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34.5話:寿司は、一口で食べたい

藤田東湖邸に招かれたある昼下がり。


 晴人は、静かに出された膳の前で箸を置いたまま、しばし言葉を失っていた。


 目の前の皿に盛られたのは──手のひらほどもある巨大な“寿司”。


 「……まさか、これが握り寿司ですか」


 思わず漏れた独白に、東湖が楽しげに頷く。


 「うむ。江戸でも話題になっていてな。分厚いネタにたっぷり酢飯、男らしい味だと評判らしい。遠慮せず、召し上がれ」


 その誘いに従い、晴人は恐る恐るひとつを手に取る。

 しかし──


 「う、っ……!」


 想像をはるかに超える酢の強さが鼻腔を突き抜け、噛み切れない厚みのネタに苦戦する。口いっぱいに広がる酢飯が喉を塞ぎ、一貫食べるだけで小さな疲労感すら覚えた。


 ──これ、ほんとに寿司か……?


 ふと脳裏に甦ったのは、現代で慣れ親しんだ“江戸前寿司”の姿。


 一口で食べられるサイズ、ふんわりとした酢飯、繊細に包丁の入ったネタ。そして何より、心地よい酸味と甘みの調和。


 (あれが……“完成された形”だったんだな)


 晴人の中に、ひとつの衝動が湧いた。


 ──再現してみたい。この時代の人々に、“あの寿司”の美味しさを伝えてみたい──。


 


 その夜、自宅の台所に立つ晴人の目は真剣そのものだった。


 調理は彼の趣味であり、現代にいた頃から寿司や和食を好んで作っていた。中でも寿司は、休日に市場へ出向いては新鮮なネタを探し、握りの練習を重ねるほどの熱中ぶりだった。


 「道具は……まあ、ないなら作るか」


 iPhoneを取り出し、保存していたメモと画像を確認する。iPadには、趣味で集めていた寿司職人のインタビュー動画やレシピが詰まっていた。


 (酢飯の配合……米酢:砂糖:塩は、1:3:1。ネタは地物……ヒラメがあったな、あとコハダか)


 翌朝、晴人は市場へ向かい、漁師からヒラメとコハダを仕入れた。冷蔵保存の概念がないこの時代では、朝獲れの魚こそが何よりの財産である。


 


 問題は包丁だった。


 料理用の薄刃包丁などあるはずもない。だが彼は、藩の鍛冶場を訪ね、試作中の銃剣用鋼材の中から、最も切れ味の良さそうな一本を見繕った。


 「少し、研がせてもらえませんか」


 鍛冶師は驚きながらも了承し、晴人は炉の脇で刃を丁寧に研ぎ上げた。


 (厚みのあるネタじゃ、意味がない……薄く、繊細に──)


 ヒラメの身を薄く引くその手つきには、武士たちも思わず見入るほどの集中力があった。


 


 炊き上がった米に、湯煎で溶かした甘酢を混ぜる。うちわで熱を飛ばしながら、しゃもじで切るように混ぜる。


 「……よし、人肌まで冷ましたら、いける」


 ふっくらとした酢飯を、指先に水をつけてふわりと握る。ネタを手の中で添え、優しく形を整える──。


 「……よし、一貫、完成」


 初めての完成品を前に、晴人は深く息をついた。


 目の前に並んだのは、現代で見慣れた、あの“一口サイズ”の美しい握り寿司。


 


 そしてその翌日──


 彼は再び、藤田東湖邸を訪れた。


 「昨日の寿司……正直に申し上げますと、あれでは女子供には厳しゅうございます。もしよろしければ、これを──試していただきたく」


 白磁の皿に並ぶ小ぶりな握り。晴人の手が震えていないのは、料理が彼の“本職”ではないが、“本気”だったからだ。


 東湖は無言で一貫を口へ運ぶ。


 咀嚼。沈黙。飲み込む。


 そして──微かに目を細めた。


 「……これは、咀嚼の中に心がある」

咀嚼の中に、心がある──。


 東湖の言葉に、晴人は一瞬、息を呑んだ。


 それは料理人としての評価ではない。

 文化を知る者として、精神のあり方を見抜いた人間の言葉だった。


 


 「これは……まるで、剣を振るうようだな」


 寿司を見つめたまま、藤田東湖が静かに言った。


 「無駄を削ぎ落とし、形を磨き、相手に届くよう仕立てる。派手さはないが、確かな意志がある。……それが、“握る”という行為なのだろうな」


 


 晴人は思わず笑った。


 「剣とはまた、大げさですね。せいぜい、茶道のようなものでしょう」


 「いや。これは“和の武”だ」


 東湖の声に、芯があった。


 「武とは力ではない。人を屠るためでなく、人の心を護る術であるべきだ。お主のこの握り寿司──ただ美味いというだけではない。人に食わせるために考えられ、人を思って作られている。そこに、志がある」


 「志、ですか」


 


 「そうだ。お主の寿司には“武士の徳”がある。口に運ぶと、心が和らぐ。力まずとも咀嚼でき、子供でも楽しめる。これを“食の和”と呼ばずして、何と呼ぶか」


 


 東湖はもう一貫を口に運び、噛み締めるように食べた。


 そして、盃を取り、米焼酎を少し口に含んだ。


 


 「……合うな」


 


 それだけで、十分だった。


 藤田東湖という水戸学の権威が、この料理を“和”と認めた。

 それは、武士の家だけでなく、庶民の暮らしに新たな“風”が吹き込まれる瞬間だった。


 


 「晴人殿」


 「はい」


 「名をつける気はあるか? この料理に」


 「いえ……特別なものではありません。私は、ただ寿司を“食べやすく”しただけで……」


 「では、拙者が名乗ってよいか?」


 「……東湖先生が、ですか?」


 


 藤田東湖は、ひと呼吸おいて口を開く。


 「“一口和寿司ひとくち・わずし”──どうかのう?」


 


 「……おそれ多いです」


 だが、晴人の心には、何かが灯った。


 “名付ける”ということは、“文化として残す”ということだ。

 その意味を、彼は痛いほどに知っていた。


 


 「東湖先生、もし、もう一貫召し上がっていただけるなら──」


 


 そして、もう一貫。


 藤田東湖は、迷いなくそれを口にした。


 その姿に、晴人は静かに頭を下げた。


 


 食卓に静けさが戻る。


 だがその沈黙は、空白ではなかった。


 確かな余韻。

 余白の中に、心が満たされていく──そんな静かな時間が流れていた。


 


 やがて東湖が盃を傾けながら、ふと呟いた。


 


 「……この寿司が、やがて水戸の“和”の象徴となるだろうな」


 


 「え?」


 「饗応の席で、“心を尽くす握り”として出される。藩主も食す。やがては諸藩の客人にも出されるようになる。……そしてそれを、“武士の気遣い”と呼ぶ者も現れよう」


 


 「気遣い……」


 


 晴人はその言葉に、思わず胸が詰まった。


 異なる時代。異なる価値観。

 それでも、人を思う心は変わらない。


 ひと口で食べられるように。


 誰の舌にもやさしいように。


 酢も、塩も、ネタも──“強さ”を抑え、“和らげる”ことに尽くした。


 


 それはまるで、自分自身がこの時代に馴染もうとした過程のようだった。


 強く叫ぶのではなく、静かに寄り添う。


 変えようとするのではなく、受け止める。


 そんな生き方を、彼自身がこの“寿司”に込めていたのかもしれない。


 


 「これは……料理というより、“願い”だったのかもしれません」


 晴人の呟きに、東湖が微笑む。


 


 「その願い、確かに届いたぞ」


 


 盃の中の焼酎が、淡く月明かりに照らされていた。


 静かな午後の食卓に、ふたりの笑みだけが残った。


 ──やがて、町では“握り寿司”の噂が広まり始める。


 「江戸とは違う、やさしい味」


 「子どもにも食べやすい寿司」


 「水戸の町人が作っているらしいぞ」


 


 そして半年もせぬうちに、藩主徳川斉昭の饗応膳にも、その寿司は現れることになる。


 


 そう、“武士の気遣い”として──。

その夜、晴人は屋敷の板の間に一人座り、米焼酎の徳利と数貫の寿司を前に、静かに箸を運んでいた。薪の明かりが部屋の隅を照らし、虫の音が障子越しに聞こえてくる。


「……まさか、あれほど東湖先生に喜ばれるとはな」


 酢飯の香りがほどよく立つ。ほんの少し甘めに仕上げた酒は、口の中に米の旨味をふわりと残し、気持ちをほぐしてくれる。晴人は徳利を傾けながら、小さく笑った。


「この焼酎も“百姓の酒”って笑われてたのに、今じゃ役人まで手を伸ばしてる。案外、何が受けるか分からないもんだ」


 ふと誰かに話しかけるような口調になったが、相手はここにはいない。河上は今朝、農村の視察に出ていた。戻るのは明日になるだろうと聞いていた。


 彼の不在が寂しいわけではない。ただ、自分の記憶から引き出した“未来の味”が、確かに今この時代に根付き始めている事実に、晴人は少しばかりの重責を感じていた。


 武具でも、機械でもない。ただの寿司であっても、それは“変革”の始まりだった。


 扉が小さく開いた。思わず顔を上げると、旅装のままの河上が、埃を払って中に入ってきた。


「遅くなりました。お待たせしました」


「おかえり。……って、あれ? 明日まで戻らないって言ってなかったか?」


「道が思いのほか整っておりまして、予定より早く終わりました。お身体の具合も心配でしたので、急いで帰ってきた次第です」


 そう言って彼は、晴人の向かいに膝をついた。酢の香りに気づいたのか、すぐに目を細めた。


「……これは、握り寿司でしょうか? ですが、随分と小ぶりですね」


「昼に東湖先生に出したんだ。その残り。……試してみるか?」


「よろしいのですか? では、ありがたくいただきます」


 河上は慎重に一貫を手に取り、口に運んだ。咀嚼しながら、微かに目を見開いた。


「……これは、実に食べやすい。口当たりも穏やかで、酢も強すぎず、優しい味ですね」


「一口で食べられる寿司、ってやつだ。昔の寿司はでかくて、女子供にはつらいって言われてたからな」


「なるほど。そういう配慮があっての形なのですね。……これは、茶屋で出せば人気が出そうです。年配の方や、小さなお子様にも喜ばれるでしょう」


「俺もそう思ってる。いっそ、鶏卵を仕入れて玉子寿司にしてもいいかもな。ほら、養鶏場もできたばかりだし」


「確かに、あれは良質な卵が取れます。甘く焼いた厚焼きとの相性は……きっと素晴らしいでしょう」


 酒と寿司と語らい。囲炉裏のそばで、ふたりは静かな夜を過ごしていた。


 しばらくして、河上が真顔になり、口を開いた。


「……晴人様。時折、遠くを見ておられるようなご様子をされます。まるで、心のどこかが、まだ別の場所にあるような……」


 晴人は目を伏せ、盃に残った焼酎を見つめた。


「……そう見えるか。だが、俺は“ここ”にいるつもりだ。水戸に、いや、この時代に――本気で向き合ってるつもりだよ」


「……そうでしたか。それをお聞きできて、安心しました」


 河上は少しほほ笑み、静かに徳利を手に取った。


「それでは、ささやかですが、この握り寿司の成功と、晴人様の志に――乾杯を」


「おう、乾杯」


 ふたりの盃が、静かに鳴った。


 この寿司は、たしかに記憶の中の味だ。だが、それを再現する手間と心は、この時代で育ったもの。過去の焼き直しではない。新たな文化として、この地に根を張ろうとしている。


 その“変化の種”を、小さな握り寿司に込めて。晴人は、また一歩未来へと歩き出していた。

翌朝。東湖邸の奥座敷では、静けさの中にふたつの湯呑が並んでいた。


 藤田東湖は一人、膝を正して座っている。脇には昨晩届けられた、小ぶりの寿司が数貫並んだ漆器の皿。そして、手元の巻紙には、達筆な筆で記された覚え書きがある。


「一口で、咀嚼に心が生まれる、か……」


 微かに笑った。昨夜、晴人から振る舞われた寿司は、ただの料理ではなかった。それは“思考の器”であり、“技術の結晶”であり、そして何より“優しさの形”であった。


 武士は、粗野な食事を誇りとする傾向がある。硬い飯、塩辛い肴、咽び上げるような酒。それが“強さ”の証とされてきた。しかし昨夜の一貫寿司は、刀を抜くことなく、確かな衝撃を東湖の胸に刻んだ。


「咀嚼の中に心がある……。形の整い、温もりの残る飯、角の取れた酸味……。これが武士の舌に合わぬはずがあるまい」


 寿司は語らない。ただ静かに、手の中で、その意志を伝えてくる。東湖はそれを“誠”と呼んだ。口先だけでなく、腹の底から出た志。晴人の技は、まさにそのようなものであった。


 そこへ、控えの間から足音が届く。


「東湖先生、お目覚めでございますか」


「うむ、入ってくれ」


 障子が開き、現れたのは水戸藩の若き藩士にして、学問所の書記も務める中山靖之助である。几帳面な印象の男だが、その目は寿司に吸い寄せられていた。


「それが……昨夜、晴人様が握られたという“新式の寿司”でございますか」


「そうだ。見てみるがよい。品があり、どこか愛嬌もある。たかが一貫、されど一貫よ」


「これは……まるで、細工菓子のようですな。食の中に、誠意が宿るとは……。もしや、茶会などにも?」


「うむ。今後、藩主の御前でも試してみよう。いずれは江戸城でも話題となろう」


 中山は目を輝かせた。


「まさか、東湖先生が料理を絶賛される日が来ようとは」


「ふん、誤解するな。わしが褒めているのは料理ではなく、その“心”だ。晴人殿の眼差し、その先にある未来の“味覚”の形に敬服しているに過ぎん」


 そこで東湖はふと立ち上がり、庭の方を見つめた。


「靖之助。お主は覚えておるか。かつて、儒を学ぶ者が、食を軽んじた日々を。我らが飯を啜りながら、唐の詩だけを讃えていたことを」


「……はい」


「だが今、晴人殿は食で人を結び、文化を整えようとしている。和の膳に宿る思慮があれば、国を和らげることもできよう」


「……“食”が“徳”になる、と」


「うむ。さすれば、我らも変わらねばならん。言葉だけで国を治める時代は、遠からず終わるだろう」


 その頃、晴人の屋敷では――。


 河上が朝餉の支度をしながら、包丁を片手に苦戦していた。


「薄造り……とは、どうにも難しいものですな」


「ふふ、そんなに力入れたら潰れるぞ」


 後ろから晴人が覗き込む。手には昨日の酢飯を詰めた木桶と、小さな白布巾。今日は河上に“握り”の初歩を教えているのだ。


「いいか、ネタは切り口が命。右に包丁を傾けて、滑らすように――こうだ」


「まるで、剣の鍔迫り合いのような繊細さ……」


「その表現は間違ってないかもな」


 晴人は笑いながら、小さなコハダの切り身を手に取り、米をふわりと握る。河上はその動作を黙って見ていたが、やがて言った。


「……晴人様。あなたは、なぜここまで“形”にこだわられるのですか?」


「うん?」


「この寿司、味はもちろん素晴らしい。けれど、それ以上に“見た目の整い”に、尋常ならぬ心を注がれている。……それが、ただの記憶ではない、何か別の強い信念のように見えて……」


 晴人は少し驚いたように息を吐いた。そして、真面目な表情に変わる。


「……形ってのは、心の在りかただと思う。雑に握れば、食べる人にも“雑さ”が伝わる。だけど、丁寧に握れば、たったひとつの寿司にだって“想い”が宿る。だからこそ、“形”を整えるんだよ。言葉より、誠実に伝わるからな」


 河上は静かにうなずいた。


「……晴人様の手が、時に“刀”より鋭く、時に“布”より柔らかくある理由が、今少し分かった気がいたします」


「おいおい、そんな大げさな……でも、ありがとうよ」


 その時、表の戸を軽く叩く音がした。女中が慌てて開けに行き、声を上げた。


「藤田様より、お使いでございます!」


 晴人と河上は顔を見合わせた。すぐに使者が奥の間に通され、巻紙を差し出す。


 それは、藤田東湖からの書簡だった。



藤田東湖より


晴人殿へ


昨夜の握り、心に染み入りました。


“咀嚼の中に心がある”という言葉、老骨の胸を打ちました。


この味は、文化となりましょう。食を整える者は、国を整える者なり。


近く、茶会を催します。


この握り寿司――“和の一口”として、ぜひ、供していただけませんか。


                            藤田東湖 拝



 河上は読み終えると、小さく笑って言った。


「まさか、料理でここまで褒められるとは……。いえ、失礼。寿司という名の“和の精神”が、でしょうか」


 晴人は笑いながら、また一貫、寿司を握った。


 それは未来から来た記憶の味。けれど、今は確かに、この地の人々と共に在る。


 口に優しいその形は、やがて――国を変える力になるかもしれない。

ここまでお読みいただきありがとうございます。


もし本作を楽しんでいただけましたら、

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引き続き、よろしくお願いいたします。

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