338話:(1887年・初夏)声の橋 ― 東京語が紡ぐ未来 ―
春の気配がまだ薄い四月の朝、東京・首相官邸の窓辺に、紙の束が重ねて置かれていた。表紙には細い字で「多民族教育—第一次案」と記されている。藤村晴人は指先で紙端を揃え、ゆっくりとめくった。そこには就学率の粗い地図、統計の欄、教員養成の年次計画が並ぶ。数字は冷たいが、行間にはこれから教室に座る子供たちの息づかいが確かに宿っていた。
机の前で一度だけ深く息を吸うと、扉が軽く叩かれた。入ってきたのは義親と、文部省の伊藤修二である。まだ幼い頬に寝不足の陰を残した義親は、丁寧に頭を下げてから地図筒を開き、三つの色の地図を机上に広げた。
「父上、調査の結果です。日本本土、朝鮮、蝦夷州――三枚に分けました」
「ご苦労。……読み上げてくれ」
義親は端から順に指を置いた。
「本土の就学率はおよそ四割、日本語識字は五割前後。朝鮮は就学一割強、日本語識字は一割。蝦夷州はさらに低く、アイヌの就学五%、日本語識字は三%ほどです」
伊藤が小さな咳払いをして補う。
「都市部ではもう少し高いのですが、農村は厳しゅうございます。教員の不足、教材の不足、そして……言葉の壁です」
藤村は地図から目を上げ、息子の顔を見た。
「壁を、どう越える」
義親は一拍置き、言葉を選ぶように口を開いた。
「“共通語”を、決めます。日本語のうち、東京語を標準とします」
室内の空気がわずかに張った。伊藤が穏やかに頷く。
「役所、軍、学校で既に使われつつある言葉です。発音・文法・語彙を東京語で揃え、教科書もそれに合わせて整備します。まずは読み書きと音の統一から」
藤村は肘をつき、指でこめかみを軽く押した。
「東京語を“国の橋”にする……というわけか」
義親は即座に応じた。
「はい。橋であって、壁ではありません。初等では日本語(東京語)を必修にし、同時に各地の言葉――朝鮮語やアイヌ語、方言の物語や歌も“選択科目”として教えます。母語を消さず、尊重します。『柔らかい同化』です」
伊藤が携えてきた試作教科書を広げる。片頁に平仮名と簡易の漢字、反対側には朝鮮語の表記、別冊にはアイヌ語の単語帳。どの頁にも同じ挿絵が置かれ、違う言葉が同じ絵を指していた。
「絵は共通、言葉は二本立て。まず“通じる”ことを覚えさせ、次に“違いを尊ぶ”順路にします」
藤村は試作本の紙質を指先で確かめ、ゆっくり閉じた。
「教師は足りるか」
「日本語は本土の師範学校で養成を増やします。朝鮮語・アイヌ語は、その土地の人を教師として採用します。日本人と並べて“二人で一つの教室”を持たせます」
「二人で、一つの教室……」
窓外を渡る風が、若葉の匂いを少しだけ運んできた。藤村は視線を戻し、地図の上で東京から朝鮮、蝦夷へと細く結び目を描く。
「標準語を決めることは、ときに人の自尊を傷つける。だが、言葉がばらばらでは国が分かたれる。……その綱渡りを、やるのだな」
義親はまっすぐに頷いた。
「はい。だから“橋”と“欄干”の両方を作ります。渡れるように東京語を架け、落ちないように母語の欄干を残す。三十年かけて、世代ごとに少しずつ高さを揃えます」
伊藤が年次表を差し出した。初年度の学校建設地、師範増員、教科書印刷部数、費用見込み。紙の端には小さく「標準音訓一覧(東京語)」と付箋が貼られている。
「音も揃えます。子供が自信を持って声を出せるように。方言を咎めず、まず“共通の音”を覚えさせる指導案です」
藤村はふと笑みを洩らした。
「声を出せる子は、やがて書ける。書ける子は、やがて考える。……考える子が増えれば、国は間違いにくくなる」
机の上で半紙がかすかに鳴った。藤村は筆を取り、短く書き付ける。
〈東京語を標準とする。母語を尊ぶ。二人で一教室。三十年〉
墨の点が乾くあいだ、三人は黙ってその四行を見つめた。言葉は道具であり、同時に傷にもなる。だからこそ磨き、正しく使わねばならない。
「――よし」
藤村は顔を上げ、二人を見た。
「この方針で進めよう。まずは東京に“見せる学校”を一つ作る。次に朝鮮、蝦夷へ。標準語の教員規程と、二言語併用の教案は今月中に。財政には私から話を通す」
義親の目が明るくなる。
「ありがとうございます。標準語の章には、発音記号と朗読の練習を入れます。耳で覚え、口で揃え、手で書けるように」
藤村は頷き、最後にゆっくり言った。
「忘れるな。東京語は“偉さ”ではない。“約束”だ。――誰とでも通じるための約束だ」
静かに戸が閉まる。部屋に残った紙の束は、先ほどよりも重く、同時に軽かった。重いのは責任、軽いのは迷いが少し減ったからだ。窓の外、薄曇りの空に光が広がり始めていた。標準という一本の筋が、国の中にゆっくりと引かれていく。その線が橋となるか、壁となるかは、これからの教室で決まる。藤村は胸の奥でそう繰り返し、もう一度だけ四行の覚え書きを確かめた。
四月の昼、霞が関の桜がようやく散り終えて、官庁街に淡い花弁が風に舞っていた。首相官邸の執務室では、藤村晴人が午前の閣議を終え、机に広げられた教育制度の草案を読んでいた。
「標準語を“東京語”と定める」――その一文を見つめながら、彼は無意識にペンの尻で机を軽く叩いた。紙の上の言葉が、未来の教室でどんな響きになるかを想像していた。
そこへ、文部省の伊藤修二と義親が再び姿を見せた。伊藤は分厚い資料を抱え、義親は昨日よりも少し背筋を伸ばしている。
「父上、財務省との折衝が終わりました」
「春嶽は何と言っていた?」
「予算二百万円で、まず東京に“模範校”を一校。次年度から段階的に倍増を目指します。ただし、十年以内に成果を示すように、との条件付きです」
「十年で形に、か……厳しいな」
晴人は眼鏡を外し、窓辺に歩み寄った。外では学童の声が響く。地方ごとに大きく異なる言葉の違いを知っているだけに、「東京語で統一」という方針の重さが身に沁みた。
「……標準語は刃にもなる。東京の言葉を押しつければ、また誰かを傷つける」
「ええ。しかし、統一しなければ互いに通じません」
義親は真っ直ぐに言った。「共通の言葉は、争いを減らす道具にもなります。大事なのは使い方です」
その声音に、晴人はふと笑みを漏らした。「理屈は正しい。だが、お前が十歳でその理屈を口にするとはな」
伊藤が補った。「東京語の選定については、音韻・語彙・文法の調査を行いました。諸方言の中で、東京語が最も簡素で、他地方からの習得が容易です。教育上の実利から見ても妥当です」
晴人は頷き、机に戻ると、伊藤が差し出した紙を一瞥した。そこには“標準語施行五カ年計画”とあり、音声教育、朗読教材、発音指導者の派遣などが列挙されている。
「ふむ……“音の教師”を作るのか」
「はい。耳から始めて発音を揃えます。方言は排除せず、“比較教材”として扱います」
晴人はその言葉に目を細めた。「排除せず、比較する……それが理想だな」
そのとき、扉の向こうから小走りの足音。副官が封筒を持って入室し、低く頭を下げた。
「朝鮮総督府から電信です」
封を切ると、西郷隆盛の署名が見えた。
《朝鮮語教育、同化政策に抵触するのではないか》
晴人は苦笑し、義親に封書を渡した。
「読んでみろ」
義親は目を通し、静かに言った。
「……反発は予想していました。けれど、言葉を奪う同化はもう通用しません。あの犠牲が、それを示しました」
「そうだな」
晴人は電信文の裏面に簡潔に書き添えた。
《過去の犠牲を忘れるな。柔らかな同化に賛同を》
それを伊藤に手渡し、即時返信を命じる。室内に緊張が流れ、すぐ静けさが戻った。
午後、官邸の庭で藤村は義親と並んで歩いた。咲き残りの桜が風に散り、敷石を淡く染める。
「義親、共通語の基礎は東京語でよい。しかし、言葉は生き物だ。十年後には変わる。変化を恐れるな」
「はい。話す人が増えるほど言葉は柔らかくなる。柔らかな同化も、同じです」
「……うまいことを言う」
しばし沈黙。鳥の声が遠くで響く。
晴人は枝を見上げて呟いた。
「この国は、やっと戦を言葉に変えようとしている。だが、言葉を間違えれば、また戦に戻る」
「だから“正しい言葉”を作ります。人を支配するためではなく、理解し合うための東京語を」
その答えに、晴人の胸が熱くなった。少年の声の中に、三十年先の未来がわずかに見えた気がした。
「よし。お前に任せよう。標準語教育局の主任補佐として、正式に布告案を作れ。伊藤の監督のもとでな」
「はい!」
その返事は、春の風より澄んで響いた。義親は背筋を伸ばし、庭を一歩ずつ進む。小さな影が、やがてこの国の教室を満たす子供たちの姿へと重なっていくように見えた。
東京語という橋は、まだ架けられたばかりだ。だが、その橋を渡る足音は、確かに未来へ続いていた。
五月の陽射しが、東京・本所の川沿いを白く照らしていた。風は少し湿りを帯び、桜の花弁の代わりに、若葉の匂いを街に流している。川面に浮かぶ小舟の上では、職人たちが木材を積み下ろし、遠くでは金槌の音が鳴っていた。
その喧騒の中、ひときわ新しい瓦屋根が光っている。新設の「東京模範尋常小学校」である。
まだ土の香りが残る校庭に、二十人ほどの子どもたちが集まり、木製の机や椅子を運び入れていた。袖をまくった作業着の大工と、洋装の監督官が並んで作業を見守っている。その監督官こそ、文部省の若き局員――藤村義親だった。
義親は腕に時計を巻き、手帳を開きながら職人に声をかけた。
「廊下の梁はあと三尺下げてください。音が響きすぎると授業に差し支えます」
「へい、承知しました!」
返事の中に江戸訛りが混じる。義親はふっと微笑み、鉛筆の先でメモを取りながら呟いた。
「東京語……ね。まず、教師よりも先に大工さんに覚えてもらわないと」
昼過ぎ、伊藤修二が視察にやってきた。背の高い洋帽をかぶり、手には分厚い青いファイルを抱えている。
「進捗はどうかね、義親君」
「予定より三日早く終わりそうです。教員候補の訓練もほぼ完了しました」
「ほう、早い。で、彼らの“東京語”の習熟度は?」
「七割、と言いたいところですが……まだ“し”と“す”の区別がつかない人もいます」
「それで十分だ。言葉は急には変わらんよ。時間が味方をしてくれる」
伊藤の声は穏やかだった。
義親は窓際に立ち、建設途中の教室を見下ろす。白い壁に映る影が、まるで子どもたちの未来の姿のように動いていた。
「父が言っていました。東京語は“橋”であって、壁にしてはいけないと」
「その通りだ。……君の父上は、昔から言葉を戦の代わりに使おうとする人だ。だが、それは難しい道だ。言葉を教えるには、まず人の誇りを理解せねばならん」
伊藤はゆっくり言葉を置き、書類を渡した。
「来月、朝鮮から視察団が来る。彼らに、この学校を見せるつもりだ。君も案内役を頼む」
「はい。東京語の“生きた授業”を見せます」
六月。開校式の日。
正門には新しい国旗が掲げられ、吹奏楽団の演奏が響いた。来賓席には官僚や教育関係者のほか、新聞社の記者たちも並ぶ。
壇上に立った義親は、緊張した面持ちで祝辞を読み上げた。
「――この学校は、言葉の違いで心が分かたれないようにするための場所です。ここで学ぶ東京語は、誰のものでもあり、誰のものでもありません。互いに通じ合うための言葉です」
拍手が上がり、会場の片隅で父・藤村晴人が静かに頷いていた。彼の隣には陸奥宗光、西郷隆盛の姿もある。皆が、戦を経てなお新しい“平和の戦場”を見守っていた。
その後、模範授業が始まる。
黒板の前には、若い女教師・高木美佐子が立った。彼女は東北出身で、訓練校で半年かけて東京語を学んだ一人だった。
「――はい、みなさん。“あめ”と“あめ”は、どちらも同じ音ですが、違う意味があります」
教室に笑いがこぼれる。
「ひとつは“雨”、もうひとつは“飴”。声の高低で変わります。では、言ってみましょう」
子どもたちが一斉に声を上げる。
「あめ(低)!」「あめ(高)!」
響きはまだ不揃いだが、確かに同じ方向へ向かっていた。
窓の外で見ていた義親は、ふと胸の奥が熱くなるのを感じた。
――これが、言葉が生まれる瞬間だ。
紙の上で決めた政策が、いま人の声になって広がっている。
放課後、教室の隅に残った一人の少年が、黒板を見つめていた。
「先生、“おら”って言っちゃいけないの?」
美佐子がしゃがんで答える。
「いいのよ。家では“おら”でいい。でも学校では“わたし”ね。二つを覚えたら、君は二倍賢い子になるわ」
少年の瞳がぱっと明るくなる。「じゃあ、おれ、家でも学校でも話せるようになる!」
そのやりとりを見ていた義親は、心の中で“橋”という言葉をもう一度思い浮かべた。
橋は、片方から架けるだけでは完成しない。互いが歩み寄って、真ん中で出会う。
――東京語も、きっとそうだ。
夕刻、校庭の隅で藤村晴人が義親に声をかけた。
「よくやったな」
「ありがとうございます。……でも、始まったばかりです」
「始まれば十分だ。戦も、言葉も、最初の一歩がいちばん重い」
父の声は穏やかで、どこか寂しげでもあった。
校庭の端で子どもたちが遊ぶ声が聞こえる。彼らの笑いの中に、東京語と方言が入り混じっていた。
「“じゃんけんぽん”」「“ほい、もう一回!”」
東京語の語尾と、東北の抑揚。
それはまるで、二つの国がゆっくりと手を取り合う音のようだった。
日が沈み、川面に橙の光が広がる。
義親は校舎の窓から外を見つめ、そっと呟いた。
「言葉は、争いをやめさせるための剣にもなる」
その言葉に、晴人が短く応じる。
「剣ではなく、橋を磨け」
静かにうなずく息子の横顔に、春の夕風が吹き抜けた。
六月の終わり、東京は早くも夏の気配を帯びていた。
空は薄く霞み、遠く隅田川の水面が白く光っている。午前十時、模範小学校の門前には、黒い馬車が二台停まっていた。朝鮮視察団の一行である。旗章には金の鳳が描かれ、馬のたてがみが風に揺れていた。
校門に立つ義親は、真新しい制服に袖を通し、深く礼をした。隣には伊藤修二、そして後方には父・藤村晴人の姿もあった。
先頭の車から降り立ったのは、総督府参事の金允鎬。四十代半ばの男で、黒い山高帽に白い手袋をしていた。
「こちらが噂の“東京語学校”ですか」
日本語は流暢だが、どこか探るような響きを含んでいる。
義親は柔らかく笑った。
「ええ。まだ始まったばかりです。ですが、見ていただければすぐに分かります」
講堂の中では、子どもたちが一斉に立ち上がり、挨拶の声を上げた。
「おはようございます!」
声が響き、天井の梁を揺らす。その音に、金はわずかに目を見開いた。
「この発音……東京の言葉だ」
「はい。方言ではなく、共通の“音”として教えています」
「だが、朝鮮でもこれを学ばせるのですか?」
「ええ。ただし、母語も同時に教えます。共通語は互いを理解するための橋です。奪うためのものではありません」
金は眉をひそめ、教壇に立つ女教師を見やった。
「日本語を教え、反発を生まないと?」
「反発はあります。ですが、拒絶より理解の方が少しだけ強ければ、それで十分です」
義親の声には、一切の迷いがなかった。
休憩時間。
教室の外で、朝鮮の随員たちが子どもたちと遊んでいた。
「안녕하세요(こんにちは)!」
「おはようございます!」
互いの言葉を真似て笑い合う。どちらの言葉も、たどたどしく、しかし楽しげだった。
その様子を見た藤村晴人は、静かに息を吐いた。
「……あれが、言葉の力か」
伊藤が頷く。「戦では作れない関係ですね。十歳の子の遊びの中に、我々が描く未来がある」
「だが、その未来を守るには、大人の覚悟が要る」
午後、義親は視察団を応接室に招き入れた。
金は茶を一口含んでから、慎重に言葉を選んだ。
「我々にも母国語があります。子どもに日本語を強制すれば、魂を失うと言う者もいます」
義親は頷き、机上の地図を指した。
「ここを見てください。これは日本と朝鮮、そして蝦夷を合わせた言語地図です。線で分けられていますが、本来は海でつながっている」
「海で、つながっている……?」
「ええ。だから、同じ船に乗るには、同じ“舵”が要ります。それが共通語です。けれど、船の上で歌う歌は、それぞれでいい」
金はしばらく黙って地図を見つめていた。やがて、静かに笑みを浮かべた。
「……詩人のような答えだ。しかし悪くない」
夕方。視察団が去ったあと、校舎の裏で義親は汗をぬぐい、腰を下ろした。
「……少しは伝わったでしょうか」
「伝わったさ」
背後から父の声がした。
振り返ると、晴人が夕陽を背に立っていた。
「お前の言葉は、理屈よりも響きで届く。政治ではなく、信じる力だ」
「でも、父上。僕たちのしていることは、もしかしたら押しつけかもしれません」
晴人はしばし考え、ゆっくり口を開いた。
「押しつけだろう。だが、“押しつけ”にも種類がある。暴力で押す者と、未来を信じて押す者。お前は後者であればいい」
義親は小さくうなずいた。
「僕は……信じて押します。信じて、教えます」
校庭の向こうでは、子どもたちが帰り支度をしていた。
ランドセルの代わりに風呂敷を背負い、夕陽を背に駆けていく。
「さようなら!」「またあした!」
声の中には、東京語と各地の訛りがまじっている。
その混ざり方こそ、義親が望んだ“共生”の形だった。
伊藤が近づき、低く言った。
「今夜、新聞社が来ます。明日の紙面は“多民族共学”が一面になるでしょう」
「騒がれすぎないといいのですが」
「いや、騒がせるべきだ。沈黙からは進歩は生まれない」
義親は苦笑し、窓の外を見た。
「父上も、きっとそう言うでしょうね」
「むしろお前がそう言うようになった。……十歳にして、政治家だな」
夜。
校舎の灯が一つずつ消え、残るは応接室の小さな明かりだけになった。
晴人は机に肘をつき、息子の書いた「多民族教育30年計画書」を読み返していた。
その筆跡はまだ幼いが、線はまっすぐで、文字の一つひとつに力があった。
――共通語は国を一つにするが、文化は国を豊かにする。
その一文に、彼は静かに目を閉じた。
「……俺ができなかったことを、この子はやろうとしている」
夜風がカーテンを揺らす。机の上のランプがかすかに明滅し、窓の外では雷の光が遠く走った。
晴人はペンを取り、端に小さく書き添えた。
《この計画を正式に採択。文部省・外務省合同による検証委員会を設置》
それが、翌朝の閣議で「多民族教育制度施行令」として承認されることになる。
――そして、その年の秋。
朝鮮・平壌、蝦夷・旭川、そして東京・本所の三校で、同時に鐘が鳴り響いた。
日本語と朝鮮語、アイヌ語が交じり合うその朝の音は、誰にも止められなかった。
それは新しい時代の始まりを告げる音だった。




