336話:(1887年・春)天津での外交
春まだ浅い三月の風が、京城の屋根瓦を渡っていった。夜ごと途切れ途切れに灯っていた烽火は消え、路地には煤の匂いだけが残る。西郷隆盛は総督府の庭で土を踏みしめ、各地からの報告を受け取った。紙束に走る墨はどれも同じ結論を告げている――地方の掃討は終わった、と。倒れた者の人数も、捕らえた名簿も、逃げた影の数までもが整然と記されていたが、書面の整然さが現場の混沌を覆い隠すわけではなかった。
「これで、刃の出番はひとまず終いだ。」
隆盛は低く言い、紙を閉じた。視線の先では、訓練所の若者たちが破れた壁を直し、折れた銃架を削り直している。彼らに剣を取らせずに済んだのは僥倖だった――そう口には出さず、息に落とし込む。次に必要なのは、言葉と印章の戦である。敵は目の前の敵兵ではなく、遠く海の向こうの面子と理屈だ。
東京では、同じ朝の光が霞ヶ関の石畳を冷たく照らしていた。
首相官邸の会議室に地図が広げられ、赤い糸で海路と陸路が結ばれている。藤村晴人は糸の結び目をひとつ指で押さえ、静かに言った。
「天津に使いを出す。軍は静めた。あとは言葉で結ぶ。」
室内がわずかにざわめき、すぐ収まる。陸奥宗光が席を立ち、一礼した。
「私が参ります。総理が敵対国の港へ赴くのは、危うい。」
藤村はうなずき、別の一枚の書類を持ち上げる。そこには派遣要綱と、交渉の優先順位が簡潔に並んでいた。
「よかろう。ひとつだけ条件がある。若い目を連れて行け。次の世代に、面と面を合わせる交渉というものを見せるのだ。」
陸奥は短く考え、答えた。
「承知しました。」
その日のうちに手配は進み、港の倉庫には藁縄で括られた木箱が並んだ。書簡、地図副本、電信表、携行用の暗号表――どれも静かな戦の武具である。桟橋に冬の風が満ち、マストの索が細かく鳴った。蒸気船の煙突から灰色の息が立ち上り、白波の先に細く天津の名が見える気がした。
天津の空は乾き、黄土の風が頬を刺した。城壁の外、運河沿いに並ぶレンガの倉庫には各国の旗が挙がり、馬車の車輪が石畳を噛む音に混じって、異国語の呼び声が飛び交っている。客寓の二階、角の部屋に机が運び込まれ、硯と電鍵が並べられた。窓からは川面に揺らぐ帆綱が見え、潮と土の匂いが入り混じる。
李鴻章が居る総督衙門へ向かう朝は、霜の白さがまだ残っていた。回廊は長く、瓦の陰に風の糸が走る。広間に敷かれた緞通の上に卓が置かれ、茶が二碗、湯気を細く立てている。李の眼差しは静かで、深い皺の奥に、長年重ねた計算の影が動いていた。
言葉は丁寧に始まり、やがて硬くなる。「伝統」「宗属」「秩序」という重い語が、卓の上に次々と置かれた。対して「現実」「治安」「近代」という語が重ねられる。沈黙は幾度も往復し、筆談が挟まり、茶は温から微温へ、微温から冷へと移った。表情はほとんど揺れず、揺れないものほど多くを語る。
夜は客寓へ戻る。机上に交渉記録を起こし、仮説と反証を欄外に走らせる。窓の外では川波が月を砕き、遠く、欧州の砲艦の汽笛が短く鳴った。紙の上でしか進まぬ一歩が、現実の人命を軽くもし重くもし得る――その事実は、墨の匂いより強く胸に迫った。
翌朝、門を入ると、庭の梅がほころび始めていた。冬の端に咲く小さな白は、寒さそのものと同じ硬さで立っている。卓に向かうと、相手の語調はわずかに変わっていた。敗戦の影と内乱の疲労が、その一音一音に潜む。こちらが重ねる語は、脅しではなく算術であった。軍の距離、補給の線、電信の速度、徴発の負担。面子という衣に、実利という重りを縫い付ける仕事である。
黄昏が来ると、城の上に赤い埃が漂い、屋根の棟が長い影を路地へ落とした。客寓の電鍵に指を置けば、遠い東京の受信紙に小さな点と線が走る。送るべき文は短く、だが正確でなければならない。ここで間違えば、海峡の向こうで再び烽火が上がる。
四日目の朝、卓上に新しい条件が置かれた。面子を保つための言葉、国庫をなだめるための数。こちらは、受け止めうる最小限を拾い上げ、呑み込めぬ棘を静かに卓の外へ押し出す。誰の勝ちでも誰の負けでもない形――紙の上でだけは可能に見えるその形を、現実に移すための針目をひとつずつ確かめる。
五日目、外庭の槐の影が卓まで伸びたころ、遠い宮中からの許しが降りた。言葉は短く、しかし重かった。これで、剣を鞘に納められる。だが、納めた剣はいつでも抜ける――その緊張を互いに確かめ合う視線が交わる。
六日目の昼下がり、記すためではなく忘れないための覚え書きが交わされた。印章は大仰でなく、筆致はむしろ素っ気ない。だが、その薄い紙片が海峡を挟んだ二つの国に、しばしの静けさを与える。庭に吹いた風が紙端をわずかに揺らし、朱の色が午後の光に淡く透けた。
客寓に戻ると、机の上の茶は完全に冷えていた。窓を開けると、運河の水面が低くきらめき、荷舟が鈍く軋んでゆく。言葉で結んだ結び目は、指先ではほどけない。ほどくなら、再び言葉を要する。その厄介さこそが、戦ではなく外交を選ぶ理由なのだと、誰に告げるでもなく心の中で反芻する。
夜、灯を落とす前に、薄い紙を一枚取り出した。そこに今日の要点を三行だけ記す。数字、名、そして期限。面子は紙に残らない。だが、守られた静けさは記録の欄外に確かに息をする。遠くの空に小さな雲が生まれ、すぐ溶けた。明日の風向きはまだ読めない。それでも今夜、烽火台は暗いままだ。
交渉二日目の天津は、霧が濃かった。
川面に白い霞がたなびき、街の鐘の音が遠くでくぐもって聞こえる。客寓の窓に貼られた氷がようやく融け、滴が石窓を伝う頃、陸奥宗光と久信は再び総督衙門へ向かった。
李鴻章はすでに卓に座していた。前日と変わらぬ姿勢、変わらぬ眼差し。だがその沈黙の奥に、明確な警戒が見えた。
「日本の統治は不当です。」
李は低い声で言った。
「朝鮮は古より清の属邦。宗属の理を乱すことは、天の秩序を乱すに等しい。」
陸奥は茶を口に含み、静かに置いた。
「李大人。理は時に、時代と共に形を変える。
我が国は力ではなく理によって治めようとしております。清が望む安定を、我らもまた望む。」
「だが、我らは認めていない。」
「七年も?」
陸奥の声は柔らかかったが、目は逸らさなかった。
「一度も公式な異議を申し入れず、今になって宗属を主張する。それは秩序ではなく、過去への執着ではありませんか?」
李は筆を持ち、紙の上にゆっくりと「宗属」という二文字を記した。
「過去を否定すれば、国は根を失う。」
「根を守るために枝を枯らすなら、それもまた滅びです。」
短い沈黙。
客間の外では、木槿の枝が風に鳴った。
その音が二人の間に溜まった熱を少しだけ冷ました。
――
夜、陸奥は日誌に短く書いた。
> 「李鴻章、強硬。理より面子を守るに終始。」
> 「久信、冷静。だが表情に感情が出やすい。抑え方を学ばせる必要あり。」
隣の部屋では、久信が机に肘をつき、交渉記録を清書していた。
「宗属」「独立」「承認」「非干渉」――それぞれの単語に小さな朱線を引く。
「面子とは、時に理を凌駕する力を持つ……か。」
呟いたその声に、陸奥が返した。
「面子とは、弱き者の盾でもある。強き者が奪えば、戦になる。」
久信は顔を上げた。
「奪わずに、折り合うには?」
陸奥は静かに笑った。
「それを学ぶために、お前を連れてきたのだ。」
――
三日目。
天津の空に晴れ間がのぞく。だが空気は冷たく、砂を含んだ風が頬を刺した。
総督衙門では、再び同じ卓が整えられている。
李は昨日よりも口数が少なかった。代わりに、彼の背後に立つ通訳官と参謀たちが頻繁に耳打ちを交わす。
陸奥は話題を変えた。
「清仏戦争の終結が近いと聞きました。」
李の手が、わずかに止まる。
「……その件で何を?」
「敗戦の代償は大きいと伺っております。朝鮮をめぐる対立をこのまま放置すれば、清国は二つの戦を抱えることになる。」
李は顔を上げ、しばし陸奥を見つめた。
「脅しか。」
「助言です。」
「……ふむ。」
沈黙が落ちた。
筆先が硯を叩く音だけが響く。
その沈黙を破ったのは、久信だった。
「李大人。」
その声に、参謀たちの視線が一斉に動いた。
「日本は朝鮮を搾取してはいません。鉄道を敷き、学校を建て、医師を派遣しています。」
李の眉が動く。
「小童が口を挟む場ではない。」
「年齢は関係ありません。」久信は一歩も退かなかった。
「私は昨年、欧州の代表と交渉しました。国の形は違えど、人の誇りは同じだと知りました。」
李の瞳が細くなる。
「……藤村総理の息子か。」
「はい。」
「父の理を、そのまま信じているのか?」
久信は静かに答えた。
「理は信じるものではなく、磨くものです。」
その言葉に、李の筆が止まった。
湯気を失った茶の表面に、沈黙の波紋が広がった。
――
夜。
客寓の灯の下で、陸奥は日誌に一行記した。
> 「李鴻章、揺らぎの兆しあり。久信の発言、意外に効を奏す。」
硯の墨を磨りながら、陸奥は小さく呟いた。
「……若い理は時に、老いた計算を超える。」
交渉四日目の朝、天津の空は晴れわたっていた。
冬の名残を引く風が、薄い砂塵を運んで街路の屋根を白くする。総督衙門の回廊には軍帽を被った兵が並び、遠くで太鼓の音が短く響いた。
陸奥宗光は卓上の茶器を整え、李鴻章を待った。久信はその隣で、筆と記録用紙を手にしている。
やがて、李が姿を現した。いつもより僅かに肩が落ちている。
「……北京からの報せを受けた。」
その声には、疲労と覚悟が同居していた。
「清仏戦争は終結に向かうが、代償は重い。財も人も、もはや戦う余力はない。」
陸奥はうなずいた。
「であればこそ、今ここで、血を流さずに決することが重要です。」
李はゆっくりと椅子に腰を下ろした。
「総理は言うておった。“力ではなく理で治める”とな。」
「その理を、今こそ紙に刻みたいのです。」
李の目が細くなる。
「……だが、面子は捨てられん。」
彼は懐から一枚の紙を取り出した。そこには短い条件が二つだけ、墨で記されている。
ひとつ――朝鮮が“王国”を名乗ること。
ひとつ――日本が“礼金”を支払うこと。
「朝鮮は独立を保ちながらも、名に“王”を冠する。名目上の属国として、清の顔を立てる。
そして、日本から五十万、いや百万円の礼金を支払えば、我が国はそれを以て満足とする。」
久信が顔を上げた。
「金で平和を買うというのですか。」
李は笑わなかった。
「金は言葉より確かだ。おぬしの国もそうではないか?」
陸奥は軽く息を吐いた。
「……百は出せません。五十でどうか。」
李の目が一瞬だけ動く。
「半分か。」
「面子は保たれ、我が国も屈しない。――この線でどうでしょう。」
沈黙。
茶の表面に映る光が、わずかに揺れた。
やがて李が筆を取り、ゆっくりと朱で印を入れた。
「……それで良い。」
その瞬間、部屋の空気が少しだけ緩んだ。
久信は深く息を吐き、手の中の筆を置いた。
「つまり、我々は“誰も勝たず、誰も負けない”形に辿り着いたということですね。」
「そうだ。」陸奥が言う。
「この合意に法の力はない。だが、破れば戦だ。それだけが、唯一の保証になる。」
李は席を立ち、窓辺へ歩み寄った。
外には、黄河から運ばれた濁流がゆっくりと街を横切っている。
「戦を避けるために、戦をちらつかせる。人とは滑稽なものだな。」
「滑稽でも、生きるためなら理になる。」陸奥の声は静かだった。
――
夕刻。
覚書の文案が仕上がった。題名も条文番号もない、わずか数行の口頭協定――天津覚書。
内容は簡潔だった。
> 清国は朝鮮への軍事介入を停止する。
> 清国は親清派への支援をやめる。
> 日本は朝鮮の治安維持を担う。
> 朝鮮は「朝鮮王国」を名乗る。
> 日本は清国へ礼金五十万円を支払う。
李は筆を置いたまま、呟いた。
「紙は薄いが、これで命が救われる者が万とおる。」
陸奥も頷いた。
「戦の勝利より、平和の持続の方が難しい。」
久信はその言葉を胸に刻むように、最後の署名を見届けた。
薄く朱の印が押される音が、まるで遠い鐘の音のように響いた。
――
夜、客寓に戻ると、風が冷たかった。
久信は窓を開け、天津の街灯りを見下ろした。
小舟の灯が水面を渡り、ゆらめきながら遠ざかっていく。
「……父上なら、どう記すだろう。」
独りごちるように呟いた声が、暗闇に溶けた。
陸奥は隣室で、電報を打っていた。
> 『天津交渉妥結。清国、面子保持を条件に同意。朝鮮問題、外交的終結。』
音信が海を越えていく。
点と線の光が、夜の闇を貫き、遠い東京へと向かった。
翌朝、天津の空は薄曇りだった。
港の波止場では、外国商船の汽笛が短く鳴り、白い煙が霞の中に溶けていく。李鴻章は総督衙門の庭に立ち、手にした巻紙を静かに丸めた。
覚書の写し――それは彼が生涯で何百という文書に署名してきた中でも、最も屈辱と安堵が入り混じる一枚だった。
「……清は弱くなった。」
誰に言うでもなく、李は呟いた。
「だが日本もまた、かつての清を映す鏡よ。いずれ、その鏡の曇りが見える日が来よう。」
風が吹き、庭の砂が彼の衣を撫でた。
彼は深く息を吐き、再び顔を上げた。
「面子は残った。だが、それだけでは国は立たぬ。――若い者に伝えねばならん。」
その声には疲労とともに、微かな希望が滲んでいた。
――
同じ頃、帰国の船上。
久信は甲板に立ち、灰色の海を見つめていた。
波間に映る空はどこまでも無色で、天津の記憶が淡く滲む。
「外交とは……勝つことではないんだな。」
隣にいた陸奥が、帽子の縁を軽く押さえながら答えた。
「勝ち負けを超えたところにあるのが外交だ。だが、それを理解できる者は少ない。」
久信は頷き、手帳を開いた。
そこには短い走り書きがあった。
> 『文明とは、他者の面子を踏み越えずに進む術。』
それを書いたのは前夜、船を出る直前だった。彼はその一文の上に線を引き、静かに閉じた。
――
東京・首相官邸。
陸奥宗光が帰国報告を行っていた。
「天津覚書、無事に締結。清国は事実上、朝鮮への介入を停止しました。」
藤村晴人は机の上の地図を見つめながら、深く息をついた。
「……戦わずに決したか。」
「はい。清は面子を保ち、我が国は実を取った。互いに痛みを分け合った形です。」
松平春嶽が言葉を添えた。
「これで、朝鮮はようやく安定しますな。」
藤村は頷きながらも、表情に重さを残した。
「安定か……それを築くまでに、どれだけの命が要った。」
議場に一瞬、沈黙が流れた。
藤村は静かに言葉を継いだ。
「外交とは、血の代わりに言葉を流すことだ。だが、その言葉が真に血を止めるものか、私はまだ確信を持てない。」
陸奥が頭を垂れた。
「総理――それでも、言葉を選ぶのが人の道かと。」
藤村は微笑のようなものを浮かべ、うなずいた。
「ああ。だからこそ我々は筆を持つ。剣よりも重く、しかし見えぬ刃を。」
――
その夜。
藤村は官邸の灯を落とし、ひとり机に残った。
机上には、天津覚書の正本と報告書、そして朝鮮の地図。
その中心に指を置き、ゆっくりと円を描いた。
「……これで終わりではない。」
小さく呟いた声が、紙の上に落ちた。
「軍で得た平和は一時の静けさ。外交で得た平和は試され続ける静けさ。
そのどちらも、文明という名のもとに裁かれる。」
蝋燭の炎が揺れ、窓の外の闇を薄く照らした。
風が障子を鳴らし、遠くの夜更けの汽笛が、まるで時代の合図のように響く。
藤村はゆっくりと立ち上がり、窓を開けた。
春の夜気が流れ込み、墨の香を冷ます。
その向こうには、まだ見ぬ朝鮮の未来と、清国の影、そして新たな時代の波が待っていた。
「文明とは何か――」
藤村の声は静かに夜に溶けた。
「それを問う旅は、まだ終わらぬ。」
――
外では夜明け前の風が吹き、霞ヶ関の街灯をひとつずつ消していった。
天津の港でも、同じ風が海面を渡り、覚書の封印を撫でて通り過ぎた。
その風が、誰にも見えぬ「平和」という名の糸を、ゆるやかに結んでいた。




