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【篤姫と結婚した公務員】水戸藩から始まる幕末逆転録 ~公務員が理と仕組みで日本を救う~  作者: 一条信輝


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343話:(1888年・冬)理の灯、雪の都にともる

春の霞が、ソウルの城門を淡く包んでいた。

 城下には早朝から商人たちの声が響き、荷車の車輪が石畳を軋ませる。瓦屋根の合間からは白い煙が立ち上り、異国の朝の匂いが漂っていた。その街路を、一台の馬車が静かに進んでいく。


 黒塗りの扉には、金色の桜の紋。――日本政府の公式印である。

 馬車の窓から外を見つめる男の瞳には、緊張と覚悟が宿っていた。藤田小四郎、四十六歳。常陸で磨いた理性の政治家にして、藤村晴人の弟子である。


 彼の脳裏には、父の最期の言葉が繰り返し浮かんでいた。

 ――「理を信じよ。理こそ、国を救う。」


 父・藤田東湖は七十五歳で静かに世を去った。

 その死に際、すでに日本は「理性の帝国」として形を成しつつあった。

 だが、東湖の胸にはまだ憂いが残っていた。

 「日本が理に目覚めても、周辺の国々が闇に沈んでおれば、再び乱は起きる。」


 小四郎は、その遺志を継ぐ者としてここに立っている。

 常陸で培った理の政治を、今度は朝鮮の地に根づかせるために。


 馬車が石橋を渡ると、前方に赤煉瓦の壮麗な建物が現れた。

 旧王宮を改装した朝鮮総督府――この十年間、西郷隆盛の手で整えられた近代の象徴だ。門前には白い制服の衛兵が二列に並び、敬礼を送った。藤田は静かに一礼して馬車を降りる。


 「――総督、西郷隆盛閣下が、お待ちです。」

 案内の将校が恭しく告げる。


 石段を上りながら、藤田は深く息を吸い込んだ。

 異国の土の匂いが肺を満たし、わずかに懐かしさが混じる。街路は日本式に整備され始めているが、奥にはまだ古い朝鮮の暮らしが残っていた。

 ――ここが、理と現実の交わる場所だ。


 その思いを胸に、彼は執務室の扉を開けた。


 「藤田殿、よく来た。」

 低く響く声に、藤田は姿勢を正した。

 椅子から立ち上がったのは、維新の英傑・西郷隆盛。

 六十歳になった今も、その体躯は堂々としており、眼光は鋭かった。だが、口元には穏やかな笑みが浮かんでいた。


 「十年ぶりじゃのう。」

 西郷は歩み寄り、藤田の肩を叩いた。

 「おはんの父上には世話になった。理で国を導く――あの人の言葉は、いまでも胸に残っちょる。」


 藤田は深く頭を下げた。

 「父は、あなたの志を尊敬しておりました。

 その精神と理を、今こそこの地に活かしたいのです。」


 西郷は笑みを浮かべ、椅子を勧めた。

 「よか。おはんが来たことで、ようやくこの国に“理”が入る。

 わしは十年この国を見てきた。武で治めることの限界を、身に染みて知っちょる。」


 藤田は静かに頷いた。机上には統治資料と地図が整然と並び、鉄道、学校、税収、民族構成まで細かく記されている。西郷の統治は軍事を抑え、行政と教育に重きを置く方向へと進んでいた。


 「総督、現状を伺ってもよろしいでしょうか。」

 「うむ。」


 西郷は書類を手に取り、低い声で読み上げた。

 「統治十年。

 親清派は全人口の一五パーセント、うち活動的な者は三パーセント。

 学校は三校――ソウル、釜山、平壌。

 就学率は一五パーセント、日本語の読み書き率は一〇。

 鉄道は百五十キロ、国内総生産は千二百万円。

 ……だが、“理”はまだ根づいちょらん。」


 藤田は資料を見つめ、静かに息を吐いた。

 数字の背後にあるのは、人々の心の壁。彼はそれを直感していた。


 「理を説くには、まず“見せる”ことです。」

 「見せる?」

 「はい。学校を増やし、子どもたち自身に学ばせる。

 文字を知り、数を学び、考える力を身につける。

 そうすれば、人は誰の支配でもなく、自らの理を持つようになります。」


 西郷は目を細め、低く笑った。

 「……藤村総理の口ぶりに、そっくりじゃのう。」


 藤田は小さく微笑んだ。

 「理論は藤村総理に学びました。実践は、ここで西郷総督から学びます。」


 西郷は頷いた。

 「よか。わしはあと十年で引退する。

 その間に、おはんにすべてを伝えよう。

 だが――」


 声が低くなった。

 「理屈だけでは、この国は動かん。

 血の記憶が深い。蜂起した者たちの遺族はいまもこの街におる。

 その前で理を語るのは、刀を抜くより難しか。」


 藤田は真剣な表情で聞いていた。

 「承知しています。だからこそ、私は“教える”ことから始めます。」


 西郷は満足げに笑った。

 「よう言うた。わしが武を終え、おはんが理を続ける。

 これでようやく、この国の十年が繋がる。」


 窓の外、山並みの向こうに春の光が差し込む。

 新緑が芽吹き、子どもたちの声が風に乗って届いた。

 その声は、未来の兆しのように響いていた。


 藤田は机上に一枚の紙を置いた。

 「これが、私の計画です。」


 そこには七年間の工程表が記されている。

 「一八八八年から九五年までの七年間で、学校を百校体制にします。

 初年度に十校、三年で四十、さらに三年で八十、最終的に百。

 常陸の成功を、この地で再現します。」


 西郷は目を細めた。

 「野心的じゃのう。わしでも尻込みする。」

 「年間二百万円の予算が配分されました。

 資金も人も、すべて理を広めるために使います。」


 「金の使い道は?」

 「学校建設八十万円、教師給与六十万円、師範学校三十万円、教材二十万円、その他十万円。

 まずは十校を確実に立ち上げます。」


 西郷は沈黙し、ゆっくりと頷いた。

 「理に熱く、計算に冷静。あの人の弟子にふさわしい。」


 藤田は立ち上がり、深く一礼した。

 「父の遺志を、そして藤村総理の理想を、この地で形にします。」


 窓の外、春の光が柔らかく室内を包んでいた。

 朝鮮の風はまだ冷たく、しかしその奥には確かに新しい季節の匂いがあった。


 西郷は静かに言った。

 「共に、朝鮮を変えよう。」


 藤田は頷き、拳を胸に当てた。

 「――はい。血ではなく、理で。」


 その瞬間、机上の地図に差し込む光が二人の影を重ねた。

 歴史の新しい頁が、静かに開かれた。

朝の霧が薄くなるころ、ソウルの郊外に人の群れができていた。

 藤田小四郎は軍用馬を降り、ゆっくりと歩を進めた。

 彼の前に広がっているのは、まだ更地のままの丘――やがて朝鮮師範学校が建つ予定地だった。


 丘の上には測量隊の旗が立ち、作業員たちが杭を打っている。

 陽の光が湿った土を照らし、鉄の音が小気味よく響いた。

 彼の脇には、すでに髭の白くなった西郷隆盛が立っている。

 夏の訪れを思わせる熱気の中で、二人は並んで土地を見渡した。


 「ここが最初の学校になる。」

 藤田は手帳を開き、測量線を指さした。

 「日本語と朝鮮語を両方教える学校です。教師は日本人十名、補助に朝鮮人五名。

 初年度の定員は百名を予定しています。」


 西郷は顎に手を当ててうなずいた。

 「理想は立派じゃが、現実は厳しか。親清派はこの地にもおる。」

 「承知しています。」

 藤田は静かに答えた。

 「ですが、学校は剣より強い。知が広まれば、誰もそれを奪えません。」


 そのとき、周囲の朝鮮人たちがざわめいた。

 現地の役人や村の長老たちが列をなし、慎重な目で日本人の作業を見つめている。

 一人の老人が前に進み出て、言葉を絞り出した。


 「……日本の学校を建てるのか。」


 通訳が声を張る。

 藤田は一歩前に出て、礼をもって頭を下げた。

 「はい。これは“理”の学校です。

 朝鮮の子どもたちが自ら考え、未来を選ぶための場所です。」


 老人の瞳には、十年前の戦火の記憶が残っていた。

 「十年前、ここに多くの血が流れた。

 日本の兵が村を通り、親清派も官軍も死んだ。

 今度は、言葉で我らを支配するのか?」


 風が止まり、空気が張りつめた。

 藤田は沈黙したまま、老人の目をまっすぐに見つめる。

 「いいえ。

 言葉は、支配のためではなく、理解のためにあると信じています。」


 老人は鼻を鳴らした。

 「そんな理屈で腹はふくれぬ。」

 「その通りです。だから、学んだ者には職を与えます。」

 藤田は即座に言い切った。

 「教師、測量士、記録官――文字を持つ者には道が開ける。

 それが、理性の国の証です。」


 周囲の空気がわずかに変わった。

 年若い朝鮮人たちが顔を見合わせ、何人かは前に出た。

 一人の青年が手を挙げて言う。

 「もし……もし私たちが学べば、日本人と同じように扱われますか?」


 藤田は頷いた。

 「もちろんです。日本でも身分で差別される時代は終わりました。

 この地でも、知る者はすべて平等です。」


 青年の瞳が光った。だが、群衆の後ろでは別の声が上がった。

 「嘘だ! 日本の学校に行けば、朝鮮の魂が奪われる!」

 その声は鋭く、怒りに満ちていた。

 男の手には折れた槍の柄が握られている。

 彼は十年前の蜂起の生き残り――親清派の古参兵だった。


 「我らの子を日本語で染める気か! 藤田、貴様も西郷も信じぬ!」


 兵が駆け寄ろうとしたが、藤田は手で制した。

 「待て。」


 彼は一人、群衆の中へ歩み出た。

 風が上衣を揺らし、土埃が靴を包む。

 藤田は男の前に立ち、深く頭を下げた。


 「あなたの怒りは、理解しています。」

 「ならば去れ!」

 「いいえ。去るわけにはいきません。

 私たちは、あなた方の未来を奪うために来たのではない。

 未来を共に作るために来たのです。」


 男の瞳が揺れた。

 藤田は続けた。

 「学校を見に来てください。

 日本語の授業も、朝鮮語の授業も、そして朝鮮の歴史の授業もあります。

 ――判断は、それを見てからでも遅くない。」


 長い沈黙のあと、男は吐き捨てるように言った。

 「……監視する。約束を破れば、再び戦う。」

 「それで構いません。」藤田は穏やかに答えた。

 「対話と監視は、どちらも理の一部です。」


 周囲から小さなどよめきが起こる。

 反対と期待、憎しみと希望が入り混じった空気。

 西郷は背後で腕を組み、じっとその光景を見つめていた。

 やがて彼は小さく笑った。

 「理で刀を鞘に収めるとは、こういうことかのう……。」


 午後、測量が終わるころ、藤田はひとり丘の上に立っていた。

 夕陽が瓦の群れを赤く染め、遠くで太鼓の音が響く。

 ソウルの街は、まだ古い呼吸をしている。

 だがその空の下に、確かに新しい時代の鼓動が混じっていた。


 「十年前、ここは焼け野原だった。」

 背後から西郷の声がした。

 「わしは剣で守ったつもりだったが、残ったのは恨みばかりじゃ。

 だが――おはんを見て思う。理とは、刀よりも重い。」


 藤田は微笑し、帽子を取って胸に当てた。

 「私はまだ始めたばかりです。

 理想は紙の上に描くものではなく、土の上に建てるものです。」


 西郷は深く頷いた。

 「そうじゃ。土の上に建て、血ではなく汗で守る国……それが本当の文明じゃ。」


 二人の視線の先では、測量杭の影が夕陽の中に伸びている。

 そこに、未来の校舎の輪郭が見えた気がした。


 やがて夜が訪れ、ランプがともる。

 作業員たちは帰り支度をし、丘の上には静寂だけが残った。

 藤田は立ち止まり、遠くの街灯りを見つめる。

 あの灯のひとつひとつが、学び舎となり、心を照らす日を夢見ながら。


 「父上……私は、やり遂げてみせます。」

 胸の奥で小さくつぶやく。

 それは祈りでも誓いでもなく、静かな決意だった。


 夜風が吹き抜け、丘の草がざわめく。

 新しい朝鮮の夜が、静かに幕を開けた。

梅雨明けの朝、ソウルの空は青く澄みきっていた。

 丘の上に建てられた新しい校舎は、まだ白木の香りを放っている。

 日本から取り寄せた木材と、現地の石灰を混ぜた壁は柔らかな白色をしており、陽光を浴びてまるで雪のように輝いていた。

 旗竿の上には、朝鮮と日本、二つの国旗が並んで風に揺れている。


 藤田小四郎は、その光景を静かに見上げた。

 あの日、測量杭を打った丘は、今こうして人々の学び舎へと姿を変えている。

 彼の胸の奥に、重く静かな鼓動が響いていた。


 「……理が、形になる。」


 背後で足音がした。

 西郷隆盛が歩み寄ってくる。

 「えらいもんじゃな。たった一月でここまで建ておったか。」

 「常陸から建築士を呼びました。夜通しで工事を続けたそうです。」

 藤田は微笑し、胸の前で手を組んだ。

 「今日、この地で“理の学校”が始まります。」


 午前十時、開校式が始まった。

 広場には朝鮮の官吏、日本の文部官僚、近隣の村民たち、そして百名の新入生が整列している。

 年齢は十歳から二十歳まで。衣服も靴もまばらだが、誰もが背筋を伸ばし、まっすぐ前を見つめていた。


 壇上に立った藤田は、深く一礼した。

 「――今日、この地に、新しい学校を開きます。」

 通訳が朝鮮語で伝える。

 「この学校は、どの国の者も学べる場所です。日本語も、朝鮮語も、理と礼をもって教えます。」


 ざわめきが広がった。

 壇の下で、親清派の老人たちが眉をひそめる。

 だがそのすぐ隣では、若者たちが目を輝かせていた。

 彼らの手は粗く、日焼けしている。

 それでも、筆を握ることへの期待がそこにはあった。


 「学ぶことは、国を強くします。」

 藤田の声が、丘に響く。

 「力ではなく、理で。理を持つ者は、誰にも支配されない。」

 通訳がその言葉を伝えると、列の後ろで小さな拍手が起こった。

 最初は一人、次に二人、やがて十人。

 やがてその拍手が広がり、静かな波となって校庭を包んだ。


 西郷が隣で腕を組みながら呟いた。

 「おはんの言葉には剣の代わりに信があるな。」

 藤田は小さく笑った。

 「信は血を流さずに人を動かす唯一の力です。」


 式典の後、最初の授業が始まった。

 教室は木の香りが強く、窓からは初夏の光が差し込んでいる。

 黒板の前に立つのは、常陸から派遣された日本人教師・森川。

 彼は穏やかな笑顔で、白墨を握った。


 「みなさん、はじめまして。」

 日本語の声に、教室がざわめく。

 通訳がすぐに朝鮮語で補う。


 「今日から、皆さんに“ことば”を教えます。」

 黒板に、大きく一文字書かれた。

 『理』――。


 白い粉が舞い上がり、陽光に溶けた。

 「これは、“ことわり”と読みます。」

 森川が柔らかい声で言う。

 「意味は――“正しい道”です。」


 最前列に座っていた少年が手を挙げた。

 「正しい道は、人が決めるのですか? 神が決めるのですか?」

 通訳が伝えると、森川は一瞬黙り、微笑んだ。

 「……どちらでもありません。あなたが考えて決めるのです。」


 教室に小さな笑い声が広がった。

 藤田は後方からその様子を見つめながら、胸の奥で何かがほどけていくのを感じた。

 ――理は、言葉ではなく、生きた学びの中で育つ。


 やがて、書き取りの時間が始まった。

 筆を持った生徒たちは、慣れない筆運びに苦戦している。

 墨がこぼれ、袖を汚し、それでも必死に文字を追っていた。

 藤田はゆっくりと歩き、生徒の肩越しに覗き込む。

 紙の上には、たどたどしいが確かな形で“理”の字が並んでいた。


 そのとき、一人の少年が顔を上げた。

 「先生、日本語を学ぶと、朝鮮人ではなくなるのですか?」

 藤田は膝をついて目線を合わせた。

 「いいえ。

 言葉は国を超える橋です。あなたが朝鮮語を話すように、日本語も学べば、世界が広がる。

 あなたは“失う”のではなく、“増える”のです。」


 少年は頷き、再び筆を握った。

 墨が紙に落ち、光るような一文字が浮かび上がる。

 それを見た藤田は、胸の奥が温かくなるのを感じた。


 午後、授業が終わるころ、校庭の外では数人の男たちがこちらを監視していた。

 彼らの顔は険しく、腕を組んで動かない。

 親清派の残党――。

 藤田はその存在を意識しながらも、あえて何も言わなかった。

 彼らもまた、この国の一部なのだ。


 日が暮れると、学校の灯がひとつ、またひとつと灯った。

 それは新しい時代の星のように、夜空を押し返していた。

 西郷が煙草に火をつけ、藤田に笑いかけた。

 「見ろ。火が増えちょる。」

 「はい。理の灯です。」


 「わしは十年前、この街を焼いた。

 だが、今はおはんが灯をともしておる。」

 西郷の声は低く、どこか寂しげだった。


 藤田はゆっくりと空を見上げた。

 「灯は消えても、灰の下に種が残ります。

 それが、理を信じた者の証です。」


 風が静かに吹いた。

 校舎の屋根に掛けられた旗が翻り、二つの国の紋が重なって見えた。

 その光景は、まるで二つの文明が一瞬だけ融け合ったようだった。


 やがて、子どもたちの笑い声が夜風に流れてくる。

 彼らは下校途中、習ったばかりの日本語の歌を口ずさんでいた。

 拙い発音だが、その調子には未来への確信が宿っていた。


 藤田はその声を聞きながら、ふと父の面影を思い出した。

 東湖が愛した詩、「和して同ぜず」。

 異なる者が並び立つことでこそ、文明は進む――。


 空を仰ぐと、星が一つ、東の空に瞬いた。

 それはまるで、常陸からの光が海を越えて届いたかのようだった。

 藤田は小さく頭を下げ、その星に祈った。


 「理よ、燃え続けよ。

 この国の闇を、ゆっくりと照らしてくれ。」


 その声は風に溶け、ソウルの夜を静かに満たしていった。

冬のソウルは、空気が硬い。

 氷のように乾いた風が城壁を叩き、瓦の屋根を白く曇らせる。

 街の人々は外套の襟を立て、炭火の匂いが通りに漂っていた。


 藤田小四郎は、師範学校の講堂に一人、ランプの灯をともしていた。

 机の上には帳簿と報告書の束。紙の端がすり切れ、墨の跡が重なっている。

 開校から半年――学校の空気は、ようやく「制度」としての形を取り始めていた。


 壁に掛けられた黒板には、白い文字が残っている。

 〈理・礼・勤・学〉

 それは開校初日に掲げた校訓であり、藤田自身の信条でもあった。


 「三校が十校になり、百名が七百名に……だが、まだ遠いな。」

 藤田は小さく呟き、帳簿を閉じた。


 窓の外では、雪が降り始めている。

 灯に照らされた雪片が舞い、夜の街に静寂を落としていた。


 扉が静かに開き、西郷隆盛が入ってきた。

 外套の裾には雪が積もり、頬は冷気で赤く染まっている。

 「夜まで働いちょるとは、まるで若いころのわしじゃ。」

 藤田は椅子から立ち、礼をした。

 「報告書をまとめておりました。年度の締めです。」


 西郷は机の上の帳簿を手に取り、黙って目を通す。

 「……学校十校、就学率一八パーセント。師範学校一期生、九十五名在学。」

 低く唸るように言葉をつぶやき、顔を上げた。

 「数字だけ見れば、よくやっとる。だが顔色は優れんの。」


 藤田は苦笑した。

 「はい。理はゆっくりとしか根づかないものです。

 表向きは平穏でも、心の奥では反発が残っている。」


 西郷は椅子を引いて腰を下ろし、煙草に火をつけた。

 煙がゆらりと揺れ、ランプの灯と混じり合う。

 「親清派の妨害か。」

 「ええ。子どもを学校に通わせた家庭が、夜に脅される。

 “日本の言葉を話す子は、魂を売った裏切り者だ”と。」

 藤田の声は低かった。

 「恐怖は理を覆い隠します。」


 西郷はしばらく黙り、やがて呟いた。

 「わしも昔は同じことをした。武で人を従わせようとした。

 だが、恐怖で抑えた者は、恐怖でしか動かん。」

 藤田はその言葉に目を伏せ、静かに頷いた。


 窓の外の雪は強くなり、風が建物を揺らした。

 「西郷総督。」

 藤田は顔を上げた。

 「私は、理を教えようとしています。

 ですが、時に思うのです。――理を知らぬ者に理を説くことは、傲慢なのではないかと。」


 西郷の目がゆっくりと細まる。

 「ほう……藤村総理と同じ悩みじゃな。」

 「……はい。私は父や藤村総理のような天才ではありません。

 理を信じることに迷いはありませんが、理を“伝える術”に自信がない。」


 西郷は煙を吐き、笑った。

 「伝える術は、言葉ではなく行いじゃ。

 子どもが学び、貧しい者が職を得、街が明るくなれば、それが理の証明よ。」


 藤田は黙ってその言葉を噛みしめた。

 そのとき、外から子どもたちの笑い声が聞こえた。

 冬の夜にも関わらず、数人の生徒たちが薪を抱え、雪の中を駆けている。

 「先生! 明日の授業のために、暖炉の薪を集めました!」

 彼らの声は透き通るように高く、澄んでいた。


 藤田は思わず微笑んだ。

 「彼らの笑顔を見ると、少しだけ報われます。」

 「それで十分じゃ。」西郷が立ち上がり、肩を叩いた。

 「理は一朝一夕には育たん。わしらの世では芽が出ずとも、次の世で花が咲く。

 おはんの仕事は、芽を埋めることじゃ。」


 藤田は深く頭を下げた。

 「ありがとうございます。……忘れません。」


 西郷が去ったあと、講堂には再び静寂が戻った。

 ランプの炎が揺れ、壁に映る影が伸び縮みしている。

 藤田は窓際に歩み寄り、雪の降る街を見下ろした。


 遠く、瓦屋根の間に明かりが点々と灯っている。

 そのいくつかは、新設された学校の寮の灯だった。

 子どもたちが、まだ机に向かっているのだろう。

 彼らの未来が、どんな形で実を結ぶのか――藤田にはわからなかった。

 だが確かに、理の種はそこに根を張っていた。


 机に戻ると、手紙が一通置かれていた。

 差出人は朝鮮師範学校の第一期生、イ・ハンジュ。

 “先生、私はこの国で教師になります。

 人々はまだ日本語を恐れていますが、私が橋になります。

 言葉は壁ではなく、道です。”


 藤田の指が震えた。

 彼は手紙を胸に当て、目を閉じた。

 「……そうだ。理は、一人の中から始まる。」


 その夜、報告書の最後の頁に筆を走らせた。

 〈学校数:十。就学率:一八%。理性の浸透、緩やかながら進展。〉

 そして一行、彼自身の言葉を加えた。

 〈理は火ではなく灯である。燃やすのではなく、守り続けるもの。〉


 書き終えたとき、夜はすでに更けていた。

 外では雪が静かに降り積もり、街の音はすべて眠りにつこうとしていた。

 藤田はランプを消さず、窓の外の闇を見つめ続けた。


 彼の心には、まだ消えぬ不安と孤独があった。

 だがその奥には、確かに温かな光もあった。

 それは希望というより、覚悟に近いもの――。


 やがて彼は机に肘をつき、深く息を吐いた。

 「父上、藤村総理……。

 私は、あなた方の理を裏切ってはいませんか?」

 その問いは、誰にも届かない。

 しかし、窓の外の雪がその声を受け止めるように、やわらかく降り続いていた。


 夜更け、門の外で犬が吠える。

 藤田は目を上げ、窓の端に揺れる炎を見つめた。

 遠くの学校の灯――。

 それは雪の中でも消えず、小さく、しかし確かに燃えていた。


 「……理は、生きている。」

 彼はそう呟き、ペンを置いた。


 翌朝、東の空が白み始めるころ、街の鐘が鳴った。

 その音はゆっくりとソウルの街を渡り、丘の上の学校に届く。

 新しい一日が始まる。

 藤田は上着を羽織り、冷たい空気を吸い込んだ。

 胸の奥で、小さな炎が再び息を吹き返した。


 外では、雪の上を子どもたちが駆けていく。

 彼らの笑い声が、夜明けの光を割っていく。

 理の国への道は、まだ遠い。

 だが、その朝は確かに、未来の音を宿していた。

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