村晴人は窓辺に立ち、薄く開いたカーテンの隙間から外を見下ろしていた。
眼下には、官僚たちが分厚い書類を抱えて慌ただしく行き交っている。
その動きを見つめながら、彼は胸の奥でひとつの決断を固めていた。
扉が控えめに叩かれた。
「父上、お呼びでしょうか。」
透き通るような声。
振り向いた藤村の前に、まだ幼さの残る少年が立っていた。
義親――十三歳。
白い学生服の胸には、常陸教育庁の徽章が輝いている。
「来たか、義親。」
藤村は微笑みながら椅子を勧めた。
「父上、今日は……どの案件の話でしょうか。」
「北海道だ。」
少年の瞳が、わずかに揺れた。
「……蝦夷の地、ですか。」
「そうだ。」
藤村はゆっくりとうなずいた。
「三年前、常陸で試みた理性の都市計画が形を成し、朝鮮でも教育の芽が出始めた。
次は、北の大地――北海道だ。」
机の上には広げられた地図があった。
北海道の山々と海岸線、そして点在する八つの赤い印。
それは学校の位置を示している。
「函館、札幌、小樽、旭川、釧路。
今は八校だ。だが、教育の届かぬ土地がまだ広い。」
義親は身を乗り出した。
「私が行くのですか。」
「いや。」
藤村は首を横に振った。
「お前はまだ十三歳だ。
現地へ赴くには早い。
だが――」
藤村の指が、地図の南端をなぞった。
そこには、細い黒線が縦横に走っている。
「これは……電信網、ですね。」
「そうだ。三年前、常陸から全国に張り巡らせた通信線だ。
お前は東京にいながら、北海道のすべてと繋がることができる。」
藤村の声には、確信があった。
「直接の実務は、徳川昭武総督と黒田清隆副総督に任せる。
お前は、東京から指示を出すのだ。
遠く離れた地を、理と信頼で導く練習をしてみろ。」
義親の胸に、緊張と高揚が同時に走った。
「……はい。やってみます。」
その返事を聞いて、藤村はわずかに目を細めた。
「よい返事だ。」
彼は机の引き出しから、一通の封筒を取り出した。
古びた羊皮紙に包まれたそれは、かつて常陸の初期教育計画を記したものだった。
「これは私が三十年前に書いた『教育と共生の原則』だ。
朝鮮でも、蝦夷でも、すべての根はここにある。」
義親は両手でそれを受け取り、まるで宝物のように胸に抱いた。
「……この理念を、北海道に。」
「そうだ。
だが覚えておけ。理想は命令ではない。
“共に歩く”ことを忘れてはならん。」
藤村は窓の外に目をやった。
春の陽光が、霞の向こうにかすむ皇居の森を照らしていた。
「アイヌの人々がいる。
彼らの文化を守り、共に未来を築く。
それが、お前の初めての使命だ。」
義親は深く頷いた。
「父上、ひとつだけ教えてください。」
「なんだ。」
「“理性の国”とは、どうすれば作れるのでしょうか。」
藤村は静かに息を吐いた。
「理性の国とは――感情を捨てる国ではない。
理と情を秤にかけ、どちらも否定せずに進む国だ。
それを為すのは、法でも軍でもない。
人だ。
だから、私はお前を信じている。」
その言葉を聞いた瞬間、義親の瞳に光が宿った。
十三歳の少年はまだ子供であったが、その胸には確かな責任の灯がともった。
***
午後、官邸の通信室。
真新しい電信機が並び、金属の香が漂っている。
義親は椅子に腰を下ろし、震える指で最初の鍵を叩いた。
――トン、ツー、トン。
送り先:函館。
宛先:北海道総督 徳川昭武殿。
〈東京より指令。教育と共生の進捗を伺いたい。
アイヌの現状、学校数、人口、課題を報告されたし。〉
音が室内に小さく響き渡る。
しばらくして、受信器から微かな返信の音が返ってきた。
通信士が顔を上げる。
「返信です。徳川総督から。」
義親は紙を受け取り、目を走らせた。
〈北海道人口八十万。日本人七十五万、アイヌ五万。
学校八校、就学率:日本人三〇%、アイヌ一五%。
教育進行中。ただし土地問題と文化摩擦あり。〉
義親は深く頷いた。
「数字だけでは見えぬことがある。」
その独り言を、通信士が不思議そうに聞いていた。
「電信で繋がるとはいえ、心までは届かない。
だからこそ、言葉に誠実さを込めねばならないのだ。」
少年は再び鍵を叩き始めた。
〈理解した。詳細報告を求む。
特に、アイヌの声を聞きたい。〉
電信線の向こう、遠く離れた北の大地に、静かな指令が走る。
その瞬間、常陸で培われた理性の理念が、初めて国の北端へと届いた。
***
夕暮れ。
窓の外には、春霞の彼方に沈む夕日。
官邸の屋根が金色に染まり、街の灯が一つずつともり始めていた。
藤村は執務室のドアを開け、通信室を覗いた。
そこには、まだ義親が座っていた。
真剣な表情で、受信紙を読み取っている。
「もうこんな時間か。」
藤村が声をかけると、義親は慌てて立ち上がった。
「父上……報告が届きました。」
「そうか。」
藤村は微笑し、息子の肩に手を置いた。
「もう立派な官僚の顔をしているな。」
義親は照れくさそうに俯いた。
「まだ、全然です。」
「誰でも最初はそう思う。」
藤村は静かに言った。
「だが、初めて国を動かす手を握った日のことは、一生忘れぬものだ。」
その言葉に、義親ははっきりと頷いた。
「はい。
この電信線の先に、人々の未来がある。
ならば私は――理と心で繋ぎます。」
藤村は息を吐き、満足げに微笑んだ。
「よく言った、義親。」
外では、春の風が夜の街を渡っていた。
その音はまるで、遠く北海道へと伸びる電信線を撫でているようだった。
理性の声が、いま、北の大地へ届こうとしていた。
五月の風が、東京の街を柔らかく包んでいた。
若葉の匂いがする。
義親は首相官邸の通信室に入ると、まるで別世界に踏み込んだような気持ちになった。
電信機の規則的な音が、心臓の鼓動のように部屋の空気を震わせる。
壁一面に貼られた電信地図――太い黒線が東京から北へと延び、青森、函館、札幌へと繋がっている。
この細い線一本が、いまや“国の神経”だった。
義親は深呼吸し、通信士に言った。
「徳川総督に繋いでください。」
「はい、ただいま。」
金属音が跳ね、しばらくの後、返答の音が返ってくる。
通信士が読み上げた。
「――『こちら函館。徳川昭武です。』」
義親は姿勢を正した。
「徳川総督、こちら東京です。北海道の現状を教えてください。」
ツー、トン、ツー。
電信の音が部屋を満たす。
しばらくして、長い返信が届いた。
通信士の声に、義親は耳を澄ました。
〈北海道人口八十万。日本人七十五万、アイヌ五万。
学校八校、うち函館三、札幌二、小樽一、旭川一、釧路一。
就学率:日本人三〇%、アイヌ一五%。
土地紛争五十件発生。文化摩擦多し。〉
通信士が顔を上げる。
「以上です。」
義親はゆっくりとうなずいた。
「……現実は、数字より重い。」
その言葉を自分に言い聞かせるように呟くと、再び鍵を叩いた。
〈理解した。アイヌ側の意見を知りたい。長老との会談をお願いしたい。〉
* * *
数日後、函館総督府。
白い木造の庁舎の一室で、徳川昭武は副総督の黒田清隆と共に、アイヌの長老・コタンクルを迎えていた。
窓の外では海鳥が鳴き、冷たい潮風が吹き抜ける。
コタンクルは深い皺の刻まれた顔を上げ、静かに言った。
「あなたたちは、子らに日本語を教えている。
それは良い。だが――われらの言葉は、どうなるのです。」
黒田は少し考え、答えた。
「失うつもりはない。むしろ、記録したいと思っている。」
「記録?」
「あなたたちの言葉を文字にする。
残すのです。
カタカナか、ローマ字か……その方法を相談したい。」
長老は目を細め、窓の向こうの海を見た。
「ローマ字は見慣れぬ。
だが、カタカナなら……日本の子らも読める。」
「では、カタカナ表記で進めましょう。」
黒田は電信紙を取り、すぐに打電を始めた。
〈東京へ報告。アイヌ長老コタンクル、カタカナ表記を希望。理由:分かりやすく、共通性あり。〉
* * *
東京。
報告を受けた義親は、思わず微笑んだ。
「……カタカナ。
父上の『共生』という言葉の意味が、少し分かる気がします。」
彼は手帳を開き、丁寧な文字で書き込んだ。
〈アイヌ語カタカナ表記を採用。例:イランカラプテ(こんにちは)。〉
筆跡はまだ幼いが、線はまっすぐだった。
義親は続けて指示を送る。
〈学校を二年間で二十校に拡大。
教育は日本語とアイヌ語の併用とする。
土地紛争には保護区制度を導入せよ。〉
鍵を叩くたび、指先に小さな震えが伝わる。
これは単なる通信ではない。
国を動かす、初めての「言葉」だった。
* * *
その頃、函館の夜。
庁舎では黒田がランプの光の下で書簡を整理していた。
机の向かいには徳川昭武。
「十三歳の少年とは思えんな。」
「ええ。」黒田は苦笑する。
「文面には幼さがあるが、思想がある。
“理性の血”というのは、本当にあるのかもしれません。」
「父親譲りか。」
「まさしく。」
黒田は手紙を手に取り、読み上げた。
〈土地は人の命なり。奪うことなく、分かち合うことを学ぶべし。〉
「……子供の言葉じゃない。」
徳川は笑った。
「いや、子供だから言えるのだ。
我々はあまりに多くの理屈で目を曇らせている。」
* * *
六月。
土地紛争の報告が続々と届く。
ある村では、日本人入植者がアイヌの狩猟地に家を建てようとしていた。
怒号と涙が飛び交い、鍬が投げられる。
その報告を受けた黒田は、すぐに保護区指定を決定した。
「ここからこの川の向こうまでは、アイヌの生活圏とする。
日本人の入植は禁止だ。」
紙に引かれた境界線は、たった数センチ。
だが、それが百人の命を救った。
黒田はその決定を電信で義親に報告する。
〈十箇所を保護区に指定。紛争発生率、半減の見込み。〉
義親はその報を読んで、深く息を吐いた。
「……これで、少しは安心できる。」
だが、すぐに顔を引き締める。
「いや、まだだ。教育が根づかねば、争いは戻る。」
彼は机の上の小さな地球儀を回した。
常陸、朝鮮、そして北の北海道。
小さな指先がその上をなぞる。
「人の心を繋ぐのは、法律ではなく、学びだ。」
* * *
七月、朝の東京。
窓の外では、すでにセミの声が響き始めていた。
義親は通信士から新しい電信紙を受け取った。
〈黒田より。コタンクル長老、文化保存館建設を提案。場所、函館。展示室三。館長、日本人学者。副館長、アイヌ長老。〉
義親は目を見張った。
「……長老自ら副館長に?」
「はい、そのようです。」
通信士が答えると、義親は静かに笑んだ。
「文化を保存するとは、共に運営するということだ。
理論を、行動に変える時だ。」
彼はすぐに返電を打つ。
〈承認。建設費五十万円を割り当てる。来春着工・翌年開館を目標とする。〉
* * *
同じ頃、函館の海辺。
潮の香りの中、コタンクルが岬に立っていた。
夕日が海を赤く染め、波の音が絶え間なく打ち寄せる。
背後で若者たちが釣り網を繕っている。
彼は静かに言った。
「遠い都に、若い総理の息子がいるそうだ。
名を、義親というらしい。」
「聞いています。」若い漁師が答える。
「学校の先生たちが、あの方の電信で動いていると。」
長老は頷き、海を見つめた。
「我らは、忘れられた民ではない。
言葉を残し、歌を残し、子らに伝える。
それを助けてくれる者がいるのなら――
その者は、友だ。」
海風が髭を揺らし、瞳に光が宿る。
その姿は、遠く離れた東京の少年の胸にも、同じ炎を映していた。
八月、東京の空は蒸し暑く、遠くから雷鳴のような音が聞こえていた。
首相官邸の通信室では、開け放たれた窓から熱気が流れ込み、書類の端がかすかに揺れている。
机の脇では職員が団扇で風を送り、義親の襟元をそっと涼ませた。
義親は汗ばむ額を拭い、積み上げられた報告書の束に目を落とした。
そこには、北海道各地の学校建設報告、保護区指定の進捗、そして文化保存館の設計図が並んでいた。
「……次は、教師だ。」
彼は小さく呟いた。
数字を見れば順調だ。
学校は十二校に増え、保護区も十か所に拡大。
だが、机上の成果とは裏腹に、報告の文面にはいつも同じ問題が記されていた。
――アイヌ語を教えられる教師がいない。
義親は電信紙を取り、すぐに打電を始めた。
〈黒田副総督へ。アイヌ人教師を育てるための師範学校を設立したい。函館が適地と思われる。〉
数時間後、返電が届いた。
〈賛成。土地は確保済み。二年制とし、定員二十名を予定。〉
義親は椅子から身を乗り出した。
「動いた……!」
少年の頬には、ほんのりと赤みが差していた。
電信線を通して遠くの地に指令を送ることには慣れたが、自らの言葉が誰かの行動を動かす瞬間には、まだ胸が高鳴った。
* * *
同じ頃、函館の海風が吹く丘の上。
建設予定地の草原で、黒田清隆が現場監督と地図を広げていた。
「ここに校舎を、あちらに宿舎を置く。
小さなものでも、北の未来を担う場所にせねばならん。」
足元では、木槌を握るアイヌの青年たちが杭を打ち込んでいた。
その中のひとり、黒髪に布を巻いた若者が顔を上げた。
「副総督様。ここに建つ学校で……自分たちが教師になれるのですか。」
「そうだ。」黒田は微笑した。
「学ぶ者が次に教える。それが、この地の誇りになる。」
青年の目が光った。
彼の名はペカラ。十八歳。
漁師の息子で、文字を持たぬ歌の民だった。
「……なら、自分も学びたい。言葉を、歌を、子どもたちに伝えたい。」
黒田は力強く頷いた。
「その気持ちを、東京に伝えよう。」
ペカラの言葉は、すぐに電信に乗って都へ送られた。
* * *
夜の東京。
義親はランプの灯の下で、その報告を読んでいた。
〈青年ペカラ、師範学校入学を希望。理由:“アイヌ語を子どもに伝えたい”。〉
読み終えた瞬間、胸が熱くなった。
――“伝えたい”という言葉。
それは、理屈でも政策でもない。
生きる者の声だった。
「父上なら、何と言うだろう。」
義親は窓の外に目をやった。
霞んだ月が、静かに雲を照らしている。
「理性の国とは、人の声を拾う国――そう教えられた。」
翌朝、彼は再び通信室に入り、電信士に命じた。
「黒田副総督へ返電を。
ペカラの入学を許可。学費は全額国費負担とする。」
「承知しました。」
送信キーが律動を刻む。
団扇の風がインクの匂いを運び、熱気の層をやわらげた。
――教育とは、数字を積み上げることではない。
心を信じ、心を育てることだ。
* * *
その日から、義親の机の上には一枚の絵が置かれるようになった。
ペカラが送ってきたという小さな写し絵だ。
厚い和紙に、炭で描かれた海と舟。
画面の隅に、小さな文字でこう書かれている。
〈風は冷たいが、夢は温かい〉
義親はそれを見るたび、自然と背筋が伸びた。
* * *
秋。
師範学校の建設が本格的に始まり、函館では材木を運ぶ馬車が絶えず往復していた。
木槌の音が海辺に響き、村の子どもたちが遠くからそれを見つめている。
黒田は現場を歩きながら、建設主任に言った。
「ここは単なる学校ではない。
アイヌの未来そのものだ。
だから、壁は白く、窓を広く取れ。
子どもたちに空を見せたい。」
職人たちは頷き、腕を振るった。
風に乗って木の香りが漂い、海の塩気と混じって心地よい匂いを生む。
夕刻、現場を見渡すコタンクル長老が静かに言った。
「風が違う。
昔は恐れの風だった。
いまは……希望の風が吹いている。」
黒田はその言葉に、無言で帽子を取った。
* * *
冬。
雪が降り始めた函館の夜、ランプの灯りの下でペカラは筆を握っていた。
文字を覚えたばかりの手で、ぎこちなく紙に書く。
〈イランカラプテ――こんにちは。
これが、私たちの言葉です。〉
その横に、小さくカタカナで添えた。
〈ペカラ〉
彼は窓の外を見た。
吹雪の向こう、校舎の骨組みが白い闇に浮かび上がっている。
あの場所で、やがて子どもたちが歌を学ぶのだ。
唇の端に笑みがこぼれる。
「この雪も、きっと春になれば溶ける。」
* * *
東京。
義親の机の上に、ペカラからの手紙が届いた。
雪に濡れた紙は少し波打っていたが、文字はしっかりしていた。
〈いつかこの地の子どもが、“日本人かアイヌか”ではなく、“学びたい者”として並ぶ日が来ると信じています。〉
義親はその一文を、何度も読み返した。
胸の奥に温かい痛みが走る。
十三歳の心に、はじめて「政治」ではなく「祈り」が芽生えた瞬間だった。
* * *
その夜、藤村晴人が書斎で灯を見ていた。
「義親、まだ起きているのか。」
「はい。」
「電信の音が途切れないな。」
「北海道とやり取りをしています。」
父はしばらく黙っていたが、やがて穏やかに言った。
「良い顔をしている。」
「え?」
「人を動かすとは、理屈でなく信頼で動かすことだ。
お前は、もうそれを掴みかけている。」
義親は言葉を失ったまま、そっと頷いた。
窓の外、月光が庭を薄く照らしている。
東京の夜の静けさの中で、彼は遠い北の地に吹く冷たい風の音を確かに感じていた。
それは、希望の風。
理性と情の橋を渡る、若き指導者の胸に吹く風だった。
春の風が、函館の丘を渡っていく。
雪解けの水が石畳を濡らし、陽の光に反射してきらめいた。
白壁の新校舎――「函館師範学校」。
建物の前には、まだ真新しい看板が立てられている。
〈北海道師範学校 第一期生入学式〉。
ペカラは深呼吸した。
胸の奥に残る潮の匂いが、風に混じって遠くへと流れていく。
彼の手は小さく震えていたが、それは寒さのせいではない。
今日から彼は、生徒ではなく「教師」になるのだ。
木造の講堂には、十数人の子どもたちが並んでいた。
アイヌ、和人、その区別なく、机を並べている。
壁には白い地図、棚には墨と筆。
窓を開けると、海の青さがまぶしかった。
ペカラは黒板の前に立ち、ゆっくりと口を開いた。
「イランカラプテ――こんにちは。」
ざわ、と教室の空気が揺れた。
「これは、私たちの言葉です。」
彼はチョークを握り、黒板に文字を書いた。
〈イランカラプテ〉
その横に、〈こんにちは〉とカタカナで添える。
子どもたちが真剣に見つめる。
「この言葉を覚えてください。
挨拶とは、相手の存在を尊ぶことです。
“こんにちは”は“あなたの心に、光が差しますように”という意味があります。」
言葉を終えると、教室の後ろで拍手が起きた。
黒田清隆だった。
「いい授業だったぞ、ペカラ先生。」
ペカラは照れくさそうに笑った。
「まだまだです。けれど、子どもたちの目が輝いていました。」
「それで十分だ。教育は理屈ではない。光を灯せば、それでいい。」
* * *
東京。
首相官邸の通信室に、一通の電信報告が届いた。
〈函館より。師範学校第一期開講。授業は無事開始。教師ペカラの教え、好評。〉
義親はその文を読んで、静かに微笑んだ。
「やったな、ペカラ。」
机の上の写し絵――海と舟の絵に指を置く。
“風は冷たいが、夢は温かい”。
その言葉の意味が、いまようやく分かった気がした。
通信士が小声で尋ねた。
「若君、次の指令はいかがいたしますか?」
義親は少し考えてから言った。
「……次は、沖縄です。」
通信士が驚いたように顔を上げる。
「沖縄、でございますか。」
「はい。北を開いたなら、次は南をつなぐ番です。
文化も言葉も、すべて日本の光になるように。」
机の上の地図を広げると、東京から放射状に伸びた通信線が見えた。
その南端に、まだ空白がある。
「この線を、海の向こうまで延ばすんだ。」
義親の声は静かだったが、瞳の奥には確かな熱が宿っていた。
* * *
同じ夜、函館では春の嵐が吹いていた。
ペカラは宿舎の窓辺で、灯を見つめながら日誌をつけていた。
〈今日、初めて教壇に立ちました。
子どもたちは笑いました。
それだけで、この寒い地にも春が来たと思えました。〉
窓を叩く雨の音。
ふと、遠くに雷鳴が響く。
ペカラは筆を置き、胸の奥でそっと呟いた。
「ありがとう、東京の義親様……。」
その言葉が、どこか遠くで電信線を伝って走るように、夜気の中に溶けていった。
* * *
翌日。
東京では藤村晴人が外務省の来客を見送っていた。
部屋に戻ると、義親が地図を広げて待っていた。
「父上、北は動きました。函館から稚内まで、教育の網が広がりつつあります。」
晴人は頷いた。
「人を教えるというのは、最も難しい統治だ。」
「ええ。けれど、数字では測れない温かさがあります。」
「それでいい。お前は、理性に情を乗せた。
それこそが、藤村家の統治だ。」
義親は深く頭を下げた。
「この国の理性は、人を繋ぐためのものに――」
父は微笑み、言葉を継いだ。
「そして、世界へ広げるためのものになる。」
* * *
函館。
師範学校の校庭では、雪解けの泥を踏みしめながら子どもたちが遊んでいた。
ペカラはその様子を見守りながら、胸の奥で呟いた。
「春になったら、歌を教えよう。」
その歌は、海と風と大地を讃える古い旋律。
しかし、歌詞の中には新しい言葉が混ざっていた。
「理性」「希望」「光」。
東京から届いた理念が、北の地でゆっくりと息づき始めていた。
丘の上で、黒田清隆が小さく頷いた。
「藤村の理想は、確かにここに根づいている。」
ペカラは微笑み、空を見上げた。
空は透き通るような青――
その青が、遠い東京とつながっているように感じた。
風が吹く。
春の風は優しく、しかし力強い。
それはもう、恐れの風ではなかった。
希望と理性の橋を渡る、未来の風だった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
面白かったら★評価・ブックマーク・感想をいただけると励みになります。
気になった点の指摘やご要望もぜひ。次回の改善に活かします。




