第340話:(1887年・冬)西郷隆盛の統治成果
東京の冬は、凍てつくように静かだった。
十二月の空は淡く白く、霞むように皇城の瓦を包んでいる。雪はまだ降らぬが、風の匂いには確かに年の瀬の冷たさがあった。
首相官邸の玄関先に、藤村晴人の影が伸びていた。黒の外套を翻し、門衛の敬礼を受けながら、低く呟く。
「――この一年が終わる前に、九年の歩みを確かめねばならん。」
彼は筆を取り、年次報告会の召喚状をしたためた。
宛名は――「朝鮮総督 西郷隆盛殿」。
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十二月二十六日。
江戸港の埠頭に白い蒸気が立ち上る。冬の海は鉛のように重く、汽笛が霧を切り裂くように響いた。
船が岸壁に寄せると、黒い軍服の大男がタラップを降りる。西郷隆盛――五十九歳。顔の皺は深まっていたが、その眼には相変わらず燃えるような光があった。
出迎えた藤村が一歩進む。
「西郷殿……よくぞ戻られた。」
「はっはっは、総理殿。海風が骨に染みますな。」
帽子を脱いだ西郷の髪には白が混じる。九年の歳月がそのまま刻まれていた。
「一八七八年より始め、よくここまで来た。」
藤村の言葉に、西郷は短く頷く。
「朝鮮は、たしかに変わりました。」
随員たちは木箱を次々と荷車へ積み込む。報告書、統計表、鉄道図面、教育計画――九年の汗と血の結晶だ。
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その夜、官邸の灯は遅くまで消えなかった。
長い卓の上に地図が広がり、南の港から北の城塞まで赤い線が走る。藤村が茶をすすり、静かに促す。
「九年間の統治……この目で確かめよう。」
西郷は立ち、分厚い綴りを開いた。蝋燭の火が揺れ、影が壁に大きく伸びる。
「まず全体像を。統治の歩みは三つの段階に分けられます。
初めの数年は混乱。親清派の抵抗が激しく、武力鎮圧が主となりました。費えも重く、年ごとに五百万円規模。
次の数年は過渡。鉄道と道路の整備を始め、抵抗は目に見えて減少。支出は四百万円ほどに。
そして直近の二年――ここで治安と制度が結びつき、安定の形が見えました。抵抗勢力はおよそ十五パーセントまで縮小。」
藤村は頷き、卓上の地図へ視線を落とす。
「決め手は何だった。」
「外では大国の戦、内では通信と教育です。
武で火を消し、線で結び、言葉で支えた――それがこの二年の要諦にござる。」
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障子の外では風が鳴り、庭に雪が舞いはじめた。
藤村は窓を閉め、盃を二つ並べる。
「九年の働き、まずは労をねぎらいたい。」
「いえ、まだ途上。」西郷は盃を受け取り、ゆっくりと置いた。「ようやく、始まりの終わりが見えたにすぎませぬ。」
盃が触れ合う。澄んだ音が、凍てつく江戸の夜へ小さく溶けていった。
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翌朝の正式報告では、線と数字がさらに鮮明になった。
鉄道は京城—釜山間で百五十キロ。通信は主要拠点十箇所。主要道は軍・商の往還に耐える幅へ拡幅。
経済推計はこの九年でおよそ二・四倍。だが歳入はなお統治費に及ばず、年二三〇万円前後の持ち出し――課題ははっきりしている。
民意の図も広げられた。
初期には積極的な親清派が三割、消極を合わせて半分を占めたが、いま積極は三パーセントほど。中立と消極的親日が大勢を占め、親日の核は確実に厚みを増しつつある。
最後に、西郷は一枚の薄い紙を差し出した。
教育就学の曲線図――読み書きできる日本語の普及は一割ほど。低い。しかし、上向いている。
「線は遅いが、確かです。」
西郷は静かに言った。「言葉の根が張れば、剣に頼る場は減り申す。」
藤村は図を見つめ、長く息を吐いた。
「ならば、根を増やそう。次の一年は、根の年とする。」
雪はいつのまにか止み、薄日が庭石を濡らしていた。
九年の重さは変わらない。だが、その重さは前へと傾いていた。
江戸城下の空は鉛色に曇り、冷えた風が官邸の窓硝子を震わせていた。
朝の光は淡く、会議室の長卓に置かれた地図の上で、紙の端をわずかに揺らしている。
静寂を切り裂くように、廊下の先から軍靴の音が響いた。
「――総督、到着されました。」
秘書官の声に、藤村はゆっくりと席を立つ。
やがて扉が開き、西郷隆盛が現れた。
厚手の軍服に身を包み、胸章には九年間の重責を示す勲章が光っている。
「おお、西郷殿。」
藤村が軽く頭を下げた。「長旅、ご苦労であった。」
「総理殿。」
西郷は背筋を正し、ゆるやかに会釈を返す。
「九年の報告、此度は全てを包み隠さず申し上げます。」
室内には文官と軍人、十余名が列席していた。
長卓の中央には、朝鮮半島を描いた地図。鉄道線は赤く、電信線は青く引かれ、要所ごとに数字が書き込まれている。
机の端には、分厚い報告書が山と積まれ、その表紙には墨で「統治報告」と記されていた。
西郷が立ち、地図の前に歩み出る。
白髪を交えた髭が、蝋燭の明かりを柔らかく反射した。
「まず初めに、九年の統治を三つの時期に分けて申し上げます。」
彼は指で地図をなぞりながら、ゆっくりと語り出す。
「第一の五年――混乱の時代でありました。
当初、親清派の勢力は全人口の半ばを占め、各地で反乱が相次ぎました。
我らはやむなく武をもって治めましたが、代償も大きく、毎年五百万円近い支出を要しました。」
言葉の合間に、紙をめくる音が重なった。
参加者の視線は地図に釘付けとなり、彼の手の動きに合わせて各地の印が光を反射する。
「第二の三年――過渡の期です。
この頃より道路の改修と鉄道の敷設を始め、地方役所を設置しました。
民の不満は薄れ、抵抗は三割ほどに減少。統治費も四百万前後へ抑えられました。」
西郷は手を止め、ひと呼吸おいた。
蝋燭の火が揺れ、彼の額に刻まれた皺を際立たせる。
「そして、直近の二年――安定の期。
この二年で、体制がようやく整いました。
行政と軍の連携、通信網の整備、そして教育の始動。
もはや戦ではなく、理による支配へと移りつつあります。」
会議室の空気がわずかに変わる。
その言葉に、出席者の表情が引き締まった。
藤村は頷き、手元の資料をめくりながら静かに尋ねた。
「今の朝鮮は、どれほど変わったのか。」
西郷は短く答えた。
「十年前に比べれば、別の国でございます。」
そして、彼は机の上に一枚の表を置いた。
墨で細かく書かれた数字が並び、経済、教育、軍政――あらゆる分野の指標が記されている。
「まず経済から申し上げます。
九年前、国内総生産は五百万円前後、税収は五十万円に過ぎませんでした。
現在は総生産千二百万円、税収百二十万円。
九年でおよそ二・四倍の成長を遂げました。」
「だが、統治費は三百五十万円。」
小栗忠順が書記官席から口を挟む。「実質は赤字二百三十万円――日本の負担が続いております。」
「承知しております。」
西郷はそのまま頷いた。「しかし、この赤字は戦の代価に比べれば小さきもの。
民が飢えず、街に秩序が戻った。それが何よりの利でございます。」
「なるほど。」
藤村は眼鏡の奥で微笑を浮かべた。
「数字の陰に、ようやく人の暮らしが見えるようになったわけだ。」
報告は続く。
西郷は、親清派勢力の変遷を示した円図を指さした。
「九年前、積極的な親清派は三割、消極を含めれば過半を超えておりました。
今は、積極派は三パーセント、消極派を含めても十五パーセントほど。
抵抗の核は失われ、残るは言葉と意識のみ。」
「……なるほど。」藤村が呟いた。「数字以上に、精神の変化が大きい。」
「そうです。清の旗を掲げる者は減りましたが、心の中の旗まではまだ降ろしておりませぬ。
それを下ろすには、教育と交流が要ります。」
西郷はそこで初めて声を和らげた。
「子どもたちの学校――あれが始まりです。
日本語を学ぶ者は一割に届きました。小さくとも、確かな芽です。」
室内の誰もが静まり返る。
紙の擦れる音だけが微かに響く。
その沈黙の中で、藤村はふと顔を上げた。
「西郷殿……九年の間に、どれほどの命を背負ったのだ。」
短い問いに、西郷は目を閉じた。
長い間、机上に置いた拳を握りしめ、ようやく答える。
「数えればきりがありませぬ。
だが、あの地に流れた血が無駄になることはありません。
今なお山々に残る塹壕も、いつかは道となる。
それが我らの役目でございます。」
藤村は深く息をつき、ゆっくりと頷いた。
「よく言った。……だが、その道を、次の者に託さねばならぬ時が来ておる。」
「承知しております。」
西郷の声は落ち着いていた。「私も五十九。従道も五十四。
次を育てねば、朝鮮の未来も日本の未来も途絶えましょう。」
「ならば、若き者を送ろう。」
藤村が目を細める。「そなたの道を歩める者を。」
短い沈黙が流れる。
西郷はやがて笑みを浮かべ、頭を垂れた。
「ありがたく存じます。」
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会議が終わる頃には、外の空はすっかり暗くなっていた。
雪は降り止み、路面には薄い氷の膜が張っている。
官邸を出た西郷は、一歩ごとにその氷を踏み砕きながら、ゆっくりと歩いた。
夜の江戸は静かだった。
街灯の光が瓦に反射し、白い息がふわりと空に散る。
港の方からは船の汽笛がかすかに聞こえ、海の向こうへ帰る道を思わせた。
「――まだ、終わらん。」
西郷は低く呟く。
その声は誰にも届かず、ただ冬の闇に溶けていった。
会議が終わり、人々が去った後の閣議室には、静寂だけが残った。
西郷隆盛は一人、机の前に座り込んでいた。蝋燭の火は細くなり、芯が黒く焦げている。
長い報告を終えた疲労が、ようやく体の芯から滲み出てくるようだった。
「……九年。」
低く、誰にも聞こえぬ声で呟く。
九年という歳月は、戦であれば世代を変えるほどの長さだ。
だが、彼にとってそれは終わりではなく、ようやく“始まりを終えた”にすぎなかった。
机の上には、一枚の古びた写真が置かれている。
黄ばんだ紙の中に、二人の男が写っていた。
吉二郎、小兵衛――ともに彼の弟であり、戦場を共にした者たち。
すでにこの世にはいない。
写真の端を指でなぞり、西郷は目を閉じた。
――あの年の、京城の夜。
親清派が蜂起したとき、街は炎に包まれていた。
火の粉が風に乗り、屋根を越え、人の叫びと共に舞い上がっていった。
夜空が赤く染まる中、吉二郎は部下を率いて最後まで防衛線を守り抜いた。
小兵衛は、民を逃がすために一人残り、戻らなかった。
「お前たちの死を……無駄にはせん。」
西郷の声が震えた。
だがその震えは涙ではなく、誓いの余韻だった。
報告書に記された数字――親清派十五パーセント、鉄道百五十キロ、税収百二十万円。
それらは確かに成果だった。
だが、数字の裏にある血の匂いを知る者は、いまや彼ひとりしかいない。
「……国を動かすとは、かくも重いものか。」
独り言のように呟くと、窓の外で風が鳴った。
障子の隙間から入る冷気が頬を撫でる。
その冷たさが、九年間の緊張を少しずつ解いていく。
やがて、廊下の向こうで足音がした。
扉が静かに開き、藤村晴人が姿を現した。
「まだここにおられましたか。」
藤村は微笑みながら近づき、机の上の報告書を見つめた。
「随分、丁寧にまとめられていますな。あれほどの戦を経て、これだけ整然と……まるで書家のようだ。」
「わしは武ばかりと思われておるが、筆もまた剣でございます。」
西郷が笑うと、藤村も口元をほころばせた。
「剣より深く、傷を残すものですか。」
「いや、癒やすための筆でありたい。」
藤村はその言葉に目を細めた。
「そうであってほしいですね。
あなたが築いた秩序は、力ではなく理で成り立っている。
だが、それを保つには次を育てねばならない。」
「心得ております。」
西郷は写真を懐にしまい、ゆっくりと立ち上がった。
「従道も老いました。
今のうちに、若き者たちを朝鮮へ送りたい。
この道を歩むには、志だけでなく、冷静な理が要ります。」
「任せてください。」藤村は頷いた。
「若い世代の中に、あなたの信を受け継ぐ者は必ずいる。」
ふたりの間に、言葉のいらぬ沈黙が落ちた。
外では雪が音もなく降り始めている。
灯の光を受け、白い結晶がゆっくりと舞い、硝子に淡く張りついた。
「この雪の下にも、春は来ます。」
藤村の言葉に、西郷は目を細める。
「……九年も待てば、春の匂いが分かるようになりました。」
⸻
その夜、西郷は宿舎に戻った。
小さな書斎の片隅には、九年間使い続けた革鞄が置かれている。
蓋を開けると、中には古びた日誌が数冊並んでいた。
表紙には、手書きで日付と場所――「開城」「釜山」「京城」「咸興」――が記されている。
彼はそのうちの一冊を手に取った。
ページをめくると、ところどころに砂の粒や血の跡がこびりついていた。
紙は乾ききらず、墨がにじんでいる箇所も多い。
《敵意は恐れから生まれる。
恐れは、知らぬことから生まれる。
知らぬ者に、言葉を与えねばならぬ。》
九年前の筆跡だった。
まだ彼が現地に赴いたばかりの頃に記した言葉。
この一文が、後に教育制度の柱となった。
「……あの頃は、夢のようなことを考えていた。」
西郷は笑みを浮かべた。
「だが、夢の一つでも叶えば、人はまだ立てる。」
ページの最後に、朱で印が押されていた。
その印の横に、かすれた文字が書かれている。
《義信殿、藤村殿――
もしこの計画が実を結ぶなら、我らの時代も無駄ではなかった。》
九年前に託した言葉が、今もそのまま残っていた。
西郷は本を閉じ、そっと机に置いた。
蝋燭の炎が弱まり、紙の上に影が伸びていく。
ふと、遠くから犬の遠吠えが聞こえた。
それは、故郷・鹿児島の夜を思い出させる声だった。
焚き火を囲み、従道や弟たちと語り合った日々。
国とは何か、人とは何かを問い続けた若き頃の記憶。
「……わしも、ようやく答えに近づいた気がする。」
呟く声が、夜の静寂に吸い込まれていった。
⸻
夜更け、江戸の町はすっかり眠りについていた。
遠くの海からは、潮の匂いが薄く漂ってくる。
西郷は筆を取り、短い手紙をしたためた。
《従道へ。
留守を頼む。江戸にて報告を終えた。
朝鮮は変わりつつある。
だが、変えるよりも、支えることのほうが難しい。
民の声を聴け。剣ではなく、耳で守れ。
兄 隆盛》
筆を置いたとき、外の空がわずかに白みはじめていた。
窓を開けると、冷気が頬を打つ。
雪の積もった屋根の向こうで、東の空が淡く染まり始めていた。
「……もう一度、あの地へ戻ろう。」
その言葉は決意ではなく、祈りに近かった。
九年を経てなお、彼はあの半島の土を愛していた。
そこに眠る弟たち、そして多くの民のために。
西郷はマントを羽織り、ゆっくりと立ち上がった。
扉を開けると、朝の風が流れ込む。
冷たい空気の中に、どこか懐かしい匂いが混じっていた。
鉄と潮、そして遠くで燃える石炭の香り――それは、近代という名の新しい時代の匂いだった。
「もう少しだけ、この身が保つなら……」
低く、己に言い聞かせるように呟いた。
「この手で、未来を見届けたい。」
足元の雪が、ぎゅっ、と音を立てた。
その一歩が、過去と未来を繋ぐ音のように響いた。
夜が明けきらぬ江戸港には、薄い靄が流れていた。
波止場の杭に氷が張りつき、船員たちの吐く息が白く煙る。
蒸気船の煙突からは灰色の煙が上がり、まだ動かぬ海面をゆっくりと染めていった。
冬の海は重く、空と境をなくして広がっていた。
西郷隆盛は、港の片隅に立っていた。
外套の襟を立て、帽子を押さえる。風が強い。
遠くから見えた船影は、まもなく朝鮮へ向かう定期船だった。
桟橋の鉄が凍てつき、靴の底で軋む音を立てる。
「……九年目の海か。」
低く呟くと、胸の奥で懐かしい痛みが蘇った。
初めてこの海を渡ったとき、彼はまだ五十になったばかり。
その頃の日本は、ようやく国のかたちを整えようとしていた。
そして彼は、その国の外に、もう一つの秩序を築こうとしていた。
「随分遠くまで来たもんじゃ。」
背後から、藤村晴人の声がした。
振り返ると、厚手の外套に身を包んだ藤村が歩いてくる。
手には革の書類鞄。中には、昨夜渡された統治報告の写しが入っていた。
「総理殿……。」
「送らねば、落ち着かんのです。」
二人は肩を並べて立ち、海を見つめた。
朝焼けがまだ遠く、空の端にわずかな紅をさしている。
波が岸壁を打つたびに、小さな氷片が砕けて弾けた。
「西郷殿。」藤村が静かに口を開く。
「あなたが築いた九年は、数字では測れぬものだ。
だが、その重さを誰が引き継ぐか――それが次の問題です。」
西郷は目を細め、波の向こうを見つめた。
「承知しております。
人を育てるのは、城を建てるよりも難しい。」
「あの教育制度を、あなたは“柔らかい同化”と呼んだ。」
藤村の声は風にかき消されそうに小さい。
「まさに、それが今の時代の象徴でしょう。
剣でなく、学びで国を結ぶ――その理念を、失わないでください。」
「忘れはせん。」
西郷の声は低く、しかし確かだった。
「吉二郎も、小兵衛も、みなそれを信じて死んでいった。
あの者たちの命を継ぐのは、我らではなく、学ぶ子らじゃ。」
藤村は頷き、鞄の中から封筒を一通取り出した。
「これは、文部省の若い者から預かりました。
朝鮮の学校に赴任を希望しているとのこと。
年は二十五、名は神田真之介――かつてあなたの訓練を受けた士官の一人だそうです。」
西郷の顔に、微かに笑みが浮かんだ。
「神田か……あの若造が。
筆を握るより拳を握る方が似合っていたが、あれも成長したか。」
「あなたが撒いた種です。」
西郷はしばらく黙っていた。
海の向こうから、汽笛が鳴る。低く、重く、胸の奥を震わせる音だった。
それは、出港の合図。
「時間のようですな。」
藤村が言うと、西郷は深く頷いた。
「この九年、長かったようで、あっという間でございました。」
「……そうでしょう。」
西郷は帽子を脱ぎ、冷たい風の中で額をさらした。
その顔には、戦士の厳しさよりも、教師の穏やかさが宿っていた。
「総理殿。」
「何です。」
「わしは、朝鮮を『外地』と思ったことは一度もありません。
あの地は、我らと同じ空の下にある。
血を流し、苦しみ、笑う人々が暮らす場所です。
国境を越えて人を結ぶ――その理想を、どうか絶やさぬでください。」
藤村は黙って頷いた。
その瞳の奥には、確かな光が宿っていた。
「……約束します。」
「ありがたい。」
二人の間に沈黙が流れる。
遠くで白い波が砕け、海鳥の鳴き声が一瞬だけ風を割いた。
やがて、西郷はゆっくりと歩き出した。
桟橋の先に、船が待っている。
甲板には部下たちが整列し、敬礼の構えを取っていた。
その姿を見た瞬間、九年間の記憶が胸に押し寄せた。
初めて上陸した釜山の湿った風。
兵たちの焼けた声。
雪の京城、夜明けの戦。
血と煙の中で見た、民の涙。
――すべてが、まだ終わっていない。
西郷はゆっくりと一段目のタラップに足をかけた。
板の冷たさが靴底を通して伝わる。
その感触が、現実への帰還を告げていた。
「西郷殿!」
背後から藤村の声が響く。
西郷は振り返った。
朝日がちょうど港を照らし始め、藤村の姿を金色に染めていた。
「必ず、帰ってきてください。」
「……ああ。」
短い返答だった。
だが、その一言に、九年間の信頼と友情が詰まっていた。
西郷は再び歩き出す。
船の上に立ち、静かに帽子を脱いだ。
港の人々が一斉に帽子を掲げ、見送る。
汽笛が二度、低く鳴り響いた。
白い蒸気が甲板を包み、ゆっくりと船が動き出す。
波が光を弾き、江戸の街並みが次第に遠ざかっていく。
「さらば、江戸……。」
小さく呟いたその声は、風に溶け、海の向こうへ消えていった。
西郷は懐から、一枚の手紙を取り出す。
それは昨夜、筆を執って書いたもの。
「従道へ」と記された封筒。
指で端を押さえ、目を閉じた。
――兄より。
人は理によって結ばれる。
剣ではなく、言葉で。
この道が正しいと信じるなら、恐れるな。
お前の背に、九年の民がついておる。
手紙の文面が脳裏に浮かび、胸の奥で小さく熱が灯る。
船が波を切るたび、過ぎ去った日々の残響が心に広がっていく。
港の端で、藤村は最後まで見送っていた。
外套の裾を風に翻し、ただその姿を目で追い続ける。
船が遠く霞に溶けていくまで――一度も目を逸らさなかった。
彼の胸には、ただ一つの言葉が残っていた。
「……この九年が、未来を変える。」
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船上の甲板に立つ西郷は、海風を受けながら空を仰いだ。
雲間から差す光が、ゆっくりと彼の顔を照らす。
その瞳には疲労も哀しみもあったが、それ以上に強い意志があった。
彼は心の中で静かに呟いた。
――次の世代へ。
この九年を、未来の礎にせよ。
我らはその影であればよい。
海は広く、波はゆるやかに揺れていた。
船の後ろに白い航跡が長く伸び、やがて水平線の彼方に消えていく。
その軌跡こそが、彼らが歩んだ九年の証だった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
面白かったら★評価・ブックマーク・感想をいただけると励みになります。
気になった点の指摘やご要望もぜひ。次回の改善に活かします。




