339話:(1887年・冬)蝦夷・朝鮮教育制度の始動 ―雪の中の第一歩―
春浅い五月の風が、東京・霞が関の並木を渡っていった。若葉の匂いが石畳に落ち、首相官邸の庇に淡い影をつくる。地図と設計図が並ぶ会議室で、藤村晴人は糸で結ばれた三つの赤いピンを見つめていた。東京、京城、函館――新しい学校の候補地である。
「新築では間に合わぬ。まずは“あるもの”を使う。」
低い声に、文部省の若い役人・伊藤修二がうなずいた。机上には改修計画の目録。寺院の本堂を教室へ、武家屋敷の大広間を講堂へ、港町の集会所を教室へ――木材の再利用、壁の漆喰塗り直し、炉の撤去と煙道の塞ぎ。大工の手配、瓦職人の目通し、机と黒板の製作数まで、細かな数字が墨で揃えられている。
「東京は下町の寺院を改修します。今月着工、秋の開校を目指します。」
伊藤が指し棒で図を示す。回廊の壁を抜き、三つの教室を並べる。各四十席、六学年を午前・午後で割る可変の時間割。教師の動線と児童の避難路が赤鉛筆で二重に描き込まれていた。
「定員は百二十。うち、外地出身の子も受け入れる。」
藤村が書類をめくると、薄い紙片が一枚、ふっと抜けた。伊藤が素早く拾い上げる。
「京城は西郷総督の監督で屋敷を改修、定員は百。函館は港の集会所を用い、定員八十で始めます。」
「よろしい。」藤村は頷き、横の少年に目を向けた。「義親、運用は任せる。だが急ぐな。言葉の壁は石垣より高い。」
十歳の義親は真っ直ぐに返事をした。背筋はまだ少年の細さだが、瞳の奥に引いた線は大人のものに近い。
「共通語は東京語に統一します。けれど、母語は切らずに残します。朝は基礎の補習、昼に共通授業、夕に母語の時間。三つを重ねて、一日に一枚、薄い紙を積むように。」
「教師は揃うか。」
「東京は日本人教師六名に加え、朝鮮語とアイヌ語の教師を各一名。年俸の枠は予算内です。」
窓の外で、工事の縄を積んだ荷車が軋んだ。会議室に木の匂いが差し込む。藤村は資料の角を揃え、最後の頁の余白に小さく線を引いた。
「授業料は月一円。困窮世帯は免除。朝鮮・アイヌの子は初年度無料。反発を買わぬよう、説明は丁寧に、何度でもだ。」
伊藤が控えめに口を開く。
「東京にも、朝鮮からの亡命者の子が五名、函館から出稼ぎに来たアイヌの子が二名おります。最初の教室に混ぜて座らせますか。」
「混ぜる。」藤村は即答した。「初日から、並んで机に肘をつく。それが此度の学校の“看板”になる。」
紙の束を閉じる音が、短く部屋に響く。決裁の印が落ち、机上に朱の丸が並んだ。書類はすぐさま封に入れられ、係の手で走り出す。ひとつは工部省へ、ひとつは総督府へ、もうひとつは函館県庁へ。廊下の先で革靴が鳴り、外の光に吸い込まれていった。
会議が散じると、藤村は地図の前にひとり残った。赤いピンのあいだを、眼差しで静かに結ぶ。海の気配、山の硬さ、街の雑踏――目に見えぬ距離を、ひとつの声で渡らせる試み。窓辺に立てば、霞の向こうで大工の槌音が微かに重なって聞こえた。
「はじめよう。」小さく呟き、背を正す。「声の橋を、今ここから。」
六月の陽光が、東京の工事現場を斜めに照らしていた。瓦を外した寺院の屋根に足場が組まれ、木槌の音が絶え間なく響く。堂の中では、職人たちが古い仏具を丁寧に運び出し、代わりに黒板と長机を運び込んでいた。線香の香りと木の粉塵が混じり合い、静かな宗教の空気が徐々に学び舎のそれへと変わっていく。
義親は境内の片隅に立ち、職人に声をかけた。
「黒板は北向き、窓は南に二つ。陽の光が文字を覆わないように。」
職人は頷き、汗を拭った。「若いのに細かいね、坊ちゃん。」
「僕の教室ですから。」義親は笑った。
伊藤修二が図面を広げ、進捗を確認する。「ここが一号校になります。百二十名定員。朝鮮とアイヌの子も受け入れます。」
義親は紙上の赤い線を指でなぞる。「朝と昼の二部制で、教員は八人。日本語、算術、歴史、道徳……選択で母語も。」
「教師は全員決まりました。朝鮮人教師の李と、函館から来たアイヌの青年、ナイカムイ氏も。」
「ナイカムイさんが来てくれてよかった。アイヌの子供たちはきっと安心します。」
その頃、函館でも工事が進んでいた。港町の空気は潮と魚の匂いを含み、倉庫の板壁に新しい窓が穿たれる。小さな集会所は、わずか三間ほどの広さ。板張りの床が鳴り、釘を打つ音が波に吸われていく。現地の監督は報告した。「建物は古いが丈夫だ。雪にも負けん。」
義親は電報で返信した。「黒板を大きく、窓は低く。小さな子が空を見上げられるように。」
一方、京城では空気が違った。瓦屋根の武家屋敷を改修している最中、門の外で男たちが囁き合う。
「日本の学校を作るらしい。」
「行かせれば魂まで取られるぞ。」
言葉の影には恐れがあった。数ヶ月前の蜂起の記憶が、まだ街の石畳に残っている。
西郷隆盛は現場の責任者として立ち会い、沈黙のまま作業を見守っていた。白い髭を撫でながら、傍らの通訳に言う。
「子らを集めるのは容易ではなか。だが、言葉を交わせば争いも減る。学問は剣よりも強か。」
通訳が頷く。「恐れを解くには、時間が要ります。」
「時間は義親が味方につけておる。」西郷は微笑した。
東京の校舎は夏の終わりに形を成した。瓦は塗り替えられ、軒下には風鈴の音が響く。掲げられた新しい看板には墨で「共学館」と記されていた。開校式を目前に控え、義親は机の高さを測り直し、椅子の足を削って調整した。
伊藤が問う。「そこまで気にするのですか。」
「ええ。子供の視線の高さが、言葉の出発点です。」
その言葉に、伊藤はしばらく黙って頷いた。
秋の気配が訪れる頃、三つの校舎がそれぞれの土地で立ち上がっていた。東京では線香の香りが墨の匂いに変わり、京城では瓦屋敷の屋根に新しい瓦が光り、函館では潮風が黒板を撫でていった。
どの建物にも、窓の外に同じ空があった。
その空を通じて、異なる言葉がやがて同じ音へと近づいていく――。
秋雨があがりきらぬ九月の朝、東京・下町の寺院を改修した共学館には、初めての登校日を迎える子供たちの声が満ちていた。雨に濡れた石畳が黒く光り、門前の軒下では、母親たちが手拭いで子の襟を整えている。
「行ってきます!」
その声に混じって、ぎこちない発音の「イッテキマス」も聞こえた。朝鮮から来た少年の舌が、まだ日本語のリズムをつかみきれずにいる。アイヌの少女は母親に抱きしめられ、短くうなずいて門をくぐった。
校舎の廊下はまだ木の匂いが濃く、畳を剥がした床の上を、濡れた靴底が軽く鳴る。義親は昇降口の横で、ひとりひとりの子に声をかけた。
「おはよう。名前は?」
「……キム・ヨンジュです。」
「ヨンジュくん。よく来たね。」
笑いながら名札に平仮名で〈よんじゅ〉と書いて渡す。少年は不安そうな目をしていたが、手にした札を見て小さく笑った。
教室の中では、黒板の前に新しい日本人教師の田島が立っていた。彼は山形出身の三十歳。訛りを気にして、東京語を必死に練習してきた。教壇の上に立つと、深呼吸をひとつしてから明るい声で言った。
「おはようございます!」
教室の半分が一斉に返す。「おはようございます!」
残りの半分は沈黙した。朝鮮の子は戸惑い、アイヌの子は声を出すのをためらっていた。
義親はそっと見守りながら、田島に合図した。
「今日は、『こんにちは』の練習から始めよう。」
田島が黒板にチョークで「こんにちは」と書き、発音をゆっくりと区切って示した。
「こ・ん・に・ち・は」
朝鮮の少年たちは真似をするが、「に」が「ね」に、「ち」が「し」に変わる。教室の隅で笑いがこぼれ、田島は即座に手を挙げて制した。
「笑うのは悪くない。でも、相手を傷つける笑いはいけない。」
その声に、日本人の生徒たちの背筋が伸びた。
昼休み、校庭では子供たちが三つの小さな集まりに分かれていた。日本人の輪、朝鮮人の輪、そして隅に並ぶアイヌの兄妹。義親は廊下の手すりに寄りかかり、彼らを静かに見つめる。
「やはり、言葉の壁は高いですね。」伊藤が隣で呟いた。
「ええ。でも、同じ風の中にいる。まだ始まったばかりです。」
義親は階段を降り、校庭の中央に立った。手には縄跳びを持っていた。
「みんな、一緒にやってみようか。」
縄が弧を描き、リズムが広がる。最初はぎこちなかったが、三度目には朝鮮の少年も足を揃え、アイヌの少女も跳んだ。笑い声が少しずつ混ざり合う。
その夜、教室には灯りが残っていた。田島と朝鮮人教師の李が机を並べ、補習用の教材を作っている。李は毛筆で単語カードにハングルを書き、横に日本語を添えていく。
「『みず』は、물。」
「『ひ』は、불……いや、違う。これは『火』だ。」
義親が後ろから覗き込み、ふっと笑う。「李先生、発音が面白いですね。」
「学ぶことは、笑うことでもあるでしょう。」李は穏やかに答えた。
一方、遠く京城の学校では、別の緊張が走っていた。校門の前に十数名の男が立ち、子供たちを見張っている。
「日本の学校に行けば魂を売るぞ。」
その声に、朝鮮人教師の金が門前に出て言い返した。「学ぶことは裏切りではない。自分の言葉を失わない限り、誰にも支配されはしない!」
その場の空気が凍り、やがて男たちは背を向けて去った。だが、彼らの足跡は泥のように重く残った。
西郷隆盛はその報告を電信で受け取り、机に肘をついたまま長く考え込んだ。
――「柔らかい同化」とは、易きにあらず。
「義親の理想は正しい。だが現場は血を要す。」と呟き、返信を送った。「警備を強化せよ。ただし、子供の前で銃は見せるな。」
さらに北の函館では、冷たい海風が校舎の窓を叩いていた。アイヌの生徒三人は机を並べ、教師ナイカムイが彼らに母語で話しかけている。
「アペ(火)は、日本語で“ひ”。」
「カムイ(神)は……これは難しいな。」
黒板にチョークで大きく「神」と書き、しばらく見つめた。「これは、俺たちの言葉には無い“形”だ。でも、意味は似ている。形が違っても、想いは同じだ。」
子供たちは静かに頷いた。
数日後、義親は電報で各地の報告を受け取った。
東京――生徒八十七名、うち朝鮮五、アイヌ二。補習授業の成果あり。
京城――生徒三十名、脅迫あり。
函館――生徒五十三名、うちアイヌ三。警戒中。
電文を読み終えると、義親は筆を取り、報告書の末尾に一行を添えた。
「これは始まりであり、敗北でもある。文化は一日にして混ざらず。」
夜更け、東京校の教室では、子供たちが自習をしていた。窓の外に月光が射し、机の上の墨壺が淡く光る。朝鮮の少年ヨンジュが筆を動かし、震える文字で「ありがとう」と書く。隣の日本人の少年が見て、そっと頷いた。
「うまいよ。」
ヨンジュは顔を上げて笑った。その笑顔はまだ不安を含んでいたが、確かにそこには温もりがあった。
義親はその光景を廊下の陰から見ていた。灯に照らされた黒板の白が、夜の闇に溶け込んでいく。
「言葉は橋だ。まだ揺れているけれど、きっと渡れる。」
そう呟き、窓の外の星を見上げた。遠く、北の空にはオリオンが昇っていた。
秋の風がそっと吹き抜け、教室の紙灯籠を揺らした。机に残る小さな手の跡、震える墨の線、そして子供たちの息。
それらすべてが、静かな革命の始まりを告げていた。
冬の気配が忍び寄る十二月、東京の空は白く濁り、朝の冷気が石畳を締めつけていた。共学館の鐘が八つを打つと、霜を踏むような音を立てて子どもたちが校門をくぐる。吐く息は白く、手は袖にしまわれ、足袋の底が薄い者も多い。
校舎の中は、炭火の匂いがわずかに漂っていた。寺院の名残である本堂の天井からは細い煙が昇り、囲炉裏の熱が低く揺れる。義親は教壇の前に立ち、黒板の角に手を置いた。冷たい板の感触に、冬の硬さを感じた。
「今日は読み書きのまとめをします。」
教室のざわめきが静まり、チョークの音が走る。
「ひ・と・つ。」
白い文字の列を、子どもたちの瞳が追う。朝鮮の少年ヨンジュは唇を動かし、ゆっくりと発音した。「ヒ…トツ。」
義親が微笑むと、教室の空気が少し柔らかくなる。だが、まだ笑い声は遠慮がちだった。
放課後、義親は職員室で伊藤修二に報告書を見せた。
「出席率は八割を超えました。だが朝鮮とアイヌの子は欠席が目立ちます。」
「病気か?」
「それもありますが、家の仕事を手伝うことが多いようです。」
伊藤は眉を寄せた。「冬は厳しい。靴も足りないだろう。」
「ええ。」義親は机の引き出しを開け、手紙を取り出した。「函館の長老、コタンクルさんからです。」
手紙には墨の濃淡があり、震える筆跡が生々しく残っていた。
《約束どおり子供たちは通わせている。ナイカムイ先生の教えは悪くない。だが、冬の風は厳しく、道は凍り、通学は命がけだ。靴と外套を送ってほしい。》
読み終えた伊藤が小さく息を吐いた。「予算を再配分するしかないですね。」
義親はうなずき、机上の地図を見た。東京から函館まで、海を渡る細い線が引かれている。
「教育とは、紙と筆だけではできません。靴と薪も、教科書です。」
夜、東京校では補習授業が続いていた。炭の明かりが教室の隅を照らし、チョークの粉が白く舞う。朝鮮人教師の李が黒板の前に立ち、片言の日本語で言った。
「みなさん、今日の文は――『雪がふる』。」
「ユキ、ガ、フル!」
声が揃うたび、窓の外で本当に雪がちらついた。教室の子供たちはざわめき、誰かが窓に駆け寄る。
「見て!白い!」
「これが雪だよ。」義親が微笑みながら言うと、アイヌの少女が首を傾げた。
「アプカシ(白い粉)?」
「そう、それが“雪”だ。」
少女は小さく笑い、指先を窓に当てた。そこに一片の雪が融け、すぐに消えた。
日が暮れると、職員室のランプに明かりが灯る。義親は帳簿と出席簿を並べ、書き込みを続けていた。数字の列は淡々としているが、その背後に一人ひとりの顔がある。
ふと、机の上の書簡が目に入った。京城の西郷からの報告だった。
《ソウル校は三十名のまま。親清派の妨害続く。だが、子供たちは日本語の歌を覚え始めた。教師同士の議論は激しい。だが、それも前進だ。》
義親はペンを置き、窓の外を見つめた。雨が雪に変わり、瓦の上を静かに覆っていく。
――三十年かけて育てる国。
その言葉が胸に染みていく。焦れば壊れる。遅すぎれば忘れられる。均衡を保つことの難しさを、まだ十歳の肩が知っていた。
翌朝、霜の残る校庭に子どもたちが集まった。今日は年の最後の授業の日。教室の隅には炭火の桶が置かれ、寒さを和らげている。田島教師が黒板に「年」という字を書き、説明した。
「この一年で、みんな少しずつ日本語を覚えました。ヨンジュ君、読んでごらん。」
少年は立ち上がり、紙を握りしめて読み上げた。
「わたし、まなぶ。トモダチ、できた。」
その一言に教室が静まり、次の瞬間、拍手が起こった。アイヌの少女も小さな手を叩き、日本人の子が隣の席で笑った。
放課後、藤村晴人が視察に訪れた。雪の上を踏みしめ、玄関を入ると、義親と伊藤が迎えた。
「初めての一年としては、上出来だ。」藤村は教室を見回しながら言った。「だが、まだ壁は厚いだろう。」
義親は頷いた。「はい。言葉の壁、暮らしの壁、そして心の壁。どれも一日では崩せません。」
藤村は窓辺に立ち、外の雪景色を眺めた。「文明とは、力ではなく時間で築くものだ。お前はそれを始めた。」
その声には、かすかな誇りと、深い疲れが滲んでいた。
日が暮れ、藤村は帰り際に生徒たちのノートを手に取った。そこには拙い文字で「ともだち」「いっしょ」「まなぶ」と書かれていた。
「この文字が、いつか国を繋ぐだろう。」そう言って彼は義親の肩に手を置いた。
「冬は長い。だが春は必ず来る。」
夜更け、校庭には静かな雪が降り積もっていた。灯りの消えた教室の窓から、白い月光が差し込み、黒板の文字を淡く照らす。
義親は廊下を歩きながら、各教室をひとつずつ覗いた。机の上には開きかけの教科書、忘れられた鉛筆、折れたチョークの欠片。
最後の教室の窓際に、小さな折り紙が置かれていた。朝鮮の子とアイヌの子が一緒に折った鶴だ。羽に書かれた文字は、まだ不格好な平仮名で「なかよく」と読めた。
義親はそれを手に取り、胸の前で静かに広げた。
「なかよく――か。」
声に出すと、不思議と温かい響きがあった。
その夜、義親は机に向かい、報告書の最後の頁にこう記した。
《日本、朝鮮、蝦夷。三つの言葉が一堂に集い、一つの声になろうとしている。まだ遠い。だが確かに始まった。教育とは、雪を溶かす火のようなもの。消えぬように薪を足し続けねばならぬ。》
窓の外では、風が竹を鳴らしていた。
雪の向こうに見える街灯が、淡く滲んでいる。
義親は筆を置き、深く息を吸った。墨の匂いが胸に残る。
――いつかこの雪がすべて溶けたとき、日本という国は本当の意味でひとつになる。
その想いを胸に、灯を消した。
翌朝、夜明けの校庭には新しい雪が積もっていた。そこに、子どもたちの足跡が最初のページのように刻まれていく。
冬の白い息の向こうで、義親の夢は静かに、しかし確かに歩き出していた。




