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34話:富を紡げ、繭の糸

朝霧が薄く棚引く中、晴人は小高い丘の上から製糸舎の工事現場を見下ろしていた。


 敷地はもともと古い農家があった場所で、石垣だけが残っていたが、今では柱が立ち並び、梁が組まれ、煉瓦の壁が徐々に姿を現している。富岡製糸場を参考に設計された新たな「水戸製糸舎」は、藩内でも前例のない大規模な工業施設となる予定だった。


 「繭の集荷、今朝の分はすでに木箱二十だそうです」


 報告に来たのは岩崎。袖に埃をつけたままの作業着姿だった。


 「養蚕農家との交渉はどうだった?」


 「上々です。今までは中間の問屋が値を決めてましたからな。晴人様が“相場の安定”と“現金支払い”を約束してくれたことで、皆、乗り気になっております」


 晴人は小さく頷いた。地道な下交渉と信頼の積み重ねが、ようやく形になってきたのだ。


 「この製糸舎では女性を積極的に雇用する。特に未亡人や働き口のない若い娘たちを優先するように」


 「はっ。糸を扱うには、繊細な手仕事が求められますからな。男衆には真似できませぬ」


 木組みの足場の上では、大工たちが掛け声をかけながら梁を押し上げていた。乾いた木槌の音が空に響き、建築が生きていることを感じさせる。


 晴人は胸元から一枚の設計図を取り出した。


 「換気のために高窓を設ける。フランス式の蒸気機械は導入せず、まずは足踏み式の座繰り機から始めよう。燃料と整備の手間を考えると、当面はこちらが合理的だ」


 「かしこまりました。人力で足りぬ分は、私が回ります」


 岩崎の口調は冗談めいていたが、眼差しは真剣だった。


 風が吹き抜け、立ち上る木の香りと、乾いた土の匂いが入り混じる。


 「晴人様」


 声をかけてきたのは、十六、七の少女だった。袴姿に、かすかに日焼けした頬。手には繭を詰めた布袋を抱えている。


 「繭、お届けに上がりました」


 「ありがとう。……名は?」


 「静と申します」


 晴人は軽く頷き、岩崎に目配せをする。


 「この娘も、現場で働いてもらおう」


 「心得ました」


 静は戸惑ったように目を見開き、次いで何度も頭を下げた。


 「ありがたく……ありがたく存じます!」


 晴人は彼女の手から繭の袋を受け取り、中を覗いた。白く、丸みを帯びた繭が、整然と並んでいる。


 「良い繭だ。きっと、美しい絹糸が取れる」


 その言葉に、静の顔がぱっと明るくなった。


 「……頑張ります!」


 その笑顔が、晴人の疲れをひととき和らげてくれた。


 そのとき、背後から柔らかく気配が差した。


 「……製糸舎の警備、今夜も村の若者たちと交代でまわります」


 声の主は河上だった。木陰から静かに姿を現し、深く一礼する。


 「ありがとう。頼りにしてるよ、河上」


 「警護の務めを果たすのが、私の役目です。……ですが、こうして民の笑顔を目にできるのは、やはり……感慨深いものでございます」


 晴人は苦笑し、少しだけ肩の力を抜いた。


 「お前がこうして見守ってくれているから、俺は安心して“前”を見ていられる」


 「恐悦至極にございます」


 陽が中天を過ぎた頃、晴人は別棟で準備を進めている「剣道場」へ足を運んだ。先日完成したばかりの木造の道場では、すでに子供たちの声が響いていた。


 「構えろ! はい、右、左!」


 道場の中央に立つのは河上だった。警護の任に就く合間を縫って、時折こうして子供たちに剣を教えている。甲冑こそ着けていないが、姿勢には一分の隙もない。


 「礼に始まり、礼に終わる。剣とは、己を制する道と知れ!」


 「はいっ!」


 少年たちの声が一斉に響き、竹刀が打ち鳴らされる。


 晴人は柱の陰でその様子を見守っていた。中には女の子の姿もあった。最初は戸惑っていたが、竹刀を握るうちに次第に表情が引き締まっていく。


 やがて一人の少女が振り返り、晴人を見つけた。


 「晴人様!」


 全員が気づき、ばらばらと集まってくる。


 「剣、楽しいです!」


 「河上先生、すごく強いんだよ!」


 「私、絶対うまくなる!」


 子供たちの声に、晴人は思わず笑みをこぼす。


 「それは良かった。強さとは、誰かを傷つけるためではない。守るためにあるものだ。そのことを、忘れないでいてくれ」


 「はいっ!」


 剣道場の設立は、単なる武道教育ではなかった。身を守る力、礼節、そして仲間との絆。すべてが、新しい時代を生きる術となる。


 陽が西へ傾き、木漏れ日が道場の床に斜めの線を描いていた。


 晴人は静かに目を閉じる。


 繭から糸が紡がれるように、民の暮らしもまた、少しずつ、確かに形を成していく。


 剣を捧げ、富を育て、未来を結ぶ──


 晴人の手の中には、まだ見ぬ日本のかたちが、そっと息づき始めていた。

昼下がり、晴人は一人、製糸舎の裏手にある木陰へと足を運んだ。風に揺れる若木の葉がさわさわと音を立て、未舗装の地面に落ちる影が、さながら揺れる水面のように足元を包んでいた。


 後方から河上が、黙ってついてくる。その足音はあまりにも静かで、まるで風に紛れるようだった。


 「……朝から立ち通しだった。腰が抜けそうだ」


 晴人は小さく笑い、敷いてあったござに腰を下ろした。河上はその様子を一瞥し、すぐさま木の幹に布を渡して即席の陽除けを作ると、脇へ控える。


 「陽に焼けすぎましたね。御身の疲労、想像以上とお見受けします」


 「ありがとう。でも今だけは、この景色をしっかり見ておきたいんだ」


 晴人の視線の先には、建設中の製糸舎があった。梁が組まれ、煉瓦壁の輪郭が浮かび、選別小屋には繭が次々と運び込まれている。かつてはただの農村だった土地が、今や“富を生む”拠点へと変貌を遂げつつある。


 「戦は、これからだな」


 ぽつりと漏れた言葉に、河上が目を細めた。


 「剣ではなく、政と富の戦。……その覚悟は、すでに我が身に刻んでおります」


 「お前はいつも、俺の半歩後ろを歩いているな」


 晴人の声はどこか懐かしさを帯びていた。だが河上は、首を横に振った。


 「違います。私はいつでも、晴人様の“影”で在りたい。陽が強ければ強いほど、その背を照らす影が深くなる。それが私の役目です」


 その時、帳面を抱えた岩崎弥太郎が現れた。顔には汗、袖には土。見慣れた法被の胸元には、墨の染みが乾いている。


 「晴人様。今日の集荷、白州からの分が予想以上に良質でした。生糸の張りも申し分なく、早くも横浜の商会が関心を示しております」


 「それは何よりだ。……価格は?」


 「一箱七匁二分。農家への取り分も、従来の倍。直接取引が効いてます」


 「強気だな」


 「いえ、これでもまだ“適正価格”でございますよ。中間搾取を排した分、双方が潤います。ただ……」


 弥太郎はわずかに声を落とした。


 「問屋筋からの圧力が出始めております。特に江戸の旧商人組は、かなり神経を尖らせているようで……」


 「想定内だ」


 晴人の表情は、揺るぎなかった。


 「ここで引けば、農家の信を失う。……我々の“戦”は、ここからが本番だ」


 その言葉に、河上の指が微かに動く。緊張か、それとも抑えがたい決意か。どちらとも言えないが、その手は確かに“刀ではなく帳面を守る”護衛の覚悟に満ちていた。


 


 「晴人様!」


 下の道から、繭の籠を抱えた少女たちが駆け寄ってきた。泥だらけの袴、額に汗を光らせながら先頭に立つのは、“静”だった。


 「今日は母も一緒に手伝ってくれました!」


 「そうか……ありがとう」


 晴人はその姿を見つめながら、ふと遠い未来に想いを馳せる。


 「お前たちが繭を育て、絹を紡ぎ、学び、働き、未来をつなぐ──そうして初めて、この町は生き延びる」


 静はにっこりと笑い、繭籠を抱えたまま小さく頭を下げた。


 「晴人様の教えてくださった“しごと”……私、好きです!」


 その言葉に、河上の視線が一瞬、少女の顔に移る。だがすぐに何も言わず、微かに頷いた。


 少女たちは再び笑い声をあげて駆けていく。


 弥太郎が、ぽつりと呟いた。


 「町の子らが、“希望”を知る。……晴人様の描く国の形、少しずつ現れてきましたな」


 夕陽が影を伸ばし、風が静かに通り抜けていく。


 


 その夕刻、帰邸した晴人は、囲炉裏に火を入れ、河上と湯呑を傾けていた。


 「香りが良いな……これは?」


 「猫印の米焼酎です。蔵元が、今年の米の仕上がりに自信ありとのことで」


 湯呑の縁から立ちのぼる蒸気が、疲れた身体に染み込むように広がっていく。


 河上は、ふと晴人の湯呑に酒を継ぎ足しながら、低く囁いた。


 「この先、どれほどの“刃”が我らを狙おうと……私は“筆を取る手”に、決して傷を負わせません」


 その言葉に、晴人は目を伏せ、やがてゆっくりと頷いた。


 「……ありがとう。お前の言葉だけで、今日はもう充分だ」


 炎が揺れ、器の影が畳に落ちる。


 その夜、静かな誓いだけが、心の中で深く響いていた。

午後の陽が傾き始めた頃、水戸製糸舎の裏手に建てられた木造の道場から、鋭い気合いの声が響いていた。


 「めぇーん!」


 乾いた足音と共に竹刀が振るわれ、風を裂く音が空気を震わせる。道場内では、袴姿の少年少女が数列に並び、号令に合わせて基本の型を反復していた。


 その最前列に立つのは、静だった。かつて繭を届けに来ていた少女が、今は木刀を握り、真剣な眼差しで構えている。


 「腰を低く、足の運びを滑らかに──静、構え直せ」


 指導役の若い侍が声をかけると、静は小さく「はいっ」と応え、すぐさま体勢を修正した。その動きに迷いはない。数日前まで農家の娘だったとは思えぬほど、彼女の眼差しは鋭く、澄んでいた。


 道場の片隅には、晴人と河上が静かに立っていた。


 「随分と馴染んできたな。静という娘は」


 晴人が呟くと、河上は頷いた。


 「はい。剣の心得はまったくなかったはずですが、覚えが早く、稽古にも真摯に取り組んでおります。……まるで、何かを背負うように」


 「……父を早くに亡くし、母とふたりで暮らしていると聞いた。繭を育てるにも、人手が要るはずだが……」


 「それでも通ってくる。日課のように」


 晴人は視線を静の背に移し、柔らかく言った。


 「剣だけではない。ここでは読み書きも、そろばんも教えている。……それが、“生きるための力”になると、信じてるからだ」


 ふと、道場の外に気配を感じて振り向くと、数人の農夫が遠巻きに立っていた。顔に深い皺を刻んだ老人と、背を丸めた中年の婦人が、門の柱越しに道場内を覗いている。


 「……あれは静の母親と、近所の者かと」


 「見に来てくれたのか」


 晴人は、そっと微笑んだ。


 「見せてやろう、あの娘の“誇り”を」


 ちょうどその時、稽古が一段落し、静が指導役に呼ばれた。


 「静、型を通して見せてみろ。今日は皆の前でな」


 「……はいっ!」


 静は竹刀を構え、呼吸を整えると、ゆっくりと足を踏み出した。


 一歩、また一歩。


 踏み込み、斬り下ろし、跳ね返るように身を翻す。


 その動きには、ぎこちなさが残る反面、研ぎ澄まされた意志が込められていた。見守る者すべてに伝わる、真っ直ぐな気迫。


 「……あれが、静か」


 母親の目が潤み、手が胸元に添えられた。


 「小さかったあの子が……こんなに真っ直ぐ、前を向いて……」


 言葉は風に消えかけたが、しっかりと晴人の耳に届いた。


 静が最後の型を決め、竹刀を下ろすと、道場内に温かな拍手が起こった。それは訓練の成果を讃えるだけではなく、“未来を拓こうとする意思”への賛辞だった。


 「……この国のかたちが、少しずつ変わってゆくのを感じます」


 河上が呟いた。晴人は頷く。


 「剣は、人を斬るためにあるんじゃない。護るために、道を示すためにある。……その道が、町の子らに繋がっている。そういう未来を、信じたい」


 その夜。


 道場の一角で焚かれた篝火の灯りのもと、剣の稽古を終えた子供たちが湯気の立つ汁椀を囲み、笑いながら夕餉をとっていた。麦飯と味噌汁、焼いた芋が並ぶだけの簡素な食事だが、誰もが誇らしげにそれを食べていた。


 晴人はふと、道場の屋根に目をやった。


 ──この国の空の下、富も剣も、学びもすべてが、誰かの未来に繋がっていく。


 そんな想いが、彼の胸に静かに灯っていた。

夜の帳がゆっくりと落ち、水戸製糸舎の敷地には仄かに灯りがともり始めていた。まだ完成には程遠い工場の骨組みに、ランプの明かりがぼんやりと反射し、木材の肌に琥珀色の影を落としている。


 晴人はその現場に、遅くまで残っていた。


 帳面を小脇に抱えたまま、煉瓦の壁に手を触れ、指の感触を確かめる。熱を奪われた掌がじんわりと冷たくなっていく。だが、その冷たさがむしろ、自らの歩みが現実に根差している証のように思えた。


「晴人様、こんな時間まで……お疲れが出ます」


 岩崎弥太郎が、片手に行灯を持って姿を見せた。薄明かりに照らされたその顔は、昼間の喧騒とはうって変わって静かだった。彼もまた、長い一日を終えた者の顔だった。


「……明日からいよいよ、試験操業だ。足踏み式とはいえ、座繰り機を動かすのは初めてだろう?」


「はい。職人衆も緊張しております。ですが、糸を張る指先に、皆が希望をかけております」


「静も来るだろうか」


「ええ。彼女は今夜も、道場に残って居残り稽古をしておりました。朝が早いからと止めたのですが、“やらずには眠れない”と──」


 晴人は小さく笑った。


「そうか。……あの娘は、まっすぐだ」


 弥太郎が微笑む。少しの沈黙が、ふたりの間を優しく包む。


 その時、別棟から木戸の軋む音がした。振り返ると、河上がゆっくりとこちらに歩いてきた。手には折り畳まれた布の包み。中には、茶と湯呑、それに湯で割った焼酎が用意されていた。


「……夜風が冷えてまいります。どうぞ一息、お入れください」


「ありがとう、河上」


 湯気の立つ湯呑を受け取り、両手で包み込む。仄かな香りと熱が、疲労に染み入るように身に沁みた。


「今日の訓練、どうだった?」


「静は、まるで燃える火のように動いておりました。技術はまだ未熟ですが、集中力と気迫は、侍の子女に劣りません」


「……いや、あの娘は、侍の生まれではない。その分、覚悟がある。未来を信じて、それにしがみつく者の強さだ」


 河上が頷いた。


「お言葉の通りでございます」


 遠くからは、木槌を収める音や、作業を終えた職人たちの談笑が微かに聞こえる。その雑音が、かえって静寂を際立たせた。


 その時だった。


 道場の方角から、静かな足音が近づいてきた。


 静だった。日焼けした頬に汗が滲み、手には竹刀を握ったまま。顔を上げると、驚いたように晴人たちを見つけ、小さく頭を下げた。


「失礼いたします。……稽古、終えましたので、道場の掃除をして参ります」


「もう遅い。今日は休め。明日も朝が早いだろう」


「……でも、掃除は、自分でやると決めたので」


 その言葉に、晴人も河上も何も言えなかった。静は軽く会釈をして、道場の方へと戻っていく。その背中は、小さな体に似合わぬほど、確かな意志を宿していた。


 弥太郎がぽつりと漏らす。


「──まるで、道を開く者の背中ですね。まだ幼い娘にして」


 晴人は湯呑の湯をゆっくりと口に含み、そっと言葉を落とした。


「……剣も、糸も、学も。全部“富”になる時代が来る。その富は、誰かの腹を満たすだけじゃない。希望を育て、未来を繋ぐ“誇り”になる」


 静かに吹いた夜風が、煉瓦壁の隙間をすり抜ける。


 その音は、まるで遠く未来からの呼び声のようだった。

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